DYING MEMORY

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エピソード16:静かに狂う正義 -ヘルベルト-

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車が停まったのは、舗装の途切れた林道の終端だった。
周囲は濃霧に包まれ、木々のざわめきさえ聞こえない。まるで、この先が“存在していない”かのような静寂。

「……着いたぞ。ここがGPSの最後のポイントだ」

そう呟いてハンドルを離したヘルベルトは、運転席からゆっくりと降りる。
ミーナも黙ってドアを開け、冷気の中へと身を晒した。

彼女の背には鉄パイプ。肩に積もった埃も、血の乾いた痕も、今では一種の“装備”に思えた。
それだけこの道が、生きて帰るつもりのない覚悟でできていることの証。

「……ここからは、徒歩で進むしかない。地図にも載ってない」

「なるほど……まさに“隠された場所”ってわけっすね」

ミーナが肩を竦めて言ったその声すら、霧の中に吸い込まれるように薄い。
先に立つヘルベルトは、ショットガンの安全装置を外し、リュックのベルトを締め直す。

「準備はいいか」

「ばっちりっすよ。行き先分かんないのには慣れてますから」

二人は、足元の湿った落ち葉を踏みしめながら、林の奥へと踏み込んだ。


30分後。
霧が薄れ始めた頃、前方の木々の間に“人工物”が姿を見せた。

それは、古びた金網の柵だった。
朽ちた警告看板が斜めにぶら下がり、辛うじて「関係者以外立入禁止」の文字が読める。
だが、その奥には──完全に人の気配を失った、無機質な建物がひっそりと口を開けていた。

「……地下だな。排気口の形状がそれを示してる」

ヘルベルトが指差したのは、半ば土に埋もれたハッチ型の鉄扉。
錆びついているが、鍵はかかっていない。

「いや、こんなん……どう見ても“入るな”って言ってるでしょ」
ミーナは額に汗を滲ませながらも、目を逸らさなかった。

「だが入る。“やられる前にやる”って言ったろ」

ヘルベルトは短くそう告げると、鉄扉の把手に手を掛け、全体重をかけて引き上げた。
──ギィィ……と、まるで何かの喉を引き裂くような音。

扉の下は、暗い穴だった。
そこから、古いカビと腐臭と、かすかな鉄の匂いが立ち上ってくる。

ヘルベルトが懐中電灯を点けて差し向けると、錆びついた鉄製の階段が地下へと続いていた。

「……行きますか。レッツ・アンダーワールドっす」

ミーナは乾いた声で呟き、鉄パイプを握り直す。

――――――――――――――――――

一段、また一段。
光を置き去りにして、二人は静かに、闇へと降りていった。

階段を十数段、降り切ったところで、ようやく足が地を踏んだ。

「……電源、生きてないな」

ヘルベルトが囁く。
頭上には電球のソケットが連なっていたが、どれも点いていない。
かろうじて頼りになるのは、彼の手元で灯るLEDライトの白い輪だけだった。

壁はコンクリート打ちっぱなし。
天井からはところどころ水滴が落ち、鈍く反響している。
足元には乾きかけた泥と、誰かが踏みしめたような靴跡。

「やっぱ地下って時点で、いいこと起きなさそう感すごいっすね……」

ミーナがぼそりと呟く。
けれど、声は小さく、それが妙に耳に刺さる。
この空間には、“静けさ以外の何もない”ことが異常すぎた。

「……妙だな」

「妙、って?」

「……こんな施設なら、本来はどこかに監視装置や警備兵がいるはずなんだ。
レーザーセンサー、カメラ、あるいは自動警告。だが……。
何も反応しない。扉も開いたまま、センサーも死んでる……」

ミーナも辺りを見回す。
確かに、電源が落ちているとはいえ、それにしても“無防備すぎる”。

(……誘われてる?)

