DYING MEMORY 2

DYING MEMORY

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SCENE 08:事故から生まれた志

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路地を出た瞬間、空気の温度が一段変わった。
騒ぎの中心から半歩引いただけなのに、耳に入ってくる音が「事件」から「街」へ戻ろうとしている。
その戻り方が、逆に不気味だった。
さっきまで確かにあった銃声の残響も、血の匂いも、湿った壁の圧も――誰かが雑に拭き取っていくみたいに薄れていく。

ルナはレジーナの身体を支えたまま歩いた。
肩に預けられた重さは軽くない。けれど、重さよりも怖いのは、レジーナの足だった。

踏み出すたびに、膝が遅れてついてくる。
地面があるのに、地面を信用していない歩き方。人の脚って、こんなふうに“意識が切れる”んだ、とルナは冷えた頭で思う。



「……大丈夫。ゆっくりでいい」

声は意外なほど落ち着いて出た。
落ち着いていないのは、胸の奥の方だった。まだ、路地
に“戻ってしまう”感覚が残っている。背中側に、あの白い目が貼り付いている気がする。

人混みを避けるように、ルナは壁際を選んで歩く。
視線がこちらに集まりかけると、すぐ角を曲がった。

少し離れた場所、街路樹の影が濃いところで、ルナは立ち止まった。
このまま抱えて歩くのは無理がある。レジーナの脚は戻っていないし、ルナの腕もいつか抜ける。

「……一回、座ろう」

ルナはレジーナを慎重に降ろした。
地面に座らせる、というより「地面に戻す」感覚だった。レジーナはそれだけで小さく震えた。



ルナは周囲を確認してから、レジーナのショルダーバッグに手をかけた。
勝手に触れるのは気が引けた。けれど、いま必要なのは遠慮じゃない。

(……ごめん)

心の中でだけ謝罪をして、ファスナーを開く。

財布。リップ。鍵の束。
そして、硬いプラスチックの端が指先に当たる。

免許証だった。
ルナは視線を落として、住所を読む。

ルナは自分のスマホを取り出し、地図アプリを開いた。
住所を入力する指が、ほんの少しだけ震える。

ピンが立った。

ルナはもう一度だけ住所を確認して、画面を見比べた。間違いない。
ここから近い。歩ける距離。けれど、レジーナは歩けない。

ルナは免許証を元に戻し、バッグを閉めた。
そしてレジーナの前にしゃがみ込む。

「……立てる?」

レジーナは薄く首を振った。
視線がルナの足元を漂って、戻ってこない。

「……分かった」

ルナは言い切って、レジーナの腕を肩に回した。
立ち上がる動作で、レジーナの体重がずしりと乗る。ルナの背中が一瞬だけ軋んだ。

「……行くよ」

返事はない。
ただ、レジーナの指がルナの服を掴む力だけが強くなる。

ルナは地図アプリを片手で見ながら、歩き出した。
街の灯りが、いつも通りの顔で点滅している。
その“いつも通り”が、今だけは嘘みたいに薄かった。

それでも、ルナは歩幅を崩さない。
ルナの肩に預けられた重さを、現実の杭みたいにして、ただ前へ進んだ。

――――――――――――――――――

地図のピンが示した場所は、駅前の賑わいから一本外れた、妙に静かな通りにあった。
古いわけじゃない。むしろ新しめの集合住宅だ。外壁の色も、植え込みの剪定も、“生活が整っている”側の匂いがする。

ルナは肩に担いだレジーナの重さを確かめるように息を吐いて、エントランスを抜けた。

エレベーターの鏡に、二人の姿が映る。
ルナは自分の顔を見ないようにして、表示階を確認した。

到着のチャイムが鳴き、扉が開く。
廊下は蛍光灯の白い光で、影が薄い。

部屋番号。
そこまで来て、ルナは一度だけ足を止めた。

(……鍵は?)

