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エピローグ:DYING MEMORY -ベネディッタ・ミーナ・ルーシェ-
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――ノーリが瞼を閉じてから、一か月が過ぎた。
街の喧騒の片隅、TVのニュースキャスターの声が、冷たいガラス越しに流れていた。
「……以前より発生していた行方不明事件ですが、その首謀者の正体が判明しました。
ライフベージ教団――。人類すべてを抹殺し、全員をクローンに置き換えることで、争いのない世界を築こうとしていた組織です。
捕らえられた人々の多くは既に命を落としており……」
淡々とした声が、犠牲者の名を一つ一つ列挙していく。
「……これに対抗した民間自治組織“ダイレンジャビス”も、教団の攻撃によって壊滅。団長であったヘルベルト氏も本部にて死亡が確認されました」
「また、およそ十年前に大規模な騒動を引き起こしたバウゼン兄弟の遺体も発見され……」
ページをめくるように読み上げられる名簿。
そして、不意に重い一節が差し込まれた。
「……速報です。 教団本部より、以下の人物の遺体も確認されました。
スピックエンツォ大学・美術専攻、カルロッタ氏……」
一瞬だけ、アナウンサーの声が掠れた。
次に読み上げられた言葉は、空気を凍らせる。
「……遺体は確認できていませんが、ルード高等学校二年・アリナさん、ミーナさん。両名についても、死亡が報告されています」
「いや~……恐ろしい事件ですね」
キャスターの声は、笑っているのか震えているのか分からない調子で揺れた。
「はい。他にも、この教団が以前発生したIT企業の連続倒産事件や、市街地爆発事件に関与していたとの情報も入っています」
「……あの企業の銀行口座ハッキングや市街地の自爆テロも、教団によるものと?」
「恐らくは。しかし一部の証言によれば……ハッキングは企業の会長自らが、それを実行していた可能性も否定できません」
原稿をなぞるように続く会話。
だが映像の端、キャスターたちの顔には、どこか“物語の結末”を扱っている実感はなかった。
ただ過去を列挙するだけの、ニュースの声。
……そのニュースを、右腕を失ったベネディッタはテレビで見ていた。
チープな木枠のブラウン管がちらつくたびに、彼女の瞳に淡い光が映る。
包帯の隙間から滲んだ赤は乾ききらず、布地を硬く固めていた。
彼女はリベラートとヘルベルトの死後、自ら教団本部を這うように脱出し……結果的に最初に入ったボロ屋へと戻ってきていた。
埃にまみれた畳の上で、湿気とカビの匂いに囲まれながら、ただ一人。
「……みんな……死んだ……んだね」
声は掠れ、テレビの雑音にかき消されるほど小さかった。
けれど確かに、そこには涙ではなく、燃え残った灰のような哀しみがあった。
「……私……本当は……なにがしたかったんだろうね」
ぽつりと落ちた声は、畳に吸い込まれて消えていく。
右腕の断面を包む包帯が、心臓の鼓動に合わせてわずかに脈打った。
「復讐……だったのかな……。
それとも……ただ、誰かに気づいてほしかっただけ……?」
彼女の瞳に映るのは、画面に流れる“死者の名前”のリスト。
だがどの文字も、現実の匂いを伴わない。
ただ並べられた黒い記号の群れ。
そこに自分が含まれていないことが、どうしてか胸の奥を余計にざらつかせていた。
「……リベラートはもういない。 カルロッタも……アバルト先輩も……みんな……」
ベネディッタの声は乾いて、畳に落ちた灰のように広がる。
包帯の下の切り口がうずき、夜の冷えが肩まで這い上がってきた。
「……私の勝手な都合で……死んだ。 アバルト先輩も……きっと教団に脅されただけなんだろう……ね」
