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SCENE 07:裁きは落ちてくる
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カフェ【ガリオン】のテラス席は、街の音をそのままテーブルに乗せてくる。
食器の触れ合う乾いた音。通り過ぎる靴音。車のエンジン。笑い声。
それら全部が、日常のふりをした“正しさ”みたいに耳へ流れ込んでくる。
イリスはカップを置き、最後の一口を飲み干した。
私服のジャケットは落ち着いた色で、制服のときよりも輪郭が柔らかいはずなのに、目だけは鋭いままだった。視線が、雑踏の向こうまで届いている気がする。
「……今日は、ありがとう」
イリスが先に言った。謝罪とも感謝ともつかない、でもどちらも含んだ声音だった。
ルナは小さく首を振る。
「……私の方こそ。呼んでくれて助かりました」
イリスはわずかに口角を上げた。笑うというより、硬い空気の角を取るための表情。
「無理はしないで。何かあったらすぐ連絡して」
“何か”の範囲が広すぎて、逆に胃が冷える。
でもルナは、その言葉に縋るしかないのも分かっていた。
「はい」
返事は短い。短くしないと、声が震えそうだった。
イリスは頷き、踵を返す。
通りに溶けていく背中を見送って、ルナは一度だけ深く息を吐いた。
——一人になった途端、街の音が押し寄せてくる。
車のタイヤが水たまりを踏む音。信号の電子音。誰かの笑い声。
いつも通り。いつも通りすぎて、また胸の奥が嫌にざらついた。
(……よし、帰ろう)
そう思って歩き出した、そのとき。
「——あれ、ルナ先輩?」
聞き覚えのある声が、背中を軽く叩くみたいに届いた。
振り向くと、人混みの隙間からひょいと現れた顔がある。
レジーナだった。
いつもより少しだけ機嫌が良さそうで、肩にかけたバッグの紐を指で弾きながら、こちらを見上げている。髪は整っているのに、目だけが妙に忙しい。何か面白いことを探してる目だ。
「……レジーナ」
ルナが名前を呼ぶと、レジーナは満足そうに頷いた。
「偶然ですね!! こんなとこで何してたんですかー??」
言い方は軽い。でも、距離の詰め方が遠慮なくて、いつも通り安心するような、安心したくないような。
「ちょっと……用事」
ルナは曖昧に答えた。詳しく言う気になれない。言葉にした瞬間、現実が固定される気がした。
レジーナは深追いしない代わりに、くるっと自分の足元を見せるように半回転した。
「ほーーーん。
私はですね、今日新しい服買おうと思って! なんか最近、気分的に“更新”したくてですね!」
更新。
その単語が、ルナの脳の端をちくりと刺す。
映像の出所が上書きされた話が、頭の奥でまだ湿っている。
「あ、どうせなら先輩、お買い物付き合ってくれません??
ひとりで選ぶと、絶対変なの買っちゃう気がするので!!」
「……変なのって」
ルナは断る理由を探した。
でも、予定は確かにない。帰っても、昨日と同じ天井を見るだけだ。
静かな部屋の暗さが優しいのは確かだけど、優しさって、時々、逃げ場所にもなる。
「……別に、構わないよ」
口にした瞬間、レジーナの顔がぱっと明るくなった。
「よぉ~し決まり!!!!
じゃ、行きましょ。すぐそこだし!」
レジーナはもう歩き出していて、振り返りざまに手をひらひら振る。
ルナは遅れて一歩踏み出す。
追いかける形で並びながら、胸の奥のざらつきが少しだけ薄くなるのを感じた。
――――――――――――――――――
GUの看板が見えてきたあたりで、街の音が少しだけ変わった。
車の音より、買い物袋の擦れる音が増える。人の歩幅が軽くなる。
“平和”っていう言葉が、雑踏の中で勝手に膨らむ。
レジーナはその看板を見つけると、勝ち誇ったみたいに顎を上げた。
「着きました~!! ここ、安いのに変なの多いんですよね~~。 まじ最高の高!!」
「……最高なの? それ」
ルナは半分だけ呆れて言う。
自動ドアが開いて、冷えた空気と柔軟剤みたいな匂いがぶつかってきた。
照明が明るすぎて、影が薄い。
影が薄いと、安心する人もいる。ルナは逆に落ち着かない。
レジーナはもう棚の間に吸い込まれていく。
靴音が軽い。楽しそうだ。
「あ、そうだ。 先輩って――」
ハンガーを片手でかき分けながら、興味本位の声で言う。
「その服とか、どこで買ってんですか?? もしかしてヴィトンとかシャネルとかそっち系???」
ルナは、棚の端に寄りかかって答えた。
「……なわけないでしょ。
……ZOZOで適当に。サイズ合いそうなのを、ポチって終わりだよ」
レジーナが振り向き、目を丸くする。
「うわ出た!!! 現代人の最終形態!!!」
「別に困ってないからいいでしょ」
ルナは肩をすくめる。
レジーナは大げさにため息をついた。
「いや、困ってなくてもですよ?
もうちょいオシャレに気を使ってもいいんじゃないですか? 大学生なんだし、その辺も……」
「興味ない」
ルナは被せるように言った。
レジーナは一瞬だけ口をつぐんだ。
でもすぐに、いつもの軽さに戻る。
「……ホント先輩ってクールだなぁ。 まぁいいです! 私は好きなように服選びますから!!」
そう言って、レジーナは棚から服を何着か引っこ抜いた。
レジーナは勝ち誇った顔で、試着室のカーテンをくぐった。
——カーテンが閉まる。
布が擦れる音。ハンガーがぶつかる音。
その雑音が妙に安心する。
“普通の買い物”の音だからだ。
すぐに、カーテンがしゃっと開く。
「どうです、これ!?」
レジーナが出てきた。
……出てきたけれど、そこにあったのは“どう”じゃなかった。
「……なんでそんなTシャツ選んだわけ?」
「いや今にもウンコ漏れそうなんで」
「トイレ行きなさい」
レジーナは笑いながら、もう一回カーテンの向こうへ消えた。
次。
次。
次。
出てくるたび、ルナの目が死んでいく。
袖が片方だけ異様に長い服。
胸元が不自然に開きすぎたワンピース。
上下の色が喧嘩しているセットアップ。
そして最後に、極めつけみたいな、豹柄のコート。
「これまじで激渋だと思いません!? どうですか!?」
レジーナは腕を広げてポーズを取る。
「……それは、やめた方がいい」
「デスヨネー」
レジーナは即答した。
自分でも分かってたらしい。
レジーナが次の服を掴もうとした瞬間、ルナは棚の中に目を走らせた。
何か、“無難でちゃんとしたもの”を探す。
この空間の中で、唯一安心できる形を。
そして、見つけた。
落ち着いた色。変な装飾はない。ラインが素直。
“普通”をしている服。
ルナはそれを引っ張り出して、レジーナに差し出す。
「……これならいいんじゃない?」
レジーナが受け取り、眉を上げる。
「え、これ……いい! 先輩センス抜群じゃないですか!!!
