彼女の指輪は、まだ濡れていた。

永文

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第7話:雨音とブレーキ音

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 3月の雨は冷たい。
 どこかで春の気配が近づいているというのに、
 街の空気は鋭く、肌を突き刺すようだった。

 橘さんの本社異動が正式に決まってから、数日が経っていた。

「あと10日で、ここも最後か」

 彼女は、誰にも気づかれないように荷物をまとめていた。
 仕事中の笑顔は変わらない。
 でも、その目は少しだけ遠くにある。
 ──まるで、すでにここにいないのように。
 
________________________________________
 
 そんなある日、社内ネットに「社外からの通報メール」が共有された。

『御社社員(橘沙耶香)が職場で不倫関係にあるとの情報を得ました。
 既婚者である立場を利用し、若手社員を誘惑したとも噂されています。
 御社の倫理方針はどうなっているのでしょうか?』

 差出人は匿名。
 だが文面の癖、表現の固さ。
 あれは、あの男だ。
 橘さんの夫・和成かずなり
 

 昼休み、橘さんは無言でコーヒーを飲んでいた。
 その表情には、疲労とも諦めともつかない色があった。

「……通報、来てました」

「うん。部長に呼ばれて、話した」

「大丈夫でしたか?」

「大丈夫、って言えるほど丈夫じゃないけど……想定の範囲内かな」

「……全部、俺のせいです」

「違う。あなたは味方でいてくれただけ」

 そう言って、彼女は少しだけ微笑んだ。
 その笑顔が、怖かった。
 まるで置き手紙のような、静かな覚悟を感じさせた。
 

「……今日、帰ったら、最後にする」

「え?」

「家に、離婚届を置いてくる。LINEもブロックして、明日、実家に戻る」

「……危なくないですか?」

「危ないよ。でも、逃げてばかりじゃ、何も変わらない」

 橘さんの声は震えていなかった。
 けれど、その指はコーヒーカップを持つ手の中で、小さく震えていた。
 

「帰り、一緒に駅まで歩きませんか」

「いいの?」

「“見送らせてください”って感じです」

「……ふふ、やっぱり優しいね」

 そうして僕らは、職場を出て、駅へ向かった。
 

 外は雨だった。
 地面に叩きつけるような音。傘をすり抜ける細かいしぶき。
 でも、それよりも気になるのは、彼女の右手がポケットの中で強く握りしめられていたことだった。

「寒くないですか?」

「ちょっとだけ。でも、それがちょうどいいの。なんか、緊張がほどける」

 駅の改札が近づいたとき、橘さんが立ち止まった。

「……ありがとうね」

「何がですか?」

「私が“自分の足で歩けるようになるまで”、そばにいてくれたこと」

「これからも、ずっとそばにいます」

「……それは、いろいろと落ち着いたらね」
 

 そう言って、橘さんは改札を抜けていった。
 最後まで振り返らず、まっすぐに歩いていった。
 僕は、その背中が、やけに小さく見えた。
 
________________________________________

 その日の夜、会社に忘れ物を取りに戻ろうとしていたとき——
 スマホに1本の電話が入った。

「はい、成瀬です」

『成瀬さん……!救急搬送された女性で、橘沙耶香さんって方、知り合いですか?』

「え?」

『事故です。駅前の横断歩道で車にはねられて……今、救急車で運ばれたんですが、意識がないんです……!』
 
 頭が真っ白になった。
 誰かが冗談を言っているのかと思った。
 でも、電話の向こうの救急隊員の声は、確かに現実だった。
 

 タクシーを飛ばして、病院へ。
 受付で名前を告げると、すぐに案内された。
 ICU前の廊下。白い蛍光灯。消毒液の匂い。
 そして、奥の病室に横たわる橘沙耶香。
 口には酸素マスク。額には包帯。片足はギプスで固定されていた。
 
 彼女は、目を閉じていた。
 呼吸器の機械音だけが、リズムを刻んでいた。

「……なんで、こんなことに……」

 僕は、病室の前で崩れ落ちた。
 
「沙耶香さん……もうすぐ自由になれるはずだったのに……!」

 目から涙が止まらなかった。
 あの日、あの夜、部屋で静かに眠っていたあの人が。
 やっと自分を取り戻そうとしていた、あの人が。
 
 何が彼女を襲ったのかは、まだわからなかった。
 事故なのか。誰かが意図的に追い詰めたのか。
 だが、病院のロビーにひとり座っていた中年の男の顔を見たとき、僕は確信した。
 ──和成だ。
 彼は顔に血の気が引いていたが、口元だけが不気味に吊り上がっていた。

「……ああ、びっくりした。あいつ、急に飛び出してさぁ……まったく、どこまで迷惑かけんのかね」

「……お前が沙耶香さんを?」

「証拠でもあんのか?なぁ、お前こそ、既婚者に手ぇ出しといて、よく病院来れんな」

 拳が震えた。
 けれど、ここで殴れば、橘さんの居場所すら失わせてしまう。
 僕は、奥歯を噛み締めて、視線を落とした。
 
「彼女の意識は……?」

「知らねぇよ。医者の話なんか、聞く気にならねぇし。勝手にやってろ」

 男はそう言って、ふらりとロビーから消えていった。
 
 残ったのは、病室に響く機械音と、手元で濡れたままの、彼女の結婚指輪だった。
 病院に運ばれたとき、指から外され、ビニール袋に入れられたそれは、もう誰にも属していない、“ただの金属の輪”だった。
 
 ──沙耶香さん、お願いだから戻ってきて。
 まだ、あなたに言えてない言葉がある。
 まだ、あなたの隣を歩きたいと思ってる。
 まだ、何も始まってすらいないんだから……!
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