言葉が自分自身に跳ね返る。胸の奥で何かが弾け、空洞になった感情がざらつく。
テレビの画面では、名前が淡々と流れ、キャスターの声は無感情に結論をまとめる。だが部屋の中の時間だけは、ゆっくりと濃密に引き伸ばされていた。
ベネディッタは視線を窓の外へ移す。外灯の下、夜の路地がひっそりと息をしている。
そこにはもう、仲間の姿はない。笑い声も、喧嘩も、朝の出勤ラッシュもない。あるのは空虚な静寂だけだ。
「……それでもいいんだよ……利用されたってのに……こうして……お前と……笑って話せた……それだけで……」
「ベネ~!! ここ一緒に練習しようよ~~!!」
「ははっ、ベネディッタも良かったら僕とカルロッタで一緒に飯行くか?」
目を閉じると、リベラートの死の間際に放った言葉。カルロッタのサークル活動での練習、アバルトのサークル後の食事の誘い。
それらが全部、自分の過ちの重しになってのしかかる。
「私は……何のためにここで生きてるんだろう」
問いは答えを欲しなかった。ただ胸の中をぐるぐると回り、最後にひとつの感覚だけを残す。――これは罰なのか、赦しを求める旅路なのか。
「……分かんないな。もう」
ベネディッタは立ち上がると、冷蔵庫を開けた。ひときわ冷えた空気と共に取り出したのは、オレンジジュースのペットボトル。
それから、懐から一枚の小袋を取り出す。ドルムント第2刑務所で手に入れた「ネズミの駆除剤」だった。
袋を破り、橙の液体へと粉を落とす。沈む結晶がゆっくりと広がり、甘い香りの底に、鋭い苦味を溶かしていく。
「……罰を受けることが、私にとって赦されるんだろうな。
それだけは……なんか分かる」
ペットボトルの中にある液体は、鮮やかな橙色のままだった。
ベネディッタはそれを口に運ぶ。冷たさが喉を下り、内臓にじわりと広がっていく。
「……そっか。私……オレンジジュース、大好きだったっけ。
なんで……忘れてたんだろ」
微笑む口元は震えていたが、その瞳は静かに落ち着いていた。
「……向こうに行ったら、みんなに謝んないとな……」
言葉は息のように細く漏れ、部屋の隅に溶けていった。
ベネディッタはコップを口元に運び、ゆっくりと飲み干す。冷たさが喉を滑り、身体の奥で鈍い熱がじわりと広がるのを感じた。
思考は綿のように軽くなり、記憶が一枚一枚はがれていく。
「ごめんね……ごめんね、本当に……」
小さな声で何度も繰り返す。謝罪は言葉を吐くごとに軽くなり、やがて感触だけが残った。
ソファに腰を下ろしたまま、彼女は背にもたれ、天井の染みをぼんやりと見つめる。
胸の鼓動がゆっくり、確実に遠ざかっていく。
思えば――と、ふいに笑いがこぼれる。馬鹿らしいほど些細な思い出が、鮮やかに戻る。小さな公園で三人で分け合ったアイス、夜道のくだらない冗談、約束した「また飯行くよ」の文字。全部、確かにあった。
「守れなくて、沢山傷つけて……本当にごめん………」
声はもうほとんど風だった。指先が紙切れを探し、握りしめたまま力が抜ける。目の前がふわりと白く滲み、世界の輪郭が柔らかく溶けていく。最後に聞こえたのは、遠くで誰かが笑うような幻の音と、窓の外を通り過ぎる夜の冷たい風だった。
彼女はゆっくりと目を閉じた。息が、ひとつ、ふたつ。やがてその数は途切れ、部屋には静けさだけが残された。
――――――――――――――――――
「……遺体は確認できていませんが、ルード高等学校二年・アリナさん、ミーナさん。両名についても、死亡が報告されています」
ニュースキャスターの声が淡々と響く。4Kテレビに並ぶ名前の列は冷たく、まるで誰かの生をただの活字に変えてしまったようだった。
「……あーあ、死んじまったな、私ら」
ソファに寝転んだミーナが、ポテトチップスの袋を片手に呟く。