そんな言葉が脳裏に浮かび、思わず息を呑む。

「これ、もしかしてさ……“入らせてる”ってことはないっすか?」

「……ああ、俺もそう思ってる」

ヘルベルトはショットガンを構え直す。
その動作すら、少し遅れて反響した。

廊下の奥に、ドアが見える。
凹凸のない銀色の金属製。
その中心には、生体認証のパネルがあった。……が、電源は入っていない。

「こいつも……死んでるな」

「けど、ドアは……」

ミーナが手を伸ばす前に、
ヘルベルトが慎重にレバーに触れる。

──カチ。

音を立てて、ドアはあっけなく開いた。

二人は一瞬だけ顔を見合わせた。
明らかにおかしい。
何かが“崩壊した後”の施設ですら、ここまで無警戒ではない。

「……中を確認する」

ヘルベルトが先に足を踏み入れる。

中は広いモニタールームだった。
本来なら十数枚のディスプレイが並び、各フロアの映像を映していたはずの部屋。
だがその全てが、“電源こそ入っているのに、何も映していない”。

ミーナが一枚のスクリーンに近づく。
うっすらと映っているのは、ノイズ。
それも、単なる信号障害ではない。

「これ……」

画面には、何かを“見せないように”加工されたような歪みがある。
映像がチラつき、
ほんの一瞬、誰かの横顔のような影が映った──そして、またノイズ。

「今の……!」

ミーナが振り返るが、ヘルベルトも何も見ていなかったようだ。

「記録を巻き戻してみる」

ヘルベルトの指が、冷たい端末を操作する。
ノイズ混じりの映像ファイルがひとつずつ並ぶ中、ひときわ奇妙なタイムスタンプが浮かび上がった。
“AM 3:06:66”──存在しない時間。

「おい……これ、壊れてないか?」
「……分かんないっすけど、再生だけ、してみてください」

ヘルベルトがクリックした瞬間、
スクリーンに映ったのは、薄暗い廊下の映像だった。

その中央に、歩いてくる人影。
それはルーシェと思しき人物だった。

「……っ!」

ミーナが息を呑んだ。

「……ルーシェ!?」



画面の中のルーシェは、ゆっくりと歩いていた。
表情は、笑っているようにも、無表情にも見える。
ただ一点、決定的な違和感――
彼女の目が、赤く光っていた。

人間の目ではない。
光源を反射しているのではない。
まるで、“内側から発光している”ような、不自然な紅の輝き。

「……あれが……本当に、ルーシェか……?」

ヘルベルトも、声を潜めて言った。

だがそれだけではなかった。
映像が続く。

画面の中、黒ローブの少女はゆっくりと部屋の外へ出て行った。
その歩みは鈍く、不安定で、何かを探すように壁際を見回している。

だが、その仕草に、ミーナは明確な違和感を覚えた。

「……あれ……おかしいな……」

画面を凝視したまま、思わず小さく呟く。

「……どうした、ミーナ?」

ヘルベルトが視線を寄せるが、彼女は答えなかった。

いや、答えられなかった。

目を点にしたまま、唇が乾ききったように動かない。
そして――

「……うそ、だろ……。なんで……あの子が……?」



その声に、ヘルベルトが表情を動かす。

「……ちょっと待て。今“あの子”って……。
まさか、お前の言ってた“アリナ”って……」

ミーナはゆっくりと頷いた。
目は画面から離れず、その奥で揺れていた。

「……そうっす。
あれ……あれが“アリナ”です」

映像の中の少女は、確かに黒ローブを纏っていた。
ルーシェと呼ばれていたその少女――
だが、ミーナが知っている本物のアリナは、間違いなくそこにいた。

「……そういうことか……つまり……」

ヘルベルトの声が低く沈む。
ショットガンを下ろし、ゆっくりと視線を落とした。

「ルーシェの本当の名は、“アリナ”――」

部屋に、再び静寂が落ちる。

だがその静けさは、さっきまでの“機械が死んでいた”無の感触ではない。

何かが、確実に動き出した。

ミーナは額に手を当てて、ぐっと力を込めた。

「……何がどうなってんだよ……
だって、だって、アリナはただの普通の子だったんだよ……?」

「……その“普通”の中に、何かが隠されていた可能性もある。
俺は彼女にも言ったが、もしかしたら行方不明事件に関わっているかもしれない」

ヘルベルトの言葉には、どこか申し訳なさと、覚悟の混じった響きがあった。

「今の彼女が、本当に“自分の意志”でそこにいるのか。
それとも、“そうされた”のか……」

「わかんねぇよ……もう……」
ミーナの声は揺れていた。

「学校で一緒にバカな話して、笑って、
私のスマホで変顔して、くだらない動画撮ってたあの子が……
なんで……!!」

ミーナの声は、喉の奥でかすれていた。
叫ぶわけでもなく、泣くわけでもない。
ただ、“信じていたものが崩れる”ときの、あの呟きに似ていた。

ヘルベルトは目を細め、映像の残滓が消えた暗転のモニターを見つめた。

(……そういえば……)

