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エピソード25:行方不明事件とクローン実験 -ルーシェ・ミーナ・ノーリ-
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エンジンが最後の息を吐き、止まった。
音が消える。世界が耳鳴りだけになる。
サイドカーの片目は、もう“見ない”。薄い日差しは屋根の軒で断ち切られ、民家は輪郭だけをこちらへ突き出している。
玄関の横、濁ったガラス窓――内側から打ち付けた板の隙間が、吸い込むみたいに黒かった。
「……着いたね」
「ああ。 ……見れば見るほど禍々しいわ、このボロ屋」
ルーシェの声は、寒気を割る刃の薄さで出た。
ミーナは鉄パイプを肩で回し、金具を一度鳴らす。小さな音なのに、雪もない踏み石がわずかに軋んで返事した。
釘の抜けた穴が四つ、顔のようにこちらを見ていた。
ドアノブには安物の鎖錠。鍵は――差さっていない。
「……私が逃げようとしたときは、鍵が掛かってたはず……」
「じゃあ歓迎の準備は出来てる、ってことか」
風はないのに、家の中からだけ、冷たい空気がひと筋、外へ吐き出された。
「……そんじゃ、腹括るか」
「ん?」
ミーナは肩で笑い、セーターを乱暴に引き裂くように脱いだ。
「こんなもん、もういらねぇ。置いてく。
寒気で震えるはずなのに、胸ん中は火ィ点いて仕方ないんだわ」
吐き出した息は白くならないのに、言葉だけが熱を帯びていた。
「……わかった」
扉を開けた瞬間、空気が淀んだ。
湿った木材の匂いに、鉄の生臭さが薄く混ざる。
その奥――床の中央に、巨大な影が崩れていた。
「……っ」
ルーシェが足を止める。
床の上に投げ出された大男の死体。肉切り包丁は錆びつき、背中の裂け目からは黒く乾いた血が床に染みこんで固まっている。
顔は半分潰れ、片目だけが虚ろに天井を見ていた。腐臭は薄い。長い時間が経ち、ただ“存在”だけが残っている。
「……あの時から変わってない」
ルーシェの声は喉の奥でかすれる。
「この荒れ果てた雰囲気とか……ヘルベルトさんが倒した、あの大男……」
ミーナは鼻を鳴らし、鉄パイプを肩で構え直す。
「死んでんのに、まだ睨んでるみてぇだな」
二人の視線の先で、死体の片目が光を吸い込み――影だけが濃くなったように見えた。
ミーナの指が震える。
「……こいつが……ベルク姉ちゃんを……」
ルーシェは答えない。
ミーナは鉄パイプの先端を床に落とし、コトリと小さな音を立てた。
その沈黙が、肯定よりも重く響く。
ミーナの喉が詰まり、声が細くなる。
「……どうして……」
大男の乾いた傷口から、黒ずんだ血の筋が床を伝っていた。
まるで今も“返事”をしているように、じわりと影を広げていく。
ルーシェは震える視線を無理やり逸らし、唇を噛んで吐き出した。
「……先に行ってみよう。 多分ノーリも、いるはず」
ミーナは短く息を吐き、死体から目を離す。
「……んだな」
鉄パイプの先端が畳を擦る。わずかな音だけが廊下に流れ、家全体がそれを飲み込んだ。
二人は並んで歩き出す。
襖の隙間から漏れる風はなく、代わりに湿った冷気が奥へ奥へと誘うように伸びていた。
壁に掛けられたままの古びたカレンダーは、十年以上前の日付で止まっている。
一歩ごとに、板の間が軋む。
その軋みが「まだ何かが乗っている」と言っているように思えた。
――――――――――――――――――
奥へ進むと、見覚えのある廊下が見えた。
「……ミーナ」
「ん?」
「この部屋……ここで私は目覚めたの」
「……ここで……?」
「そう。ここも……目覚めたときから変わってない」
扉を開けると、古い棚と学習机が影を落としている。
埃はあるのに、机の上だけは不自然に拭われたように綺麗だった。
「古い棚に学習机……? なんか妙に整ってねぇかここ」
「……うん。私が眠ってた部屋だけ……整理がちゃんとされてる」
ミーナは周囲を見回し、眉を寄せる。
他の部屋の畳は沈み、壁紙は剥がれていたのに――この部屋だけ、まるで時間が止まっている。
窓の板の隙間から差す光が、机の上の引き出しをわずかに照らす。
引き出しの取っ手には、誰かの指の跡のような薄い艶があった。
「……ここ、本当にあんたの“ベッド”みたいに用意されてたんじゃねえか?」
ルーシェは答えられず、机を見つめたまま小さく喉を鳴らした。
「……で、床にこびりついてる血……。それが引きずられてるように見えんな」
ミーナの声に、二人の視線が畳へ落ちる。
茶色く変色した大きな染みが、机の横から廊下のほうへ続いていた。擦れた線がいくつも走り、指でなぞれば凹凸が分かりそうなほど固まっている。
「……きっと、ベルクさんのだと思う」
ルーシェの声は震えていた。
「ベルク姉ちゃんの?」
「多分。ここであの大男に……殺されたんだろうね」
言葉と同時に、血の筋が続く先――暗い廊下の奥から、かすかな軋み音が返ってきた。
まるで“まだ引きずられている”かのように。
『その通り……それはベルクのものだ』
廊下の奥から、湿った闇が震えるように声が届いた。
耳に響くのに、空気は震えない。喉から発された音ではなく、家そのものが囁いたようだった。
「!?」
ルーシェは振り向きざまに息を呑む。
「ノーリ……!」
ミーナは鉄パイプを握り直し、低く唸る。
「やっと顔出しやがった……! 神出鬼没かよテメエは!!」
血痕の先、暗がりの中で影がゆっくり立ち上がる。
『ここでベルクは命を落とした。アリナが目覚めたのも、この部屋。
偶然ではない……必然だ』
「命を落としただぁ!? 元はと言えばテメエがぶっ殺したんだろ!!」
『……ミーナ、と言ったか。アリナの友人……ミーナ』
「はっ、だったらなんだよ?」
『……私の記憶にもある。 あなたの友人……』
「……ノーリ。教えて。どうしてここに私たちを誘いだしたの?」
『……あなた達に真実を伝えるため。
この行方不明事件の事。そして……クローン実験の事を』
ルーシェの胸が強く脈打つ。
『……アリナ。私はあなたから生まれた存在。
どうして私が生み出されたのか……それは全て、行方不明事件から始まった』
「………」
ノーリの声は、空気ではなく骨に直接触れるようだった。
『……あなたが最初の実験体だった』
「最初の実験体……?」
『……ライフベージの目的は醜い人間を抹殺し、世界を無垢なるクローンで埋め尽くす。
その最初のクローンの実験体が……あなた』
「………!」
ルーシェの足が一歩後ろに滑った。膝が勝手に震え、背筋を氷柱で刺されたように固まる。
耳の奥で自分の鼓動が鳴り響く。
『……あれは三か月前か。ライフベージの連中が人を攫い始めた時期……』
ノーリの声と同時に、空気が暗く変わった。
灯りが落ちたわけでもないのに、廊下の影が伸び、壁に染みこんでいく。
その影の中で、まるで映写機に焼き付けられたように“過去”が映し出される。
――――――――――――――――――
「じゃあねミーナ!! 次はチャー研のキチレコごっこしようね!!」
「しねーよタコ!! いつかボルガ博士みたいに頭の中にダイナマイト仕込まれて空から落ちちまえ!!