「そうだね……。でも、良かったかも」
ルーシェはコップの水を揺らしながら、ぼそりと返した。
「え、なんで?」
「だって生きてるってことになったら……なんかマスコミがいっぱい来るかもしれないし……」
「マスコミじゃねえだろ。マスゴミ!」
「……あ、そうだった」
二人の声が重なり、薄暗い部屋に小さな笑いが生まれる。
世間が“死んだ”と決めつけた空間で、彼女たちは静かに生きていた。
「しっかし、こうもなりゃ買い物とかめんどくせえぞ。顔バレしたらおしまいだ」
ミーナがポテチを口に放り込みながら、ソファの背にだらしなくもたれる。
「そうだね……世間だと私たちはもう死亡してるんだから、バレたら大変なことになるね」
ルーシェは苦笑してコップの水を揺らす。水面に映る自分の顔が、妙に他人事のように見えた。
「マジで外出んのに変装必須じゃねーか。サングラス? マスク? ……いや、なんか逆に怪しいな」
「じゃあフルフェイスのバイクヘルメットとか……」
「それはもっと怪しいだろ!!」
「……ふふっ」
小さな笑い声が、場違いなほど温かく夜に溶けていく。
「あ。いいもんあった」
ミーナがガサゴソと押し入れを漁り、埃をかぶった箱から何かを取り出す。
「ん?」
ルーシェが首を傾げる。
「これなんて良くね?」
掲げられたのは、不気味な顔を浮かべた仮面。
目がぎょろりと光を反射し、角ばった模様がやけに禍々しい。
「それムジュラの仮面!!!! 被ったら呪われる奴!!!!」
ルーシェが即座に突っ込むと、ミーナは腹を抱えて大笑いする。
「いやいや、これで買い物行ったら誰も顔バレしねーだろ!」
「いや顔どころか本当の意味で人生終わるって!!!」
「わーったよ。じゃあデグナッツの仮面でどうよ?」
「それは色んな意味でトラウマだからダメ!!!!」
「じゃあ段ボール」
「それ入るのスネークだけだから!!!」
「ユニコーンガンダム」
「NT-D発動して暴れまわるからダメ!!!!」
「ナラティブガンダム」
「それもNT-Dあんだろーが!!! そっちは変身しないけども!!!!!」
二人の声は夜の狭い部屋に弾け、テレビの画面で告げられる「死亡報告」とは正反対に生の熱を宿していた。
「……はぁ~あ。 でも実際問題、こっからどうすっかねぇ……」
ミーナが両腕を伸ばし、ソファの背にもたれて大きくため息を吐いた。
さっきまでのふざけ合いとは違う、素の声。
「ルード高校ももう解体されちゃったし……勉強する機会がないもんね」
ルーシェはテレビを消し、暗くなった画面にぼんやりと自分の顔を映す。そこには“死亡扱い”された少女の姿しかなかった。
「ん~~~………」
ミーナは考え込むふりをして唸り、だがすぐに床に転がってバタバタと足を動かす。真剣に悩む空気を、自分なりに誤魔化しているようだった。
「……あ」
「ん?」
「あのさルーシェ。 あんたってさ、将来の夢ってやつ。なんかあんの?」
「え、どうしたの急に?」
「いや……アリナはそれについて言ってたんだけどさ、今のあんたはどうかな~って」
ルーシェは少し黙り込んでから、首を傾げた。
「将来の夢……か。アリナはどう言ってたの?」
「えーっとね……Vtuberになりたいとか言ってたわ」
「う、う~ん……いいんだかよくないんだか……」
「ちなみに私はなーんにも考えてねえ!! んなもん高校生に求めんなっつーの!! 的な??」
胸を張って堂々と宣言するミーナに、ルーシェは吹き出した。
「……ふふ、ミーナらしい」
「だろ?」
ミーナは得意げに鼻を鳴らし、そのままソファにごろんと寝転ぶ。
くだらない会話なのに、不思議と心が軽くなる。
「……パッと思いついたのはこれかな」
ルーシェは少し頬を赤らめ、視線を逸らした。
「お? なんだよ? 聞かせろって!」