頭の奥に、ふと過去の記録が蘇る。

──“黒ローブを着た女が、子供の手を引いて夜の住宅地を歩いていた”
──“目撃者が見たと言っていた、赤く光る目の女”
──どれも、曖昧なまま記録された、都市伝説レベルの報告書の山。

(……あの目撃者情報も、“黒ローブを羽織った女”だったな)

あの目。
先ほど映像で見た、アリナの、あの目。
“赤い光”を宿したまま、どこかへ向かっていったあの姿。

ヘルベルトの喉が、ごくりと鳴った。

「……なにがどうなってやがる……」

ヘルベルトの低い呟きは、床に吸い込まれるように消えていった。

モニターは沈黙し、部屋に残るのは、機械の微かな発熱音と、
息を殺すように立ち尽くす二人の影だけ。

そのとき、ミーナが口を開いた。

「……少なくとも、アリナはここにいるってことっすよね」

声には迷いがあった。けれど、目には確かな“焦点”が戻っていた。

ヘルベルトは、少しの間だけ沈黙し、やがて短く答えた。

「ああ……そうなるな」

それは、“ここにいる”という事実への肯定。
けれどそれは、必ずしも“無事である”という意味ではなかった。
いや、むしろその逆だった。

ミーナが一歩、前に踏み出す。

「だったら……行くしかねえじゃん」

「……そうだな」

短く返したヘルベルトの声には、これまでで最も静かな覚悟があった。
ふたりは迷いなく、モニタールームの扉を背にする。

扉が閉まったとき、世界の気配が変わった。
まるで“施設そのものが目を覚ました”ように、空気の重さが増した。

モニタールームを出た先の廊下は、異様な静けさに満ちていた。
無音。無臭。
ただひとつだけ、確かなのは――ここを誰かが歩いた痕跡。

床にわずかに続く湿った足跡。
金属の匂いが混ざった空気。
そして、壁に貼られたロゴ。

ひび割れたタイルの合間に、それは浮かび上がっていた。

「……ライフベージ……?」

ミーナが呟いた声が、反響し、そして消える。

無意識に寒気が走る。
血管をなぞるような、冷たい感触。
それは“名前”が持つ呪いのようなもので、読み上げただけで背中を撫でられるような錯覚を覚えた。

「……なるほど、こいつらが全ての元凶ってわけだ」

ヘルベルトが立ち止まり、鋭くロゴを見据える。

その瞬間、脳裏に浮かんだのは、今まで集めてきた点と点。
何十枚にも及ぶ報告書。
仲間の死体。
燃え落ちた病院。
泣き叫ぶ保護者たちと、手を引かれていく行方不明者。

「……グローズド総合病院の炎上。搬送されていた患者たちの消失。襲撃されたルード高校。
そして行方不明者が続出した区画……」

拳が自然と固く握られる。

「全部、ここに繋がってやがる」

言葉は怒りというよりも、呪詛に近かった。
これまで起きた“意味不明な現象”の全てが、
ただひとつの名前へと収束していく。

──その瞬間だった。

──ウウウウウ……!

甲高い警報が、突如として空間を引き裂いた。

「……っ!?」

ミーナが振り返るよりも早く、
天井のランプが真紅に染まる。
無機質な合成音声が、廊下中に響き渡る。


【警告。侵入者確認。識別コード不一致。
本施設制御層より、排除プロトコルを起動します】


「……なんだ!?」

ヘルベルトの声に、即座に緊張が走る。
ショットガンが構えられ、ミーナも鉄パイプを握りしめた。

だが、それだけではなかった。

廊下の左右、奥の鉄扉。
ひとつ、またひとつと、電子錠が連鎖的に閉まっていく音が響き出す。

──ガチャン、ガチャン、ガチャン。

「閉じ込められる……!? おいッ!」

ミーナの焦燥に、ヘルベルトは低く応じる。

「……いや。違う」

「えっ?」

「今の放送……“識別コード不一致”。俺たちじゃない」

ミーナが目を見開く。

「……じゃあ……誰……?」

そのときだった。
廊下の奥、壁の内側――

──ギチ……ギチ……ギチ……

“何か”が、這いずるような音を立てている。

鉄と肉がこすれるような音。
空気の中に“異常な温度”が混ざり始めた。

ミーナが反射的に鉄パイプを構え、
ヘルベルトは呼吸を殺しながら、照準を廊下の奥へ向ける。

赤い非常灯の明滅の中で、
“それ”は音もなく現れた。

──最初に見えたのは足だった。

異様に細く、裸足で、くるぶしから先が地に擦れるように歩いている。
骨が浮き上がるような細身のシルエット。
しかし、その動きには一切の無駄がなく、まるで“舞うような静寂”があった。