普段ZOZOで買ってるくせに!!!」
「うるさい」
ルナは短く言った。
レジーナはその服を胸に当てて鏡を見て、
次の瞬間、少しだけ真面目な顔になった。
ふざけてない顔。
誰かの目じゃなく、自分の目で見ている顔。
「……うん」
小さく頷く。
「これ、いいかも」
試着室に入って、出てきたレジーナは——さっきまでの“悪意の衣装”が嘘みたいに整っていた。
同じ人間なのに、輪郭が変わる。
布一枚で、人は別の誰かになれる。
「どうです?」
レジーナが聞く。
ルナは頷いた。
「……変じゃない。ちゃんと……似合ってる……と思う」
レジーナは一瞬だけ目を丸くして、
それから照れ隠しみたいに鼻で笑った。
「……それにしたら?」
「オッケー!!!!」
レジーナは即答した。
レジへ向かう途中、レジーナは袋を指で軽く叩きながら言った。
「へへへ~。 先輩に選んでもらった服……明日早速着ますね!」
ルナは返さなかった。
返したら、きっと“普通”という言葉がまたひっかかる気がしたからだ。
それでも、
レジーナが袋を抱え直して笑うのを見ていると、
さっきまで胸の奥にへばりついていた冷たさが、ほんの少しだけ薄くなる気がした。
――――――――――――――――――
GUの自動ドアが開いた瞬間、外の空気が一段ざわついているのが分かった。
人の声が多い。足音が速い。視線の向きが揃っている。
“何か”が起きたときの街の匂いだった。
レジーナが紙袋を抱え直しながら、顔を上げる。
「……え、なに? なんか騒がしくないですか?」
店の前の歩道に、制服姿の警官が数人。
無線を耳に押し当てている者、通行人を手で制している者。
パトカーの赤色灯が、まだ昼の明るさの中で妙に浮いて点滅していた。
ルナの喉の奥が、ひやりとする。
理由は分からない。
でも、この“騒がしさ”は、いつも良い方向に転ばない。
近くにいた警官へ、ルナは一歩だけ近づいた。
「すみません……何かあったんですか?」
警官は一瞬こちらを見て、すぐに視線を通りの先へ戻す。
緊張した顔のまま、短く言った。
「ジュエリー店の強盗が逃走しました。危険ですので、近づかないでください」
「……強盗」
ルナが小さく復唱した瞬間、背骨の奥がきしんだ。
「え……じゃあ、追いかけましょうよ。 私たちも協力するので!!」
ルナの脳が一瞬遅れて言葉を拾う。
私たち。
その二文字が、嫌な重さで胸に落ちた。
「ダメです」
警官の声は即座に鋭くなる。
「素人が追うと巻き込まれます。帰ってください」
「そんなこと言ったって!!!」
レジーナは一歩踏み出しかけた。
その肘を、ルナが掴んで止める。
「……やめとこう」
ルナの声は低かった。
レジーナは不満そうに口を尖らせる。
「……なんで? 強盗でしょ!? そんな事するやつなんて……!」
なんで。
——理由は言えない。
言葉にした瞬間、現実がまた“上書き”される気がした。
ルナは通りの向こう、警官たちの視線が集まっている方向を見た。
人の群れ。店のガラスに反射する光。遠くで誰かが叫ぶ声。
強盗。
刃物。
加害。
そして、あの化け物。
(……強盗がいるなら……もしかしたら)
思考がそこまで行った瞬間、胃の奥が冷たく落ちる。
あれが“加害者だけを狙う”なら。
この街のどこかで、また——。
「……レジーナ」
ルナは視線を戻さずに言った。
「……ここは警察に任せて、帰ろう」
「だからなんで!? 警察に任せるったって、それでまた人が刺されたりとかしたらどうするんですか!!!」
レジーナがすぐ返す。
紙袋をぎゅっと抱えて、妙に頑なな顔をした。
ルナはその横顔を見て、言葉にしないまま、観察する。
人の悪事に、すごく敏感だ。
正義感というより、嫌悪に近い温度で。
(……でも、連続殺人の話は避けようとする……)
ルナは一瞬、言葉に詰まった。
「……強盗だよ? 危ないよ」
できるだけ普通のトーンで言う。
言い方を間違えたら、レジーナは反発じゃなく“突撃”に変わる。
「分かってますよ、そんなこと。
でも捕まえなかったら、人が死ぬかもしれませんよ!?」
レジーナは強く言い切る。
正義感というより、“悪事が見逃されること”への拒絶に近い温度だ。
ルナは数秒、迷った。
ここで強く突っぱねれば、レジーナは逆に意地で首を突っ込む。
止められない未来が見える。
(……だったら、近づけさせない方がいい)
ルナは息を吐き、妥協を選んだ。
「……分かった。ただし、不用意に近づかないこと。
絶対。私の言うことを聞いて」
レジーナは口を開きかけて、いったん閉じた。
「……分かりました」
ルナは一歩下がり、周囲の騒音から少しだけ距離を取った。
そしてスマホを取り出し、画面を開く。
指が震えないように、息を整えてから発信する。
呼び出し音が一回、二回。
『……もしもし』
イリスの声が出た瞬間、ルナの肩がわずかに落ちた。
声だけで、“現実に杭を打てる相手”がいると分かる。
「イリスさん。今、GUの近くなんですけど……」
ルナは通りを見ながら言う。
「ジュエリーの強盗が逃げたって聞きました」
『……分かってる。こっちにも情報が回ってきてる』
「それで……」
喉が少し乾く。
言うべきか迷って、迷っても結局、言うしかない。
「強盗がいるなら……例の化け物が、来るかもしれません」
一拍。
電話の向こうが、わずかに静かになる。
雑音が引いて、イリスの呼吸だけが聞こえた気がした。
『……分かった』
即答だった。
迷いがないわけじゃない。
でも、切り捨てない人の返事だった。
『非番だけど……私も現場を見に行く。
本当に“いる”のか、私の目で確かめる』
ルナは、唇を噛みそうになるのを堪えた。
嬉しい、というより怖い。
イリスがここまで言うのは、それだけ現実が壊れているということだ。
「……気をつけてください」
ルナは低く言った。
『あなたも。絶対に近づきすぎないで』
イリスの声が硬くなる。
『私が到着するまで、余計なことはしない。いい?』
「……はい」
通話が切れた。
ルナはスマホを握ったまま、少しだけ目を閉じた。
胸の奥で、嫌な予感がゆっくり膨らんでいく。
背後で、レジーナが覗き込む。
「誰です?」
ルナは目を開けて、できるだけ平然と答えた。
「……知り合い。ちょっと確認するって」
レジーナはそれ以上聞かず、通りの先を見た。
紙袋を抱える腕に、妙に力が入っている。
街はまだ騒いでいる。
騒ぎは“今から始まる”みたいに、少しずつ濃くなっていった。
――――――――――――――――――
ルナとレジーナは、警官に止められた歩道から少しだけ外れた。
正面突破じゃない。あくまで“見える範囲で”、危険から半歩引いたまま。
……のはずなのに。
街のざわめきは、次第に一点へ収束していく。
人の視線が向く方向。無線の声が跳ねる方向。
その“流れ”に逆らうように、何かが裏側へ抜けていった気配があった。
「強盗ってどっちに行ったんですか?」
レジーナが早足で並びながら聞く。
ルナは答える代わりに、地面を見る。
靴底が擦れたような跡。
人混みを押し分けたときの、妙に乱れた水たまり。
そして——
「……あれ」
店のショーウィンドウの角。
ガラスにべったり付いた、黒っぽい汚れ。
指で引っかいたような、雑な線。
(……手袋じゃない。素手……?)
