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SCENE 03:矛盾の取り調べ
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取調室は冷たい蛍光灯の光が一点だけ落ち、
テーブルの上で影が鋭く二人を切り分けていた。
白い壁。
無機質な鉄製のイス。
換気口の低い唸り。
そして、まるで何事もないようにテーブルへそれをスッと滑らせる。
「……さて、事情聴取の前に。お腹空いたでしょう。これ、食べる?」
ルナは呆然と視線を落とす。
「……あの、これは?」
「ん? ローストビーフ丼よ。栄養満点で美味しいわよ」
ルナは、一度瞼を閉じて吸った息をゆっくり吐き出した。
「……普通こういうのってカツ丼が出るもんじゃないんですか?」
イリスは眉を寄せるどころか、逆に楽しげに目を細めた。
「いや、カツ丼が出るのは“ド定番”だから。
ちょっと変化球でも付けないと面白くないでしょう?」
「いや面白さで食事選ぶのやめてもらっていいですか」
「第一、取調室のカツ丼なんてフィクションよ。実際の警察では食事の差し入れは原則禁止。
逮捕された被疑者が取調室で飯を食べるなんてできません。自白誘導になるから」
「いやその原理で行くとローストビーフ丼も自白誘導なんじゃ?」
「ローストビーフ丼は違う」
「は??? どこが???」
イリスは真剣な顔で指を一本立てる。
「良質なタンパク質を豊富に含み、ビタミンB群、鉄分、亜鉛などの栄養素も摂れる。
それに脂質もかなり少なく、ダイエットにも有効。
“健康面のための提供”だから、これはもう別枠よ」
「いやでも提供してる時点で自白誘導って――」
「いいえ、ローストビーフ丼はダイエット食だから自白誘導には当たりません」
「おめーはさっきから何の話してんだ」
気づけば素の口調が漏れた。
自分で言って、自分でハッとする。
場違いすぎるツッコミに、頬がうっすら熱くなった。
イリスは、くすっと喉の奥で笑った。
「今のは、少しでも緊張をほぐしたかっただけ。……ちゃんと“事情聴取の対象”として来てもらってるから、逮捕された被疑者の扱いとは違うの。
ローストビーフ丼は、私の夜食のついで。あなたが食べるかどうかは自由よ」
「……そういうものですか」
「ええ。もちろん、食べても食べなくても、話の内容が変わることはありません。だから安心して。――食べる?」
「……じゃあ、一口だけ」
箸を取る指先が、少し震えている。
緊張か、空腹か、それとも昨夜から続いている疲労か。
肉はやわらかかった。
噛むたびに、じわっと旨味が広がる。
胃が、今になって自分の空っぽさを主張してきた。
イリスはそれをしばらく黙って見ていたが、やがて表情から冗談の色をすっと消した。
「――さて。じゃあ、そろそろ本題に入りましょうか」
ルナは背筋を正し、椅子の硬さが身体に染みる。
心臓が静かに重く跳ねる。
イリスは資料の入った透明ファイルを広げ、
淡々と、しかし冷たすぎない声で問う。
「ルナ・オオクラさん。あなたが現場付近を単独で歩いていた理由を教えてください」
ルナは一度喉を鳴らし、小さく息を吸う。
「……連続殺人のことを、知りたくて……ニュースで見た情報が変で……。
それで、昨日の夜……変なものを見た気がして……確認したほうがいいと思って……」
イリスは瞬きもせず聞いていたが、
その瞳は嘘を見抜くための鋭さではなく、
“自分が予想していた答えを裏付ける”ような静けさで揺れる。
「やっぱりね。だろうと思ってたわ」
“だろうと思っていた”――その言葉が、
なぜかルナには妙に刺さる。
イリスは資料を指先で軽く叩いた。
「だから言ったでしょう。不審な人物、不審な連絡があったら“必ず”署に知らせろ、と。
勝手に動くのは大変危険です」
ルナは下を向く。
(……言われてた……)
イリスの声が少し低くなる。
「今回の事件、相当に凶悪よ。動機も分からない、犯人像も不明。
あなたが殺人の被害に遭わなかったのは――たまたま運が良かっただけ」
そう言われると、全身が冷える。
そして――
床に置かれた押収品の鉄パイプが目に入る。
だが、ルナは息を飲んだ。
(……黒い液体が……無い?)
視界にあるのは、
雨の跡のように、ただの“汚れた鉄”だけ。
昨夜あれほどパイプにべっとりついて、
アスファルトを焼くほどの反応を見せていたあの黒い液体が――どこにもない。
イリスも視線を落とし、首を傾げた。
「……鑑識の結果、暴力行為の痕跡は無し。衝撃や血液反応も出ない。
でも理由もなく金属パイプを所持していたということで、これは没収します」
淡々とした声。
職務の手順を読み上げるだけの口調。
だが、ルナの胸には別のものが走った。
(……おかしい……)
本来なら、押収品――特に“犯行に使われた可能性のある物”は鑑識が徹底的にチェックし、現物の状態を保ったまま保管するはず。
なのに。
あれほど異様な液体がついていた鉄パイプが、
“痕跡ゼロ”で、
“ただの鉄棒”みたいに扱われている。
(……何で消えてるの……? 私の記憶がおかしい……?)