続いて、布のようなものが揺れる音。
身体には黒ずんだ布が巻かれ、
しかし明らかに“人間の衣服”とは異なる構造。

狩猟民族の戦装束を思わせるそれは、
何度も血を吸い、乾き、ひび割れた革のような質感に変わっていた。



「女……?」

ミーナが震える声で呟く。

“それ”は、確かに女性のシルエットをしていた。
人間に近い、けれど“異様に細すぎる”身体。
そしてその両腕――

一本の弓と、鋭く歪んだ矢を握っていた。

矢の先は骨でできており、矢筒は存在しない。
代わりに、その背中から“突き出ている肋骨”が、折られ、削られ、
その場で引き抜かれるたびに、新たな矢として再生される構造になっていた。

「……何なんだよ、あれ……」
ミーナの呟きが、空気の震えにかき消された刹那。

“それ”は確かに、ふたりを見ていた。

だが、ただ見ているのではなかった。
目の奥に宿るのは、人の情ではない。
それでも確かに、“何かの判断”をしている目だった。

そして、
その口が――音を発した。

女の声。
けれどそれはどこか機械のノイズに濁っていた。
喉から搾り出すようなその発声は、あまりにも異様で不気味だった。

≪アルジ メイレイ ヨリ ハイジョ シマス≫

「……ッ!?」

ヘルベルトの眼が鋭くなる。
だが、その判断よりも早く、矢は引かれていた。

「うっ――!?」

“ピシィィンッ!”

乾いた衝撃音。
空気を裂く軌道。
矢は、ヘルベルトの右肩に突き刺さった。

「ぐっ……く……そッ!」

彼は即座に後退し、壁に背をつけてうずくまる。
ミーナが叫ぶ。

「ちょっ、ヘルベルトさんッ!?」

矢はただの骨ではなかった。
先端には“黒く光る粘液”が纏わりついていた。
それが肩口に食い込むと同時に、神経に直接作用するような痛みが広がっていく。

「麻痺毒……!?」

ヘルベルトは歯を食いしばりながら、震える手で矢を抜こうとする。
だが、血管に混じって黒い筋が広がり始めていた。

ミーナは即座に鉄パイプを構えた。

「てめえ……何が“命令”だよ……!」

ミーナが怒鳴ると同時に、狩人の腕が滑らかに引かれた。
骨の矢が再び闇を裂こうとしている。

その標的は、完全に――ミーナ。

「くそっ!!」

ヘルベルトが咄嗟に動いた。
片膝をつきながら、毒に侵された右肩をかばい、左手でショットガンの引き金を引く。

“ドンッ!!”

閃光と爆音が、通路を焼いた。

だが――狩人は動いた。

その動作は、獣のようでも、兵器のようでもなかった。



一歩、壁に向かって軽やかに跳ね、
もう一歩、天井に手をつき、
矢が放たれる寸前で空中をひるがえる。

まるで舞うように、
まるでそれが“何度も繰り返された動き”のように。

ヘルベルトの弾丸は空を切った。

「なっ……くそっ……!」

膝をついたままのヘルベルト。
毒の走る右肩がビリビリと痺れ、意識が薄れかけている。

「この野郎……!」

それでも、彼は構えた。
ショットガンの重みを、左手に預けながら。
銃身を支える右腕は震えていたが、標的はブレていなかった。

そのとき――
視界の隅を、何かが横切った。

“ガンッ”

鉄パイプ。
高速で投げられたそれが、狩人の顔面をかすめる。

狩人が一瞬だけ、視線をそちらに向ける。

「ミーナ!?」

「ほら、こっちだぞ弓女!!
私をやってみろよバーカ!!アーホ!!おたんこなーす!!」

真っ赤な非常灯の中、ミーナが跳ねるように前へ飛び出した。
叫びながら、足元の瓦礫を蹴って、姿をあえて見せる。

狩人の目が、再び動いた。

矢が再度つがえられ、
狩人の腕が、静かに、だが確実にミーナへと向けられていく。

「な……なにしてるんだ!? おい!!」

「囮っす!!
私がコイツひきつけるんで、その隙に撃っちゃってください!!」

「おい、なに言って……!」

ヘルベルトの喉が詰まる。
その声が震えるのは、毒のせいじゃない。
“この子は、命を投げて前に立つ”――その現実が胸を締めつけた。

「……ったく……バカはお前だ……!」

毒を抑え、腹筋に力を込めて銃を構える。

狩人はついに、矢を引き絞った。

“今だ――”

脇腹から噴き出す汗。
引き金にかかる指。

“照準、完了。”

「死ぬなよ……ミーナ!!」

“ドガァァン!!”