嫌な想像が、ひょいと顔を出す。
刃物を持って走る人間が、落ち着いて逃げ道を選べるとは限らない。
ルナは横道へ視線を滑らせた。
表通りの明るさから一段落ちる、建物の影。
配送用の裏口。
細い通路。
そして、路地。
(……行くなら、あそこだ)
「そっち?」
レジーナがついてくる。紙袋が擦れて、かさ、と乾いた音を立てた。
「……それ。音、出る」
ルナが短く言う。
「あ……」
レジーナは慌てて袋を抱え直し、胸に押し付けた。
二人は路地へ入る。
途端に、街の音が遠のく。
明るさが削られ、空気が湿る。
足音が壁にぶつかって戻ってくる。
(……この感じ)
ルナの喉が、自然に乾く。
既視感じゃない。体が覚えている。
“あの夜”の空気だ。
「なんか……急に寒くないです?」
レジーナが声を落とす。
「……黙って」
ルナは言った。厳しい言い方になったのを自覚しても、直さなかった。
今は言葉より耳が欲しい。
——遠くで、金属が擦れる音。
——靴が水を踏む音。
——誰かの、荒い呼吸。
ルナは立ち止まり、壁際に身体を寄せた。
レジーナも真似をする。呼吸が浅い。
(……いる)
その確信が落ちた瞬間、路地の奥から影が飛び出してきた。
人間。
フードを被り、片手に光るもの。
刃物だ。
そしてもう片方の手には、布袋のようなものを握りしめている。
(ジュエリー……)
強盗は二人を見ても止まらない。
止まるどころか、逃げ道を塞がれたと理解したように、舌打ちをした。
「……邪魔すんじゃねえ!!」
刃が、ぎらりと振り上がる。
「……やめろ!!」
聞き覚えのある声。
強盗のさらに奥、路地の曲がり角。
その声の主は環境工学の非常勤講師……レイモンドだった。
「……っ」
ルナの心臓が、嫌な跳ね方をした。
よりによって知ってる顔だ。
レイモンドは片手で刃を避けようとして、腕を切られている。
血が袖を濡らし、暗い地面に点々と落ちていた。
「金を出しやがれ!! ……いや、黙ってろ!動くんじゃあねえ!」
強盗が刃物を振りかざす。
今度はレイモンドの喉元へ。
(間に合わない……!!)
ルナの体が勝手に一歩踏み出しかけた、その瞬間——
“上”が、落ちた。
音がなかった。
ただ、影が降った。
真上。建物と建物の隙間。
そこから、何かが——
ぐしゃり、と重い音。
強盗の身体が、赤黒い飛沫と一緒に裂けた。
刃物が、地面に落ちて転がり、乾いた金属音を響かせる。
それより遅れて、強盗の上半身と下半身が、別々の方向へ崩れた。
「……ぇ?」
レジーナの声にならない声が漏れる。
ルナは息をするのを忘れていた。
目の前の現実が、脳の理解を追い越していた。
——立っている。
——それが。
白い目。
裂けた口。
濡れたような黒い液体が、皮膚の代わりにまとわりついている。
人の形をしているのに、人の匂いがしない。
化け物が、ゆっくりと首を傾けた。
強盗の“残り”を一瞥するように見下ろし、
次に——
振り向いた。
ルナの方へ。
目が合った、気がした。
白目のはずなのに、“見ている”圧だけが刺さる。
(……来る!)
ルナが後ろへ退くより早く、化け物が跳んだ。
地面を蹴った音が遅れてくる。
空気が割れる。距離が消える。
「っ……!」
ルナは反射で腕を上げた。
防げないと分かっているのに、防御の形だけ作る。
その瞬間——
乾いた破裂音が四つ、重なった。
パン、パン、パン、パン。
耳が一瞬、潰れる。
火薬の匂い。
路地が銃声を跳ね返し、胸の奥まで響かせる。
化け物の身体が、弾かれるようにのけぞる。
黒い液体が飛び散り、壁に叩きつけられて、粘ついた線になる。
四発目で、膝が折れた。
巨体が崩れ落ちる音が、路地に鈍く響いた。
「ルナさん!! 伏せて!!」
背後から飛んできた声。
イリスだった。
私服のまま、片手にハンドガン。
息は乱れていない。乱れているのは目の奥だけだ。
走ってきたのに、撃つまでの動作が、異様に迷いなく繋がっていた。
ルナは足の感覚が戻らないまま、半歩だけ後ろへ下がる。
腕が震える。胃がむかつく。
レジーナの方を見ると、彼女は地面にへたり込んでいた。
紙袋が手から滑り落ち、買ったばかりの服が袋の口から少し覗いている。
“日常”の切れ端が、血と銃声の中に落ちているのが不自然すぎた。
「……う、そ……?」
レジーナの唇が震える。声が出ない。
腰が抜けている。立てない。
イリスは銃口を下げないまま、倒れた“それ”を睨んでいる。
近づかない。
呼吸だけで距離を測っている顔。
「……これが……」
イリスの声が、ひどく低い。
「……あなたが言ってた……」
ルナは頷くこともできなかった。
ただ、視線を外せない。
レイモンドが、地面を這うようにして距離を取ろうとしていた。
腕を押さえ、血に濡れた顔で状況を見回す。
「……な、何だったんだ……今のは……?」
声が震えている。理解が追いついていない。
「……助かった、のか……?」
イリスは一瞬だけレイモンドに視線を投げ、すぐ戻した。
「動かないでください。すぐに救急を呼びます」
そして、倒れた化け物へ。
イリスの表情が変わった。
恐怖じゃない。
“腑に落ちた”顔だ。
「……本物だ」
小さく、言い切るように呟く。
誰に言ったのでもない。自分に言った言葉だった。
路地の空気が、さらに重くなる。
遠くのサイレンが近づいてくる。
それでもルナは、倒れている化け物から目が離せなかった。
——撃沈した。
のに。
あの黒い液体が、まだ生き物みたいに、ゆっくりと蠢いている気がした。
レイモンドは片手で腕の傷を押さえながら、壁にもたれた。
呼吸が荒い。顔色が悪い。血の匂いが路地の湿気に混ざって、妙に生々しい。
「……助かった……」
声が掠れて、言葉が途中でひっかかる。
「……殺されるかと思いました。知らない男に、いきなり……」
ルナは喉の奥で息を呑んだ。
“知らない男”。
その言い方が、今この状況をどうにも薄くしてしまう。
刃物の強盗は確かに人間だ。でも——さっき落ちてきたものは、そんな単語で括れない。
レイモンドはイリスの方を見た。
私服の女性が拳銃を持っているという、普通ならあり得ない光景を、脳が処理しきれていない目。
「……警察ですか?」
イリスは短く頷いた。
「そうです。 ……とりあえず、救急が来るまで動かないでください」
「……すみません、ありがとうございます」
レイモンドは言って、視線を泳がせた。
強盗だったもの。
そして、その傍らに倒れた“それ”。
「……で、あれ……何なんですか?」
乾いた声が落ちる。
「なんか……着ぐるみ?いや、違う……え、今の……何が起きたんだ……?」
答えがない質問だった。
ルナは唇を開きかけて、閉じた。
説明するほど言葉を持っていない。持っていたとしても、ここで言っていい気がしなかった。