ミーナが身を乗り出し、ソファの背からずり落ちそうになる。
「……笑わないでよ」
「それは時と場合によるもんだぜ?」
「も~~!!」
ルーシェは枕を手に取り、ミーナに向かって軽く投げつけた。
ふわりとした衝撃が彼女の顔を直撃し、ミーナは「ぐふっ!」と大げさにのけぞる。
笑い声が部屋に残り、ふと空気が静まる。
ルーシェの声はいつもの冗談めいた軽さをまとわず、低く確かな響きを帯びていた。
「……この数日間、とんでもないことに巻き込まれたよね。
だからそれを……後世に語ってはいけないことにしたいかな」
ミーナは一瞬、口元を歪めてから眉を寄せる。
「なんだそりゃ?」と鼻で笑いを漏らすが、その目はいつものはしゃぎではない。ルーシェの言葉の端にある重さを、ちゃんと拾っているのだ。
ルーシェはじっと天井を見上げ、言葉を続ける。
「この出来事は――【死に行く記憶】。だからこの悪い記憶が完全に消えるまで、私は生きていきたいかな」
ミーナの顔が、少しだけほころぶ。ふざけていた口調が、ふと真面目になった。
「へぇ……なんか厨二っぽくて渋いな、それ」
からかい半分に返すが、声のトーンには厚みがあった。
ルーシェは小さく笑う。笑いは自分でも驚くほど柔らかく、どこか救いを含んでいる。
ミーナはソファの上で半回転し、ルーシェの隣へ体を寄せた。
「よしよし。じゃあルーシェ先生の授業、開催な。『如何にして世界の終わりを生き抜くか』ってやつだ。受講料はポテチ一袋な!」
二人はまた、いつものふざけ合いに戻る。だが笑いの奥底には、確かな約束が潜んでいる——消えていく記憶を抱えたままでも、生き延びるという決意。
窓の外では夜がゆっくりと流れ、部屋の小さな灯りが二人の影をそっと長く伸ばした。
——これは、後世に語り継がれてはならない、死に行く記憶。
その記憶が完全に死ぬまで、2人はこれからも、生き続ける。
――――――――――――――――――
DYING MEMORY
The End.
――――――――――――――――――
街の喧騒の片隅、TVのニュースキャスターの声が、冷たいガラス越しに流れていた。
「……以前より発生していた行方不明事件ですが、その首謀者の正体が判明しました。
ライフベージ教団――。人類すべてを抹殺し、全員をクローンに置き換えることで、争いのない世界を築こうとしていた組織です。
捕らえられた人々の多くは既に命を落としており……」
淡々とした声が、犠牲者の名を一つ一つ列挙していく。
「……これに対抗した民間自治組織“ダイレンジャビス”も、教団の攻撃によって壊滅。団長であったヘルベルト氏も本部にて死亡が確認されました」
「また、およそ十年前に大規模な騒動を引き起こしたバウゼン兄弟の遺体も発見され……」
ページをめくるように読み上げられる名簿。
そして、不意に重い一節が差し込まれた。
「……速報です。 教団本部より、以下の人物の遺体も確認されました。
スピックエンツォ大学・美術専攻、カルロッタ氏……」
一瞬だけ、アナウンサーの声が掠れた。
次に読み上げられた言葉は、空気を凍らせる。
「……遺体は確認できていませんが、ルード高等学校二年・アリナさん、ミーナさん。両名についても、死亡が報告されています」
「いや~……恐ろしい事件ですね」
キャスターの声は、笑っているのか震えているのか分からない調子で揺れた。
「はい。他にも、この教団が以前発生したIT企業の連続倒産事件や、市街地爆発事件に関与していたとの情報も入っています」
「……あの企業の銀行口座ハッキングや市街地の自爆テロも、教団によるものと?」
「恐らくは。しかし一部の証言によれば……ハッキングは企業の会長自らが、それを実行していた可能性も否定できません」
原稿をなぞるように続く会話。