ヘルベルトの引き金から放たれた散弾が、
空気を裂き、異形の女の胸元をえぐった。

“ガクッ!”

その身体が、矢を放つ寸前でよろめく。
腕が脱力し、矢は床へと転がった。

「……ぁ――ッ……!」

女の口から、絞り出すような叫び声が漏れた。

人の言葉ではなかった。
ノイズ混じりの電子音でもなかった。

まるで、獣が傷ついたときのような、けれど人間の“痛み”を伴った悲鳴だった。

“バシャン”と音を立てて、狩人は床に崩れ落ちる。
鉄と骨がぶつかるような、重く乾いた音。

その背から――
撃ち込まれた散弾の穴から、鮮血が流れ出していた。

黒い血ではない。
毒の液でも、粘液でもない。

赤い、あまりにも人間らしい血。

ミーナは、その場に立ち尽くしていた。
鉄パイプを持つ手が、微かに震えている。

「……なんなんだよ……こいつ……」

呟いた声には、怒りも、恐怖も、そしてわずかな罪悪感が混ざっていた。

“異形の狩人”はもう動かない。
だが、その血と残された表情が、ミーナの足を止めさせていた。
――その瞬間。

「うぐっ……!!」

背後で苦しげなうめき声が響いた。

「ヘルベルトさん!?」

振り返ったミーナの視線の先で、
ヘルベルトが右肩を押さえて膝から崩れ落ちていた。
顔面は蒼白、唇が小刻みに震え、汗が額を伝っている。

「っ、大丈夫っすか!?
なんか……血清的なもんとか、応急セットとか……!」

「……くそっ……思ったより……強い毒だな……」

歯を食いしばり、ショットガンを杖代わりに体を支えようとするも――
右腕が、もう言うことを聞いていなかった。

「っ、こんな時に……!!」

ミーナはダイレンジャビス本部から持ってきたポーチを引きちぎるように開き、
応急用のガーゼと止血剤を手早く引き出す。
けれど――毒に対しては、焼け石に水だ。

「……っ、ちょっと我慢してください!!」

無理やり腕を引っ張って、袖を裂き、ガーゼを巻き始める。
ヘルベルトは顔を歪めつつ、かすかに笑った。

「……ったく……お前、案外看護師のセンスあるな……」

「うっせ!! 黙っててください!!」

ガーゼを強く巻いた指先が、かすかに震えていた。

「こんなもんじゃ……ダメだ……
毒の進行、止まらねえ……
まだ奥に進まなきゃならねえってのに……」

ヘルベルトの声が、かすれながら空気に溶ける。

その時だった。

“ウィィイイイ……ン……”

頭上のスピーカーから、くぐもった音が鳴った直後――
警報が、突如として止まった。

「……っ、音が……?」

直後、耳をつんざく金属の軋み。

“ギィ……ギイィイ……ッ”

