彼女の指輪は、まだ濡れていた。

永文

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第4話:告白は、沈黙よりも苦しい

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 非通知の着信は、3回あった。
 1回目は出なかった。2回目も無視した。けど、3回目、怖いもの見たさで出てしまった。

「……はい」

『あんた、沙耶香とどういう関係だ?』

 低く、感情を押し殺したような声。けれど、間違いなく“怒っていた”。

「どちら様ですか?」

『こっちは全部知ってる。……沙耶香のスマホ、俺の契約名義だから』

 ゾクリと背筋を冷たいものが走る。

「あなた……ご主人ですか?」

『答えろ。あんた、俺の女に何してる?』

「……何もしてません」

 それしか言えなかった。いや、言うべきことなんてなかった。
 「彼女のために何ができるか」と考えていたつもりだったのに、現実の重さに、ただ押し潰されていた。
 
________________________________________
 
 翌朝のオフィスで、橘さんは何も知らない顔で笑っていた。

「おはよう、成瀬くん」

「……おはようございます」

「どうしたの、元気ない?」

「昨日、非通知で電話が来て……。橘さんの旦那さん、ですよね」

 一瞬だけ、彼女の表情が凍った。
 けれど、すぐに微笑んだ。

「……そう。たぶん、そう」

「全部監視されてるんですね……?」

「うん。LINEの内容も、通話の履歴も。だから、成瀬くんの番号も名前も覚えられたんだと思う」

「それって……やっぱり、おかしいですよ」

「……でもね、成瀬くん。そういう人なの。結婚前は、まったく違ったのに」

「怖くないんですか?」

「怖いよ。でも、逃げる方がもっと怖い。何を失うか、わからないから」

「……俺、何かできませんか?」

 沙耶香は、黙ったままコーヒーを一口飲んだ。

「気持ちは嬉しい。でも、これ以上、成瀬くんを巻き込みたくないの」

「巻き込まれてますよ、もう。……とっくに」

 その言葉に、彼女の目が揺れた。
 
________________________________________
 
 その日の昼休み、僕は屋上に沙耶香を呼び出した。

「……大事な話があります」

 彼女は驚いたような顔をしたけど、黙ってうなずいた。
 少し風が強くて、彼女の髪がふわりと舞った。

「俺……橘さんのことが、好きです」

 沈黙。
 その沈黙が、どれだけ長かったかわからない。
 彼女は笑うでもなく、怒るでもなく、ただそこに立っていた。

「それは、“かわいそうな女”に恋したってこと?」

「違います。俺は、“橘沙耶香”って人間を見て、惹かれてます」

「……じゃあ、もし私がすごく幸せな家庭を持ってたら?そしたら、今みたいに思ってた?」

「……たぶん、それでも惹かれてたと思います」

「甘いよ」

 彼女は小さく笑った。でも、それは哀しい笑顔だった。

「成瀬くんは、優しいから。“僕が支えてあげなきゃ”って思ってる。それは恋じゃないよ。錯覚だよ」

「錯覚でもいい。俺は今、目の前のあなたが好きです」

「……どうしてそんなに真っ直ぐ言えるの?」

「沙耶香さんが、笑ってると嬉しいからです。泣いてると、何もできない自分が悔しいから」

 言葉が止まらなかった。
 心にあったものを、全部ぶつけてしまった。
 彼女はゆっくりと顔を背けた。

「……ありがとう。でも、ごめん」

「……断るんですか?」

「ううん。私がまだ、“誰かに愛される自分”を許せてないだけ」

「じゃあ、待ちます」

「……待たないで」

 その言葉が、刃のように鋭かった。

「待たれると、私……期待しちゃう。夢見ちゃう。でも、その夢が壊れる時、あなたまで壊してしまう」

「俺は壊れませんよ」

「私が壊すよ。自分のこと、よく知ってるから」
 
________________________________________
 
 その日から、僕らの距離は微妙になった。
 会話は減らない。でも、少しよそよそしい。
 笑顔はある。でも、本音は見えない。
 オフィスでは、周囲から見れば普通だったろう。
 けど、僕らの中だけにある“静かな壁”が、確実に存在していた。
 
 そんなある日、同僚の女の子・美月がふいに言った。

「成瀬くん、最近ちょっと雰囲気変わったね。なんか……憂いがあるっていうか」

「え、そうですか?」

「うん。恋でもした?」

 ドキッとしたけど、笑ってごまかした。

「まあ、そんな感じです」

「へー!いいなー。叶うといいね、その恋」

「……叶うかどうかは、わからないです」

「じゃあ、せめて後悔しないようにね」
 
 後悔——。
 しないように、言葉にしたのに。
 僕の想いは届かず、彼女の心には届かなかった。
 でも、それでもいい。嘘をついて、何も言えない方が、きっと後悔した。
 

 
 夜、残業終わりにビルを出たとき、雨が降っていた。
 傘を持っていなかった。

「……あれ?」

 横に、ビニール傘を差し出す人がいた。

「使って」

「橘さん……?」

「偶然、見かけたの。これ、持ってって。私、ちょっと寄り道してくから」

「……ありがとうございます」

「ううん。成瀬くん、風邪引いたら私、困るから」

 その言葉に、ふと笑ってしまった。

「まだ、優しいんですね」

「……好きになってくれた人には、冷たくできないのよ。たとえ、叶わないとしても」
 

 そう言って彼女は、傘も差さずに背を向けた。
 雨に濡れながら歩いていく後ろ姿は、やけに美しくて、そして、切なかった。
 ──ああ、やっぱり俺は、この人が好きだ。
 
 
 その夜、ベッドに横たわっても、寝つけなかった。
 橘さんの言葉が、ぐるぐると頭の中を巡る。
 『夢見ちゃうから』『壊れる時、あなたまで壊すから』

 でもそれでも、俺は伝えてよかった。
 たとえ彼女に拒まれても、この感情は間違いじゃなかった。
 だって、沈黙よりも、ずっと苦しいのは想いを伝えられないことなんだから。
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