DYING MEMORY

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エピソード15:ライフベージの発端

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七か月前。

世界有数のIT企業、システマティックコンピュータ株式会社は、突如として経営破綻を発表した。

あまりに急すぎる崩壊だった。

報道ではこう記されている。

——国際的なサイバー攻撃により、SC社が連携していた複数のデジタル口座から、およそ1億ユーロが奪取された。
——犯人とされるハッカーは事件の翌日、何者かによって殺害された。
——盗まれた資金のうち、回収できたのは1割に満たなかった。

巨額の損失に加え、セキュリティ技術を売りにしていたSC社は信用を完全に失った。
もはや誰も、彼らの提供するシステムを使おうとは思わない。

株価は瞬く間に暴落し、連鎖的に業務停止命令。
銀行・投資家・ベンチャー連携先に波紋が広がり、数時間後には全支社が閉鎖された。

その崩壊は、ウイルスのように静かで迅速だった。

人々は目を疑い、唇を震わせ、口々にこう呟いた。

——何が起きた?
——誰が仕組んだ?
——なぜ、会長は何も語らずに姿を消した?



だが、それはあくまで表向きの事実である。

SC社会長と、ライフベージ教団のゲラルドによる、計画的かつ意図的な資金提供。

それが、すべての始まりだった。

――――――――――――――――――

いつもの時間、いつもの電車。

世界有数のIT企業、システマティックコンピュータ株式会社。
その最上層に君臨する、ひとりの老齢の男が今日も出勤していた。

彼こそが、SC社の会長である。

無言で吊り革を握り、スマホを操作するその姿は、他の乗客と何ら変わらない。
だが、その目に映っていたのは、ただの情報ではなかった。

スクロールされる画面に並ぶのは、事故、事件、不倫、不祥事。
感情を煽るだけの見出し。無数の“誰かの炎上”。

会長は、ふと小さく吐き捨てるように呟いた。

「……くだらん」



それでも、誰もが画面に夢中だ。
自分のことではないから、笑って消費する。
すべてを“ネタ”に変えて、生きていく。

こうした事故や炎上ネタは、
我々のようなITに従事した者がもたらしたものだ。

会長は、そう強く思っている。

情報技術が発展すれば、世界は便利になると誰もが信じていた。

だが、それは幻想だった。

SNSが可視化したのは“善意”ではなく、
嫉妬、憎悪、欲望といった、本来なら見えなかった人間の闇だった。

会長は自らも、その仕組みを作った一人であると理解していた。

世界を加速させたのは自分たちだ。
利便性の名の下に、思考を奪い、欲望を拡張させ、
感情をデータとして切り売りする時代を築いた。

当初、会長はITを通じて世の中をより便利にしていくと理念を語り、
若き日の情熱を胸にシステマティックコンピューティング社を設立した。


「全ての人間に、平等な情報アクセスを」
「技術とは、人を自由にするものです」


その言葉は、起業当初の企業理念として、今でも社是として残っている。

だが──気づけばそれは、誰も口にしない建前へと成り果てた。

情報は金になり、感情は商品となり、
平等という理想は、広告のクリック率に駆逐された。

会長の心の奥に、ふと昔の記憶が蘇る。

——設立当初、社員は十数人。
深夜まで議論を交わし、理想を夢見ていたあの頃。