また“勝手に”になる。
でも、ここまで連れてきて玄関前で立ち尽くす方が、よほど無責任だ。

ルナはレジーナのショルダーバッグを肩から外し、ファスナーを開ける。
鍵束が、金属らしい重みで掌に落ちた。

カチャ。
小さな音。
その音が、妙に“帰宅”っぽくて胸がざらついた。

扉を開けると、空気が変わる。
室内の匂い――女の子の部屋の匂いだ。

ルナは靴を脱ぐスペースに慎重にレジーナを入れ、靴を蹴散らさないように身体をずらして廊下へ通した。
レジーナの足は相変わらず頼りない。床があるのに床を踏めていない。

「……ごめん。少しだけ……お邪魔します」

ルナはリビングを横切り、寝室らしい部屋へ入った。
ベッドがある。シーツは淡い色で、枕元に小さなぬいぐるみが座っている。
さっきの地獄と釣り合わないほど、生活が整っている。

ルナはレジーナをベッドへ降ろした。
重さがふっと抜ける。
レジーナは倒れ込むように沈み、まぶたを強く閉じたまま、息を吐いた。呼吸はまだ浅い。けれど、さっきみたいな“壊れた速さ”ではない。



しばらくは、目を開けられないだろう。
目を開けた瞬間に、路地の映像が飛び込んでくる。今の彼女には、それを受け止める足場がない。

ルナは枕元の灯りをつけず、部屋の明るさを最小限のままにした。
眩しさは覚醒を促す。今は眠らせた方がいい。
ルナはベッドの脇に座る。背筋が勝手に固くなる。
ここは他人の部屋だ。呼吸の仕方すら、少し遠慮してしまう。

その遠慮を切るために、ルナはスマホを取り出した。
画面の明かりが顔を冷たく照らす。
ニュースアプリ。速報。検索欄。

――ジュエリー店 強盗 逃走
――路地
――上下切断

指を動かすたび、現実が小さく削れていく気がした。

記事が出た。
見出しは淡々としている。

「ジュエリー店強盗、逃走中に死亡」
「刃物所持」
「目撃情報求む」

本文を読む。
そこに、確かにあった。

“何者かにより上下切断されたとみられる”――その一文。

ルナの喉の奥が冷える。
切断。ここまでは書くのに。

犯人――というか、切断した存在については、どこにも触れられていない。
“何者か”。
曖昧で、無責任で、便利な言葉。
そして続くのは、いつもの逃げ道だ。

“連続殺人事件との関連も視野に捜査”
“同一犯の可能性”



(……やっぱり、アレがない)

“化け物”の単語がない。
“人ではないもの”の気配がない。
警官たちも見たはずだ。イリスも撃った。黒い液体も、壁の粘つきも。

それらが、文章に載らない。
載らないだけじゃない。載せる気配すらない。

ルナは確信した。ただの編集じゃない。
これは、情報操作だ。

――誰が。
あの化け物を生み出している組織がやっているのか。
それとも、その上にいる“もっと別の手”が、街を圧しているのか。

ルナは別の記事も開いた。
別媒体。地方紙。まとめサイト。SNSの断片。
どれも似たような文面で、同じ方向を向いている。

切断の描写はある。
しかし、原因は“何者か”。
結論は“連続殺人”。
すべてが、その箱に収まるように整えられている。

ルナは検索ワードを変えた。
“白目” “黒い液体” “人型” “落下” “異常個体”。

思いつく限りの怪しい組織名も入れた。
大学の裏、研究機関、宗教、闇医療、武器密売、人体実験。

それらしい噂話はいくらでも出る。だが、どれも“今回”に繋がらない。
一致しない。噛み合わない。
誰かが、噛み合わないようにしている。

指先が冷えてきた。
画面の光が、目の奥を疲れさせる。
情報を追えば追うほど、現実の輪郭が薄くなる。
まるで、検索する行為そのものが“上書き”の引き金みたいに。

ルナは、息を吐いた。
そして、スマホの画面を伏せるように閉じた。

埒が明かない。
今は、この場所で掴める答えはない。

――――――――――――――――――

スマホを閉じたあと、部屋の静けさが戻ってきた。
戻ってきた、というより――最初からここはこうだった、みたいな顔をしている。

ルナはベッドの脇に座ったまま、レジーナの呼吸を数えていた。

リビングは小さく、整っていた。
散らかってはいない。でも几帳面すぎてもいない。
生活が、ちゃんと“続いている”部屋だ。

棚の上にはぬいぐるみがいくつか並んでいて、妙に新しい顔をしてこちらを見ていた。
幼いというより、愛嬌を忘れないための“置き物”みたいな存在感。
キッチンのシンク脇には、柄付きの食器。
花柄のマグと、小さな皿。
レジーナのテンションの高さが、そのまま柄になったみたいな食器だった。

視線を落とすと、リビングテーブルの端に、ひとつだけ異物があった。

小さな箱。
段ボールでもプラスチックでもない、妙にしっかりした素材の箱。
上から太いマジックで、乱暴に書かれている。



文字が、幼い。
けれど子どもの字じゃない。線が大人の癖を持っている。
ふざけているのに、ふざけきれていない。
“冗談のふりをした鍵”だ。

ルナは視線だけで箱を撫で、手を引っ込めた。
代わりに、部屋の奥へ目を向ける。

廊下の先に、もう一つ扉があった。
半開きで、薄い影が落ちている。
“勉強部屋”――そんな匂いがした。

ルナは足音を殺してそこへ近づき、扉を押し開ける。
空気が変わった。

紙とインクと、乾いた埃の匂い。
この匂いは、努力の匂いだ。

(……この大きいのは……本棚?)