……じゃあな!!」
ルード高校のホームルームが終わり、二人で下校。
校門から延びる夕暮れの道を並んで歩き、やがて角の路地で別れた。
「……ミーナ、面白いよなぁ」
アリナは振り返りながら、小さく笑った。
「ずっと……友達でいれたらいいな」
その声は風に紛れ、赤く染まった電柱の影に溶けていった。
――だが、その日の帰り道が“最後”になるとは、誰も知らなかった。
路地裏に差しかかった瞬間、背後から靴音が増えた。
アリナが振り返ると、そこには見知らぬ大人の影が1つ。
笑っているのに、目は笑っていなかった。
「……え?」
袋が被せられ、世界が暗闇で閉じられる。
叫びは布で塞がれ、腕は鉄のような力で掴まれた。
地面が遠ざかり、夜気が一瞬だけ肺に刺さった。
「んぐっ!? ちょ、ちょっとなんですか!!
やめっ……!!」
アリナの声は布に呑まれ、路地の奥に吸い込まれていく。
腕を振りほどこうと必死に暴れるが、掴む手は鋼のように固い。
「離してっ……! だれか……!」
叫びは途切れ途切れにしか出ない。
もう一人が背後から肩を押さえ、足を持ち上げた。
地面から浮いた身体は、抵抗すら意味をなさない。
「んぐぅぅぅっ!!」
夕暮れの街を行き交う人影は、誰ひとり振り返らない。
まるでこの惨劇だけが世界から切り取られ、透明な壁の内側で起きているかのようだった。
布越しに嗅いだのは、薬品と鉄の匂い。
意識が揺れ、視界の残像が赤黒く波打つ。
最後に見えたのは、遠ざかる空――
そこに浮かぶ街灯が、やけに血のように滲んでいた。
――そして。
まぶたの裏に、真っ白な光が突き刺さった。
「……っ……」
目を開けると、そこは窓ひとつない白い部屋だった。
壁も天井も、病院の手術室のように塗りつぶされた無機質な白。
だが消毒液の匂いではなく、甘ったるく濁った薬品の匂いが充満している。
身体は冷たい金属のベッドに固定されていた。
両手首と足首には硬いベルト。少し動くだけで皮膚が擦れ、痛みが走る。
頭には奇妙なヘッドギアのような装置がかぶせられ、耳の奥で微かな電流の音がジリジリと鳴っていた。
「……ここ……どこ……」
アリナのかすれ声は、白い壁に吸い込まれて消えた。
返事の代わりに、天井のスピーカーから冷たい声が落ちてくる。
『被験体、確保完了。記録番号……A-001』
その言葉が、彼女の背筋を氷のように縛り付けた。
「なに……? なんなんですかこれ……!?
誰なの……!? な、なにをするんですか!?」
声は震え、反響して白い壁に弾かれる。
だが返事はなく、上のライトがひとつ強く点滅した。
やがて、頭上のスピーカーから別の声が落ちてくる。
男とも女とも分からない、機械に加工されたような声。
『被験体は抵抗反応を示している。鎮静レベルを一段階上昇』
「や、やめて!! やめてください!!」
アリナが首を振った瞬間、頭に装着されたヘッドギアがジリッと唸りを上げた。
耳の奥で金属が軋むような感覚。脳の中を何かが擦りつける。
全身の筋肉が硬直し、言葉が喉で途切れる。
視界の端に、ガラスの向こうで人影が動いた。
白衣を着た複数の人物――だが顔はマスクで覆われ、感情の欠片もない。
誰一人としてアリナを「人間」として見ていなかった。
『クローン生成開始』
「ク、クローン!? な、なにを……!」
複数の機械が動き、その先端は全てアリナに向けられていた。
『不要物……脳内の記憶。 削除開始』
機械のアームが唸りを上げ、冷たい金属針のような先端が頭部の装置から突き出した。
「やっ……やめっ……!」
瞬間、アリナのこめかみに灼けるような痛みが走る。
突き刺さったのは針ではなく、電流そのもの。
脳を直接かき回される感覚が襲いかかり、視界が白く爆ぜた。
「ひっ……ああああああああっっ!!!」
目の裏に映像が流れ込む。
幼い頃の風景、姉の手、学校の廊下、ミーナと交わした何気ない言葉。
それらが一つ一つ引き剥がされ、黒い水に沈められていく。
「やだっ……やだやだやだやだっ!! お姉ちゃん……!! ミーナ……っ!!!」
涙がこめかみを伝うよりも早く、頭部装置が甲高い音を立てて唸った。
白い光が網膜を焼き、世界がぐにゃりと歪む。
『強力な自我の反応あり。更なる記憶の除去、開始』
鋭い電流が再び脳を突き破る。
記憶が削られていく感覚は、もはや痛みではなかった。
心臓をえぐられ、言葉や顔が黒い泥に沈んでいく。
「うああああああああああああああああぁっ!!!!!!!!!」
白い部屋の壁が震え、照明が一瞬だけ明滅する。
叫びは声帯からではなく、魂の奥底から引き裂かれて吐き出された。
『記憶の永久削除』
乾いた機械音が冷徹に響いた。
「あっ……あああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
視界が白く弾け、次に訪れたのは虚無だった。
無数の思い出が同時に破片となり、暗黒に散る。
姉の笑顔は粉々になり、ミーナの声は途切れたラジオのようにノイズへ変わる。
そして“自分”という名前すら、液体のように崩れていく。
ガラス越しの白衣たちは一言。
『対象A-001、自我の大部分消去。残留反応、異常に強し』
モニターの波形は、消えてなお激しく跳ね上がっていた。
その波形が示すのは、ただ一つ――奪い切れない残滓。
『……新たな個体を生成。分離開始』
装置が唸りを上げ、頭上の光がねじれた。
その光の奥に、もう一人の“アリナ”が形を取り始めていた。
『……クローン生成、成功』
『待て。生成は成功だが……この不純物には残留反応がある。
処分はどうする?』
『放っておけ。ある程度クローンが出来上がったら、まとめて殺すだけだ』
『……承知した。A-001の一時的な廃棄を開始する』
乾いた声と同時に、アリナの身体を固定していたベルトが外れた。
金属のベッドが無機質な音を立てて傾き、彼女の身体は無造作に床へと投げ出される。
「っ……あ……ぁ……」
もう声にならない呻きが喉から漏れる。
さっきまで自分を縛りつけていた機械が、今度は「不要物」として切り捨てている。
ガラスの向こうで白衣の影たちは振り返りもせず、淡々と次の操作に移っていた。