——ある日、社員が言った。
「本当にこの技術で、誰かが救われると思いますか?」

そのときの自分は、迷いなく頷いていた。

……だが、今はどうだ。

便利さの裏に生まれたのは、依存、格差、誹謗中傷、そしてデータの支配。
自らが創ったものが、世界を歪めてしまった。

それらを思いながら、会長はSC社の最上階にある豪奢な会長室に腰を下ろした。

背中を包み込むような高級チェア。
壁一面のガラス窓から見渡せる都市の景色。
世界を掌握しているかのような眺め。

——だが、心は一切動かない。

デスク上の端末を開けば、役員たちからの定例報告メールが並んでいた。

「先月の売上は微減。ただしAI部門は黒字」
「次年度に向けた投資戦略の再構築案」
「新規サービスのネーミング候補一覧」
「それよりターミネーター2見ない?」

会長はそれらに目を通すが、ターミネーター2以外の情報は何一つ頭に入らなかった。

すると、会長室のドアを叩く音が響く。
決まったリズム。決まった時間。

——直属の秘書だった。

「……失礼いたします。会長」

「……入りたまえ」

静かに扉が開き、秘書が書類を抱えて一礼する。

「本日のご予定ですが、11:00より役員会議がございます。
内容は、今後の事業計画と新規案件獲得についての議論となります」

会長はわずかに頷く。

「……そうか。ご苦労だった」

「何かお飲み物をお持ちしましょうか?」

「ああ。コーヒーを——ブラックで」

「かしこまりました」

秘書は頭を下げ、音もなく退出する。

会長は再び静寂に包まれた室内で、目を閉じた。

(事業計画……新規案件……そんなもの、将来のなんの役に立つのだ)

——この世界が、根本から間違っているというのに。

利益、拡大、安定、成長。
それが、いつのまにか「生きる意味」そのもののように語られている社会。

会長は、そこにもう“価値”を見出せなかった。

人間は過ちを繰り返し、醜く争い、技術を使って互いを傷つけてきた。
それでも「次の案件」を追いかけるのか。
確かに情報が発展した今は便利になっている。
スマートフォンひとつで、道も、答えも、正義さえも手に入る。

だが、それと反比例するかのように、
人間はそれに甘え、思考を手放し、自発的に動かなくなっていく。

知らない言葉は検索すれば済む。
分からない問題はAIが解いてくれる。
食事も、恋人も、人生の指針すらもアルゴリズム任せ。

それを“進歩”と呼ぶなら、もはや人間に未来などない。

会長はふと、自分がかつて講演で語った言葉を思い出す。

——「全ての人間に、平等な情報アクセスを」
——「技術とは、人を自由にするものです」

嘘だった。

技術は、人を縛る。
技術は、人の代わりに考え、決め、奪っていく。

そして人は、それに気づこうとしない。

それが、いちばん愚かだと会長は思った。

Vtuberなども、典型的な例だろう。

自らの姿も、素性も、現実すらも隠し、
動きと声だけを差し出して、二次元のキャラクターにすべてを託す。

仮面を被ることに、罪悪感も羞恥もない。

いや、それどころか“仮面のままでいる”ことを賞賛する風潮さえある。

会長は、その風潮に、特に強い嫌悪を覚えていた。

(……反吐が出る)

自らの“実在”を捨て、
デジタルという檻に自分を封じ、
他人の承認を燃料にして、虚構の人格で生きる。

それが「人間の進化」なのだとしたら——
会長は、もはや人間に期待できることなど何もないと、確信していた。

(……だが、それも終わる。
何故なら——)