言った瞬間、また現実が“上書き”されそうで。
レジーナが地面に座り込んだまま、震える声で息を吐いた。
「……あれ……人じゃ、ない……」
言った直後、自分の言葉を怖がるみたいに口元を押さえる。
涙は出てないのに、目だけが濡れている。
イリスは銃口を下げないまま、倒れた“それ”を見据えていた。
近づかない。
でも、逸らさない。
警察官としての目が、そこにある。
「……ルナさん」
イリスは視線を切らずに言う。
「あなたは下がって」
ルナは頷こうとして、うまく首が動かない。
身体がまだ“さっきの跳躍”を追いかけている。
心臓が、現実より数秒遅れてバクバクしている。
遠くから、サイレンが大きくなる。
複数台。
路地の入口の方で人の声が重なり、足音が増える。
「こちらポート警察!現場確保!」
無線の声。
そして、ライト。
数人の警官が路地になだれ込んできた。
制服の肩、反射材、懐中電灯の白い光。
その光が“それ”を照らした瞬間、空気が一瞬だけ止まった。
「……うわ……」
「なんだこれ……これが、もしかして……?」
誰かの声が漏れる。
訓練された人間が、訓練では扱わないものを見たときの声。
イリスは顔だけを少し向けた。
「犯人の強盗は死亡。刃物所持。被害者一名、腕を負傷。救急要請済み」
警官の一人が、強盗の遺体の方へ視線を走らせた。
「……了解。規制線張れ!一般人は下がらせろ!」
別の警官がルナとレジーナを見つけ、声を張る。
「あなたたち!ここにいないで!危険だから!」
「……すみません、私たち……」
ルナが言いかけたが、言葉が途切れる。
どこから話せばいい。何を話せばいい。
そもそも、話していいのか。
イリスが一歩だけ前に出た。
制服の警官に、低い声で短く告げる。
「彼女たちは私が対応する。下がって」
その言葉の強さに、警官は反射で頷いた。
イリスの“格”が、ここで効く。
現場は手際よく切り分けられていく。
救急のための動線。規制線。目撃者の誘導。
普通の事件の処理。
——普通の、はずなのに。
ルナは倒れた“それ”を見た。
黒い液体が壁に飛び散っている。
粘ついた跡がある。
なのに、光の当たり方によっては、それが“最初から無かった”みたいに見える瞬間がある。
(……いや……)
視界が揺れる。
気のせいかもしれない。
気のせいであってほしい。
レイモンドが、まだ状況を飲み込めないまま、もう一度言った。
「……助けてくれて、ありがとうございます。
ほんと……あのままだったら、私は……」
言葉が最後まで続かなかった。
想像が追いついて、喉が締まった。
ルナはようやく頷いた。
「……助かって良かったです」
声が、思ったより小さい。
良かった、と言いながら、胸の奥は冷たいままだった。
“助かった”という結果が、安心に繋がらない。
この街では、助かった事実すら、次の瞬間に書き換わりそうだから。
レジーナは立ち上がろうとして、また膝が抜けた。
「……むり……」
情けないって自分で思ってそうな声。
でも、情けなくなんかない。正常だ。
イリスが一瞬だけこちらを見る。
「深呼吸して。大丈夫、もう来ないから……」
“もう来ない”
その断言が、路地の湿気に吸われて、妙に軽く感じた。
警官たちが現場写真を撮り始める。
フラッシュの白い光が数回、暗い路地を瞬かせた。
その光が落ち着いたあと——
ルナの背中に、遅れて寒気が走った。
――――――――――――――――――
サイレンの音が、路地の入り口でぐっと大きくなった。
赤色灯の回転が壁に反射して、湿ったコンクリートが瞬く。
救急車が停まり、白いライトが現場を切り取るように照らした。
「救急です! 負傷者どこ!?」
担架の金属が鳴り、足音が増える。
警官の指示が飛び、路地は一気に“作業現場”になる。
人が集まれば集まるほど、さっきまでの非現実が薄まっていく——薄まる、はずだった。
レイモンドは救急隊員に支えられながら立ち上がり、肩で息をしていた。
腕の傷は応急処置の包帯で巻かれ、血は止まりかけている。
でも顔はまだ青い。
目だけが、ずっと同じ場所を見ようとして、見ないようにしている。
「……ちょっと、担架乗りましょう。歩かないで」
救急隊員が言い、レイモンドの身体を導く。
レイモンドは担架へ腰を下ろす。
途中でふっと、思い出したみたいにルナの方へ顔を向けた。
その目は、さっきまでの混乱とは違う。
現実に戻ろうとしている人間の目だ。
だからこそ、妙に胸がざわつく。
「……オオクラさん」
レイモンドは、包帯の巻かれた腕を見ながら、ルナに告げた。
「ピースフルデイズの件……いつでもご連絡くださいね」
その言葉が、場違いなくらい穏やかだった。
まるでこの路地で起きたことが、最初から“無かった”みたいに。
たった今まで、真っ二つの死体と白目の化け物がそこにいたのに。
ルナの脳が遅れて繋がる。
「……そうでした」
ルナは思い出したように言った。
「次の火曜日のコマが無いので……そこでも大丈夫ですか?」
レイモンドは小さく頷く。
その頷きが、なんだか律儀すぎた。
「……分かりました。私から会長にそうお伝えしておきます」
そのまま、救急車の扉が閉まった。
エンジン音が上がり、サイレンが再び鳴り始める。
救急車は路地の入口からゆっくりと出ていった。
赤い光が遠ざかり、壁の反射が薄れていく。
残ったのは、現場の白いライトと、警官の声と、
そして——へたり込んだままのレジーナだった。
レジーナは地面に座ったまま、膝を抱え、紙袋を落とした手が宙を彷徨っている。
目は開いているのに、焦点が合っていない。
呼吸だけが速い。
「……レジーナ」
ルナが呼ぶと、レジーナは微かに肩を震わせた。
「……やだ……」
声がひどく小さい。
さっきまでの勢いが嘘みたいに、壊れている。
ルナは周囲を一度だけ見た。
警官たちは忙しい。現場は動いている。
誰も、レジーナ一人の震えに構っていられない。
だから——ルナがやるしかない。
ルナはしゃがみ、レジーナの腕をそっと取った。
力を入れすぎると拒絶される気がして、触れるだけに近い力で。
「……立てる?」
問いかける声は、意外と優しかった。
自分でも驚くくらい。
レジーナは首を振る。
涙が出そうなのに出ない目で、ルナを見上げる。
「……足が……なくなったみたい……」
それは比喩じゃなかった。
本当に足の感覚が抜けている人の言い方だった。
ルナは一瞬迷ってから、レジーナの身体を引き寄せる。
肩を自分の胸に預けさせる形で抱えた。
レジーナの体は冷たい。買い物の熱なんてもう残っていない。
「……帰ろう」
ルナは短く言った。
“帰ろう”と言うことで、自分にも命令したかった。
レジーナは答えない。
ただ、ルナの服を掴む指だけが、必死だった。
ルナはレジーナを支えながら立ち上がる。
