逃げても逃げても囚われます。

永文

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第1話:塩と汗の記憶

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「L-2031、次。運搬ラインへ移動。」

 "それ"が、自分のことを指していると気づくのに数日かかった。
 名前ではなく、番号。
 奴隷とは、そう呼ばれるものだった。

 私は、果林。かつてはそう呼ばれていた。
 けれど今は、その響きを口にすることさえ、どこか罪のように思えた。
 それよりも、L-2031という番号のほうが、よほど“ここ”にしっくりきた。
 違和感のない番号。抵抗のない自己。
 そんな自分が少し怖かった。

 作業は単純だ。
 岩塩の結晶を掘り出し、運び、また掘り、また運ぶ。
 塩は思いのほか重い。濡れると滑りやすくなり、足場を奪っていく。
 皮膚は荒れ、爪は欠け、呼吸をするたびに喉が焼けた。
 けれど、数日後には痛みを感じなくなった。

 代わりに、「重さ」だけが体に残った。
 それは、私がまだ生きているという証拠のようだった。

 周囲には他の奴隷たちがいた。
 人間とは限らない。獣のような体躯の者、細長い耳を持つ者、まるで石像のように無言で働く者もいた。
 誰も喋らない。視線を交わさない。
 自分を出すことは、ここでは「罰」の対象だった。

 そんな中、一人だけ例外がいた。

 彼は、よく喋った。
 塩の山の陰で、飯を食うふりをしながら、隣に座っている私に突然こう言ったのだ。

「君の沈黙には品がある」

 何の話かと思って顔を上げると、犬の耳がぴくりと動いた。
 琥珀色の目が、じっとこちらを見ている。

「……誰?」

「ルーファス。君の名前は?」

 私は答えなかった。
 それでも彼は、勝手に続けた。

「いいさ、言いたくないなら。言葉なんて、そんなもんだ。口に出した瞬間に、意味が逃げる」

 彼の言葉は、どこかしら空虚だった。
 そして、少しだけ心地よかった。
 私の周囲には、久しく“会話”というものがなかったからだ。

 それから彼は、毎日のように私に話しかけてきた。
 話題は、空の色。石の形。夢に出てきた猫のこと。

「空ってのはさ、きっと誰のものでもないから、奴隷に一番似てるんだ」

 そう言ったときの彼の笑みが、あまりにも自然だったので、私は少しだけうらやましくなった。

 ある日、ルーファスが唐突に言った。

「君は逃げないの?」

 私は、肩をすくめた。
 逃げる。それは、すでに何度も考えたことだ。

 けれど、ここには番犬がいる。
 番人もいる。鎖もあるし、見張りの窓宇平もいる。“脱走”は、ただの妄想でしかなかった。

「君は、きっと走れる」

 ルーファスはそう言った。

「でも、心が歩き出そうとしないから、足がついてこないよ」

 ──その夜、私は久しぶりに夢を見た。
 研究室の薄明かりの中で、一人ぼっちで寝そべる自分。
 手の中には、握りしめたレポートの束。
 誰にも読まれなかった、無名の文字の山。
 それがひどく重たくて、私は夢の中でも立ち上がれなかった。

 目が覚めたとき、外は灰色だった。
 塩の霧が山を覆い、今日もまた、同じ運搬が始まる。

 けれど、心のどこかが、ほんの少しだけ動いた気がした。
 それはまだ、逃走でも反逆でもない。
 ただ──“自分の重さ”を、もう一度思い出そうとする動きだった。
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