モニターに映る波形は別の画面へ切り替わり、“新たなクローン”の生成経過を示し始める。
アリナの視界の端――そこに浮かぶのは、ぼやけた人影。
白光の中で揺らぎながら、輪郭だけは確かに自分と同じだった。
「……わ、たし……?」
言葉はそこで途切れ、意識は暗闇に沈んでいった。
まだ形になりきらない残滓の影が、最初の言葉を呟いた。
――――――――――――――――――
――それから一か月。
白い部屋には次々と人間が連れ込まれた。
泣き叫ぶ声、祈る声、罵る声――どれも機械の唸りと共に途切れていく。
額に装置を嵌められ、脳を操作される。
記憶が削られる音は、電流ではなく「ページを破り捨てる」ような音だった。
母の名も、友人の顔も、未来への夢も――すべて無慈悲に白紙へと還る。
そして残されたのは、空っぽの器。
それを“素材”として複製されたクローンが、無数に生み出されていった。
ガラス越しに並ぶ白衣たちは誰一人として感情を見せない。
数を数えるように、ただ記録簿に線を引き、無機質な声で成果を読み上げる。
『被験体B-014、クローン生成完了』
『被験体C-027、廃棄』
『被験体D-002、分離成功。二体生成』
人間は番号に置き換えられ、血と涙は無意味な副産物として床に広がるだけ。
その光景は、一か月のあいだに当たり前の儀式と化していた。
白い部屋に、またひとり新しい被験体が縛りつけられる。
ガラス越しに並ぶ研究員たちは、淡々と記録を取り、機械は容赦なく記憶を削ぎ落としていく。
――その時だった。
モニターの一角で、別の波形が異常に跳ね上がった。
それは既に「成功」と記録されていた個体――コードネーム・ノーリ。
『……反応値が高すぎる。残留記憶の干渉か?』
『問題ない。安定すれば抑制できる』
そう言い合った直後、ガラスの内側で“それ”が動いた。
無表情のまま座らされていたはずのノーリが、ぎし、と首を上げる。
その瞳に宿ったのは空洞ではなく、確かな意志だった。
『…………アリナ』
掠れた声が、研究員たちの背筋を凍らせる。
次の瞬間、彼女は拘束具を易々と引きちぎった。
『なっ――!?』
叫びが上がるより早く、ノーリの手がガラスを叩き割った。
分厚い強化ガラスがまるで薄氷のように砕け、破片と共に白衣の一人が血飛沫を撒いて倒れる。
別の研究員が警報を押すが、その腕もノーリにねじ折られ、悲鳴が室内に木霊する。
『……馬鹿な、まだ制御チップは――』
言葉は途中で潰えた。
ノーリの瞳が赤黒く輝き、彼の喉笛を的確に貫いていたからだ。
血の匂いが白い部屋に広がり、薬品の甘さを押しのける。
その中心で、ノーリはただ一言、呟いた。
『……私は……ノーリ……アリナ……』
警報が鳴り響く。赤いランプが壁を染める中、黒ローブの男たちが雪崩れ込んできた。
その手には黒光りする拳銃。
『動くな!!!』
銃口が一斉にノーリへ向けられた。
彼女は逃げず、ただ無表情で彼らを見返す。
乾いた破裂音。銃弾が火花を散らしながら放たれる――が。
『…………』
ノーリの周囲の空気が歪んだ。
弾丸は彼女に触れる前にねじ曲がり、壁や床へ弾き飛ばされていく。
跳弾が研究員たち自身の肩や首に突き刺さり、血飛沫が弧を描いた。
『な、なに……ッ!?』
黒ローブの一人が震えながら再装填を試みる。
だがノーリの瞳が赤黒く瞬いた瞬間、彼の腕は内側から折れ曲がった。
骨が突き破り、銃が床に転がる。絶叫が白い部屋を震わせる。
『やめろォ!!』
残る者たちが乱射する。だが銃弾は全て宙で停止し、無数の鉛玉が空中に浮かんだ。
次の瞬間、それらは逆方向へ一斉に放たれる。
『ぎゃあああああああああッ!!!』
ローブの胸や頭を撃ち抜き、鮮血が噴水のように舞う。
数秒前まで威勢よく命令を飛ばしていた者たちは、今や床に崩れ落ち、動くものは誰もいない。
ノーリは血飛沫を浴びながら一歩前に進む。
顔には笑みも怒りもなく、ただ冷えきった無表情。
『……これが、私』
床を覆う血溜まりに赤い光が反射し、その中心に立つ彼女はまるで“災厄そのもの”だった。
息は乱れていない。瞳の奥に、初めて“自分”という概念が宿った。
『……私は』
口にした声は、機械でもアリナでもない。
だが耳に残る響きは確かに、奪われた少女の名残だった。
『私は……ノーリ。
アリナ……記憶……。これはアリナの記憶……私じゃない』
ノーリの足音が血の上を踏みしめる。
彼女の視線の先――部屋の隅に置かれた巨大な金属箱。
「廃棄」と朱文字で刻まれ、冷却ガスが白く漏れている。
中を覗けば、植物状態のアリナが冷たく横たわっていた。
瞳は閉ざされ、唇には言葉の残滓すらない。
ただ「不要物」として積み上げられた人間の一つに過ぎなかった。
ノーリは無表情のまま、しかし迷いなくその身体を抱き上げる。
血に濡れた白衣の影を踏み越え、ゆったりと背を向けた。
『アリナ……記憶を……あなたに……』
冷たい部屋を背に、警報音と赤いランプの中を歩き出す。
彼女の足取りは静かで、確かに“ここではない世界”を選び取っていた。
――――――――――――――――――
『……私は……アリナの記憶を戻すためにあらゆる手段を講じた。
けれど……そのどれもが失敗に終わった』
ノーリの声は感情を持たないはずなのに、どこか震えていた。
『記憶を刺激する薬。脳を焼くような電流。
同じ街角を歩かせ、同じ音を聞かせ……それでも、何も戻らなかった。
……戻るわけが無かった。 何故なら…アリナ。
あなたは奴らに脳を直接いじられたから
永遠に記憶が戻らない』
ルーシェの胸が締め付けられる。
自分が“ただの記憶喪失”と思っていた日々が、実はライフベージの実験によるものだったと知ったから。
ミーナが歯を食いしばり、唸る。
「じゃあ……今こうして私らをここに呼んだのも……」
『……この民家の地下に、奴らのクローン実験を模した装置がある』
ノーリの声が闇の中に沈む。
それは告発ではなく、処刑宣告のように響いた。
ルーシェは息を詰める。
「装置……? そんなものが……」
『……私が作った。
あなたの記憶を、取り戻すために。