部屋の壁一面に、巨大な本棚が鎮座していた。
そこにあるだけで、部屋の重心が下がる。
本棚の高さは天井に迫り、棚板がたわむほど本が詰まっている。

ルナは目を細めて背表紙を追った。

(……これ、全部……技術書?)

システム開発。要件定義。設計。テスト。品質管理。プロジェクトマネジメント。
ネットワーク。データベース。セキュリティ。
分厚い専門書が、隙間なく並んでいる。
表紙はどれも堅い色で、タイトルの字体まで真面目だ。

(……こんな大量に……?
これだけ本があるってことは……普段の彼女のアホっぷりは演技……?)

そして、その真面目な壁の中に、ぽつんと違う色が混ざっていた。



――「イジメ」
――「ハラスメント」
――「支配」
――「加害と被害の心理」
――「組織の暴力」

専門書と並ぶには、あまりに生々しい単語だった。
同じ“社会”を扱っているはずなのに、温度が違う。
体温のある本。

ルナは近づき、棚の高さに合わせて視線を上げた。
専門書のほうには、書き込みも折り目も少ない。
綺麗だ。学ぶための本として、普通に綺麗だ。

けれど「イジメ」の棚だけは、異常だった。

付箋が貼られている。
一冊に数枚、じゃない。
ページの端という端に、色が刺さっている。
黄色、ピンク、青、オレンジ。
付箋が“目印”というより、傷口を縫う糸みたいに並んでいた。

同じページに何枚も重なるところがある。
そこだけ、付箋の厚みで紙の輪郭が変わっている。
何度も開き直した跡。指の脂で波打った端。
読み返す執念が、紙の形に残っていた。

ルナは、無意識に喉を鳴らした。

(……っ)

付箋の一本を、つい目で追ってしまう。
その瞬間、言葉が頭に入る前に、“キーワード”だけが刺さった。



その二文字が、脳の奥を指でぐいと掴んで引っ張るみたいに――
思考の表面をめくって、下に隠していたものを露出させた。

視界の端に、勝手に映像が浮かぶ。
あのLINE。
送信者の名前。時間。短い文。
そして、黒い手紙。
紙の黒。インクの黒じゃない、塗りつぶされたみたいな黒。

呼吸が一瞬だけ遅れた。
部屋の匂いが遠のく。
代わりに、路地の湿気が喉の奥に戻ってくる。



(……!!)