コン、コン、と軽やかなノック音。

会長の思考が静かに遮られた。

「……入りたまえ」

再び秘書が姿を現す。
気配りの行き届いた佇まい。緊張感と礼節を兼ねた動作。

「失礼いたします。お約束していたコーヒーをお持ちしました」

銀のトレイに乗せられたブラックのコーヒーが、音もなくデスクの端に置かれる。

「ありがとう。……すまないが、11時からの役員会議は欠席させていただく」

「え? ですが……」

「私のところに、“お客様”がいらっしゃる。
時間をきちんと確認していなかった私の責任だが……
社長たちには、そう伝えてくれないか?」

一瞬、秘書の動きが止まる。
会長が役員会議を欠席するのは、極めて異例だった。

「……承知いたしました。会長の“お客様”とあれば……」

それ以上、問いはしない。

秘書は一礼し、静かに部屋を後にした。

ドアが閉まる音が、やけに重く響いた気がした。

会長はコーヒーには手をつけず、
ゆっくりと立ち上がる。

そして、11:00。

ピッタリの時間に、再びノックの音が鳴った。

会長は一度だけ深く息を吸い、
ゆっくりと声をかける。

「……どうぞ」

ドアが静かに開く。

入ってきたのは、一見して普通のスーツ姿の男だった。
身長は中背、髪は整えられ、鞄も持たず、身なりに乱れもない。

だが、その空気だけが、異質だった。

存在そのものが、部屋の温度を下げるような感覚。
会長は立ち上がり、静かに一礼する。

「……お待ちしておりました。ゲラルド様」

男は微笑を浮かべ、軽く頷いた。

「時間通りに動けるというのは、素晴らしい資質です」

「いえいえ、こういうのはビジネスの基本ですのでね」

会長は手を軽く差し出し、
応接テーブルに面した椅子を示した。

「どうぞ、こちらへお掛けください」

ゲラルドは一瞬だけ椅子を見つめ、小さく首を傾げた。

「……あの、何故ゴッド・オブ・ウォーのエンディングみたいな椅子が用意されているのでしょうか?」

「ゲラルド様は神の御子息ですから。ですので戦いの神のような椅子がふさわしいかと」

「私クレイトスみたいなバイオレンスハゲではないですよ。いや頭のてっぺんハゲてっけど」

「よろしかったらリヴァイアサンもご用意致します。凍んないけど」

「凍らないリヴァイアサンとかただの斧じゃないですかそれ」

一瞬、会長室にだけ時間が緩やかに流れる。

……だが、それも束の間だった。

ゲラルドの表情から冗談の色が消え、
タリスマンの光がわずかに強まる。

空気が、ひとつ階層を下げたような静けさに包まれる。

「……ここにお呼びしたのは、やはり決心がついたという事でよろしいですかな? 会長」

会長は一度、目を閉じる。

「……ええ。技術が発展しすぎたからこそ、やり直さなくてはならない。
それはもう、システムの更新では済まない。
種そのものを作り直さなければ、世界は腐りきる。」

ゲラルドは静かに頷く。

「前にもお伝えしましたが、我々の理想は——
人間を再構築し、穢れなき理想の種族へと進化させること。

選ばれた遺伝子、抑制された感情、最適化された本能。

それを実現するには、研究、設備、養成、統制……
実に多額の金が動くことになります。

……それを、承知で?」

会長は、テーブルの上に指を組み、しばし黙考する。

だがその目は、揺らがなかった。

「私は人間に絶望したわけじゃない。
……ただ、人間がこのまま“何者にもならずに終わる”ことに耐えられなかっただけです」

「ふむ。興味深い動機ですね」

「構いません。動機がどうあれ、結果が全てだとあなた方も分かっているはずだ」

ゲラルドは笑った。

「まさに、我々の思想と同じですね」

「……金なら、この会社の利益、全てを持っていって構いません。
ですが——これが表立ってしまうと、厄介事になります」



ゲラルドは口元に指を添え、わずかに目を細める。

「……ふふふ、そのための“生贄”が必要なわけですか」

「ええ。技術力こそあるが、仕事を円滑に回せない愚か者がひとりいる。
周囲とも孤立していて、誰も彼を庇おうとはしない。
……奴をハッカーと見立てて、“犯人”として処理しましょう」

会長の声には一切の情がなかった。

それは、ただの部品を取り換えるかのような冷静さ。

「我々が引き受けましょう。
後処理も、報道も、こちらで誘導します。
その者には……もう二度と、“使い道”はありませんし」

会長は頷いた。

「構いません。私の責任として、社内には“内部の不正アクセス”という説明をつけておきます」

「さすがです、会長」

ゲラルドは、まるで演劇の台本を読み上げるように、静かに言葉を綴る。

「では、あとは最後の手続きを。
——我々へ、“世界の鍵”をお渡しください」

会長は無言のまま立ち上がり、
デスクへと歩を進めた。

その背に、ゲラルドは何も言わずただ視線を送る。

デスクの引き出しを開け、黒いUSBキーを取り出す。

禍々しい紋様が彫られた、それはタリスマンと同じ形をしていた。

USBをポートに差し込むと、画面にログイン画面が浮かび上がる。

通常の管理画面とは違う。
外部にも、社内にも、記録されない“隠されたルート”。

複数の確認コード。
虚偽情報への経路偽装。
秘密裏に構築された財務ルートが開かれていく。

モニターに並ぶ、巨額の数値。

総資産。
デジタル債権。
投資口座。
すべてが一つの送金先へと集約されるよう、設定されていた。

「……準備は、整いました」

会長の指が、最後のボタンに重なる。

“送信しますか?”