奴らが記憶を奪った方法を、逆に辿れば――欠けた断片を掬い上げられるかもしれないと』
ミーナが目を細め、鉄パイプを床に突き立てる。
「逆に辿る? そんなもん……またアリナをぶっ壊すだけじゃねぇのか!」
『……そうかもしれない。
脳はすでに刻まれている。
再現を試みれば、残った“今のアリナ”も消えるかもしれない』
ノーリは淡々と語る。
だがその瞳の奥には、微かな揺らぎ――諦めと執着が絡み合った色があった。
『……その装置は他にも使えた。私の防御策にもなった』
「……防御策?」
『ライフベージは終わりではなかった。
残った者たちは私を“失敗作”と呼び、始末しようとした』
影の声は揺らぎなく、ただ事実を告げる。
『私も奴らを殺すことはできる。難しいことではない。
だが……数が増えれば限界が来る。影ひとつでは抗えない』
わずかな間を置き、ノーリは続けた。
『だから私は考えた。
同じ手を使えばいい。
装置を利用し、奴らがやったように――新たな“兵”を作ればいいと』
ルーシェの喉が鳴る。ミーナが眉を吊り上げる。
『そのために、人を攫い、装置に放り込み……。
出来上がったのは、人の形を保ちながら心を失った“怪物”』
ノーリの声には後悔も誇りもなかった。
ただ淡々と、自らの罪をなぞるように。
ルーシェの唇が震え、声にならない吐息を漏らした。
「……モンスター……あれを……あなたが……?」
ノーリは微動だにしない。
『……私の防御策にもなり得るし、あなたを守るための策でもあった』
ルーシェが小さく息を呑む。
『……本来ならば、私とアリナには攻撃しないよう制御を組み込んでいた。
だが――失敗作にはその制御が効かなかった』
ミーナの眉が跳ね上がる。
「失敗作……?」
『そう。あの大男もその一つだ。
制御不能となり、結果的にあなたを殺そうとした』
ルーシェの視界が揺れる。
胸の奥に、初めて目覚めた時の恐怖が蘇る。
刃を振り上げ、執拗に追いかけてきたあの巨体――。
「……じゃあ……ベルクさんを殺したのも……」
ノーリの影は沈黙のまま肯定を示した。
『……その通り。私が止めるべきだった。だが……できなかった』
その声は淡々としていたが、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
影の奥に、罪を背負うような軋みが潜んでいた。
ルーシェの胸が締め付けられる。
頭の中に浮かぶのは、会ったことのない“姉”の姿。
必死に自分を探し、そしてここで命を落としたベルクの姿。
「……どうして……っ…………!」
震える声が闇に響く。
ノーリは答えず、ただ視線を落としたまま影を揺らす。
『……私は影。
守ることよりも、生き延びることに縛られた……。
その結果が――ベルクの死だ』
ミーナが歯を食いしばり、鉄パイプを握る手に力を込めた。
「……クソッタレが……」
ノーリの影は揺れず、ただ低く告げる。
『……だが、もうモンスターを作る必要はない』
「……は?」
『ライフベージはじきに壊滅する。
残党は力を失い、影にすら届かなくなるだろう。』
ノーリはゆっくりとルーシェに顔を向ける。
その瞳には冷たい光と、消えない執着が絡み合っていた。
『だから――装置を本来の使い方に戻す。
アリナ。あなたの記憶を取り戻すために』
ルーシェの呼吸が止まる。
胸の奥で恐怖と希望が同時に疼き、声が出せなかった。
ノーリはゆっくりと踵を返す。
『……着いて来い。地下の最奥へ』
影の導きに従い、二人は廊下を進んだ。
足を踏み出すたびに畳が軋み、やがて隠された扉の前に辿り着く。
ノーリが手をかざすと、扉はひとりでに開いた。
そこから伸びていたのは、急なコンクリートの階段。
冷たい風が吹き上がり、薬品と鉄の臭気が肌を刺す。
「……うっ……ここ、まるで……」
ミーナが鼻をつまみ、顔をしかめる。
降りていくにつれ、壁には古い配管や剥き出しのケーブルが絡みついていた。
どこかで水が滴る音が響き、まるで地下全体が呼吸しているように感じられる。
最奥へと近づくほど、空気は重く、暗闇は濃くなる。
ルーシェの足は鉛のように重く、それでも止まらなかった。
やがて階段が途切れ、広い地下空間が姿を現す。
そこに鎮座していたのは、巨大な装置――鉄と管が絡み合い、棺のようなシルエット。
無数のコードが床を這い、壁に突き刺さっている。
ノーリの声が冷たく響いた。
『……これが、装置だ。アリナの記憶を戻すための……装置』
ルーシェは震える唇を噛みしめ、目を逸らせなかった。
ノーリは無言でルーシェの肩に手を置いた。
そのまま、ゆっくりと歩を進め――装置の正面へと立たせる。
鉄の棺のような機械は低く唸りを上げ、かすかに脈動していた。
冷却液の匂いと薬品の甘ったるい臭気が混じり、吐き気を誘う。
『……アリナ』
ノーリの声が背後から落ちる。
『ここに入れば、記憶は戻るかもしれない。
だが……残った“今のあなた”が消える可能性もある』
ルーシェは目を見開いたまま、何も言えない。
「バカ言ってんじゃねえ!!」
ミーナが鉄パイプを床に叩きつけ、怒声を響かせる。
「そんなもん入れるかよ!! バケモンになるか、最悪死んじまうぞ!!!」
ノーリは振り向かない。
ただ淡々と続ける。
『……選べ、アリナ。
“過去を取り戻すか”――“今を生きるか”。
私は影。あなたの選択を止めることはできない』
ルーシェの喉がひくつき、声にならない声を漏らす。
装置の表面に映る自分の震える顔が、薄暗がりの中で揺れていた。
音が消える。世界が耳鳴りだけになる。
サイドカーの片目は、もう“見ない”。薄い日差しは屋根の軒で断ち切られ、民家は輪郭だけをこちらへ突き出している。
玄関の横、濁ったガラス窓――内側から打ち付けた板の隙間が、吸い込むみたいに黒かった。
「……着いたね」
「ああ。 ……見れば見るほど禍々しいわ、このボロ屋」
ルーシェの声は、寒気を割る刃の薄さで出た。
ミーナは鉄パイプを肩で回し、金具を一度鳴らす。小さな音なのに、雪もない踏み石がわずかに軋んで返事した。
釘の抜けた穴が四つ、顔のようにこちらを見ていた。
ドアノブには安物の鎖錠。鍵は――差さっていない。