紙袋を拾い、もう片方の手で持つ。
服が袋の口から少し覗いている。
ルナはレジーナを抱えたまま、路地の外へ歩き出した。
背後では警官の声が飛び交い、フラッシュが瞬き、
現場が“いつもの処理”へと塗り替えられていく。
——まるで、最初からそういう事件だったみたいに。
食器の触れ合う乾いた音。通り過ぎる靴音。車のエンジン。笑い声。
それら全部が、日常のふりをした“正しさ”みたいに耳へ流れ込んでくる。
イリスはカップを置き、最後の一口を飲み干した。
私服のジャケットは落ち着いた色で、制服のときよりも輪郭が柔らかいはずなのに、目だけは鋭いままだった。視線が、雑踏の向こうまで届いている気がする。
「……今日は、ありがとう」
イリスが先に言った。謝罪とも感謝ともつかない、でもどちらも含んだ声音だった。
ルナは小さく首を振る。
「……私の方こそ。呼んでくれて助かりました」
イリスはわずかに口角を上げた。笑うというより、硬い空気の角を取るための表情。
「無理はしないで。何かあったらすぐ連絡して」
“何か”の範囲が広すぎて、逆に胃が冷える。
でもルナは、その言葉に縋るしかないのも分かっていた。
「はい」
返事は短い。短くしないと、声が震えそうだった。
イリスは頷き、踵を返す。
通りに溶けていく背中を見送って、ルナは一度だけ深く息を吐いた。
——一人になった途端、街の音が押し寄せてくる。
車のタイヤが水たまりを踏む音。信号の電子音。誰かの笑い声。
いつも通り。いつも通りすぎて、また胸の奥が嫌にざらついた。
(……よし、帰ろう)
そう思って歩き出した、そのとき。
「——あれ、ルナ先輩?」
聞き覚えのある声が、背中を軽く叩くみたいに届いた。
振り向くと、人混みの隙間からひょいと現れた顔がある。
レジーナだった。
いつもより少しだけ機嫌が良さそうで、肩にかけたバッグの紐を指で弾きながら、こちらを見上げている。髪は整っているのに、目だけが妙に忙しい。何か面白いことを探してる目だ。
「……レジーナ」
ルナが名前を呼ぶと、レジーナは満足そうに頷いた。
「偶然ですね!! こんなとこで何してたんですかー??」
言い方は軽い。でも、距離の詰め方が遠慮なくて、いつも通り安心するような、安心したくないような。
「ちょっと……用事」
ルナは曖昧に答えた。詳しく言う気になれない。言葉にした瞬間、現実が固定される気がした。
レジーナは深追いしない代わりに、くるっと自分の足元を見せるように半回転した。
「ほーーーん。
私はですね、今日新しい服買おうと思って! なんか最近、気分的に“更新”したくてですね!」
更新。
その単語が、ルナの脳の端をちくりと刺す。
映像の出所が上書きされた話が、頭の奥でまだ湿っている。
「あ、どうせなら先輩、お買い物付き合ってくれません??
ひとりで選ぶと、絶対変なの買っちゃう気がするので!!」
「……変なのって」
ルナは断る理由を探した。
でも、予定は確かにない。帰っても、昨日と同じ天井を見るだけだ。
静かな部屋の暗さが優しいのは確かだけど、優しさって、時々、逃げ場所にもなる。
「……別に、構わないよ」
口にした瞬間、レジーナの顔がぱっと明るくなった。
「よぉ~し決まり!!!!
じゃ、行きましょ。すぐそこだし!」
レジーナはもう歩き出していて、振り返りざまに手をひらひら振る。
ルナは遅れて一歩踏み出す。
追いかける形で並びながら、胸の奥のざらつきが少しだけ薄くなるのを感じた。
――――――――――――――――――
GUの看板が見えてきたあたりで、街の音が少しだけ変わった。
車の音より、買い物袋の擦れる音が増える。人の歩幅が軽くなる。
“平和”っていう言葉が、雑踏の中で勝手に膨らむ。
レジーナはその看板を見つけると、勝ち誇ったみたいに顎を上げた。
「着きました~!! ここ、安いのに変なの多いんですよね~~。 まじ最高の高!!」
「……最高なの? それ」
ルナは半分だけ呆れて言う。
自動ドアが開いて、冷えた空気と柔軟剤みたいな匂いがぶつかってきた。
照明が明るすぎて、影が薄い。
影が薄いと、安心する人もいる。ルナは逆に落ち着かない。
レジーナはもう棚の間に吸い込まれていく。
靴音が軽い。楽しそうだ。
「あ、そうだ。 先輩って――」
ハンガーを片手でかき分けながら、興味本位の声で言う。
「その服とか、どこで買ってんですか?? もしかしてヴィトンとかシャネルとかそっち系???」
ルナは、棚の端に寄りかかって答えた。
「……なわけないでしょ。
……ZOZOで適当に。サイズ合いそうなのを、ポチって終わりだよ」
レジーナが振り向き、目を丸くする。
「うわ出た!!! 現代人の最終形態!!!」
「別に困ってないからいいでしょ」
ルナは肩をすくめる。
レジーナは大げさにため息をついた。
「いや、困ってなくてもですよ?
もうちょいオシャレに気を使ってもいいんじゃないですか? 大学生なんだし、その辺も……」
「興味ない」
ルナは被せるように言った。
レジーナは一瞬だけ口をつぐんだ。
でもすぐに、いつもの軽さに戻る。
「……ホント先輩ってクールだなぁ。 まぁいいです! 私は好きなように服選びますから!!」
そう言って、レジーナは棚から服を何着か引っこ抜いた。
レジーナは勝ち誇った顔で、試着室のカーテンをくぐった。
——カーテンが閉まる。
布が擦れる音。ハンガーがぶつかる音。
その雑音が妙に安心する。
“普通の買い物”の音だからだ。
すぐに、カーテンがしゃっと開く。
「どうです、これ!?」
レジーナが出てきた。
……出てきたけれど、そこにあったのは“どう”じゃなかった。
「……なんでそんなTシャツ選んだわけ?」
「いや今にもウンコ漏れそうなんで」
「トイレ行きなさい」
レジーナは笑いながら、もう一回カーテンの向こうへ消えた。
次。
次。
次。
出てくるたび、ルナの目が死んでいく。
袖が片方だけ異様に長い服。
胸元が不自然に開きすぎたワンピース。
上下の色が喧嘩しているセットアップ。
そして最後に、極めつけみたいな、豹柄のコート。
「これまじで激渋だと思いません!? どうですか!?」
レジーナは腕を広げてポーズを取る。
「……それは、やめた方がいい」
「デスヨネー」
レジーナは即答した。
自分でも分かってたらしい。
レジーナが次の服を掴もうとした瞬間、ルナは棚の中に目を走らせた。
何か、“無難でちゃんとしたもの”を探す。
この空間の中で、唯一安心できる形を。
そして、見つけた。
落ち着いた色。変な装飾はない。ラインが素直。
“普通”をしている服。
ルナはそれを引っ張り出して、レジーナに差し出す。
「……これならいいんじゃない?」
レジーナが受け取り、眉を上げる。
「え、これ……いい! 先輩センス抜群じゃないですか!!!
