DYING MEMORY 2

DYING MEMORY

文字の大きさ
10 / 12

SCENE 07:裁きは落ちてくる

しおりを挟む
カフェ【ガリオン】のテラス席は、街の音をそのままテーブルに乗せてくる。
食器の触れ合う乾いた音。通り過ぎる靴音。車のエンジン。笑い声。
それら全部が、日常のふりをした“正しさ”みたいに耳へ流れ込んでくる。

イリスはカップを置き、最後の一口を飲み干した。
私服のジャケットは落ち着いた色で、制服のときよりも輪郭が柔らかいはずなのに、目だけは鋭いままだった。視線が、雑踏の向こうまで届いている気がする。

「……今日は、ありがとう」

イリスが先に言った。謝罪とも感謝ともつかない、でもどちらも含んだ声音だった。

ルナは小さく首を振る。

「……私の方こそ。呼んでくれて助かりました」

イリスはわずかに口角を上げた。笑うというより、硬い空気の角を取るための表情。

「無理はしないで。何かあったらすぐ連絡して」

“何か”の範囲が広すぎて、逆に胃が冷える。
でもルナは、その言葉に縋るしかないのも分かっていた。

「はい」

返事は短い。短くしないと、声が震えそうだった。

イリスは頷き、踵を返す。
通りに溶けていく背中を見送って、ルナは一度だけ深く息を吐いた。

——一人になった途端、街の音が押し寄せてくる。
車のタイヤが水たまりを踏む音。信号の電子音。誰かの笑い声。
いつも通り。いつも通りすぎて、また胸の奥が嫌にざらついた。

(……よし、帰ろう)

そう思って歩き出した、そのとき。

「——あれ、ルナ先輩?」

聞き覚えのある声が、背中を軽く叩くみたいに届いた。
振り向くと、人混みの隙間からひょいと現れた顔がある。



レジーナだった。
いつもより少しだけ機嫌が良さそうで、肩にかけたバッグの紐を指で弾きながら、こちらを見上げている。髪は整っているのに、目だけが妙に忙しい。何か面白いことを探してる目だ。

「……レジーナ」

ルナが名前を呼ぶと、レジーナは満足そうに頷いた。

「偶然ですね!! こんなとこで何してたんですかー??」

言い方は軽い。でも、距離の詰め方が遠慮なくて、いつも通り安心するような、安心したくないような。

「ちょっと……用事」

ルナは曖昧に答えた。詳しく言う気になれない。言葉にした瞬間、現実が固定される気がした。

レジーナは深追いしない代わりに、くるっと自分の足元を見せるように半回転した。

「ほーーーん。
私はですね、今日新しい服買おうと思って! なんか最近、気分的に“更新”したくてですね!」

更新。
その単語が、ルナの脳の端をちくりと刺す。
映像の出所が上書きされた話が、頭の奥でまだ湿っている。

「あ、どうせなら先輩、お買い物付き合ってくれません??
ひとりで選ぶと、絶対変なの買っちゃう気がするので!!」

「……変なのって」

ルナは断る理由を探した。
でも、予定は確かにない。帰っても、昨日と同じ天井を見るだけだ。
静かな部屋の暗さが優しいのは確かだけど、優しさって、時々、逃げ場所にもなる。

「……別に、構わないよ」

口にした瞬間、レジーナの顔がぱっと明るくなった。

「よぉ~し決まり!!!!
じゃ、行きましょ。すぐそこだし!」

レジーナはもう歩き出していて、振り返りざまに手をひらひら振る。

ルナは遅れて一歩踏み出す。
追いかける形で並びながら、胸の奥のざらつきが少しだけ薄くなるのを感じた。

――――――――――――――――――

GUの看板が見えてきたあたりで、街の音が少しだけ変わった。
車の音より、買い物袋の擦れる音が増える。人の歩幅が軽くなる。
“平和”っていう言葉が、雑踏の中で勝手に膨らむ。