思考に冷たい霧がかかったようにまとわりつく。
イリスは資料に目を落としたまま、
ルナの沈黙を「受け入れた」と判断したように次へ進もうとするが――
(……違う……おかしい……。
これは……おかしい……)
ルナの胸の奥で、
あの夜の湿った音と、焦げる黒煙の記憶が、
まるで“現実だ”と主張するように蘇っていた。
イリスは鉄パイプの次の押収品――ルナのスマートフォンを手元へ引き寄せた。
黒い画面が蛍光灯の光を鈍く反射する。
「……あなたのスマホも少し見せてもらったけど、これって最近購入したもの?」
唐突に投げられた質問に、ルナは瞬きをする。
「え? ……いえ、4年前になります」
イリスは軽く首を傾げた。
その目の奥で、一つの違和感が形になっていく。
「4年前? その割には――
一番古いデータが“半年前”になっているけど?」
ルナの喉がひくりと震える。
「…………」
沈黙。
その沈黙が、逆に言葉より多くを語ってしまう。
イリスは眉を寄せず、声色も変えず、
しかし“核心へ踏み込む温度”だけが静かに上がった。
「……何か消した?」
「……いえ、特には……」
「ん? じゃあ――」
イリスはスマホを軽く指で叩く。
冷たいタップ音が取調室に響いた。
「4年前に購入したが、その後の3年半は“何もデータを残してない”ってことになりますけど?」
逃げ場のない、静かな追及。
ルナの肩がわずかに震えた。
「……買った時から使ってはいました。……多分」
「“多分”?」
イリスの目は完全にルナへ向き直った。
その目は、嘘を見抜くための鋭さではなく――
“心配”に近い色を含んでいた。
(……着信履歴も、写真データも全部“半年前”が最古。アプリも最低限。
普通、この年頃の子なら――旅行の写真、友達とのトーク、ゲームアプリ……何かしら“生活の痕跡”が残るはず)
イリスの胸中に、静かに疑問が積み重なる。
(……過去になにかあった?
記録を“全部”消すようなことが――もしくは、消されるようなことが?)
しかし、その中にただひとつだけ“浮いている”データがあった。
ビデオファイル。
撮影日時:数十分前。
動画時間:2分03秒。
まさに今夜――
ルナが路地裏で異形と対峙した、あの時間帯そのもの。
イリスの指が、画面の上で止まった。
「……これ」
低い声だった。
取調室の空気がひと段階、冷たく変わる。
ルナは小さく肩を跳ねさせる。
イリスは画面から目を離さず尋ねた。
「この動画……さっき撮影されたものですよね?
場所も……現場の路地に見える」
ルナは喉が詰まりそうになるのを感じた。
「…………はい」
イリスはさらに一枚、事務的な顔を貼りつける。
だがその瞳の奥には、
“ただの現場検証では終わらない”という予感がはっきり滲んでいた。
「動画時間、二分ほど。
……これは“何を”撮ったもの?」
重く、ゆっくりとした問いだった。
ルナの心臓が内側から拳で殴られているみたいに跳ねる。
(……どう言う? 化け物なんて言ったら……絶対、信じてもらえない。
でも……証拠は、この中に……!)
ルナは、震える息を吸い込んだ。
「……確認、したかったんです。昨日……見たものが、本当だったのか……幻覚じゃなくて……」
イリスの眉が一瞬だけ動く。
「“昨日見たもの”……?」
「はい……あの路地で……何かが……」
“いた”と言いたいけれど、
その一言が喉の奥に引っかかる。
自分ですら信じられないのに、他人に言っていいのか――そんな迷い。
「――内容を確認しても?」
柔らかいが逃げ場はない。
けれど不思議と、恐怖より“覚悟”へ近い響きだった。
ルナはゆっくりとうなずく。
その動作だけで、胸の奥の空気がざわりと揺れた。
イリスは親指を画面の上に置く。
再生ボタンの三角形が、蛍光灯の白に鈍く光った。
一瞬だけ、イリスは息を整えた。
それは警察官としての“判断”ではなく――
未知を目の前に置く者がする、ごく静かな準備だった。
そして。
タップ。
動画が始まる。
画面いっぱいに、冷たい路地裏の闇。
コンクリートの濡れた質感。
風のわずかなノイズ。
その奥で――
何かが、黒い穴の中から這い出てくる。
イリスの指が、わずかに強張った。
表情は変えていない。
だが、瞳の奥が一瞬だけ揺れた。
濁った白の目。
裂けた口。
粘つく音。
金属と骨がぶつかる鈍い音。
ルナは横で息を殺し、
イリスは一言も発さないまま――
最後まで、プロの警察官の目で見続けた。
動画が終わる。
取調室は、音を飲み込んだように静かだった。
空気が沈む。
誰も動かない。
イリスの目線だけが、ゆっくりとスマホから離れていった。
その視線の先には、
椅子に固まったままのルナ。
そして、
その胸の奥に残るのは――
“今見たものを言葉にしていいのか分からない恐怖”だけ。
イリスは深く、静かに息をついた。
そして、押し殺した低い声で。
「…………これは何?」
言葉ではなく、刃のような“問い”だった。
責めるでもなく、怒るでもなく、
ただ“理解しなければならない”という義務だけが滲む。
ルナは喉の奥がひゅっと縮まるのを感じた。
(……これに……なんて答えれば……?)