普段ZOZOで買ってるくせに!!!」
「うるさい」
ルナは短く言った。
レジーナはその服を胸に当てて鏡を見て、
次の瞬間、少しだけ真面目な顔になった。
ふざけてない顔。
誰かの目じゃなく、自分の目で見ている顔。
「……うん」
小さく頷く。
「これ、いいかも」
試着室に入って、出てきたレジーナは——さっきまでの“悪意の衣装”が嘘みたいに整っていた。
同じ人間なのに、輪郭が変わる。
布一枚で、人は別の誰かになれる。
「どうです?」
レジーナが聞く。
ルナは頷いた。
「……変じゃない。ちゃんと……似合ってる……と思う」
レジーナは一瞬だけ目を丸くして、
それから照れ隠しみたいに鼻で笑った。
「……それにしたら?」
「オッケー!!!!」
レジーナは即答した。
レジへ向かう途中、レジーナは袋を指で軽く叩きながら言った。
「へへへ~。 先輩に選んでもらった服……明日早速着ますね!」
ルナは返さなかった。
返したら、きっと“普通”という言葉がまたひっかかる気がしたからだ。
それでも、
レジーナが袋を抱え直して笑うのを見ていると、
さっきまで胸の奥にへばりついていた冷たさが、ほんの少しだけ薄くなる気がした。
――――――――――――――――――
GUの自動ドアが開いた瞬間、外の空気が一段ざわついているのが分かった。
人の声が多い。足音が速い。視線の向きが揃っている。
“何か”が起きたときの街の匂いだった。
レジーナが紙袋を抱え直しながら、顔を上げる。
「……え、なに? なんか騒がしくないですか?」
店の前の歩道に、制服姿の警官が数人。
無線を耳に押し当てている者、通行人を手で制している者。
パトカーの赤色灯が、まだ昼の明るさの中で妙に浮いて点滅していた。
ルナの喉の奥が、ひやりとする。
理由は分からない。
でも、この“騒がしさ”は、いつも良い方向に転ばない。
近くにいた警官へ、ルナは一歩だけ近づいた。
「すみません……何かあったんですか?」
警官は一瞬こちらを見て、すぐに視線を通りの先へ戻す。
緊張した顔のまま、短く言った。
「ジュエリー店の強盗が逃走しました。危険ですので、近づかないでください」
「……強盗」
ルナが小さく復唱した瞬間、背骨の奥がきしんだ。
「え……じゃあ、追いかけましょうよ。 私たちも協力するので!!」
ルナの脳が一瞬遅れて言葉を拾う。
私たち。
その二文字が、嫌な重さで胸に落ちた。
「ダメです」
警官の声は即座に鋭くなる。
「素人が追うと巻き込まれます。帰ってください」
「そんなこと言ったって!!!」
レジーナは一歩踏み出しかけた。
その肘を、ルナが掴んで止める。
「……やめとこう」
ルナの声は低かった。
レジーナは不満そうに口を尖らせる。
「……なんで? 強盗でしょ!? そんな事するやつなんて……!」
なんで。
——理由は言えない。
言葉にした瞬間、現実がまた“上書き”される気がした。
ルナは通りの向こう、警官たちの視線が集まっている方向を見た。
人の群れ。店のガラスに反射する光。遠くで誰かが叫ぶ声。
強盗。
刃物。
加害。
そして、あの化け物。
(……強盗がいるなら……もしかしたら)
思考がそこまで行った瞬間、胃の奥が冷たく落ちる。
あれが“加害者だけを狙う”なら。
この街のどこかで、また——。
「……レジーナ」
ルナは視線を戻さずに言った。
「……ここは警察に任せて、帰ろう」
「だからなんで!? 警察に任せるったって、それでまた人が刺されたりとかしたらどうするんですか!!!」
レジーナがすぐ返す。
紙袋をぎゅっと抱えて、妙に頑なな顔をした。
ルナはその横顔を見て、言葉にしないまま、観察する。
人の悪事に、すごく敏感だ。
正義感というより、嫌悪に近い温度で。
(……でも、連続殺人の話は避けようとする……)
ルナは一瞬、言葉に詰まった。
「……強盗だよ? 危ないよ」
できるだけ普通のトーンで言う。
言い方を間違えたら、レジーナは反発じゃなく“突撃”に変わる。
「分かってますよ、そんなこと。
でも捕まえなかったら、人が死ぬかもしれませんよ!?」
レジーナは強く言い切る。
正義感というより、“悪事が見逃されること”への拒絶に近い温度だ。
ルナは数秒、迷った。
ここで強く突っぱねれば、レジーナは逆に意地で首を突っ込む。
止められない未来が見える。
(……だったら、近づけさせない方がいい)
ルナは息を吐き、妥協を選んだ。
「……分かった。ただし、不用意に近づかないこと。
絶対。私の言うことを聞いて」
レジーナは口を開きかけて、いったん閉じた。
「……分かりました」
ルナは一歩下がり、周囲の騒音から少しだけ距離を取った。
そしてスマホを取り出し、画面を開く。
指が震えないように、息を整えてから発信する。
呼び出し音が一回、二回。
『……もしもし』
イリスの声が出た瞬間、ルナの肩がわずかに落ちた。
声だけで、“現実に杭を打てる相手”がいると分かる。
「イリスさん。今、GUの近くなんですけど……」
ルナは通りを見ながら言う。
「ジュエリーの強盗が逃げたって聞きました」
『……分かってる。こっちにも情報が回ってきてる』
「それで……」
喉が少し乾く。
言うべきか迷って、迷っても結局、言うしかない。
「強盗がいるなら……例の化け物が、来るかもしれません」
一拍。
電話の向こうが、わずかに静かになる。
雑音が引いて、イリスの呼吸だけが聞こえた気がした。
『……分かった』
即答だった。
迷いがないわけじゃない。
でも、切り捨てない人の返事だった。
『非番だけど……私も現場を見に行く。
本当に“いる”のか、私の目で確かめる』
ルナは、唇を噛みそうになるのを堪えた。
嬉しい、というより怖い。
イリスがここまで言うのは、それだけ現実が壊れているということだ。
「……気をつけてください」
ルナは低く言った。
『あなたも。絶対に近づきすぎないで』
イリスの声が硬くなる。
『私が到着するまで、余計なことはしない。いい?』
「……はい」
通話が切れた。
ルナはスマホを握ったまま、少しだけ目を閉じた。
胸の奥で、嫌な予感がゆっくり膨らんでいく。
背後で、レジーナが覗き込む。
「誰です?」
ルナは目を開けて、できるだけ平然と答えた。
「……知り合い。ちょっと確認するって」
レジーナはそれ以上聞かず、通りの先を見た。
紙袋を抱える腕に、妙に力が入っている。
街はまだ騒いでいる。
騒ぎは“今から始まる”みたいに、少しずつ濃くなっていった。
――――――――――――――――――
ルナとレジーナは、警官に止められた歩道から少しだけ外れた。
正面突破じゃない。あくまで“見える範囲で”、危険から半歩引いたまま。
……のはずなのに。
街のざわめきは、次第に一点へ収束していく。
人の視線が向く方向。無線の声が跳ねる方向。
その“流れ”に逆らうように、何かが裏側へ抜けていった気配があった。
「強盗ってどっちに行ったんですか?」
レジーナが早足で並びながら聞く。
ルナは答える代わりに、地面を見る。
靴底が擦れたような跡。
人混みを押し分けたときの、妙に乱れた水たまり。
そして——
「……あれ」
店のショーウィンドウの角。
ガラスにべったり付いた、黒っぽい汚れ。
指で引っかいたような、雑な線。
(……手袋じゃない。素手……?)