レジーナはその看板を見つけると、勝ち誇ったみたいに顎を上げた。

「着きました~!! ここ、安いのに変なの多いんですよね~~。 まじ最高の高!!」

「……最高なの? それ」

ルナは半分だけ呆れて言う。

自動ドアが開いて、冷えた空気と柔軟剤みたいな匂いがぶつかってきた。
照明が明るすぎて、影が薄い。
影が薄いと、安心する人もいる。ルナは逆に落ち着かない。

レジーナはもう棚の間に吸い込まれていく。
靴音が軽い。楽しそうだ。

「あ、そうだ。 先輩って――」

ハンガーを片手でかき分けながら、興味本位の声で言う。

「その服とか、どこで買ってんですか?? もしかしてヴィトンとかシャネルとかそっち系???」

ルナは、棚の端に寄りかかって答えた。



「……なわけないでしょ。
……ZOZOで適当に。サイズ合いそうなのを、ポチって終わりだよ」

レジーナが振り向き、目を丸くする。

「うわ出た!!! 現代人の最終形態!!!」

「別に困ってないからいいでしょ」

ルナは肩をすくめる。
レジーナは大げさにため息をついた。

「いや、困ってなくてもですよ?
もうちょいオシャレに気を使ってもいいんじゃないですか? 大学生なんだし、その辺も……」

「興味ない」

ルナは被せるように言った。

レジーナは一瞬だけ口をつぐんだ。
でもすぐに、いつもの軽さに戻る。

「……ホント先輩ってクールだなぁ。 まぁいいです! 私は好きなように服選びますから!!」

そう言って、レジーナは棚から服を何着か引っこ抜いた。
レジーナは勝ち誇った顔で、試着室のカーテンをくぐった。

——カーテンが閉まる。
布が擦れる音。ハンガーがぶつかる音。
その雑音が妙に安心する。
“普通の買い物”の音だからだ。

すぐに、カーテンがしゃっと開く。

「どうです、これ!?」

レジーナが出てきた。
……出てきたけれど、そこにあったのは“どう”じゃなかった。



「……なんでそんなTシャツ選んだわけ?」

「いや今にもウンコ漏れそうなんで」

「トイレ行きなさい」

レジーナは笑いながら、もう一回カーテンの向こうへ消えた。

次。
次。
次。

出てくるたび、ルナの目が死んでいく。
袖が片方だけ異様に長い服。
胸元が不自然に開きすぎたワンピース。
上下の色が喧嘩しているセットアップ。
そして最後に、極めつけみたいな、豹柄のコート。



「これまじで激渋だと思いません!? どうですか!?」
レジーナは腕を広げてポーズを取る。

「……それは、やめた方がいい」

「デスヨネー」

レジーナは即答した。
自分でも分かってたらしい。

レジーナが次の服を掴もうとした瞬間、ルナは棚の中に目を走らせた。
何か、“無難でちゃんとしたもの”を探す。
この空間の中で、唯一安心できる形を。

そして、見つけた。
落ち着いた色。変な装飾はない。ラインが素直。
“普通”をしている服。

ルナはそれを引っ張り出して、レジーナに差し出す。



「……これならいいんじゃない?」

レジーナが受け取り、眉を上げる。

「え、これ……いい! 先輩センス抜群じゃないですか!!!
普段ZOZOで買ってるくせに!!!」

「うるさい」

ルナは短く言った。

レジーナはその服を胸に当てて鏡を見て、
次の瞬間、少しだけ真面目な顔になった。
ふざけてない顔。
誰かの目じゃなく、自分の目で見ている顔。

「……うん」

小さく頷く。

「これ、いいかも」

試着室に入って、出てきたレジーナは——さっきまでの“悪意の衣装”が嘘みたいに整っていた。
同じ人間なのに、輪郭が変わる。
布一枚で、人は別の誰かになれる。

「どうです?」



レジーナが聞く。
ルナは頷いた。

「……変じゃない。ちゃんと……似合ってる……と思う」

レジーナは一瞬だけ目を丸くして、
それから照れ隠しみたいに鼻で笑った。

「……それにしたら?」

「オッケー!!!!」

レジーナは即答した。

レジへ向かう途中、レジーナは袋を指で軽く叩きながら言った。

「へへへ~。 先輩に選んでもらった服……明日早速着ますね!」

ルナは返さなかった。
返したら、きっと“普通”という言葉がまたひっかかる気がしたからだ。

それでも、
レジーナが袋を抱え直して笑うのを見ていると、
さっきまで胸の奥にへばりついていた冷たさが、ほんの少しだけ薄くなる気がした。

――――――――――――――――――

GUの自動ドアが開いた瞬間、外の空気が一段ざわついているのが分かった。
人の声が多い。足音が速い。視線の向きが揃っている。
“何か”が起きたときの街の匂いだった。