イリスの視線は逃さない。
しかし、疑っている色ではなかった。
“事実の説明を求める警部の眼”
それだけが真正面から突き刺さる。
ルナは震えた声で、ようやく絞り出す。
「……わかりません。昨日……見たものと……同じで。
……本当に……“何なのか”は……」
その続きが、言葉にならない。
喉がぎゅっと縛られたみたいに動かない。
イリスはその沈黙を遮らず、
ただ短く息を吐いた。
「映っているものが何か……。
私の目には、少なくとも“生物”として理解できる形じゃない」
「………………」
「加工された動画にも見えない。動きも、影も、液体の反応も自然。
人が装備して真似できるものじゃない」
冷静な総括――
だが、その直後の一言だけが重かった。
「……理屈で説明できない」
イリスの声は低く、
これまでで一番“静かに恐れている”色があった。
ルナは顔を伏せるしかなかった。
(……やっぱり……私がおかしいんじゃない……。
“あれ”が……本当に……)
イリスは机上のスマホへ視線を落とす。
ルナの胸の奥がきゅっと熱く痛む。
イリスは続ける。
「敢えてもう一度聞くよ。もう一度だけ」
呼吸が止まる。
「これは……何だと思ってるの?」
ルナは唇を噛んだ。
答えたくないわけじゃない。
ただ――言葉にすると、自分の認識が“後戻りできなくなる”気がした。
「……やっぱり人間、じゃ……ないです」
震えながらも、その一行だけははっきりしていた。
イリスは目を閉じず、静かに聞き続ける。
「昨日……あの路地で……襲われた時の……あの“白い目”……。
今日の動画に映ってるのと……同じでした。
……皮膚とか……口とか……“形”が、人の形じゃ……ない……」
自分で言っていても、吐き気がする。
脳裏に、あの裂けた顎が白くまた浮かんだ。
ルナは胸元を押さえて、声が震えないように必死で抑える。
「……だから……確かめたかったんです。
昨日のが……幻覚じゃなかったかどうか……頭がおかしくなったわけじゃないか……」
イリスは一度だけ深く息を吸い、
再びルナに視線を向けた。
「……幻覚には、見えないね」
それは、軽い慰めではない。
“職務に基づく分析”だった。
「やはり影の落ち方、液体の散乱、音の反響。複数の要素が一致してる。
CG加工の痕跡も見たところ無し。
……ルナさんが“これを作れる”とは思えない」
イリスは首を横に振る。
「ただ……問題は“映っているのに痕跡がない”ということ」
ルナは息を呑む。
「映像にあった黒い液体も……消えてる……現場の血痕とも違う……。
鑑識の機材が反応しない液体なんて……聞いたことがない」
イリスは指を組んだまま、
声を落とした。
「……この存在そのものが、
“痕跡を残さない”と考えるべきなのかもしれない」
ルナの背筋に電流が走った。
(……痕跡を残さない“何か”……
そんなの……あり得る……?)
イリスはスマホを証拠ケースに収め、
しっかりとロックを閉じる。
「この映像は、署の分析班に回します。あなたの証言も正式に記録します。
虚偽の申告とは見なされない。
……むしろ、何か“重大なもの”が隠れている可能性が高い」
イリスの声は、今までで一番静かだった。
覚悟の音を含んだ静けさ。
「ルナさん。あなたは被疑者扱いではありません。
事情聴取はここまで。……もう、家に帰って大丈夫です」
ルナは小さく息を呑んだ。
「…………帰って……いいんですか?」
イリスはゆっくりうなずく。
「むしろ休んで。あなた、目の下のクマが酷い。
呼吸も浅い。……これ以上は保護の名目でも長く拘束できない」
そして、立ち上がったイリスは一言だけ付け加える。
「ただし――“何か”を見たら、
必ず私に連絡して。今度は勝手に動かないこと」
その言葉が、ルナの胸に深く沈んだ。
取調室を出ると、
外の空気は夜の冷えを含んでいたのに、
肺の奥が火傷しそうに熱い。
足元がふらつく。
(……帰ろう……
……もう……限界……)
警察署の自動ドアが開く。
灰色の街の空気が、まるで夢の世界みたいに揺れて見えた。
そのままルナは、
まるで倒れ込むようにアパートへ帰っていった。
――――――――――――――――――
ルナを見送り、ドアが静かに閉まると、
取調室の空気は一変した。
イリスは深く息を吐き、
スマホを証拠ケースごと持ち上げる。
(……これは、私ひとりで抱えるべき案件じゃない)
壁のスイッチにタッチする。
警察署の内部専用ネットワークへアクセスするための通路が開き、
研究棟のように無機質な廊下が伸びる。
イリスは歩きながら無線で短く告げた。
「――映像分析室をひとつ空けて。
例の“現場動画”の精査をする」
受信側が僅かにざわついた。
『ロックフォード警部が映像分析ですか? 珍しいですね……』
『内容はなんでしょうか?』
「……口頭では説明できないわ。 とにかく準備して」
短く切ると、
イリスは分析室の前へ到着した。
中は暗く、
中央の机には大型モニターが二台並んでいる。
白衣の技官が一人、
眼鏡を押し上げながらイリスに向き直った。
「ロックフォード警部、これが対象の端末ですか?」
「ええ。外部接続は遮断して。オフラインで解析するわ」
「了解。……再生します」
技官がスマホを解析用装置に接続し、
動画ファイルを取り込む。
画面が暗転し――
さっき取調室で見た、あの路地裏の映像がモニターに広がった。
だが今度は違う。
・専用の高精度フレーム解析ソフト
・音声分離フィルタ
・物体トラッキング
この3つが同時に走る。
イリスは腕を組み、
画面をじっと見つめる。
「……開始します。
まずはフレーム補間――」
画面が細かく分割され、
“黒い穴の中から這い出る何か”が
フレーム単位で拡大される。
背骨のようなものが波打ち、
皮膚が裂け、
黒い液が滴り落ちる様子が
“1秒を100倍の精度で”捉えられる。
技官の眉がわずかに動いた。
「……これ、着ぐるみじゃないですね。影の落ち方が完全に“立体物のそれ”です。
質量のあるものの影です」
「影だけじゃない。液体の反射も自然。
この黒いの、加熱反応も……」
技官は別画面を立ち上げた。
「温度解析します」
変換された映像に、色温度のヒートマップが重なる。
赤。
黄色。
そして――黒い液体部分だけが“不自然な青”。
「……これ、液体の温度が“周囲より低い”です。雨水でもなく、油脂でもない。
塩分反応も特異……」
「特異?」
「“物質分類に該当しない”という意味です。
……すみません、こんな結果、見たことがなくて」
イリスの胸の奥が、妙な冷たさで締め付けられた。
「音も分離してみます」
路地の環境音から、
“そいつ”が立てる湿った音だけを抽出する。
――ず……じゅる……
――ぐぅ……ッ……
――ズズッ……
生き物のものとして説明できない粘度を持つ音。
イリスの背筋に電流が走る。
「……加工じゃないわね」
「ええ。AI合成特有のノイズもない。……これは“本物の音”ですよ」
技官は椅子を回し、
イリスに向き直った。
「警部……これは、なんです?」
イリスは答えられなかった。
ついさっきルナに投げた問いを、
今度は自分がぶつけられている。
――これは何?