だが映像の端、キャスターたちの顔には、どこか“物語の結末”を扱っている実感はなかった。
ただ過去を列挙するだけの、ニュースの声。
……そのニュースを、右腕を失ったベネディッタはテレビで見ていた。
チープな木枠のブラウン管がちらつくたびに、彼女の瞳に淡い光が映る。
包帯の隙間から滲んだ赤は乾ききらず、布地を硬く固めていた。
彼女はリベラートとヘルベルトの死後、自ら教団本部を這うように脱出し……結果的に最初に入ったボロ屋へと戻ってきていた。
埃にまみれた畳の上で、湿気とカビの匂いに囲まれながら、ただ一人。
「……みんな……死んだ……んだね」
声は掠れ、テレビの雑音にかき消されるほど小さかった。
けれど確かに、そこには涙ではなく、燃え残った灰のような哀しみがあった。
「……私……本当は……なにがしたかったんだろうね」
ぽつりと落ちた声は、畳に吸い込まれて消えていく。
右腕の断面を包む包帯が、心臓の鼓動に合わせてわずかに脈打った。
「復讐……だったのかな……。
それとも……ただ、誰かに気づいてほしかっただけ……?」
彼女の瞳に映るのは、画面に流れる“死者の名前”のリスト。
だがどの文字も、現実の匂いを伴わない。
ただ並べられた黒い記号の群れ。
そこに自分が含まれていないことが、どうしてか胸の奥を余計にざらつかせていた。
「……リベラートはもういない。 カルロッタも……アバルト先輩も……みんな……」
ベネディッタの声は乾いて、畳に落ちた灰のように広がる。
包帯の下の切り口がうずき、夜の冷えが肩まで這い上がってきた。
「……私の勝手な都合で……死んだ。 アバルト先輩も……きっと教団に脅されただけなんだろう……ね」
言葉が自分自身に跳ね返る。胸の奥で何かが弾け、空洞になった感情がざらつく。
テレビの画面では、名前が淡々と流れ、キャスターの声は無感情に結論をまとめる。だが部屋の中の時間だけは、ゆっくりと濃密に引き伸ばされていた。
ベネディッタは視線を窓の外へ移す。外灯の下、夜の路地がひっそりと息をしている。
そこにはもう、仲間の姿はない。笑い声も、喧嘩も、朝の出勤ラッシュもない。あるのは空虚な静寂だけだ。
「……それでもいいんだよ……利用されたってのに……こうして……お前と……笑って話せた……それだけで……」
「ベネ~!! ここ一緒に練習しようよ~~!!」
「ははっ、ベネディッタも良かったら僕とカルロッタで一緒に飯行くか?」
目を閉じると、リベラートの死の間際に放った言葉。カルロッタのサークル活動での練習、アバルトのサークル後の食事の誘い。
それらが全部、自分の過ちの重しになってのしかかる。
「私は……何のためにここで生きてるんだろう」
問いは答えを欲しなかった。ただ胸の中をぐるぐると回り、最後にひとつの感覚だけを残す。――これは罰なのか、赦しを求める旅路なのか。
「……分かんないな。もう」
ベネディッタは立ち上がると、冷蔵庫を開けた。ひときわ冷えた空気と共に取り出したのは、オレンジジュースのペットボトル。
それから、懐から一枚の小袋を取り出す。ドルムント第2刑務所で手に入れた「ネズミの駆除剤」だった。
袋を破り、橙の液体へと粉を落とす。沈む結晶がゆっくりと広がり、甘い香りの底に、鋭い苦味を溶かしていく。
「……罰を受けることが、私にとって赦されるんだろうな。
それだけは……なんか分かる」
ペットボトルの中にある液体は、鮮やかな橙色のままだった。
ベネディッタはそれを口に運ぶ。冷たさが喉を下り、内臓にじわりと広がっていく。
「……そっか。私……オレンジジュース、大好きだったっけ。
なんで……忘れてたんだろ」
微笑む口元は震えていたが、その瞳は静かに落ち着いていた。
「……向こうに行ったら、みんなに謝んないとな……」
言葉は息のように細く漏れ、部屋の隅に溶けていった。