レジーナが紙袋を抱え直しながら、顔を上げる。



「……え、なに? なんか騒がしくないですか?」

店の前の歩道に、制服姿の警官が数人。
無線を耳に押し当てている者、通行人を手で制している者。
パトカーの赤色灯が、まだ昼の明るさの中で妙に浮いて点滅していた。

ルナの喉の奥が、ひやりとする。
理由は分からない。
でも、この“騒がしさ”は、いつも良い方向に転ばない。

近くにいた警官へ、ルナは一歩だけ近づいた。

「すみません……何かあったんですか?」

警官は一瞬こちらを見て、すぐに視線を通りの先へ戻す。
緊張した顔のまま、短く言った。

「ジュエリー店の強盗が逃走しました。危険ですので、近づかないでください」

「……強盗」

ルナが小さく復唱した瞬間、背骨の奥がきしんだ。

「え……じゃあ、追いかけましょうよ。 私たちも協力するので!!」

ルナの脳が一瞬遅れて言葉を拾う。

その二文字が、嫌な重さで胸に落ちた。

「ダメです」

警官の声は即座に鋭くなる。

「素人が追うと巻き込まれます。帰ってください」

「そんなこと言ったって!!!」

レジーナは一歩踏み出しかけた。
その肘を、ルナが掴んで止める。

「……やめとこう」

ルナの声は低かった。
レジーナは不満そうに口を尖らせる。

「……なんで? 強盗でしょ!? そんな事するやつなんて……!」

なんで。
——理由は言えない。
言葉にした瞬間、現実がまた“上書き”される気がした。

ルナは通りの向こう、警官たちの視線が集まっている方向を見た。
人の群れ。店のガラスに反射する光。遠くで誰かが叫ぶ声。

強盗。
刃物。
加害。
そして、あの化け物。

(……強盗がいるなら……もしかしたら)

思考がそこまで行った瞬間、胃の奥が冷たく落ちる。
あれが“加害者だけを狙う”なら。
この街のどこかで、また——。

「……レジーナ」

ルナは視線を戻さずに言った。

「……ここは警察に任せて、帰ろう」



「だからなんで!? 警察に任せるったって、それでまた人が刺されたりとかしたらどうするんですか!!!」

レジーナがすぐ返す。
紙袋をぎゅっと抱えて、妙に頑なな顔をした。

ルナはその横顔を見て、言葉にしないまま、観察する。
人の悪事に、すごく敏感だ。
正義感というより、嫌悪に近い温度で。

(……でも、連続殺人の話は避けようとする……)

ルナは一瞬、言葉に詰まった。

「……強盗だよ? 危ないよ」

できるだけ普通のトーンで言う。
言い方を間違えたら、レジーナは反発じゃなく“突撃”に変わる。

「分かってますよ、そんなこと。 
でも捕まえなかったら、人が死ぬかもしれませんよ!?」

レジーナは強く言い切る。
正義感というより、“悪事が見逃されること”への拒絶に近い温度だ。

ルナは数秒、迷った。
ここで強く突っぱねれば、レジーナは逆に意地で首を突っ込む。
止められない未来が見える。

(……だったら、近づけさせない方がいい)