イリスの胸に、その言葉が降りてくる。
「……わからないわ。でも……“人間”ではない。
それだけは確かよ」
技官が唾を飲み込む。
「この案件……どう処理します?」
イリスはしばらく考え、
静かに告げた。
「……“特異案件”として扱う。
これまでの連続殺人事件としては扱えない。
上層部に報告する必要があるわ」
その声には、
恐怖ではなく“決意”があった。
――――――――――――――――――
イリスは専用USBを取り出し、
動画と解析データをすべて保全する。
端末のログを確認しながら呟く。
「……加工痕なし。改ざんなし。偽装なし。
これは“ルナ・オオクラが見た現実”そのもの」
「スマホ自体はどうします?」
イリスは迷いなく答えた。
「データはもう取込済みよ。解析班にも複製が渡ってる。
――だから、そのスマホはこの住所にすぐ返却して」
技官は一瞬まばたきをした。
「返却、ですか?」
「ええ。個人の端末を長期間預かる必要はないわ。
証拠として必要なのは“データそのもの”だけ。
端末そのものは、彼女の生活に影響が出る」
イリスはスマホの小さな傷、使い込まれたケースを一瞥し――
ほんの数ミリだけ目を細めた。
「……彼女にスマホがない状態で帰らせるわけにはいかない。
不安定になるだけ」
技官は納得したようにうなずき、
返却伝票のフォームを開く。
「了解しました。すぐに配達班へ回します」
イリスは肩の力をわずかに抜き、
USBに保存したデータを制服の内ポケットへしまった。
(……この映像は“こちら側”で持っておくべき。
彼女には……今はもう、何も背負わせられない)
そう思っても、
胸の奥がひどくざわつく。
黒い“何か”。
痕跡を残さない液体。
自然すぎる動き。
そして――動画の中の“ルナ”。
普通の人間なら、
あの距離で絶対に無事では済まない。
イリスは目を閉じ、
再び開いたときには、
完全に“警部”の顔になっていた。
「――他の解析も進めておいて。明日の朝には報告をまとめるわ」
「了解です、ロックフォード警部」
イリスは軽くうなずき、
証拠USBを握りしめた手を小さく強めた。
(これは……ただの連続殺人じゃない。
もう普通の事件の枠には収まらない)
蛍光灯の白が、イリスの瞳に冷たく反射した。
分析室の空気は、硬いガラスのようだった。
そこへ、技官が遠慮がちに口を開く。
「ところで警部……」
イリスは資料を閉じながら軽く振り返る。
「ん、どうしたの?」
技官は困った顔でタブレットを胸に抱えたまま、
言いにくそうに視線を逸らした。
「……取調室に置いてある冷め切ったローストビーフ丼……
どうするんですか?」
イリスの表情が、
“警部”から一瞬で“ただの人”になった。
「……………………あ」
「“あ” じゃねーよ。
さっき自分で持ってったやつでしょう!
責任取って食べてください!」
イリスは眉尻を下げ、
疲れた声で天井を仰いだ。
「………マジか。
じゃあ電子レンジで温めておいてくれる?」
「んなもん自分でやれ!!!!!!
そんなんだから32歳になっても彼氏が出来ないんですよ!!!!!」
分析室の空気が、
異形の映像よりも重い“社会的圧迫”で満たされた。
イリスのこめかみがピクッと跳ねる。
「…………はぁ???????」
次の瞬間。
「うるせー馬鹿!!!!!!
わ、私はおめーと違って仕事が忙しいだけだし!!! 署に呼び出し多いし!!!
夜勤あるし!!! タイミング合わねーだけだし!!!
そもそも恋愛とか後回しにしてるだけだし!!!
必要になったらすぐできるし!!!
べ、別にモテないわけじゃねえし!!!!!!!!」
怒涛の言い訳が機関銃のように発射される。
技官は腕を組んで、
冷静な社会人の顔で返す。
「はいはい、“忙しい人”の典型的な言い訳ですね。
電磁波よりも痛いです、警部」
「痛いとか言うな!!!!!!傷つくわ!!!!!!!
てかお前ほんっと失礼だな!!!!」
「ローストビーフ丼温めてって言われた時点で
社会人としての尊厳は失ってますよ」
「それは悪かったって!!!!!!」
分析室の外。
廊下を歩いていた後輩刑事が扉の前で足を止め、
そっと耳を寄せる。
「……ロックフォード警部、めっちゃキレてる……」
「いつも落ち着いてるのに珍しいな……」
「相手、あの白衣の技官だぞ。
あの人、警部にだけ容赦ないんだよな……」
「恋愛の話題は地雷なんだろうな……」
イリスの怒声がまた響く。
「恋愛は別に後回しでも構わねぇだろ!!!!!