『YES / NO』

会長は迷いなく、YESを選んだ。

……カチリ。

一瞬だけ画面が暗転し、次の瞬間、こう表示された。

「トランザクション完了」

その瞬間、SC社の財務基盤はすべて“消えた”。

画面上の数値はゼロとなり、どこにもログは残されていない。

ゲラルドは、静かに立ち上がる。

「お見事。これで、“神の鍵”は我らの手に」

会長は端末を閉じ、ゆっくりと背を伸ばした。

「……世界は、今、変わる」

ゲラルドは笑みを浮かべ、タリスマンを掲げる。

「これが“始まり”です。
会長……いえ、神の座に選ばれし者よ。
ようこそ、“再構築された世界”へ」



それから間もなく、SC社はセキュリティの脆弱性や巨額の損失を追求され、
複数の取引先企業から次々に契約解除を通告された。

特に問題視されたのは、“内部からの不正アクセス”という疑惑。

社員の一部が「口座データが一斉に消えた」「バックアップも存在しない」と証言したことで、
メディアと世間は一気に騒然となった。

——ハッキングによって、企業が“まるごと消された”。

そう形容されるほどに、SC社は急速に信用を失った。

会長は報道会見に姿を現さず、
表に立ったのは、事情を何も知らされていない役員たちだった。

そして、
不正アクセスを行ったとされる社員は、
事件の直後に何者かによって殺害されたとも、報じられている。

公表された情報は、ごくわずかだった。
名前も顔も伏せられ、報道では「社内で浮いていた人物」とだけ紹介された。

警察は“関連性の調査中”としながら、詳細な捜査情報を一切公開せず、
数日後には「容疑者死亡により不起訴」と処理された。

メディアは、それ以上追わなかった。

社会もまた、静かにその情報を飲み込み、忘れていった。

——彼が“何をしたか”も、
——“本当に彼だったのか”も、
もう、誰にも分からない。

ただひとつ、確かなのは。

SC社は、もう存在しない。

その崩壊の裏で、ひとりの命が“帳尻合わせ”として消されたということだけだった。

――――――――――――――――――

教団が掲げる“人類再構築”の理念は、次なる段階へと移行していた。

——それは、現代を生きる人間どもへの“警告”。

SC社の崩壊は、あくまで準備にすぎない。
資金は確保された。技術も、協力者も揃った。

だが、肝心の“世界”がまだ、それに気づいていない。

ゲラルドは言った。
「ならば、思い知らせねばならんだろう。
この世界が、いかに“傲慢に成り下がったか”を」

そして、
教団は都市の一角を“狙った”。

ゲラルドの指示は、中規模の警告。

車両の破壊、ビルの炎上、人的被害は限定的で構わない。

——ただし、社会に衝撃を与えること。

その条件のもと、選ばれたのが一つの大学だった。

スピックエンツォ大学。

偏差値67。
名門として知られ、都市部の中心にキャンパスを構える総合大学。

理学、工学、法、経済、情報、音楽、美術、福祉。

——人間の叡智と文化、
そして“社会の未来”を担う者たちが集う場所。

だからこそ、そこに“警告”を与えることが意味を持つ。

ゲラルドは、白い手袋をはめながら呟いた。

「文明の神殿を、ひとつ壊してみよう」

彼が向かったのは、大学の中でも化学部の研究棟。

——ある一人の学生に、“資金提供”という名の誘導を行うためだった。

研究棟の化学実験研究室の前に辿りついたゲラルド。
すると、後ろから学生2人が声を掛ける。

「あの…なにかご入用で?」

「ああすみません、化学部のアバルト君はいますかね?」

「あー! アバルトなら中にいますよ! 呼びますね!!」

「おお、そうですか。 すみません、ありがとうございます」

ゲラルドは、にこやかに頭を下げた。

その礼儀正しさが、かえって異様だった。