嫌な想像が、ひょいと顔を出す。
刃物を持って走る人間が、落ち着いて逃げ道を選べるとは限らない。
ルナは横道へ視線を滑らせた。
表通りの明るさから一段落ちる、建物の影。
配送用の裏口。
細い通路。
そして、路地。
(……行くなら、あそこだ)
「そっち?」
レジーナがついてくる。紙袋が擦れて、かさ、と乾いた音を立てた。
「……それ。音、出る」
ルナが短く言う。
「あ……」
レジーナは慌てて袋を抱え直し、胸に押し付けた。
二人は路地へ入る。
途端に、街の音が遠のく。
明るさが削られ、空気が湿る。
足音が壁にぶつかって戻ってくる。
(……この感じ)
ルナの喉が、自然に乾く。
既視感じゃない。体が覚えている。
“あの夜”の空気だ。
「なんか……急に寒くないです?」
レジーナが声を落とす。
「……黙って」
ルナは言った。厳しい言い方になったのを自覚しても、直さなかった。
今は言葉より耳が欲しい。
——遠くで、金属が擦れる音。
——靴が水を踏む音。
——誰かの、荒い呼吸。
ルナは立ち止まり、壁際に身体を寄せた。
レジーナも真似をする。呼吸が浅い。
(……いる)
その確信が落ちた瞬間、路地の奥から影が飛び出してきた。
人間。
フードを被り、片手に光るもの。
刃物だ。
そしてもう片方の手には、布袋のようなものを握りしめている。
(ジュエリー……)
強盗は二人を見ても止まらない。
止まるどころか、逃げ道を塞がれたと理解したように、舌打ちをした。
「……邪魔すんじゃねえ!!」
刃が、ぎらりと振り上がる。
「……やめろ!!」
聞き覚えのある声。
強盗のさらに奥、路地の曲がり角。
その声の主は環境工学の非常勤講師……レイモンドだった。
「……っ」
ルナの心臓が、嫌な跳ね方をした。
よりによって知ってる顔だ。
レイモンドは片手で刃を避けようとして、腕を切られている。
血が袖を濡らし、暗い地面に点々と落ちていた。
「金を出しやがれ!! ……いや、黙ってろ!動くんじゃあねえ!」
強盗が刃物を振りかざす。
今度はレイモンドの喉元へ。
(間に合わない……!!)
ルナの体が勝手に一歩踏み出しかけた、その瞬間——
“上”が、落ちた。
音がなかった。
ただ、影が降った。
真上。建物と建物の隙間。
そこから、何かが——
ぐしゃり、と重い音。
強盗の身体が、赤黒い飛沫と一緒に裂けた。
刃物が、地面に落ちて転がり、乾いた金属音を響かせる。
それより遅れて、強盗の上半身と下半身が、別々の方向へ崩れた。
「……ぇ?」
レジーナの声にならない声が漏れる。
ルナは息をするのを忘れていた。
目の前の現実が、脳の理解を追い越していた。
——立っている。
——それが。
白い目。
裂けた口。
濡れたような黒い液体が、皮膚の代わりにまとわりついている。
人の形をしているのに、人の匂いがしない。
化け物が、ゆっくりと首を傾けた。
強盗の“残り”を一瞥するように見下ろし、
次に——
振り向いた。
ルナの方へ。
目が合った、気がした。
白目のはずなのに、“見ている”圧だけが刺さる。
(……来る!)
ルナが後ろへ退くより早く、化け物が跳んだ。
地面を蹴った音が遅れてくる。
空気が割れる。距離が消える。
「っ……!」
ルナは反射で腕を上げた。
防げないと分かっているのに、防御の形だけ作る。
その瞬間——
乾いた破裂音が四つ、重なった。
パン、パン、パン、パン。
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路地が銃声を跳ね返し、胸の奥まで響かせる。
化け物の身体が、弾かれるようにのけぞる。
黒い液体が飛び散り、壁に叩きつけられて、粘ついた線になる。
四発目で、膝が折れた。
巨体が崩れ落ちる音が、路地に鈍く響いた。
「ルナさん!! 伏せて!!」
背後から飛んできた声。
イリスだった。
私服のまま、片手にハンドガン。
息は乱れていない。乱れているのは目の奥だけだ。
走ってきたのに、撃つまでの動作が、異様に迷いなく繋がっていた。
ルナは足の感覚が戻らないまま、半歩だけ後ろへ下がる。
腕が震える。胃がむかつく。
レジーナの方を見ると、彼女は地面にへたり込んでいた。
紙袋が手から滑り落ち、買ったばかりの服が袋の口から少し覗いている。
“日常”の切れ端が、血と銃声の中に落ちているのが不自然すぎた。
「……う、そ……?」
レジーナの唇が震える。声が出ない。
腰が抜けている。立てない。
イリスは銃口を下げないまま、倒れた“それ”を睨んでいる。
近づかない。
呼吸だけで距離を測っている顔。
「……これが……」
イリスの声が、ひどく低い。
「……あなたが言ってた……」
ルナは頷くこともできなかった。
ただ、視線を外せない。
レイモンドが、地面を這うようにして距離を取ろうとしていた。
腕を押さえ、血に濡れた顔で状況を見回す。
「……な、何だったんだ……今のは……?」
声が震えている。理解が追いついていない。
「……助かった、のか……?」
イリスは一瞬だけレイモンドに視線を投げ、すぐ戻した。
「動かないでください。すぐに救急を呼びます」
そして、倒れた化け物へ。
イリスの表情が変わった。
恐怖じゃない。
“腑に落ちた”顔だ。
「……本物だ」
小さく、言い切るように呟く。
誰に言ったのでもない。自分に言った言葉だった。
路地の空気が、さらに重くなる。
遠くのサイレンが近づいてくる。
それでもルナは、倒れている化け物から目が離せなかった。
——撃沈した。
のに。
あの黒い液体が、まだ生き物みたいに、ゆっくりと蠢いている気がした。
レイモンドは片手で腕の傷を押さえながら、壁にもたれた。
呼吸が荒い。顔色が悪い。血の匂いが路地の湿気に混ざって、妙に生々しい。
「……助かった……」
声が掠れて、言葉が途中でひっかかる。
「……殺されるかと思いました。知らない男に、いきなり……」
ルナは喉の奥で息を呑んだ。
“知らない男”。
その言い方が、今この状況をどうにも薄くしてしまう。
刃物の強盗は確かに人間だ。でも——さっき落ちてきたものは、そんな単語で括れない。
レイモンドはイリスの方を見た。
私服の女性が拳銃を持っているという、普通ならあり得ない光景を、脳が処理しきれていない目。
「……警察ですか?」
イリスは短く頷いた。
「そうです。 ……とりあえず、救急が来るまで動かないでください」
「……すみません、ありがとうございます」
レイモンドは言って、視線を泳がせた。
強盗だったもの。
そして、その傍らに倒れた“それ”。
「……で、あれ……何なんですか?」
乾いた声が落ちる。
「なんか……着ぐるみ?いや、違う……え、今の……何が起きたんだ……?」
答えがない質問だった。
ルナは唇を開きかけて、閉じた。
説明するほど言葉を持っていない。持っていたとしても、ここで言っていい気がしなかった。
言った瞬間、また現実が“上書き”されそうで。
レジーナが地面に座り込んだまま、震える声で息を吐いた。
「……あれ……人じゃ、ない……」