誰かに迷惑かけてるわけじゃねぇし!!!!!!」
技官はド真顔で返す。
「ローストビーフ丼レンチンは個人的に迷惑です」
「そこは忘れろ!!!!!!!!!!」
ローストビーフ丼の容器がわずかに震えた。
まるで、この場でいちばんの“被害者”がそれだと言わんばかりに。
テーブルの上で影が鋭く二人を切り分けていた。
白い壁。
無機質な鉄製のイス。
換気口の低い唸り。
そして、まるで何事もないようにテーブルへそれをスッと滑らせる。
「……さて、事情聴取の前に。お腹空いたでしょう。これ、食べる?」
ルナは呆然と視線を落とす。
「……あの、これは?」
「ん? ローストビーフ丼よ。栄養満点で美味しいわよ」
ルナは、一度瞼を閉じて吸った息をゆっくり吐き出した。
「……普通こういうのってカツ丼が出るもんじゃないんですか?」
イリスは眉を寄せるどころか、逆に楽しげに目を細めた。
「いや、カツ丼が出るのは“ド定番”だから。
ちょっと変化球でも付けないと面白くないでしょう?」
「いや面白さで食事選ぶのやめてもらっていいですか」
「第一、取調室のカツ丼なんてフィクションよ。実際の警察では食事の差し入れは原則禁止。
逮捕された被疑者が取調室で飯を食べるなんてできません。自白誘導になるから」
「いやその原理で行くとローストビーフ丼も自白誘導なんじゃ?」
「ローストビーフ丼は違う」
「は??? どこが???」
イリスは真剣な顔で指を一本立てる。
「良質なタンパク質を豊富に含み、ビタミンB群、鉄分、亜鉛などの栄養素も摂れる。
それに脂質もかなり少なく、ダイエットにも有効。
“健康面のための提供”だから、これはもう別枠よ」
「いやでも提供してる時点で自白誘導って――」
「いいえ、ローストビーフ丼はダイエット食だから自白誘導には当たりません」
「おめーはさっきから何の話してんだ」
気づけば素の口調が漏れた。
自分で言って、自分でハッとする。
場違いすぎるツッコミに、頬がうっすら熱くなった。
イリスは、くすっと喉の奥で笑った。
「今のは、少しでも緊張をほぐしたかっただけ。……ちゃんと“事情聴取の対象”として来てもらってるから、逮捕された被疑者の扱いとは違うの。
ローストビーフ丼は、私の夜食のついで。あなたが食べるかどうかは自由よ」
「……そういうものですか」
「ええ。もちろん、食べても食べなくても、話の内容が変わることはありません。だから安心して。――食べる?」
「……じゃあ、一口だけ」
箸を取る指先が、少し震えている。
緊張か、空腹か、それとも昨夜から続いている疲労か。
肉はやわらかかった。
噛むたびに、じわっと旨味が広がる。
胃が、今になって自分の空っぽさを主張してきた。
イリスはそれをしばらく黙って見ていたが、やがて表情から冗談の色をすっと消した。
「――さて。じゃあ、そろそろ本題に入りましょうか」
ルナは背筋を正し、椅子の硬さが身体に染みる。
心臓が静かに重く跳ねる。
イリスは資料の入った透明ファイルを広げ、
淡々と、しかし冷たすぎない声で問う。
「ルナ・オオクラさん。あなたが現場付近を単独で歩いていた理由を教えてください」
ルナは一度喉を鳴らし、小さく息を吸う。
「……連続殺人のことを、知りたくて……ニュースで見た情報が変で……。
それで、昨日の夜……変なものを見た気がして……確認したほうがいいと思って……」
イリスは瞬きもせず聞いていたが、
その瞳は嘘を見抜くための鋭さではなく、
“自分が予想していた答えを裏付ける”ような静けさで揺れる。
「やっぱりね。だろうと思ってたわ」
“だろうと思っていた”――その言葉が、
なぜかルナには妙に刺さる。
イリスは資料を指先で軽く叩いた。
「だから言ったでしょう。不審な人物、不審な連絡があったら“必ず”署に知らせろ、と。
勝手に動くのは大変危険です」
ルナは下を向く。
(……言われてた……)
イリスの声が少し低くなる。
「今回の事件、相当に凶悪よ。動機も分からない、犯人像も不明。
あなたが殺人の被害に遭わなかったのは――たまたま運が良かっただけ」
そう言われると、全身が冷える。
そして――
床に置かれた押収品の鉄パイプが目に入る。
だが、ルナは息を飲んだ。
(……黒い液体が……無い?)
視界にあるのは、
雨の跡のように、ただの“汚れた鉄”だけ。
昨夜あれほどパイプにべっとりついて、
アスファルトを焼くほどの反応を見せていたあの黒い液体が――どこにもない。
イリスも視線を落とし、首を傾げた。
「……鑑識の結果、暴力行為の痕跡は無し。衝撃や血液反応も出ない。
でも理由もなく金属パイプを所持していたということで、これは没収します」
淡々とした声。
職務の手順を読み上げるだけの口調。
だが、ルナの胸には別のものが走った。
(……おかしい……)
本来なら、押収品――特に“犯行に使われた可能性のある物”は鑑識が徹底的にチェックし、現物の状態を保ったまま保管するはず。
なのに。
あれほど異様な液体がついていた鉄パイプが、
“痕跡ゼロ”で、
“ただの鉄棒”みたいに扱われている。
(……何で消えてるの……? 私の記憶がおかしい……?)