数秒後、研究室の扉が音を立てて開く。
白衣を羽織った青年が顔を出す。

淡い青髪、無駄のない動作。
細身のフレーム眼鏡の奥で、知性の光が揺れている。



「はい、アバルトです。何か……ご用件でしょうか?」

ゲラルドは微笑を浮かべ、ゆっくりと歩み寄る。

「こんにちは。突然で申し訳ない。
君の研究を拝見して、ぜひお話を伺いたくてね」

アバルトは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに冷静な口調で返す。

「私の研究……見られるようなものではありませんが」

「いやいや。“爆薬の安定化理論”と、“制御型化学反応の瞬間加熱法”。
非常に面白い視点です。とくに……“外部誘発による無接触起爆”の論文には感銘を受けました」

「……それ、非公開のはずですが」

アバルトの目が、かすかに警戒色を帯びる。

ゲラルドはその様子を楽しむように、声をひそめた。

「私どもは、君のような新しい才能を探している団体です」

「……団体?」

「ええ。小規模な研究機関のようなものだと思っていただければ。
名乗るほど大層な名前はありませんが、いくつかの企業と協力関係にあります」

ゲラルドはそう言って、ジャケットの内ポケットから封筒を取り出した。

上質な黒の封筒。差出人の名前はどこにも記されていない。

そのまま、無言でアバルトに差し出す。

アバルトが開封すると、中には研究助成金の名目で発行された書類と、数十万ユーロ相当の暗号資産情報が記載されていた。

「……これは……?」

「君の研究に、我々は大きな期待を寄せています」

「しかし……僕は、応募も申請もしていません」

「無償の才能に、価値を見出す者がいたということです」

アバルトは、しばらく黙り込んだ。

目の前の男の身なりに、違和感はない。
言葉遣いも穏やかで、声も柔らかい。

——だが、どこか引っかかる。

自分の非公開の研究テーマを正確に把握していたこと。
自分の論文に反応する者など、これまで一人もいなかったのに。

アバルトは、封筒の中の契約書らしき書類にざっと目を通した。
そこには曖昧な言い回しが多く、提供元の企業名も、用途も不明瞭だった。

「……失礼ですが」
アバルトは静かに封筒を閉じ、机の上に戻した。

「これ、何に使うための資金なんですか?」

男は一瞬だけ口元を緩める。
笑っているのか、それとも苦笑なのか、判別できない表情だった。

「君の研究は、“未来を変える可能性”を秘めている。
その可能性を、ただ後世に流して終わるのはもったいない。
だから我々は、少しだけ——背中を押すつもりで来たのです」

「……はっきり言ってください」
アバルトの声に緊張が混じる。
「これは……人に害をなす何かに使うつもりなんですか?」

沈黙。

男は、そのまま答えずにアバルトを見つめ続けた。
時間にして数秒。だが、永遠のように重かった。

「ダメです。僕は、そういうののために研究してるんじゃない」

「……そうですか」

アバルトの返答に、男は微かに首を傾けた。

「それでは……こちらをご覧いただけますか」

ゲラルドは懐から、一枚の写真を取り出す。
白い手袋に包まれた指先が差し出したそれには、柔らかな表情を浮かべる一人の女性の姿が写っていた。

「……ッ……! それは……!」

「カルロッタさん、でしたか。優秀で、容姿にも恵まれた方のようですね」

穏やかな口調だった。だが、その言葉には明確な“意図”があった。

アバルトの瞳が怒りと動揺に揺れる。

「なぜ……その写真を……!」

「我々はね、あなたの研究に“真剣に”期待しているのです。
人類の再構築——あなたの成果が、その第一歩となる。
……その意義を、あなた自身が否定することはできないでしょう?」