言った直後、自分の言葉を怖がるみたいに口元を押さえる。
涙は出てないのに、目だけが濡れている。
イリスは銃口を下げないまま、倒れた“それ”を見据えていた。
近づかない。
でも、逸らさない。
警察官としての目が、そこにある。
「……ルナさん」
イリスは視線を切らずに言う。
「あなたは下がって」
ルナは頷こうとして、うまく首が動かない。
身体がまだ“さっきの跳躍”を追いかけている。
心臓が、現実より数秒遅れてバクバクしている。
遠くから、サイレンが大きくなる。
複数台。
路地の入口の方で人の声が重なり、足音が増える。
「こちらポート警察!現場確保!」
無線の声。
そして、ライト。
数人の警官が路地になだれ込んできた。
制服の肩、反射材、懐中電灯の白い光。
その光が“それ”を照らした瞬間、空気が一瞬だけ止まった。
「……うわ……」
「なんだこれ……これが、もしかして……?」
誰かの声が漏れる。
訓練された人間が、訓練では扱わないものを見たときの声。
イリスは顔だけを少し向けた。
「犯人の強盗は死亡。刃物所持。被害者一名、腕を負傷。救急要請済み」
警官の一人が、強盗の遺体の方へ視線を走らせた。
「……了解。規制線張れ!一般人は下がらせろ!」
別の警官がルナとレジーナを見つけ、声を張る。
「あなたたち!ここにいないで!危険だから!」
「……すみません、私たち……」
ルナが言いかけたが、言葉が途切れる。
どこから話せばいい。何を話せばいい。
そもそも、話していいのか。
イリスが一歩だけ前に出た。
制服の警官に、低い声で短く告げる。
「彼女たちは私が対応する。下がって」
その言葉の強さに、警官は反射で頷いた。
イリスの“格”が、ここで効く。
現場は手際よく切り分けられていく。
救急のための動線。規制線。目撃者の誘導。
普通の事件の処理。
——普通の、はずなのに。
ルナは倒れた“それ”を見た。
黒い液体が壁に飛び散っている。
粘ついた跡がある。
なのに、光の当たり方によっては、それが“最初から無かった”みたいに見える瞬間がある。
(……いや……)
視界が揺れる。
気のせいかもしれない。
気のせいであってほしい。
レイモンドが、まだ状況を飲み込めないまま、もう一度言った。
「……助けてくれて、ありがとうございます。
ほんと……あのままだったら、私は……」
言葉が最後まで続かなかった。
想像が追いついて、喉が締まった。
ルナはようやく頷いた。
「……助かって良かったです」
声が、思ったより小さい。
良かった、と言いながら、胸の奥は冷たいままだった。
“助かった”という結果が、安心に繋がらない。
この街では、助かった事実すら、次の瞬間に書き換わりそうだから。
レジーナは立ち上がろうとして、また膝が抜けた。
「……むり……」
情けないって自分で思ってそうな声。
でも、情けなくなんかない。正常だ。
イリスが一瞬だけこちらを見る。
「深呼吸して。大丈夫、もう来ないから……」
“もう来ない”
その断言が、路地の湿気に吸われて、妙に軽く感じた。
警官たちが現場写真を撮り始める。
フラッシュの白い光が数回、暗い路地を瞬かせた。
その光が落ち着いたあと——
ルナの背中に、遅れて寒気が走った。
――――――――――――――――――
サイレンの音が、路地の入り口でぐっと大きくなった。
赤色灯の回転が壁に反射して、湿ったコンクリートが瞬く。
救急車が停まり、白いライトが現場を切り取るように照らした。
「救急です! 負傷者どこ!?」
担架の金属が鳴り、足音が増える。
警官の指示が飛び、路地は一気に“作業現場”になる。
人が集まれば集まるほど、さっきまでの非現実が薄まっていく——薄まる、はずだった。
レイモンドは救急隊員に支えられながら立ち上がり、肩で息をしていた。
腕の傷は応急処置の包帯で巻かれ、血は止まりかけている。
でも顔はまだ青い。
目だけが、ずっと同じ場所を見ようとして、見ないようにしている。
「……ちょっと、担架乗りましょう。歩かないで」
救急隊員が言い、レイモンドの身体を導く。
レイモンドは担架へ腰を下ろす。
途中でふっと、思い出したみたいにルナの方へ顔を向けた。
その目は、さっきまでの混乱とは違う。
現実に戻ろうとしている人間の目だ。
だからこそ、妙に胸がざわつく。
「……オオクラさん」
レイモンドは、包帯の巻かれた腕を見ながら、ルナに告げた。
「ピースフルデイズの件……いつでもご連絡くださいね」
その言葉が、場違いなくらい穏やかだった。
まるでこの路地で起きたことが、最初から“無かった”みたいに。
たった今まで、真っ二つの死体と白目の化け物がそこにいたのに。
ルナの脳が遅れて繋がる。
「……そうでした」
ルナは思い出したように言った。
「次の火曜日のコマが無いので……そこでも大丈夫ですか?」
レイモンドは小さく頷く。
その頷きが、なんだか律儀すぎた。
「……分かりました。私から会長にそうお伝えしておきます」
そのまま、救急車の扉が閉まった。
エンジン音が上がり、サイレンが再び鳴り始める。
救急車は路地の入口からゆっくりと出ていった。
赤い光が遠ざかり、壁の反射が薄れていく。
残ったのは、現場の白いライトと、警官の声と、
そして——へたり込んだままのレジーナだった。
レジーナは地面に座ったまま、膝を抱え、紙袋を落とした手が宙を彷徨っている。
目は開いているのに、焦点が合っていない。
呼吸だけが速い。
「……レジーナ」
ルナが呼ぶと、レジーナは微かに肩を震わせた。
「……やだ……」
声がひどく小さい。
さっきまでの勢いが嘘みたいに、壊れている。
ルナは周囲を一度だけ見た。
警官たちは忙しい。現場は動いている。
誰も、レジーナ一人の震えに構っていられない。
だから——ルナがやるしかない。
ルナはしゃがみ、レジーナの腕をそっと取った。
力を入れすぎると拒絶される気がして、触れるだけに近い力で。
「……立てる?」
問いかける声は、意外と優しかった。
自分でも驚くくらい。
レジーナは首を振る。
涙が出そうなのに出ない目で、ルナを見上げる。
「……足が……なくなったみたい……」
それは比喩じゃなかった。
本当に足の感覚が抜けている人の言い方だった。
ルナは一瞬迷ってから、レジーナの身体を引き寄せる。
肩を自分の胸に預けさせる形で抱えた。
レジーナの体は冷たい。買い物の熱なんてもう残っていない。
「……帰ろう」
ルナは短く言った。
“帰ろう”と言うことで、自分にも命令したかった。
レジーナは答えない。
ただ、ルナの服を掴む指だけが、必死だった。
ルナはレジーナを支えながら立ち上がる。
紙袋を拾い、もう片方の手で持つ。
服が袋の口から少し覗いている。
ルナはレジーナを抱えたまま、路地の外へ歩き出した。
背後では警官の声が飛び交い、フラッシュが瞬き、
現場が“いつもの処理”へと塗り替えられていく。
——まるで、最初からそういう事件だったみたいに。
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