思考に冷たい霧がかかったようにまとわりつく。
イリスは資料に目を落としたまま、
ルナの沈黙を「受け入れた」と判断したように次へ進もうとするが――
(……違う……おかしい……。
これは……おかしい……)
ルナの胸の奥で、
あの夜の湿った音と、焦げる黒煙の記憶が、
まるで“現実だ”と主張するように蘇っていた。
イリスは鉄パイプの次の押収品――ルナのスマートフォンを手元へ引き寄せた。
黒い画面が蛍光灯の光を鈍く反射する。
「……あなたのスマホも少し見せてもらったけど、これって最近購入したもの?」
唐突に投げられた質問に、ルナは瞬きをする。
「え? ……いえ、4年前になります」
イリスは軽く首を傾げた。
その目の奥で、一つの違和感が形になっていく。
「4年前? その割には――
一番古いデータが“半年前”になっているけど?」
ルナの喉がひくりと震える。
「…………」
沈黙。
その沈黙が、逆に言葉より多くを語ってしまう。
イリスは眉を寄せず、声色も変えず、
しかし“核心へ踏み込む温度”だけが静かに上がった。
「……何か消した?」
「……いえ、特には……」
「ん? じゃあ――」
イリスはスマホを軽く指で叩く。
冷たいタップ音が取調室に響いた。
「4年前に購入したが、その後の3年半は“何もデータを残してない”ってことになりますけど?」
逃げ場のない、静かな追及。
ルナの肩がわずかに震えた。
「……買った時から使ってはいました。……多分」
「“多分”?」
イリスの目は完全にルナへ向き直った。
その目は、嘘を見抜くための鋭さではなく――
“心配”に近い色を含んでいた。
(……着信履歴も、写真データも全部“半年前”が最古。アプリも最低限。
普通、この年頃の子なら――旅行の写真、友達とのトーク、ゲームアプリ……何かしら“生活の痕跡”が残るはず)
イリスの胸中に、静かに疑問が積み重なる。
(……過去になにかあった?
記録を“全部”消すようなことが――もしくは、消されるようなことが?)
しかし、その中にただひとつだけ“浮いている”データがあった。
ビデオファイル。
撮影日時:数十分前。
動画時間:2分03秒。
まさに今夜――
ルナが路地裏で異形と対峙した、あの時間帯そのもの。
イリスの指が、画面の上で止まった。
「……これ」
低い声だった。
取調室の空気がひと段階、冷たく変わる。
ルナは小さく肩を跳ねさせる。
イリスは画面から目を離さず尋ねた。
「この動画……さっき撮影されたものですよね?
場所も……現場の路地に見える」
ルナは喉が詰まりそうになるのを感じた。
「…………はい」
イリスはさらに一枚、事務的な顔を貼りつける。
だがその瞳の奥には、
“ただの現場検証では終わらない”という予感がはっきり滲んでいた。
「動画時間、二分ほど。
……これは“何を”撮ったもの?」
重く、ゆっくりとした問いだった。
ルナの心臓が内側から拳で殴られているみたいに跳ねる。
(……どう言う? 化け物なんて言ったら……絶対、信じてもらえない。
でも……証拠は、この中に……!)
ルナは、震える息を吸い込んだ。
「……確認、したかったんです。昨日……見たものが、本当だったのか……幻覚じゃなくて……」
イリスの眉が一瞬だけ動く。
「“昨日見たもの”……?」
「はい……あの路地で……何かが……」
“いた”と言いたいけれど、
その一言が喉の奥に引っかかる。
自分ですら信じられないのに、他人に言っていいのか――そんな迷い。
「――内容を確認しても?」
柔らかいが逃げ場はない。
けれど不思議と、恐怖より“覚悟”へ近い響きだった。
ルナはゆっくりとうなずく。
その動作だけで、胸の奥の空気がざわりと揺れた。
イリスは親指を画面の上に置く。
再生ボタンの三角形が、蛍光灯の白に鈍く光った。
一瞬だけ、イリスは息を整えた。
それは警察官としての“判断”ではなく――
未知を目の前に置く者がする、ごく静かな準備だった。
そして。
タップ。
動画が始まる。
画面いっぱいに、冷たい路地裏の闇。
コンクリートの濡れた質感。
風のわずかなノイズ。
その奥で――
何かが、黒い穴の中から這い出てくる。
イリスの指が、わずかに強張った。
表情は変えていない。
だが、瞳の奥が一瞬だけ揺れた。
濁った白の目。
裂けた口。
粘つく音。
金属と骨がぶつかる鈍い音。
ルナは横で息を殺し、
イリスは一言も発さないまま――
最後まで、プロの警察官の目で見続けた。
動画が終わる。
取調室は、音を飲み込んだように静かだった。
空気が沈む。
誰も動かない。
イリスの目線だけが、ゆっくりとスマホから離れていった。
その視線の先には、
椅子に固まったままのルナ。
そして、
その胸の奥に残るのは――
“今見たものを言葉にしていいのか分からない恐怖”だけ。
イリスは深く、静かに息をついた。
そして、押し殺した低い声で。
「…………これは何?」
言葉ではなく、刃のような“問い”だった。
責めるでもなく、怒るでもなく、
ただ“理解しなければならない”という義務だけが滲む。
ルナは喉の奥がひゅっと縮まるのを感じた。
(……これに……なんて答えれば……?)