ベネディッタはコップを口元に運び、ゆっくりと飲み干す。冷たさが喉を滑り、身体の奥で鈍い熱がじわりと広がるのを感じた。
思考は綿のように軽くなり、記憶が一枚一枚はがれていく。
「ごめんね……ごめんね、本当に……」
小さな声で何度も繰り返す。謝罪は言葉を吐くごとに軽くなり、やがて感触だけが残った。
ソファに腰を下ろしたまま、彼女は背にもたれ、天井の染みをぼんやりと見つめる。
胸の鼓動がゆっくり、確実に遠ざかっていく。
思えば――と、ふいに笑いがこぼれる。馬鹿らしいほど些細な思い出が、鮮やかに戻る。小さな公園で三人で分け合ったアイス、夜道のくだらない冗談、約束した「また飯行くよ」の文字。全部、確かにあった。
「守れなくて、沢山傷つけて……本当にごめん………」
声はもうほとんど風だった。指先が紙切れを探し、握りしめたまま力が抜ける。目の前がふわりと白く滲み、世界の輪郭が柔らかく溶けていく。最後に聞こえたのは、遠くで誰かが笑うような幻の音と、窓の外を通り過ぎる夜の冷たい風だった。
彼女はゆっくりと目を閉じた。息が、ひとつ、ふたつ。やがてその数は途切れ、部屋には静けさだけが残された。
――――――――――――――――――
「……遺体は確認できていませんが、ルード高等学校二年・アリナさん、ミーナさん。両名についても、死亡が報告されています」
ニュースキャスターの声が淡々と響く。4Kテレビに並ぶ名前の列は冷たく、まるで誰かの生をただの活字に変えてしまったようだった。
「……あーあ、死んじまったな、私ら」
ソファに寝転んだミーナが、ポテトチップスの袋を片手に呟く。
「そうだね……。でも、良かったかも」
ルーシェはコップの水を揺らしながら、ぼそりと返した。
「え、なんで?」
「だって生きてるってことになったら……なんかマスコミがいっぱい来るかもしれないし……」
「マスコミじゃねえだろ。マスゴミ!」
「……あ、そうだった」
二人の声が重なり、薄暗い部屋に小さな笑いが生まれる。
世間が“死んだ”と決めつけた空間で、彼女たちは静かに生きていた。
「しっかし、こうもなりゃ買い物とかめんどくせえぞ。顔バレしたらおしまいだ」
ミーナがポテチを口に放り込みながら、ソファの背にだらしなくもたれる。
「そうだね……世間だと私たちはもう死亡してるんだから、バレたら大変なことになるね」
ルーシェは苦笑してコップの水を揺らす。水面に映る自分の顔が、妙に他人事のように見えた。
「マジで外出んのに変装必須じゃねーか。サングラス? マスク? ……いや、なんか逆に怪しいな」
「じゃあフルフェイスのバイクヘルメットとか……」
「それはもっと怪しいだろ!!」
「……ふふっ」
小さな笑い声が、場違いなほど温かく夜に溶けていく。
「あ。いいもんあった」
ミーナがガサゴソと押し入れを漁り、埃をかぶった箱から何かを取り出す。
「ん?」
ルーシェが首を傾げる。
「これなんて良くね?」
掲げられたのは、不気味な顔を浮かべた仮面。
目がぎょろりと光を反射し、角ばった模様がやけに禍々しい。
「それムジュラの仮面!!!! 被ったら呪われる奴!!!!」
ルーシェが即座に突っ込むと、ミーナは腹を抱えて大笑いする。
「いやいや、これで買い物行ったら誰も顔バレしねーだろ!」
「いや顔どころか本当の意味で人生終わるって!!!」
「わーったよ。じゃあデグナッツの仮面でどうよ?」
「それは色んな意味でトラウマだからダメ!!!!」
「じゃあ段ボール」
「それ入るのスネークだけだから!!!」
「ユニコーンガンダム」
「NT-D発動して暴れまわるからダメ!!!!」
「ナラティブガンダム」
「それもNT-Dあんだろーが!!! そっちは変身しないけども!!!!!」
二人の声は夜の狭い部屋に弾け、テレビの画面で告げられる「死亡報告」とは正反対に生の熱を宿していた。