「……私が逃げようとしたときは、鍵が掛かってたはず……」
「じゃあ歓迎の準備は出来てる、ってことか」
風はないのに、家の中からだけ、冷たい空気がひと筋、外へ吐き出された。
「……そんじゃ、腹括るか」
「ん?」
ミーナは肩で笑い、セーターを乱暴に引き裂くように脱いだ。
「こんなもん、もういらねぇ。置いてく。
寒気で震えるはずなのに、胸ん中は火ィ点いて仕方ないんだわ」
吐き出した息は白くならないのに、言葉だけが熱を帯びていた。
「……わかった」
扉を開けた瞬間、空気が淀んだ。
湿った木材の匂いに、鉄の生臭さが薄く混ざる。
その奥――床の中央に、巨大な影が崩れていた。
「……っ」
ルーシェが足を止める。
床の上に投げ出された大男の死体。肉切り包丁は錆びつき、背中の裂け目からは黒く乾いた血が床に染みこんで固まっている。
顔は半分潰れ、片目だけが虚ろに天井を見ていた。腐臭は薄い。長い時間が経ち、ただ“存在”だけが残っている。
「……あの時から変わってない」
ルーシェの声は喉の奥でかすれる。
「この荒れ果てた雰囲気とか……ヘルベルトさんが倒した、あの大男……」
ミーナは鼻を鳴らし、鉄パイプを肩で構え直す。
「死んでんのに、まだ睨んでるみてぇだな」
二人の視線の先で、死体の片目が光を吸い込み――影だけが濃くなったように見えた。
ミーナの指が震える。
「……こいつが……ベルク姉ちゃんを……」
ルーシェは答えない。
ミーナは鉄パイプの先端を床に落とし、コトリと小さな音を立てた。
その沈黙が、肯定よりも重く響く。
ミーナの喉が詰まり、声が細くなる。
「……どうして……」
大男の乾いた傷口から、黒ずんだ血の筋が床を伝っていた。
まるで今も“返事”をしているように、じわりと影を広げていく。
ルーシェは震える視線を無理やり逸らし、唇を噛んで吐き出した。
「……先に行ってみよう。 多分ノーリも、いるはず」
ミーナは短く息を吐き、死体から目を離す。
「……んだな」
鉄パイプの先端が畳を擦る。わずかな音だけが廊下に流れ、家全体がそれを飲み込んだ。
二人は並んで歩き出す。
襖の隙間から漏れる風はなく、代わりに湿った冷気が奥へ奥へと誘うように伸びていた。
壁に掛けられたままの古びたカレンダーは、十年以上前の日付で止まっている。
一歩ごとに、板の間が軋む。
その軋みが「まだ何かが乗っている」と言っているように思えた。
――――――――――――――――――
奥へ進むと、見覚えのある廊下が見えた。
「……ミーナ」
「ん?」
「この部屋……ここで私は目覚めたの」
「……ここで……?」
「そう。ここも……目覚めたときから変わってない」
扉を開けると、古い棚と学習机が影を落としている。
埃はあるのに、机の上だけは不自然に拭われたように綺麗だった。
「古い棚に学習机……? なんか妙に整ってねぇかここ」
「……うん。私が眠ってた部屋だけ……整理がちゃんとされてる」
ミーナは周囲を見回し、眉を寄せる。
他の部屋の畳は沈み、壁紙は剥がれていたのに――この部屋だけ、まるで時間が止まっている。
窓の板の隙間から差す光が、机の上の引き出しをわずかに照らす。
引き出しの取っ手には、誰かの指の跡のような薄い艶があった。
「……ここ、本当にあんたの“ベッド”みたいに用意されてたんじゃねえか?」
ルーシェは答えられず、机を見つめたまま小さく喉を鳴らした。
「……で、床にこびりついてる血……。それが引きずられてるように見えんな」
ミーナの声に、二人の視線が畳へ落ちる。
茶色く変色した大きな染みが、机の横から廊下のほうへ続いていた。擦れた線がいくつも走り、指でなぞれば凹凸が分かりそうなほど固まっている。
「……きっと、ベルクさんのだと思う」
ルーシェの声は震えていた。
「ベルク姉ちゃんの?」
「多分。ここであの大男に……殺されたんだろうね」
言葉と同時に、血の筋が続く先――暗い廊下の奥から、かすかな軋み音が返ってきた。
まるで“まだ引きずられている”かのように。
『その通り……それはベルクのものだ』
廊下の奥から、湿った闇が震えるように声が届いた。
耳に響くのに、空気は震えない。喉から発された音ではなく、家そのものが囁いたようだった。
「!?」
ルーシェは振り向きざまに息を呑む。
「ノーリ……!」
ミーナは鉄パイプを握り直し、低く唸る。
「やっと顔出しやがった……! 神出鬼没かよテメエは!!」
血痕の先、暗がりの中で影がゆっくり立ち上がる。
『ここでベルクは命を落とした。アリナが目覚めたのも、この部屋。
偶然ではない……必然だ』
「命を落としただぁ!? 元はと言えばテメエがぶっ殺したんだろ!!」
『……ミーナ、と言ったか。アリナの友人……ミーナ』
「はっ、だったらなんだよ?」
『……私の記憶にもある。 あなたの友人……』
「……ノーリ。教えて。どうしてここに私たちを誘いだしたの?」
『……あなた達に真実を伝えるため。
この行方不明事件の事。そして……クローン実験の事を』
ルーシェの胸が強く脈打つ。
『……アリナ。私はあなたから生まれた存在。
どうして私が生み出されたのか……それは全て、行方不明事件から始まった』
「………」
ノーリの声は、空気ではなく骨に直接触れるようだった。
『……あなたが最初の実験体だった』
「最初の実験体……?」
『……ライフベージの目的は醜い人間を抹殺し、世界を無垢なるクローンで埋め尽くす。
その最初のクローンの実験体が……あなた』
「………!」
ルーシェの足が一歩後ろに滑った。膝が勝手に震え、背筋を氷柱で刺されたように固まる。
耳の奥で自分の鼓動が鳴り響く。
『……あれは三か月前か。ライフベージの連中が人を攫い始めた時期……』
ノーリの声と同時に、空気が暗く変わった。
灯りが落ちたわけでもないのに、廊下の影が伸び、壁に染みこんでいく。
その影の中で、まるで映写機に焼き付けられたように“過去”が映し出される。
――――――――――――――――――
「じゃあねミーナ!! 次はチャー研のキチレコごっこしようね!!」
「しねーよタコ!! いつかボルガ博士みたいに頭の中にダイナマイト仕込まれて空から落ちちまえ!!