ルナは息を吐き、妥協を選んだ。

「……分かった。ただし、不用意に近づかないこと。
絶対。私の言うことを聞いて」

レジーナは口を開きかけて、いったん閉じた。

「……分かりました」

ルナは一歩下がり、周囲の騒音から少しだけ距離を取った。
そしてスマホを取り出し、画面を開く。
指が震えないように、息を整えてから発信する。

呼び出し音が一回、二回。



『……もしもし』

イリスの声が出た瞬間、ルナの肩がわずかに落ちた。
声だけで、“現実に杭を打てる相手”がいると分かる。

「イリスさん。今、GUの近くなんですけど……」

ルナは通りを見ながら言う。

「ジュエリーの強盗が逃げたって聞きました」

『……分かってる。こっちにも情報が回ってきてる』

「それで……」

喉が少し乾く。
言うべきか迷って、迷っても結局、言うしかない。

「強盗がいるなら……例の化け物が、来るかもしれません」

一拍。
電話の向こうが、わずかに静かになる。
雑音が引いて、イリスの呼吸だけが聞こえた気がした。

『……分かった』

即答だった。
迷いがないわけじゃない。
でも、切り捨てない人の返事だった。

『非番だけど……私も現場を見に行く。
本当に“いる”のか、私の目で確かめる』

ルナは、唇を噛みそうになるのを堪えた。
嬉しい、というより怖い。
イリスがここまで言うのは、それだけ現実が壊れているということだ。

「……気をつけてください」

ルナは低く言った。

『あなたも。絶対に近づきすぎないで』

イリスの声が硬くなる。

『私が到着するまで、余計なことはしない。いい?』

「……はい」

通話が切れた。

ルナはスマホを握ったまま、少しだけ目を閉じた。
胸の奥で、嫌な予感がゆっくり膨らんでいく。

背後で、レジーナが覗き込む。

「誰です?」

ルナは目を開けて、できるだけ平然と答えた。

「……知り合い。ちょっと確認するって」

レジーナはそれ以上聞かず、通りの先を見た。
紙袋を抱える腕に、妙に力が入っている。

街はまだ騒いでいる。
騒ぎは“今から始まる”みたいに、少しずつ濃くなっていった。

――――――――――――――――――

ルナとレジーナは、警官に止められた歩道から少しだけ外れた。
正面突破じゃない。あくまで“見える範囲で”、危険から半歩引いたまま。

……のはずなのに。

街のざわめきは、次第に一点へ収束していく。
人の視線が向く方向。無線の声が跳ねる方向。
その“流れ”に逆らうように、何かが裏側へ抜けていった気配があった。

「強盗ってどっちに行ったんですか?」

レジーナが早足で並びながら聞く。

ルナは答える代わりに、地面を見る。
靴底が擦れたような跡。
人混みを押し分けたときの、妙に乱れた水たまり。
そして——

「……あれ」

店のショーウィンドウの角。
ガラスにべったり付いた、黒っぽい汚れ。
指で引っかいたような、雑な線。

(……手袋じゃない。素手……?)

嫌な想像が、ひょいと顔を出す。
刃物を持って走る人間が、落ち着いて逃げ道を選べるとは限らない。

ルナは横道へ視線を滑らせた。
表通りの明るさから一段落ちる、建物の影。
配送用の裏口。
細い通路。
そして、路地。

(……行くなら、あそこだ)

「そっち?」

レジーナがついてくる。紙袋が擦れて、かさ、と乾いた音を立てた。

「……それ。音、出る」

ルナが短く言う。

「あ……」

レジーナは慌てて袋を抱え直し、胸に押し付けた。

二人は路地へ入る。
途端に、街の音が遠のく。
明るさが削られ、空気が湿る。
足音が壁にぶつかって戻ってくる。

(……この感じ)

ルナの喉が、自然に乾く。
既視感じゃない。体が覚えている。
“あの夜”の空気だ。

「なんか……急に寒くないです?」

レジーナが声を落とす。

「……黙って」

ルナは言った。厳しい言い方になったのを自覚しても、直さなかった。
今は言葉より耳が欲しい。

——遠くで、金属が擦れる音。
——靴が水を踏む音。
——誰かの、荒い呼吸。

ルナは立ち止まり、壁際に身体を寄せた。
レジーナも真似をする。呼吸が浅い。

(……いる)

その確信が落ちた瞬間、路地の奥から影が飛び出してきた。

人間。
フードを被り、片手に光るもの。
刃物だ。
そしてもう片方の手には、布袋のようなものを握りしめている。

(ジュエリー……)

強盗は二人を見ても止まらない。
止まるどころか、逃げ道を塞がれたと理解したように、舌打ちをした。

「……邪魔すんじゃねえ!!」

刃が、ぎらりと振り上がる。

「……やめろ!!」

聞き覚えのある声。
強盗のさらに奥、路地の曲がり角。

その声の主は環境工学の非常勤講師……レイモンドだった。



「……っ」

ルナの心臓が、嫌な跳ね方をした。
よりによって知ってる顔だ。

レイモンドは片手で刃を避けようとして、腕を切られている。
血が袖を濡らし、暗い地面に点々と落ちていた。

「金を出しやがれ!! ……いや、黙ってろ!動くんじゃあねえ!」

強盗が刃物を振りかざす。
今度はレイモンドの喉元へ。

(間に合わない……!!)