「……はぁ~あ。 でも実際問題、こっからどうすっかねぇ……」
ミーナが両腕を伸ばし、ソファの背にもたれて大きくため息を吐いた。
さっきまでのふざけ合いとは違う、素の声。
「ルード高校ももう解体されちゃったし……勉強する機会がないもんね」
ルーシェはテレビを消し、暗くなった画面にぼんやりと自分の顔を映す。そこには“死亡扱い”された少女の姿しかなかった。
「ん~~~………」
ミーナは考え込むふりをして唸り、だがすぐに床に転がってバタバタと足を動かす。真剣に悩む空気を、自分なりに誤魔化しているようだった。
「……あ」
「ん?」
「あのさルーシェ。 あんたってさ、将来の夢ってやつ。なんかあんの?」
「え、どうしたの急に?」
「いや……アリナはそれについて言ってたんだけどさ、今のあんたはどうかな~って」
ルーシェは少し黙り込んでから、首を傾げた。
「将来の夢……か。アリナはどう言ってたの?」
「えーっとね……Vtuberになりたいとか言ってたわ」
「う、う~ん……いいんだかよくないんだか……」
「ちなみに私はなーんにも考えてねえ!! んなもん高校生に求めんなっつーの!! 的な??」
胸を張って堂々と宣言するミーナに、ルーシェは吹き出した。
「……ふふ、ミーナらしい」
「だろ?」
ミーナは得意げに鼻を鳴らし、そのままソファにごろんと寝転ぶ。
くだらない会話なのに、不思議と心が軽くなる。
「……パッと思いついたのはこれかな」
ルーシェは少し頬を赤らめ、視線を逸らした。
「お? なんだよ? 聞かせろって!」
ミーナが身を乗り出し、ソファの背からずり落ちそうになる。
「……笑わないでよ」
「それは時と場合によるもんだぜ?」
「も~~!!」
ルーシェは枕を手に取り、ミーナに向かって軽く投げつけた。
ふわりとした衝撃が彼女の顔を直撃し、ミーナは「ぐふっ!」と大げさにのけぞる。
笑い声が部屋に残り、ふと空気が静まる。
ルーシェの声はいつもの冗談めいた軽さをまとわず、低く確かな響きを帯びていた。
「……この数日間、とんでもないことに巻き込まれたよね。
だからそれを……後世に語ってはいけないことにしたいかな」
ミーナは一瞬、口元を歪めてから眉を寄せる。
「なんだそりゃ?」と鼻で笑いを漏らすが、その目はいつものはしゃぎではない。ルーシェの言葉の端にある重さを、ちゃんと拾っているのだ。
ルーシェはじっと天井を見上げ、言葉を続ける。
「この出来事は――【死に行く記憶】。だからこの悪い記憶が完全に消えるまで、私は生きていきたいかな」
ミーナの顔が、少しだけほころぶ。ふざけていた口調が、ふと真面目になった。
「へぇ……なんか厨二っぽくて渋いな、それ」
からかい半分に返すが、声のトーンには厚みがあった。
ルーシェは小さく笑う。笑いは自分でも驚くほど柔らかく、どこか救いを含んでいる。
ミーナはソファの上で半回転し、ルーシェの隣へ体を寄せた。
「よしよし。じゃあルーシェ先生の授業、開催な。『如何にして世界の終わりを生き抜くか』ってやつだ。受講料はポテチ一袋な!」
二人はまた、いつものふざけ合いに戻る。だが笑いの奥底には、確かな約束が潜んでいる——消えていく記憶を抱えたままでも、生き延びるという決意。
窓の外では夜がゆっくりと流れ、部屋の小さな灯りが二人の影をそっと長く伸ばした。
——これは、後世に語り継がれてはならない、死に行く記憶。
その記憶が完全に死ぬまで、2人はこれからも、生き続ける。
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DYING MEMORY
The End.
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