……じゃあな!!」
ルード高校のホームルームが終わり、二人で下校。
校門から延びる夕暮れの道を並んで歩き、やがて角の路地で別れた。
「……ミーナ、面白いよなぁ」
アリナは振り返りながら、小さく笑った。
「ずっと……友達でいれたらいいな」
その声は風に紛れ、赤く染まった電柱の影に溶けていった。
――だが、その日の帰り道が“最後”になるとは、誰も知らなかった。
路地裏に差しかかった瞬間、背後から靴音が増えた。
アリナが振り返ると、そこには見知らぬ大人の影が1つ。
笑っているのに、目は笑っていなかった。
「……え?」
袋が被せられ、世界が暗闇で閉じられる。
叫びは布で塞がれ、腕は鉄のような力で掴まれた。
地面が遠ざかり、夜気が一瞬だけ肺に刺さった。
「んぐっ!? ちょ、ちょっとなんですか!!
やめっ……!!」
アリナの声は布に呑まれ、路地の奥に吸い込まれていく。
腕を振りほどこうと必死に暴れるが、掴む手は鋼のように固い。
「離してっ……! だれか……!」
叫びは途切れ途切れにしか出ない。
もう一人が背後から肩を押さえ、足を持ち上げた。
地面から浮いた身体は、抵抗すら意味をなさない。
「んぐぅぅぅっ!!」
夕暮れの街を行き交う人影は、誰ひとり振り返らない。
まるでこの惨劇だけが世界から切り取られ、透明な壁の内側で起きているかのようだった。
布越しに嗅いだのは、薬品と鉄の匂い。
意識が揺れ、視界の残像が赤黒く波打つ。
最後に見えたのは、遠ざかる空――
そこに浮かぶ街灯が、やけに血のように滲んでいた。
――そして。
まぶたの裏に、真っ白な光が突き刺さった。
「……っ……」
目を開けると、そこは窓ひとつない白い部屋だった。
壁も天井も、病院の手術室のように塗りつぶされた無機質な白。
だが消毒液の匂いではなく、甘ったるく濁った薬品の匂いが充満している。
身体は冷たい金属のベッドに固定されていた。
両手首と足首には硬いベルト。少し動くだけで皮膚が擦れ、痛みが走る。
頭には奇妙なヘッドギアのような装置がかぶせられ、耳の奥で微かな電流の音がジリジリと鳴っていた。
「……ここ……どこ……」
アリナのかすれ声は、白い壁に吸い込まれて消えた。
返事の代わりに、天井のスピーカーから冷たい声が落ちてくる。
『被験体、確保完了。記録番号……A-001』
その言葉が、彼女の背筋を氷のように縛り付けた。
「なに……? なんなんですかこれ……!?
誰なの……!? な、なにをするんですか!?」
声は震え、反響して白い壁に弾かれる。
だが返事はなく、上のライトがひとつ強く点滅した。
やがて、頭上のスピーカーから別の声が落ちてくる。
男とも女とも分からない、機械に加工されたような声。
『被験体は抵抗反応を示している。鎮静レベルを一段階上昇』
「や、やめて!! やめてください!!」
アリナが首を振った瞬間、頭に装着されたヘッドギアがジリッと唸りを上げた。
耳の奥で金属が軋むような感覚。脳の中を何かが擦りつける。
全身の筋肉が硬直し、言葉が喉で途切れる。
視界の端に、ガラスの向こうで人影が動いた。
白衣を着た複数の人物――だが顔はマスクで覆われ、感情の欠片もない。
誰一人としてアリナを「人間」として見ていなかった。
『クローン生成開始』
「ク、クローン!? な、なにを……!」
複数の機械が動き、その先端は全てアリナに向けられていた。
『不要物……脳内の記憶。 削除開始』
機械のアームが唸りを上げ、冷たい金属針のような先端が頭部の装置から突き出した。
「やっ……やめっ……!」
瞬間、アリナのこめかみに灼けるような痛みが走る。
突き刺さったのは針ではなく、電流そのもの。
脳を直接かき回される感覚が襲いかかり、視界が白く爆ぜた。
「ひっ……ああああああああっっ!!!」
目の裏に映像が流れ込む。
幼い頃の風景、姉の手、学校の廊下、ミーナと交わした何気ない言葉。
それらが一つ一つ引き剥がされ、黒い水に沈められていく。
「やだっ……やだやだやだやだっ!! お姉ちゃん……!! ミーナ……っ!!!」
涙がこめかみを伝うよりも早く、頭部装置が甲高い音を立てて唸った。
白い光が網膜を焼き、世界がぐにゃりと歪む。
『強力な自我の反応あり。更なる記憶の除去、開始』
鋭い電流が再び脳を突き破る。
記憶が削られていく感覚は、もはや痛みではなかった。
心臓をえぐられ、言葉や顔が黒い泥に沈んでいく。
「うああああああああああああああああぁっ!!!!!!!!!」
白い部屋の壁が震え、照明が一瞬だけ明滅する。
叫びは声帯からではなく、魂の奥底から引き裂かれて吐き出された。
『記憶の永久削除』
乾いた機械音が冷徹に響いた。
「あっ……あああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
視界が白く弾け、次に訪れたのは虚無だった。
無数の思い出が同時に破片となり、暗黒に散る。
姉の笑顔は粉々になり、ミーナの声は途切れたラジオのようにノイズへ変わる。
そして“自分”という名前すら、液体のように崩れていく。
ガラス越しの白衣たちは一言。
『対象A-001、自我の大部分消去。残留反応、異常に強し』
モニターの波形は、消えてなお激しく跳ね上がっていた。
その波形が示すのは、ただ一つ――奪い切れない残滓。
『……新たな個体を生成。分離開始』
装置が唸りを上げ、頭上の光がねじれた。
その光の奥に、もう一人の“アリナ”が形を取り始めていた。
『……クローン生成、成功』
『待て。生成は成功だが……この不純物には残留反応がある。
処分はどうする?』
『放っておけ。ある程度クローンが出来上がったら、まとめて殺すだけだ』
『……承知した。A-001の一時的な廃棄を開始する』
乾いた声と同時に、アリナの身体を固定していたベルトが外れた。
金属のベッドが無機質な音を立てて傾き、彼女の身体は無造作に床へと投げ出される。
「っ……あ……ぁ……」
もう声にならない呻きが喉から漏れる。