脅迫だった。

柔らかな声色の裏に潜むのは、冷酷な選択の強制。
それを悟ったアバルトは、唇を強く結び、問いかける。

「……もし本当に僕が断ったら、彼女をどうするつもりですか?」

ゲラルドは微笑んだまま、首を軽くかしげた。

「そうですねぇ……我々の理想の“礎”になっていただいても良い。
……あるいは、その可憐な容姿ですからね。礎とする前に――じっくりと、味わってみるのも一興かと」

「……っ!! この……!」

怒気と憎悪が一気に噴き出す。
アバルトは机を蹴り飛ばさんばかりに立ち上がり、ゲラルドに詰め寄る。

「この化け物が……っ!」

しかし、ゲラルドの表情は一切変わらない。
穏やかに、まるで子供の癇癪を受け止めるような態度で、彼は言った。

「……アバルト君。感情で世界を変えることはできませんよ。
必要なのは“覚悟”です。君にも、そして……彼女にも」

その瞳には、一片の揺らぎもなかった。
冷たい確信が、そこにあった。

アバルトは、拳を強く握りしめたまま、微動だにできなかった。
怒り、恐怖、無力感が渦を巻き、喉の奥で言葉が詰まっていく。

そんな彼を見下ろすように、ゲラルドは低く囁いた。

「……あなたはもう、“彼女を守るために”やらなければならないのですよ」
「選択肢など、最初から存在していないのですから」

その言葉は、宣告だった。
アバルトの意志など初めから考慮に値しないと――そう断じるような、冷たい響き。

胸の奥に、どす黒い塊が沈んでいく。

(……ふざけるな……僕が……やらなきゃいけないだと……?)

思考が熱を帯び始める中、ゲラルドはゆっくりと踵を返し、静かに扉の向こうへと姿を消した。

——残されたのは、歪んだ現実と、選ばされた「運命」だった。

――――――――――――――――――

何をさせられるか分からない。
だが、きっと――良くないことが起きる。

その直感は、研究者としての論理とは別の場所で、強く警鐘を鳴らしていた。

アバルトは、翌日に届けられた謎の試薬と装置に対し、
その性質を徹底的に分析し、微量に調整した。

(……この分量なら、大規模な被害にはならないはずだ。
 だが、実験としては成立する。奴らは気づかない……)

そう判断したアバルトは、実験工程を慎重に整えていく。

(あのじいさん……本当になにをさせるつもりなんだ……!?
 でも……やらないと、カルロッタが……!)



脳裏に浮かぶのは、あの写真。
優しく微笑むカルロッタの顔が、まるで「大丈夫」と囁くかのように見えた。

アバルトは奥歯を噛みしめた。

(クソッ……こんな方法しか、守る手段がないのかよ……)

調整が終わり、アバルトは深く息を吐いた。
手にしたスマホの画面が、うっすらと汗ばんだ指に反応する。

LINEを開き、既読のついていないメッセージをしばらく見つめたのち、新たに打ち込む。

[ごめん、研究が結構長引いちゃって。多分、しばらく会えないかも]

数秒後、既読のマークがつき、ほどなく返信が届く。

[そっかぁ…わかった! 卒業まであともうちょっとだもんね!
でも無理だけはしないでよ!!]

彼女は何も知らない。ただ信じて、応援してくれている。

(……本当に、ごめん、カルロッタ)

画面を伏せ、スマホをポケットにしまう。

視線の先には、薄く白煙の上がる試薬のフラスコ。
その横には、あの“組織”から届けられた装置が、無機質な光を点滅させていた。

(どうか……誰も死なないでくれ。俺の調整が……無駄じゃありませんように)

祈るように目を閉じたその時、スマホが再び震える。

通知画面に、彼女の名前が光る。

そして、更にLINEの通知が来る。

[あ、そうだ。deltaruneのルールノーのマネ、落ち着いたらまた見せてね!
うっ       そーーーーーーーーーーーーーーん ってやつ!]