イリスの視線は逃さない。
しかし、疑っている色ではなかった。
“事実の説明を求める警部の眼”
それだけが真正面から突き刺さる。
ルナは震えた声で、ようやく絞り出す。
「……わかりません。昨日……見たものと……同じで。
……本当に……“何なのか”は……」
その続きが、言葉にならない。
喉がぎゅっと縛られたみたいに動かない。
イリスはその沈黙を遮らず、
ただ短く息を吐いた。
「映っているものが何か……。
私の目には、少なくとも“生物”として理解できる形じゃない」
「………………」
「加工された動画にも見えない。動きも、影も、液体の反応も自然。
人が装備して真似できるものじゃない」
冷静な総括――
だが、その直後の一言だけが重かった。
「……理屈で説明できない」
イリスの声は低く、
これまでで一番“静かに恐れている”色があった。
ルナは顔を伏せるしかなかった。
(……やっぱり……私がおかしいんじゃない……。
“あれ”が……本当に……)
イリスは机上のスマホへ視線を落とす。
ルナの胸の奥がきゅっと熱く痛む。
イリスは続ける。
「敢えてもう一度聞くよ。もう一度だけ」
呼吸が止まる。
「これは……何だと思ってるの?」
ルナは唇を噛んだ。
答えたくないわけじゃない。
ただ――言葉にすると、自分の認識が“後戻りできなくなる”気がした。
「……やっぱり人間、じゃ……ないです」
震えながらも、その一行だけははっきりしていた。
イリスは目を閉じず、静かに聞き続ける。
「昨日……あの路地で……襲われた時の……あの“白い目”……。
今日の動画に映ってるのと……同じでした。
……皮膚とか……口とか……“形”が、人の形じゃ……ない……」
自分で言っていても、吐き気がする。
脳裏に、あの裂けた顎が白くまた浮かんだ。
ルナは胸元を押さえて、声が震えないように必死で抑える。
「……だから……確かめたかったんです。
昨日のが……幻覚じゃなかったかどうか……頭がおかしくなったわけじゃないか……」
イリスは一度だけ深く息を吸い、
再びルナに視線を向けた。
「……幻覚には、見えないね」
それは、軽い慰めではない。
“職務に基づく分析”だった。
「やはり影の落ち方、液体の散乱、音の反響。複数の要素が一致してる。
CG加工の痕跡も見たところ無し。
……ルナさんが“これを作れる”とは思えない」
イリスは首を横に振る。
「ただ……問題は“映っているのに痕跡がない”ということ」
ルナは息を呑む。
「映像にあった黒い液体も……消えてる……現場の血痕とも違う……。
鑑識の機材が反応しない液体なんて……聞いたことがない」
イリスは指を組んだまま、
声を落とした。
「……この存在そのものが、
“痕跡を残さない”と考えるべきなのかもしれない」
ルナの背筋に電流が走った。
(……痕跡を残さない“何か”……
そんなの……あり得る……?)
イリスはスマホを証拠ケースに収め、
しっかりとロックを閉じる。
「この映像は、署の分析班に回します。あなたの証言も正式に記録します。
虚偽の申告とは見なされない。
……むしろ、何か“重大なもの”が隠れている可能性が高い」
イリスの声は、今までで一番静かだった。
覚悟の音を含んだ静けさ。
「ルナさん。あなたは被疑者扱いではありません。
事情聴取はここまで。……もう、家に帰って大丈夫です」
ルナは小さく息を呑んだ。
「…………帰って……いいんですか?」
イリスはゆっくりうなずく。
「むしろ休んで。あなた、目の下のクマが酷い。
呼吸も浅い。……これ以上は保護の名目でも長く拘束できない」
そして、立ち上がったイリスは一言だけ付け加える。
「ただし――“何か”を見たら、
必ず私に連絡して。今度は勝手に動かないこと」
その言葉が、ルナの胸に深く沈んだ。
取調室を出ると、
外の空気は夜の冷えを含んでいたのに、
肺の奥が火傷しそうに熱い。
足元がふらつく。
(……帰ろう……
……もう……限界……)
警察署の自動ドアが開く。
灰色の街の空気が、まるで夢の世界みたいに揺れて見えた。
そのままルナは、
まるで倒れ込むようにアパートへ帰っていった。
――――――――――――――――――
ルナを見送り、ドアが静かに閉まると、
取調室の空気は一変した。
イリスは深く息を吐き、
スマホを証拠ケースごと持ち上げる。
(……これは、私ひとりで抱えるべき案件じゃない)
壁のスイッチにタッチする。
警察署の内部専用ネットワークへアクセスするための通路が開き、
研究棟のように無機質な廊下が伸びる。
イリスは歩きながら無線で短く告げた。
「――映像分析室をひとつ空けて。
例の“現場動画”の精査をする」
受信側が僅かにざわついた。
『ロックフォード警部が映像分析ですか? 珍しいですね……』
『内容はなんでしょうか?』
「……口頭では説明できないわ。 とにかく準備して」
短く切ると、
イリスは分析室の前へ到着した。
中は暗く、
中央の机には大型モニターが二台並んでいる。
白衣の技官が一人、
眼鏡を押し上げながらイリスに向き直った。
「ロックフォード警部、これが対象の端末ですか?」
「ええ。外部接続は遮断して。オフラインで解析するわ」
「了解。……再生します」
技官がスマホを解析用装置に接続し、
動画ファイルを取り込む。
画面が暗転し――
さっき取調室で見た、あの路地裏の映像がモニターに広がった。
だが今度は違う。
・専用の高精度フレーム解析ソフト
・音声分離フィルタ
・物体トラッキング
この3つが同時に走る。
イリスは腕を組み、
画面をじっと見つめる。
「……開始します。
まずはフレーム補間――」
画面が細かく分割され、
“黒い穴の中から這い出る何か”が
フレーム単位で拡大される。
背骨のようなものが波打ち、
皮膚が裂け、
黒い液が滴り落ちる様子が
“1秒を100倍の精度で”捉えられる。
技官の眉がわずかに動いた。
「……これ、着ぐるみじゃないですね。影の落ち方が完全に“立体物のそれ”です。
質量のあるものの影です」
「影だけじゃない。液体の反射も自然。
この黒いの、加熱反応も……」
技官は別画面を立ち上げた。
「温度解析します」
変換された映像に、色温度のヒートマップが重なる。
赤。
黄色。
そして――黒い液体部分だけが“不自然な青”。
「……これ、液体の温度が“周囲より低い”です。雨水でもなく、油脂でもない。
塩分反応も特異……」
「特異?」
「“物質分類に該当しない”という意味です。
……すみません、こんな結果、見たことがなくて」
イリスの胸の奥が、妙な冷たさで締め付けられた。
「音も分離してみます」
路地の環境音から、
“そいつ”が立てる湿った音だけを抽出する。
――ず……じゅる……
――ぐぅ……ッ……
――ズズッ……
生き物のものとして説明できない粘度を持つ音。
イリスの背筋に電流が走る。
「……加工じゃないわね」
「ええ。AI合成特有のノイズもない。……これは“本物の音”ですよ」
技官は椅子を回し、
イリスに向き直った。
「警部……これは、なんです?」
イリスは答えられなかった。
ついさっきルナに投げた問いを、
今度は自分がぶつけられている。
――これは何?