ルナの体が勝手に一歩踏み出しかけた、その瞬間——

“上”が、落ちた。

音がなかった。
ただ、影が降った。

真上。建物と建物の隙間。
そこから、何かが——

ぐしゃり、と重い音。

強盗の身体が、赤黒い飛沫と一緒に裂けた。

刃物が、地面に落ちて転がり、乾いた金属音を響かせる。
それより遅れて、強盗の上半身と下半身が、別々の方向へ崩れた。



「……ぇ?」

レジーナの声にならない声が漏れる。

ルナは息をするのを忘れていた。
目の前の現実が、脳の理解を追い越していた。

——立っている。
——それが。

白い目。
裂けた口。
濡れたような黒い液体が、皮膚の代わりにまとわりついている。
人の形をしているのに、人の匂いがしない。

化け物が、ゆっくりと首を傾けた。
強盗の“残り”を一瞥するように見下ろし、
次に——

振り向いた。

ルナの方へ。

目が合った、気がした。
白目のはずなのに、“見ている”圧だけが刺さる。

(……来る!)

ルナが後ろへ退くより早く、化け物が跳んだ。
地面を蹴った音が遅れてくる。
空気が割れる。距離が消える。

「っ……!」

ルナは反射で腕を上げた。
防げないと分かっているのに、防御の形だけ作る。

その瞬間——

乾いた破裂音が四つ、重なった。

パン、パン、パン、パン。

耳が一瞬、潰れる。
火薬の匂い。
路地が銃声を跳ね返し、胸の奥まで響かせる。

化け物の身体が、弾かれるようにのけぞる。
黒い液体が飛び散り、壁に叩きつけられて、粘ついた線になる。

四発目で、膝が折れた。
巨体が崩れ落ちる音が、路地に鈍く響いた。



「ルナさん!! 伏せて!!」

背後から飛んできた声。
イリスだった。

私服のまま、片手にハンドガン。
息は乱れていない。乱れているのは目の奥だけだ。
走ってきたのに、撃つまでの動作が、異様に迷いなく繋がっていた。

ルナは足の感覚が戻らないまま、半歩だけ後ろへ下がる。
腕が震える。胃がむかつく。

レジーナの方を見ると、彼女は地面にへたり込んでいた。
紙袋が手から滑り落ち、買ったばかりの服が袋の口から少し覗いている。
“日常”の切れ端が、血と銃声の中に落ちているのが不自然すぎた。