さっきまで自分を縛りつけていた機械が、今度は「不要物」として切り捨てている。
ガラスの向こうで白衣の影たちは振り返りもせず、淡々と次の操作に移っていた。
モニターに映る波形は別の画面へ切り替わり、“新たなクローン”の生成経過を示し始める。
アリナの視界の端――そこに浮かぶのは、ぼやけた人影。
白光の中で揺らぎながら、輪郭だけは確かに自分と同じだった。
「……わ、たし……?」
言葉はそこで途切れ、意識は暗闇に沈んでいった。
まだ形になりきらない残滓の影が、最初の言葉を呟いた。
――――――――――――――――――
――それから一か月。
白い部屋には次々と人間が連れ込まれた。
泣き叫ぶ声、祈る声、罵る声――どれも機械の唸りと共に途切れていく。
額に装置を嵌められ、脳を操作される。
記憶が削られる音は、電流ではなく「ページを破り捨てる」ような音だった。
母の名も、友人の顔も、未来への夢も――すべて無慈悲に白紙へと還る。
そして残されたのは、空っぽの器。
それを“素材”として複製されたクローンが、無数に生み出されていった。
ガラス越しに並ぶ白衣たちは誰一人として感情を見せない。
数を数えるように、ただ記録簿に線を引き、無機質な声で成果を読み上げる。
『被験体B-014、クローン生成完了』
『被験体C-027、廃棄』
『被験体D-002、分離成功。二体生成』
人間は番号に置き換えられ、血と涙は無意味な副産物として床に広がるだけ。
その光景は、一か月のあいだに当たり前の儀式と化していた。
白い部屋に、またひとり新しい被験体が縛りつけられる。
ガラス越しに並ぶ研究員たちは、淡々と記録を取り、機械は容赦なく記憶を削ぎ落としていく。
――その時だった。
モニターの一角で、別の波形が異常に跳ね上がった。
それは既に「成功」と記録されていた個体――コードネーム・ノーリ。
『……反応値が高すぎる。残留記憶の干渉か?』
『問題ない。安定すれば抑制できる』
そう言い合った直後、ガラスの内側で“それ”が動いた。
無表情のまま座らされていたはずのノーリが、ぎし、と首を上げる。
その瞳に宿ったのは空洞ではなく、確かな意志だった。
『…………アリナ』
掠れた声が、研究員たちの背筋を凍らせる。
次の瞬間、彼女は拘束具を易々と引きちぎった。
『なっ――!?』
叫びが上がるより早く、ノーリの手がガラスを叩き割った。
分厚い強化ガラスがまるで薄氷のように砕け、破片と共に白衣の一人が血飛沫を撒いて倒れる。
別の研究員が警報を押すが、その腕もノーリにねじ折られ、悲鳴が室内に木霊する。
『……馬鹿な、まだ制御チップは――』
言葉は途中で潰えた。
ノーリの瞳が赤黒く輝き、彼の喉笛を的確に貫いていたからだ。
血の匂いが白い部屋に広がり、薬品の甘さを押しのける。
その中心で、ノーリはただ一言、呟いた。
『……私は……ノーリ……アリナ……』
警報が鳴り響く。赤いランプが壁を染める中、黒ローブの男たちが雪崩れ込んできた。
その手には黒光りする拳銃。
『動くな!!!』
銃口が一斉にノーリへ向けられた。
彼女は逃げず、ただ無表情で彼らを見返す。
乾いた破裂音。銃弾が火花を散らしながら放たれる――が。
『…………』
ノーリの周囲の空気が歪んだ。
弾丸は彼女に触れる前にねじ曲がり、壁や床へ弾き飛ばされていく。
跳弾が研究員たち自身の肩や首に突き刺さり、血飛沫が弧を描いた。
『な、なに……ッ!?』
黒ローブの一人が震えながら再装填を試みる。
だがノーリの瞳が赤黒く瞬いた瞬間、彼の腕は内側から折れ曲がった。
骨が突き破り、銃が床に転がる。絶叫が白い部屋を震わせる。
『やめろォ!!』
残る者たちが乱射する。だが銃弾は全て宙で停止し、無数の鉛玉が空中に浮かんだ。
次の瞬間、それらは逆方向へ一斉に放たれる。
『ぎゃあああああああああッ!!!』
ローブの胸や頭を撃ち抜き、鮮血が噴水のように舞う。
数秒前まで威勢よく命令を飛ばしていた者たちは、今や床に崩れ落ち、動くものは誰もいない。
ノーリは血飛沫を浴びながら一歩前に進む。
顔には笑みも怒りもなく、ただ冷えきった無表情。
『……これが、私』
床を覆う血溜まりに赤い光が反射し、その中心に立つ彼女はまるで“災厄そのもの”だった。
息は乱れていない。瞳の奥に、初めて“自分”という概念が宿った。
『……私は』
口にした声は、機械でもアリナでもない。
だが耳に残る響きは確かに、奪われた少女の名残だった。
『私は……ノーリ。
アリナ……記憶……。これはアリナの記憶……私じゃない』
ノーリの足音が血の上を踏みしめる。
彼女の視線の先――部屋の隅に置かれた巨大な金属箱。
「廃棄」と朱文字で刻まれ、冷却ガスが白く漏れている。
中を覗けば、植物状態のアリナが冷たく横たわっていた。
瞳は閉ざされ、唇には言葉の残滓すらない。
ただ「不要物」として積み上げられた人間の一つに過ぎなかった。
ノーリは無表情のまま、しかし迷いなくその身体を抱き上げる。
血に濡れた白衣の影を踏み越え、ゆったりと背を向けた。
『アリナ……記憶を……あなたに……』
冷たい部屋を背に、警報音と赤いランプの中を歩き出す。
彼女の足取りは静かで、確かに“ここではない世界”を選び取っていた。
――――――――――――――――――
『……私は……アリナの記憶を戻すためにあらゆる手段を講じた。
けれど……そのどれもが失敗に終わった』
ノーリの声は感情を持たないはずなのに、どこか震えていた。
『記憶を刺激する薬。脳を焼くような電流。
同じ街角を歩かせ、同じ音を聞かせ……それでも、何も戻らなかった。
……戻るわけが無かった。 何故なら…アリナ。
あなたは奴らに脳を直接いじられたから
永遠に記憶が戻らない』
ルーシェの胸が締め付けられる。
自分が“ただの記憶喪失”と思っていた日々が、実はライフベージの実験によるものだったと知ったから。
ミーナが歯を食いしばり、唸る。