彼らの前方、そして左右の廊下。
分厚い鉄扉が、順番に音を立てて開いていく。

一つ、また一つ――
まるで、目に見えない“案内人”が道を開いていくように。
「……開いた。あの警報……やっぱコイツのせいか」

ミーナが“異形の狩人”の死体を一瞥しながら呟く。
無言のまま転がるその姿が、どこかスイッチの役目でも果たしていたようだった。

ヘルベルトは肩を押さえながら、奥の開かれた扉を睨む。

「……とにかく、前に進まなくては」

その言葉に、ミーナの顔が一気に険しくなる。

「ダメっす! こんな状態で前行けるわけねえでしょ!?」

「……だが――」

「見ろって! あそこ、ほら!」

ミーナは手を伸ばし、廊下の右側にある、
開いた扉の奥――薄暗い、しかし設備が整っていそうな部屋を指差した。

「なんか部屋あるっぽいんで、そこで休みましょう!
休んで、毒をどうにかして、それからでも――」

「……ミーナ」

ヘルベルトが低い声で口を開く。

「この先に、ルーシェがいるかもしれない。
時間をロスすれば――」

「うっせ!!」

ミーナの怒声が、空気を裂いた。

「いいから休んでろっつってんだよ!!
バカじゃねえの!? 私の前で死ぬとか言ったらマジぶっ飛ばすからな!!」

言い終わったその顔は、涙を堪えていた。
怒っているようで、必死に“怖さ”を抑え込んでいた。

ヘルベルトはその顔を見て、わずかに目を伏せた。

「……悪い。少し……横になる」

「最初からそうしろってんだよ……」

ミーナは小さく毒づきながら、
ヘルベルトの身体を支えて部屋へと入っていった。

その部屋には、簡素なベッドと、
かつて医療器具が置かれていたと思われる棚があった。

埃だらけの中で、ミーナは懸命に“まだ使えそうなもの”を探し始める。

「……絶対、助けるからな……」

彼女の声は、誰にも聞かれていないと思っていた。
けれど、ベッドに倒れ込んだヘルベルトの指先が、わずかに動いていた。

ミーナの背中が扉の向こうに消えた。
薬品棚を漁る音だけが、かすかに遠くから響く。

ベッドに横たわったまま、ヘルベルトは天井を見つめていた。
古びたコンクリの天井。クラックの走った照明。
そんなものすら、もう目に映らない。

(……すまん、ミーナ)

右肩が焼けるように痛む。
けれど、それでもショットガンを手放さなかった。

(俺は……休んでる暇なんてないんだ。
少ししたら……ここを出て、ルーシェを見つけなくては)

ベッドのマットが、静かに軋んだ。

ミーナが棚を漁っている音が、一瞬遠のく。

ヘルベルトはその隙を狙い、
ギリギリの体勢で立ち上がった。

口に、傷薬のチューブをくわえたまま、
片手で肩の包帯を巻き直し、ベルトに弾薬をねじ込む。

「……あいつには、あいつの信じ方がある。
だが……俺には、俺の守り方があるんだよ」

ミーナは棚をひっくり返し、錆びついたトレーを蹴り飛ばしていた。

「使えそうなもんなんて……あ、これ……!」

埃を払いながら見つけたのは、
使用期限の記載が消えかけた透明なアンプル。

(“抗毒血清”…!? マジで!?)

慎重にガーゼで包み、もう一度部屋の奥を見渡す。
他にも簡易な医療器具がいくつか残されていた。
だが、今はこれ以上漁っている暇はない。

(よし……これを持って……!)

ミーナは小さく息を吐いて、部屋のドアを勢いよく開けた。

「ヘルベルトさん、ちょっと痛いかもですけど――って……」

言葉が止まる。

部屋のベッドに――
ヘルベルトの姿は、なかった。

「……は?」

呆けたように足を踏み入れ、辺りを見回す。
シーツは乱れたまま、温もりもまだ残っている。

「うそ……だろ……」

手に持っていたアンプルが、かすかに震える。

廊下へ駆け出す。
だが、誰もいない。どこにも。

鉄扉の奥――
開け放たれた“彼の進んだ道”が、ただ静かに闇へと続いているだけだった。

「なんで、なんで勝手に……!」

怒りにも似た叫びが喉まで込み上げる。

「っっっくそ!! なんなんだよ、あのオッサンはよ……!」

ミーナはもう一度、病室の中を見渡した。
どこにもいない。ベッドも、物陰も。

「……いねぇ……」

肩に下げた救急バッグが、床に落ちた。
手に入れた血清も、その意味を失って、無様に転がる。

(なんで……)

怒りが、静かに胸の奥から這い上がってくる。

(なんで……私が背中向けた一瞬で、
私が探しに行った一瞬で――
勝手にいなくなってんだよ……!!)

「……ふざけんなよ……」

拳が震える。

「てめえ、何様だよ……!!」



叫びはやがて、絞り出すような呟きに変わっていく。

「どんだけだよ……
どんだけ“正義感”に取り憑かれてんだよ、あんたは……」

彼女の中に、ずっとあった“頼もしさ”の像が、
いま、ガラガラと崩れていく。

「勝手に行って、勝手に撃って、
勝手に終わらせようとしてんじゃねえよ……!!」

怒りと、悔しさと、どこにもぶつけられない思いが、
混ざって、喉を詰まらせた。

ミーナは肩で息をしながら、ふらついた足で扉を蹴り開けた。

「……あんたが正義に飲まれるなら……
私は、絶対、誰にも飲まれねえで、あの子を連れ戻す」

ドクン、と胸が脈打つ。

“戦う理由”が、変わった。

それは、誰かの命令じゃない。
誰かの正義でもない。
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BL
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