「……う、そ……?」



レジーナの唇が震える。声が出ない。
腰が抜けている。立てない。

イリスは銃口を下げないまま、倒れた“それ”を睨んでいる。
近づかない。
呼吸だけで距離を測っている顔。

「……これが……」

イリスの声が、ひどく低い。

「……あなたが言ってた……」

ルナは頷くこともできなかった。
ただ、視線を外せない。

レイモンドが、地面を這うようにして距離を取ろうとしていた。
腕を押さえ、血に濡れた顔で状況を見回す。

「……な、何だったんだ……今のは……?」

声が震えている。理解が追いついていない。

「……助かった、のか……?」

イリスは一瞬だけレイモンドに視線を投げ、すぐ戻した。

「動かないでください。すぐに救急を呼びます」

そして、倒れた化け物へ。

イリスの表情が変わった。
恐怖じゃない。
“腑に落ちた”顔だ。

「……本物だ」

小さく、言い切るように呟く。
誰に言ったのでもない。自分に言った言葉だった。

路地の空気が、さらに重くなる。
遠くのサイレンが近づいてくる。

それでもルナは、倒れている化け物から目が離せなかった。
——撃沈した。
のに。

あの黒い液体が、まだ生き物みたいに、ゆっくりと蠢いている気がした。

レイモンドは片手で腕の傷を押さえながら、壁にもたれた。
呼吸が荒い。顔色が悪い。血の匂いが路地の湿気に混ざって、妙に生々しい。

「……助かった……」

声が掠れて、言葉が途中でひっかかる。

「……殺されるかと思いました。知らない男に、いきなり……」

ルナは喉の奥で息を呑んだ。

“知らない男”。

その言い方が、今この状況をどうにも薄くしてしまう。
刃物の強盗は確かに人間だ。でも——さっき落ちてきたものは、そんな単語で括れない。

レイモンドはイリスの方を見た。
私服の女性が拳銃を持っているという、普通ならあり得ない光景を、脳が処理しきれていない目。



「……警察ですか?」

イリスは短く頷いた。

「そうです。 ……とりあえず、救急が来るまで動かないでください」

「……すみません、ありがとうございます」

レイモンドは言って、視線を泳がせた。
強盗だったもの。
そして、その傍らに倒れた“それ”。

「……で、あれ……何なんですか?」

乾いた声が落ちる。

「なんか……着ぐるみ?いや、違う……え、今の……何が起きたんだ……?」

答えがない質問だった。
ルナは唇を開きかけて、閉じた。

説明するほど言葉を持っていない。持っていたとしても、ここで言っていい気がしなかった。
言った瞬間、また現実が“上書き”されそうで。

レジーナが地面に座り込んだまま、震える声で息を吐いた。

「……あれ……人じゃ、ない……」

言った直後、自分の言葉を怖がるみたいに口元を押さえる。
涙は出てないのに、目だけが濡れている。

イリスは銃口を下げないまま、倒れた“それ”を見据えていた。
近づかない。
でも、逸らさない。
警察官としての目が、そこにある。

「……ルナさん」

イリスは視線を切らずに言う。

「あなたは下がって」

ルナは頷こうとして、うまく首が動かない。
身体がまだ“さっきの跳躍”を追いかけている。
心臓が、現実より数秒遅れてバクバクしている。

遠くから、サイレンが大きくなる。
複数台。
路地の入口の方で人の声が重なり、足音が増える。

「こちらポート警察!現場確保!」



無線の声。
そして、ライト。

数人の警官が路地になだれ込んできた。
制服の肩、反射材、懐中電灯の白い光。
その光が“それ”を照らした瞬間、空気が一瞬だけ止まった。

「……うわ……」

「なんだこれ……これが、もしかして……?」

誰かの声が漏れる。
訓練された人間が、訓練では扱わないものを見たときの声。

イリスは顔だけを少し向けた。

「犯人の強盗は死亡。刃物所持。被害者一名、腕を負傷。救急要請済み」

警官の一人が、強盗の遺体の方へ視線を走らせた。

「……了解。規制線張れ!一般人は下がらせろ!」

別の警官がルナとレジーナを見つけ、声を張る。

「あなたたち!ここにいないで!危険だから!」

「……すみません、私たち……」

ルナが言いかけたが、言葉が途切れる。
どこから話せばいい。何を話せばいい。
そもそも、話していいのか。

イリスが一歩だけ前に出た。
制服の警官に、低い声で短く告げる。

「彼女たちは私が対応する。下がって」

その言葉の強さに、警官は反射で頷いた。
イリスの“格”が、ここで効く。

現場は手際よく切り分けられていく。
救急のための動線。規制線。目撃者の誘導。
普通の事件の処理。
——普通の、はずなのに。

ルナは倒れた“それ”を見た。
黒い液体が壁に飛び散っている。
粘ついた跡がある。
なのに、光の当たり方によっては、それが“最初から無かった”みたいに見える瞬間がある。

(……いや……)

視界が揺れる。
気のせいかもしれない。
気のせいであってほしい。

レイモンドが、まだ状況を飲み込めないまま、もう一度言った。

「……助けてくれて、ありがとうございます。
ほんと……あのままだったら、私は……」

言葉が最後まで続かなかった。
想像が追いついて、喉が締まった。

ルナはようやく頷いた。

「……助かって良かったです」

声が、思ったより小さい。
良かった、と言いながら、胸の奥は冷たいままだった。
“助かった”という結果が、安心に繋がらない。
この街では、助かった事実すら、次の瞬間に書き換わりそうだから。