ルナは本棚から一歩退いた。
退いた拍子に、付箋が擦れて小さな音を立てた。
それすら不快で、ルナは扉に手をかける。

勉強部屋を出る。
廊下へ戻る。
深呼吸をひとつ。

そして、ベッドルームへ戻った。

レジーナはまだ横になったままだった。
まぶたは閉じ、顔色は薄い。
けれど胸が上下している。
その呼吸のリズムが、さっきよりほんの少しだけ落ち着いていた。

ルナはベッド脇に座り、レジーナの手元を見た。
指先が、シーツを掴んでいる。
夢から落ちないようにするみたいに。

ルナは何も言わず、ただその手がほどけないように、少しだけ近くにいた。

――――――――――――――――――

レジーナの呼吸が、ふっと途切れた。

そのあと、まぶたがわずかに震える。
薄い膜の向こうから現実を探るみたいに、ゆっくりと目が開いた。

「……ん……」

声は掠れて、喉の奥で引っかかった。
視線が天井をなぞり、壁を見て、カーテンを見て――最後に、枕元のぬいぐるみで止まる。

そこでようやく、眉がきゅっと寄った。

「……え……? ここ……」

自分の部屋。
なのに、その事実に辿り着くまでに一拍遅れる。
さっきまでの路地の湿気が、まだ瞼の裏にこびりついているのだろう。

レジーナは身体を起こそうとして、肩が強張る。
痛みじゃない。怖さだ。動いた瞬間に“あれ”が追いかけてくる気がして、体が拒否している。

「……動かなくていい」

ベッド脇にいたルナが、低い声で言った。
レジーナの視線が、ようやくルナに合う。

「あ……先輩……?」

言葉の勢いがなくて、レジーナらしくない。
確認するみたいな声。

次の瞬間、レジーナの目がさらに丸くなる。
現実が揃ったからこそ、疑問が噴き出した。



「……え、なんで先輩が……てか、なんで私、家……? え、いつ……?」

ルナは一瞬だけ言葉を選ぶように黙ってから、淡々と答えた。

「……私がここまで運んだ。あなたが歩けなかったから」

「……は??」

レジーナの顔が固まる。
自分の脚に視線を落とし、シーツの上で足指を動かそうとして、うまく動かなくて、また眉が寄る。

「……ど、どうやって……うち、分かったんですか……?」

その問いに、ルナはため息をひとつだけ落として、視線を逸らしたまま言った。

「バッグの中だよ。免許証、入ってたからそこで住所を見た。
……勝手に中を見たのは謝る」

レジーナは口を開けたまま固まって――数秒後、ふっと肩の力を抜いた。

「……あー……なるほどね……」

納得した、というより、
納得するしかない、という顔だった。

それでも次の瞬間、レジーナの視線が部屋の奥――廊下の方向へすべる。
そして、察したように小さく鼻で笑った。

「……先輩、勉強部屋……入りました?」

ルナは否定しなかった。
嘘をついても意味がない。

「……少しだけ」

「あー……やっぱり」

レジーナの口調は少し戻る。
戻ったけど、いつもの軽さには届かない。
軽口を叩くための息が、まだ肺の奥まで降りていない。

「……あの本棚、見ましたよね」

ルナは短く頷く。

「……うん。IT分野に関する技術書とか……
ハラスメントやイジメに関わる本があまり多すぎる……って思った」

レジーナは枕に頭を落としたまま、天井を見つめる。
それから、何かを決めたみたいに視線を戻してきた。

「……変だと思いました?」

「……変、というか……」

ルナは言い淀んだ。
“努力の匂い”という言葉を出したら、レジーナの何かを踏んでしまう気がした。

レジーナはルナの曖昧さを気にしない。
代わりに、珍しく真面目な目をした。

「私、ああいうの……なんとなくで揃えてないんですよ」



その言い方が、やけに重い。
冗談で逃げる余地を自分から潰している声だった。

「アイトー工科大学に入ったのも、“なんとなく”じゃないです」

ルナは返事をしなかった。
ただ、目を逸らさずに聞く準備をした。

レジーナは一瞬だけ唇を噛む。
痛みじゃなく、記憶の角を噛むみたいな仕草。

「……私、小さい頃……公園で遊んでたんです。普通にブランコとか、砂場とか」

そこまで言って、息を吸う。
吸った空気が冷たいのか、喉が一度だけ詰まる。



「そしたら近くで……子どもが泣いてて。
……お母さんが、その子の腕、すっごい強く掴んでて」

レジーナの声が、少しずつ平坦になっていく。
感情を乗せると崩れるから、言葉を“報告”に変えている。

「叩いてたとか、殴ってたとか……そういう派手なのじゃなくて。
……でも、子どもの腕、赤くなってて。引っ張られて、痛いって泣いてて」

ルナの胸の奥が、嫌な形で冷える。
“いじめ”の棚と同じ冷え方だ。

「私、それ見て超ムカついて……『やめてください!』って言ったんです。
……まあ、今の私なら絶対言うセリフだと思いますけど」

レジーナは小さく笑おうとして、笑えなかった。

「そしたら、そのお母さん……こっち見て。
いきなり私、頭を殴られて、お腹を思い切り蹴られました」



言葉は淡々としているのに、場面が生々しく立ち上がる。
蹴られた衝撃の“音”が、ルナの想像の中で鳴る。

「……で、ますます怒鳴って、子どもの手をもっと強く引っ張って、どこか行こうとしたんです。
そのとき――」

レジーナは、そこで一度止まった。
目が揺れる。
さっきまでの路地とは違う種類の揺れだ。
過去の光景が、いま目の前に来てしまっている揺れ。

「……事故が起きました」

ルナの喉が動く。
言葉は出ない。

レジーナは続ける。

「暴走車が……そのお母さんだけ、轢いたんです。
……即死でした。ほんと、一瞬で」

ベッドの上のレジーナの指先が、シーツを掴む。
ぎゅ、と。
掴むことでしか、話の続きを支えられないみたいに。



「運転してた人、お酒の匂いすごかったって。
……後で聞きました。
子どもは……なんとか無事で。転んだだけで済んだって」

ルナは、やっと息を吐いた。
吐いた息が、細い。

レジーナは天井を見たまま言う。

「その光景が……私の中に、残りました。ずっと。
悪いことしてる人が、急に死ぬ。
そんな奴なんて死ねばいいなんて思ったことあるけど、いざそいつが死ぬと……それが怖くって。
私……それを見て、ショックで倒れそうになりました」