「じゃあ……今こうして私らをここに呼んだのも……」
『……この民家の地下に、奴らのクローン実験を模した装置がある』
ノーリの声が闇の中に沈む。
それは告発ではなく、処刑宣告のように響いた。
ルーシェは息を詰める。
「装置……? そんなものが……」
『……私が作った。
あなたの記憶を、取り戻すために。
奴らが記憶を奪った方法を、逆に辿れば――欠けた断片を掬い上げられるかもしれないと』
ミーナが目を細め、鉄パイプを床に突き立てる。
「逆に辿る? そんなもん……またアリナをぶっ壊すだけじゃねぇのか!」
『……そうかもしれない。
脳はすでに刻まれている。
再現を試みれば、残った“今のアリナ”も消えるかもしれない』
ノーリは淡々と語る。
だがその瞳の奥には、微かな揺らぎ――諦めと執着が絡み合った色があった。
『……その装置は他にも使えた。私の防御策にもなった』
「……防御策?」
『ライフベージは終わりではなかった。
残った者たちは私を“失敗作”と呼び、始末しようとした』
影の声は揺らぎなく、ただ事実を告げる。
『私も奴らを殺すことはできる。難しいことではない。
だが……数が増えれば限界が来る。影ひとつでは抗えない』
わずかな間を置き、ノーリは続けた。
『だから私は考えた。
同じ手を使えばいい。
装置を利用し、奴らがやったように――新たな“兵”を作ればいいと』
ルーシェの喉が鳴る。ミーナが眉を吊り上げる。
『そのために、人を攫い、装置に放り込み……。
出来上がったのは、人の形を保ちながら心を失った“怪物”』
ノーリの声には後悔も誇りもなかった。
ただ淡々と、自らの罪をなぞるように。
ルーシェの唇が震え、声にならない吐息を漏らした。
「……モンスター……あれを……あなたが……?」
ノーリは微動だにしない。
『……私の防御策にもなり得るし、あなたを守るための策でもあった』
ルーシェが小さく息を呑む。
『……本来ならば、私とアリナには攻撃しないよう制御を組み込んでいた。
だが――失敗作にはその制御が効かなかった』
ミーナの眉が跳ね上がる。
「失敗作……?」
『そう。あの大男もその一つだ。
制御不能となり、結果的にあなたを殺そうとした』
ルーシェの視界が揺れる。
胸の奥に、初めて目覚めた時の恐怖が蘇る。
刃を振り上げ、執拗に追いかけてきたあの巨体――。
「……じゃあ……ベルクさんを殺したのも……」
ノーリの影は沈黙のまま肯定を示した。
『……その通り。私が止めるべきだった。だが……できなかった』
その声は淡々としていたが、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
影の奥に、罪を背負うような軋みが潜んでいた。
ルーシェの胸が締め付けられる。
頭の中に浮かぶのは、会ったことのない“姉”の姿。
必死に自分を探し、そしてここで命を落としたベルクの姿。
「……どうして……っ…………!」
震える声が闇に響く。
ノーリは答えず、ただ視線を落としたまま影を揺らす。
『……私は影。
守ることよりも、生き延びることに縛られた……。
その結果が――ベルクの死だ』
ミーナが歯を食いしばり、鉄パイプを握る手に力を込めた。
「……クソッタレが……」
ノーリの影は揺れず、ただ低く告げる。
『……だが、もうモンスターを作る必要はない』
「……は?」
『ライフベージはじきに壊滅する。
残党は力を失い、影にすら届かなくなるだろう。』
ノーリはゆっくりとルーシェに顔を向ける。
その瞳には冷たい光と、消えない執着が絡み合っていた。
『だから――装置を本来の使い方に戻す。
アリナ。あなたの記憶を取り戻すために』
ルーシェの呼吸が止まる。
胸の奥で恐怖と希望が同時に疼き、声が出せなかった。
ノーリはゆっくりと踵を返す。
『……着いて来い。地下の最奥へ』
影の導きに従い、二人は廊下を進んだ。
足を踏み出すたびに畳が軋み、やがて隠された扉の前に辿り着く。
ノーリが手をかざすと、扉はひとりでに開いた。
そこから伸びていたのは、急なコンクリートの階段。
冷たい風が吹き上がり、薬品と鉄の臭気が肌を刺す。
「……うっ……ここ、まるで……」
ミーナが鼻をつまみ、顔をしかめる。
降りていくにつれ、壁には古い配管や剥き出しのケーブルが絡みついていた。
どこかで水が滴る音が響き、まるで地下全体が呼吸しているように感じられる。
最奥へと近づくほど、空気は重く、暗闇は濃くなる。
ルーシェの足は鉛のように重く、それでも止まらなかった。
やがて階段が途切れ、広い地下空間が姿を現す。
そこに鎮座していたのは、巨大な装置――鉄と管が絡み合い、棺のようなシルエット。
無数のコードが床を這い、壁に突き刺さっている。
ノーリの声が冷たく響いた。
『……これが、装置だ。アリナの記憶を戻すための……装置』
ルーシェは震える唇を噛みしめ、目を逸らせなかった。
ノーリは無言でルーシェの肩に手を置いた。
そのまま、ゆっくりと歩を進め――装置の正面へと立たせる。
鉄の棺のような機械は低く唸りを上げ、かすかに脈動していた。
冷却液の匂いと薬品の甘ったるい臭気が混じり、吐き気を誘う。
『……アリナ』
ノーリの声が背後から落ちる。
『ここに入れば、記憶は戻るかもしれない。
だが……残った“今のあなた”が消える可能性もある』
ルーシェは目を見開いたまま、何も言えない。
「バカ言ってんじゃねえ!!」
ミーナが鉄パイプを床に叩きつけ、怒声を響かせる。
「そんなもん入れるかよ!! バケモンになるか、最悪死んじまうぞ!!!」
ノーリは振り向かない。
ただ淡々と続ける。
『……選べ、アリナ。
“過去を取り戻すか”――“今を生きるか”。
私は影。あなたの選択を止めることはできない』
ルーシェの喉がひくつき、声にならない声を漏らす。
装置の表面に映る自分の震える顔が、薄暗がりの中で揺れていた。
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