アバルトは、数秒だけ息を止めた。
肩が震えそうになるのを、奥歯を噛みしめて堪える。

(……ほんと、君は……)

目頭が熱くなりそうなのを、指先で乱暴にこすった。

(そんなLINE、今送ってくんなよ……)

けれど、そんな彼女の“いつも通り”が、
彼にとっては何より残酷で、何より救いでもあった。

――――――――――――――――――

そして当日。

市街地の人気がない一角に、
アバルトは慎重に調整された化学薬品のケースを手に、静かに現れた。

平日の昼過ぎ。
周囲の建物は営業しているが、この一帯は少し奥まっており、人通りもまばらだった。
塗装の剥がれかけたガードレール、うっすらと錆びた自販機、破れたポスターが風に舞う。
どこか、寂れた空気が漂っている。

アバルトは立ち止まり、深く息を吸った。
ケースの中では、わずかな衝撃にも反応する化学物質が、密閉状態で静かに眠っている。
それは“殺傷”ではなく、“警告”のための薬品——あくまでそう、自分に言い聞かせていた。

(……本当に、これでいいのか)

再び、脳裏にカルロッタの笑顔が浮かぶ。
ルールノーのモノマネを楽しそうに話していた、あの無邪気な表情。

(彼女のために……誰も死なせないために……)

アバルトは決意とともに、ケースをゆっくりと地面に置いた。
数分後にこの場を通る予定の“巡回車”が、自動で信号を送って装置を作動させる——そういう段取りだった。

だが、この予定は大きく異なっていた。

ドォォォォン!!!!

「!? なんだ!?」

爆音と同時に、辺りの空気が一変した。
どこか離れたビルの一角が、爆炎を上げて燃えている。

「ッ……!!」

アバルトは咄嗟に地面に伏せ、爆風とともに舞い上がる砂埃の中で、激しく咳き込んだ。
ケースは、まだ彼の手元にある。開いてすらいない。

(……違う。これは、僕じゃない……!)

爆発現場の方角から、警報が鳴り響き、パニックに陥った市民の叫び声が次々に重なる。
誰かがスマホで撮影を始め、別の誰かが通報をしていた。

(誰だ!? 誰がやったんだ!?)
アバルトはケースを両手で抱えたまま、炎と黒煙の立ち昇る方角へ走り出す。
焦燥が胸を締めつける。

(あの薬品は……まだ僕の手元にある。だからあの爆発は……僕じゃない)
(でも、じゃあ……誰が……!)

現場は既に騒然としていた。
破壊されたビルの壁面、飛び散ったガラスの破片、逃げ惑う人々の中には、腕に火傷を負って倒れている者もいる。

「危ないです!! こっちに来ないで!!」

「い、一体誰がこんなことをやったんですか!?」

「わかりません! 新手のテロかと……!」

市街地の片隅に黒煙が立ち昇り、人々の悲鳴が木霊する。
アバルトは目を見開いたまま、手にしたケースを強く抱きしめる。

(違う……これは、僕のじゃない……!)

だが周囲の視線が集まっている。
何人かがスマホを向け、「あの人、なんか持ってない?」と囁き合っていた。

(まずい、疑われる……!)

アバルトはすかさず装いを変える。
ケースを持ったまま、爆発の起きた方向とは逆へと足を進めながら、言葉を放つ。

「僕、化学系の学生なんです! あの……もし負傷者が出てたら応急処置できます!」

「えっ……?」
近くの警備員が一瞬ひるむ。

「薬品じゃないです! 応急処置の資材です! こっちには何もないですから!」
すばやくケースの蓋を少し開け、中身が“注射器や包帯っぽい物”に見えるようカバーして見せた。

(見られる前提で偽装しておいて正解だった……!)

「……ああ、じゃああちらの避難誘導の方へ! 負傷者がいたら、お願いします!」

「はい! 気をつけてください!」

そう言って足早にその場を後にするアバルト。
内心では冷や汗を流しながらも、外面は平静を保ったまま。

(間違いない。あの爆発……誰かが、僕より先に“仕掛けた”)

(……つまり、あのじいさん——僕を利用したな!?)