“悪い人だけが死ぬ”
“そんな奴なんて死ねばいい”
“でも悪い人が死ぬと、それが返って怖くなる”

さっきの路地と同じ構図が、ここで刺さる。
ルナの背中が、じわりと寒くなる。

レジーナはゆっくりとルナの方へ顔を向けた。



「で、後になって分かったんです。
そのお母さん、IT企業の人で……上司から日常的にパワハラ受けてたって。
『こんなことすら意識出来てねえクソ女なのかよ』とか、『ガキなんか産むから甘えた人間になんだよ』とか……。
そんな罵声を浴びせられて、ストレスでおかしくなって、家で爆発してたって」

言葉が、静かに燃えている。

「旦那は旦那で……ギャンブルばっかで、家のこと何もしないクズ。
子どもの世話なんか全然しないし、そっちもモラハラばかり。
子どもは、その二人の間で、ずっと……」

レジーナはそこで言葉を切った。
言い切ると、怒りが溢れそうだった。

そして、少しだけ声を落として続ける。

「……だから、思ったんです。
“社会”って、そういうのを平気で作るんだって。
一人の人間を壊して、別の弱いところにぶつけて、結局、未来を作る子どもが一番やられる」

レジーナの目が、まっすぐだった。
いつもの冗談の目じゃない。
誰かの苦しさを、ずっと見てきた目。

「私、そういうの……変えたいんです。
別に世界救いたいとか、カッコいい理由じゃなくて。
……ああいうの、もう見たくないって思って」

ルナは、しばらく黙っていた。
言葉にした瞬間、軽くなる気がした。

だから、代わりに一つだけ言った。

「……それで、今の大学に?」

レジーナは小さく頷く。

「はい。
どうすればITの仕事でも、人が壊れずに働けるのか。
どうすれば“上”が人を潰さなくなるのか。
……そのために、ちゃんと勉強したくて」

それから、少しだけ口元を歪める。



「……まあ、私が賢いから、とかじゃないですけど。
むしろ逆。先輩も知っての通り、私とんでもなくアホだから。
あの技術書は量で自分をぶん殴ってるだけです」

いつものレジーナが、ほんの少し戻った。
でも、戻ったのは“逃げ”じゃない。
今夜の話を続けるための、呼吸の仕方だった。

(……アホなのは演技じゃなくて素なのか。
でも……その変えたいっていう信念は本物だ)

ルナは、目を伏せた。
本棚の“努力の匂い”が、いまようやく言葉にならない形で胸に落ちる。

「……そっか。……すごいね」

小さく漏れたその一言は、褒め言葉じゃなくて、
“重さの承認”だった。

レジーナは一瞬だけ目を丸くして、すぐに視線を逸らす。

「……別に。
先輩みたいに、かっこよくないです。
かっこよくないし、頭も悪いし……」

その言い方が、妙に弱かった。
たぶん彼女は、今日見たもののせいで“正しさ”が揺らいでいる。

ルナは、レジーナの手元に視線を落とした。
シーツを掴む指が、まだ白い。

「……レジーナ。今日は、もう休んで」

レジーナは返事をする代わりに、小さく頷いた。
頷き方が、子どもみたいだった。

ルナは立ち上がる。
長居すればするほど、この部屋の温度に甘えてしまう。
甘えは、逃げ場所にもなる。

「……先輩」

ドアへ向かいかけた背中に、レジーナの声が飛んだ。
ルナが振り向くと、レジーナはまだ目を開けたまま、天井を見ている。

「……さっきの……あれ。
私、忘れられないと思います」

ルナは、頷けなかった。
否定もできなかった。

ただ、ドアノブに手を置いたまま言う。



「……とにかく。今は寝てほしい。
あなたは……あなたも、色んなものを見すぎた」

レジーナのまぶたが、ゆっくり落ちる。
その閉じ方が、ようやく“眠り”の形だった。

ルナは扉を静かに閉める。
廊下に出た瞬間、部屋の匂いが遠のき、また街の冷たさが近づく。

それでも――
背中に残った呼吸の音だけが、今夜の現実を繋ぎ止めていた。
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