レジーナは立ち上がろうとして、また膝が抜けた。

「……むり……」

情けないって自分で思ってそうな声。
でも、情けなくなんかない。正常だ。

イリスが一瞬だけこちらを見る。

「深呼吸して。大丈夫、もう来ないから……」

“もう来ない”
その断言が、路地の湿気に吸われて、妙に軽く感じた。

警官たちが現場写真を撮り始める。
フラッシュの白い光が数回、暗い路地を瞬かせた。

その光が落ち着いたあと——
ルナの背中に、遅れて寒気が走った。

――――――――――――――――――

サイレンの音が、路地の入り口でぐっと大きくなった。
赤色灯の回転が壁に反射して、湿ったコンクリートが瞬く。
救急車が停まり、白いライトが現場を切り取るように照らした。

「救急です! 負傷者どこ!?」

担架の金属が鳴り、足音が増える。
警官の指示が飛び、路地は一気に“作業現場”になる。
人が集まれば集まるほど、さっきまでの非現実が薄まっていく——薄まる、はずだった。

レイモンドは救急隊員に支えられながら立ち上がり、肩で息をしていた。
腕の傷は応急処置の包帯で巻かれ、血は止まりかけている。
でも顔はまだ青い。
目だけが、ずっと同じ場所を見ようとして、見ないようにしている。

「……ちょっと、担架乗りましょう。歩かないで」

救急隊員が言い、レイモンドの身体を導く。

レイモンドは担架へ腰を下ろす。
途中でふっと、思い出したみたいにルナの方へ顔を向けた。

その目は、さっきまでの混乱とは違う。
現実に戻ろうとしている人間の目だ。
だからこそ、妙に胸がざわつく。

「……オオクラさん」

レイモンドは、包帯の巻かれた腕を見ながら、ルナに告げた。



「ピースフルデイズの件……いつでもご連絡くださいね」

その言葉が、場違いなくらい穏やかだった。
まるでこの路地で起きたことが、最初から“無かった”みたいに。
たった今まで、真っ二つの死体と白目の化け物がそこにいたのに。

ルナの脳が遅れて繋がる。

「……そうでした」

ルナは思い出したように言った。

「次の火曜日のコマが無いので……そこでも大丈夫ですか?」

レイモンドは小さく頷く。
その頷きが、なんだか律儀すぎた。

「……分かりました。私から会長にそうお伝えしておきます」

そのまま、救急車の扉が閉まった。

エンジン音が上がり、サイレンが再び鳴り始める。
救急車は路地の入口からゆっくりと出ていった。
赤い光が遠ざかり、壁の反射が薄れていく。

残ったのは、現場の白いライトと、警官の声と、
そして——へたり込んだままのレジーナだった。

レジーナは地面に座ったまま、膝を抱え、紙袋を落とした手が宙を彷徨っている。
目は開いているのに、焦点が合っていない。
呼吸だけが速い。

「……レジーナ」

ルナが呼ぶと、レジーナは微かに肩を震わせた。

「……やだ……」

声がひどく小さい。
さっきまでの勢いが嘘みたいに、壊れている。

ルナは周囲を一度だけ見た。
警官たちは忙しい。現場は動いている。
誰も、レジーナ一人の震えに構っていられない。
だから——ルナがやるしかない。

ルナはしゃがみ、レジーナの腕をそっと取った。
力を入れすぎると拒絶される気がして、触れるだけに近い力で。

「……立てる?」

問いかける声は、意外と優しかった。
自分でも驚くくらい。

レジーナは首を振る。
涙が出そうなのに出ない目で、ルナを見上げる。

「……足が……なくなったみたい……」

それは比喩じゃなかった。
本当に足の感覚が抜けている人の言い方だった。

ルナは一瞬迷ってから、レジーナの身体を引き寄せる。
肩を自分の胸に預けさせる形で抱えた。
レジーナの体は冷たい。買い物の熱なんてもう残っていない。



「……帰ろう」

ルナは短く言った。
“帰ろう”と言うことで、自分にも命令したかった。

レジーナは答えない。
ただ、ルナの服を掴む指だけが、必死だった。

ルナはレジーナを支えながら立ち上がる。
紙袋を拾い、もう片方の手で持つ。
服が袋の口から少し覗いている。

ルナはレジーナを抱えたまま、路地の外へ歩き出した。
背後では警官の声が飛び交い、フラッシュが瞬き、
現場が“いつもの処理”へと塗り替えられていく。

——まるで、最初からそういう事件だったみたいに。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

処理中です...