ケースの中の薬品は未使用のまま。
だが、“誰かが爆破した”という事実だけが、街中に爪痕を残していた。

応急処置の準備をするフリをして、ケースの蓋に手をかけていたアバルト。
だが、ふと顔を上げた瞬間——その動きは止まった。

「………あ、あれ……!?」

視線の先。
爆心地から運び出されてくる担架の上に、血塗れで横たわる女性の姿。

髪が焦げ、肌は煤で覆われ、足元からは無残な断裂が覗いていた。
まるで、命がそこにないかのような——“物体”としての静けさだった。

「う……そだろ……なんで……なんで……!?」

足が勝手に動く。
混乱の中、無意識に救急隊員へと駆け寄っていた。

「ちょ、ちょっと君!? どうしたんだ!?」

「それ……その人……なんで……!!」

隊員が一瞬だけ表情を曇らせた。

「君、知り合いなのか? でもこの人は今、危険な状態だ。すまないが……退いてくれ!」

「僕が……あの時……加担なんかしたから……!?
違う……違うだろ……!?
でも、でも……!!」

言葉が喉で詰まる。
声は震え、両手はケースを握ったまま青ざめていた。

担架が車内へと収容される、その直前。

——その女性の顔が、わずかに見えた。

「…………ッ! ベネディッタ……!!」



かつて同じ音楽室でカルロッタと共に笑い合った、チェロを奏でていたあの姿。
その面影が、血と煤の中に、たしかに存在していた。

(僕が、彼女を巻き込んだ……?)

——違う、そんなつもりじゃなかった。

だが現実には、“誰かの命”が代償として横たわっている。

その場で膝をつきそうになりながら、アバルトは崩れ落ちそうな身体を、どうにか立たせた。

「僕は……一体、何をしたんだ……」
呆然と呟いたその言葉は、風に流されるように宙へと消えていった。

カルロッタは——守れた。
少なくとも、あの老人の魔の手からは救い出したつもりだった。

だが、その代償はあまりに大きすぎた。

ベネディッタ。
かつて同じ部室で音を奏で、冗談を言い合い、音楽祭での失敗を一緒に笑い飛ばした、あのベネディッタが。

今、担架の上で、手足を失い、目を閉じたまま血に染まっていた。

「違う……違う、そうじゃない……っ」

彼女に何の罪がある?
誰かを守るために、誰かが傷つかなければならないなんて、そんなのおかしい。

(僕が選んだのか……?
カルロッタを救う代わりに、ベネディッタを地獄に落とす未来を)

答えはない。
けれど、現実だけは目の前に横たわっていた。

——守ったはずの命が、誰かの未来を奪っていた。

アバルトは、震える手でまだ熱の残るケースを見下ろす。

その中には、"使われなかったはずの薬品"が、静かに眠っていた。

――――――――――――――――――

スマホの画面には、明るい絵文字つきのやりとりが並んでいた。
一つ一つのメッセージが、まるで何事もなかったかのように――穏やかで、優しくて。

[ねえアバルト]

[どうしたの? カルロッタ]

[ライフなんとかさんのプレゼン、上手くできたの?]

[まぁ、なんとかね。 でも、ここからが忙しくなるかも]

[いつ会えそう?]

[どうだろう……卒業まで?]

[長いなぁ~。でも、正念場だもんね!]

[そうだね。頑張るよ]

[会えたらさ、またベネとご飯食べに行こうよ!
ベネも最近サークル来なくなっちゃって寂しいからさ!]

[うん、楽しみにしてる]

アバルトの指が止まる。
画面の明かりが、静かに震える手元を照らしていた。

(……ごめんよ、カルロッタ)
(ベネディッタ……君が来なくなった理由を、誰よりも知ってるのは……俺なんだ)

彼は目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶのは、担架の上で血に染まったベネディッタの姿だった。

(こんな、ダメな2個上で……本当に、ごめん)

彼の胸に、今も焼けつくように残っている。
あの爆音。あの叫び声。あの光景。

返信を打とうとして、やめた。

画面は、そっと暗転した。
それはまるで、アバルトが自ら命を絶った、その瞬間を、静かになぞるように。



表には出なかった真実。

彼は誰にも殺されなかった。
ただ、自分の罪が、自分を殺したのだ。
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