イリスの胸に、その言葉が降りてくる。
「……わからないわ。でも……“人間”ではない。
それだけは確かよ」
技官が唾を飲み込む。
「この案件……どう処理します?」
イリスはしばらく考え、
静かに告げた。
「……“特異案件”として扱う。
これまでの連続殺人事件としては扱えない。
上層部に報告する必要があるわ」
その声には、
恐怖ではなく“決意”があった。
――――――――――――――――――
イリスは専用USBを取り出し、
動画と解析データをすべて保全する。
端末のログを確認しながら呟く。
「……加工痕なし。改ざんなし。偽装なし。
これは“ルナ・オオクラが見た現実”そのもの」
「スマホ自体はどうします?」
イリスは迷いなく答えた。
「データはもう取込済みよ。解析班にも複製が渡ってる。
――だから、そのスマホはこの住所にすぐ返却して」
技官は一瞬まばたきをした。
「返却、ですか?」
「ええ。個人の端末を長期間預かる必要はないわ。
証拠として必要なのは“データそのもの”だけ。
端末そのものは、彼女の生活に影響が出る」
イリスはスマホの小さな傷、使い込まれたケースを一瞥し――
ほんの数ミリだけ目を細めた。
「……彼女にスマホがない状態で帰らせるわけにはいかない。
不安定になるだけ」
技官は納得したようにうなずき、
返却伝票のフォームを開く。
「了解しました。すぐに配達班へ回します」
イリスは肩の力をわずかに抜き、
USBに保存したデータを制服の内ポケットへしまった。
(……この映像は“こちら側”で持っておくべき。
彼女には……今はもう、何も背負わせられない)
そう思っても、
胸の奥がひどくざわつく。
黒い“何か”。
痕跡を残さない液体。
自然すぎる動き。
そして――動画の中の“ルナ”。
普通の人間なら、
あの距離で絶対に無事では済まない。
イリスは目を閉じ、
再び開いたときには、
完全に“警部”の顔になっていた。
「――他の解析も進めておいて。明日の朝には報告をまとめるわ」
「了解です、ロックフォード警部」
イリスは軽くうなずき、
証拠USBを握りしめた手を小さく強めた。
(これは……ただの連続殺人じゃない。
もう普通の事件の枠には収まらない)
蛍光灯の白が、イリスの瞳に冷たく反射した。
分析室の空気は、硬いガラスのようだった。
そこへ、技官が遠慮がちに口を開く。
「ところで警部……」
イリスは資料を閉じながら軽く振り返る。
「ん、どうしたの?」
技官は困った顔でタブレットを胸に抱えたまま、
言いにくそうに視線を逸らした。
「……取調室に置いてある冷め切ったローストビーフ丼……
どうするんですか?」
イリスの表情が、
“警部”から一瞬で“ただの人”になった。
「……………………あ」
「“あ” じゃねーよ。
さっき自分で持ってったやつでしょう!
責任取って食べてください!」
イリスは眉尻を下げ、
疲れた声で天井を仰いだ。
「………マジか。
じゃあ電子レンジで温めておいてくれる?」
「んなもん自分でやれ!!!!!!
そんなんだから32歳になっても彼氏が出来ないんですよ!!!!!」
分析室の空気が、
異形の映像よりも重い“社会的圧迫”で満たされた。
イリスのこめかみがピクッと跳ねる。
「…………はぁ???????」
次の瞬間。
「うるせー馬鹿!!!!!!
わ、私はおめーと違って仕事が忙しいだけだし!!! 署に呼び出し多いし!!!
夜勤あるし!!! タイミング合わねーだけだし!!!
そもそも恋愛とか後回しにしてるだけだし!!!
必要になったらすぐできるし!!!
べ、別にモテないわけじゃねえし!!!!!!!!」
怒涛の言い訳が機関銃のように発射される。
技官は腕を組んで、
冷静な社会人の顔で返す。
「はいはい、“忙しい人”の典型的な言い訳ですね。
電磁波よりも痛いです、警部」
「痛いとか言うな!!!!!!傷つくわ!!!!!!!
てかお前ほんっと失礼だな!!!!」
「ローストビーフ丼温めてって言われた時点で
社会人としての尊厳は失ってますよ」
「それは悪かったって!!!!!!」
分析室の外。
廊下を歩いていた後輩刑事が扉の前で足を止め、
そっと耳を寄せる。
「……ロックフォード警部、めっちゃキレてる……」
「いつも落ち着いてるのに珍しいな……」
「相手、あの白衣の技官だぞ。
あの人、警部にだけ容赦ないんだよな……」
「恋愛の話題は地雷なんだろうな……」
イリスの怒声がまた響く。
「恋愛は別に後回しでも構わねぇだろ!!!!!
誰かに迷惑かけてるわけじゃねぇし!!!!!!」
技官はド真顔で返す。
「ローストビーフ丼レンチンは個人的に迷惑です」
「そこは忘れろ!!!!!!!!!!」
ローストビーフ丼の容器がわずかに震えた。
まるで、この場でいちばんの“被害者”がそれだと言わんばかりに。
0
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