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第一章 横浜に飛行場があった!
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■東京・有楽町
結局、祖母の葬儀屋ら何やらで弘樹は島に数日留まることになった。用事が済んでも、次の船まで何日か待たなければならないからだ。上司に電話して事情を説明すると、状況が状況だからと認めてはくれたが、忌引きを超過する日数は有給休暇を使わざるを得ない。
(くー。飛行機が毎日飛んでたらこんなことにはならなかったのに。いや、その前にばあちゃん助かってたかもしれないし。)
数日後、たっぷりのお詫びのお土産を配って出社した弘樹は、休暇中の処理を最低限終わらすと、肩身の狭い職場から逃げ出すように営業に出た。
有楽町にあるクライアントを訪問して外に出ると、駅前でどこかの団体が署名活動を行っているのに出くわした。いつもなら興味もなく素通りするのだが、その時はふと「南陽諸島」という言葉が耳に入って進みかけた歩みを止めた。そして掲げられている横断幕を見る。
「南陽諸島空港建設反対!環境破壊を許すな!貴重な生態系を守れ!」
署名活動をしているのは、その分野にあまり興味がない弘樹でも名前をよく知っている環境保護団体だった。あの日、海上保安庁や自衛隊が救助活動に向かった船を運航していた団体だったのだから、それも当然である。そこでは数人の若者が揃いのシャツを着て、駅前を歩く人に声をかけていだが、立ち止まる人はほとんどいない。
弘樹立ち止まっているのを関心があると勘違いしたのか、一人の若い女性がペンとバインダーに挟んだ署名用紙を持って近づいてきた。
「すみません、署名活動に協力していただけませんか? 今、南陽諸島では・・。」
その女性が弘樹の顔を覗き込むように言う。一瞬、好みのタイプかも、と考えた弘樹だったが、頭を振って話を遮り、キッと睨み返した。
「島の不便さが分からないやつらが。お前らのせいでばあちゃんは助からなかったんだ。」
弘樹は差し出されたバインダーを突き返すと、踵を返して立ち去って行った。
夕方、署名活動の道具を片付けながら由紀は落ち込んでいた。昼間に若い男性に言われた言葉が頭から離れない。
「由紀、どうしたの? ぼんやりして。許可とってるの五時までなんだから、それまでに撤収しないと。」
「あ、はい。すぐやります。」
そう答えたものの、心ここにあらずといった感じだ。いつもなら事務所に戻って荷物を片付けてから仲間たちと一杯というところだが、そのときは適当な理由をつけてそのまま直帰させてもらった。
帰りの電車の中で窓に映る自分の姿を見つめながら、由紀は自問自答していた。
(私は正直、この環境保護活動に限界を感じている。活動に意味がないとは思わない。けど、これまで何年かやってきて少しでも何か変えられただろうか。
もうすぐ三〇。自分を見つめ直す時期かもしれない。周りはみんなそれなりに自分の道を生きている。大学院のゼミの仲間の一人は、再生エネルギーの会社でバリバリ働いている。環境保護をビジネスとして生かしているのだ。先生になって、子供たちに環境の大切さを教えると言っている友人もいる。もちろん結婚して子供を抱えている友人もいる。
そんな中で、私は一体何をしているのだろう。どれだけ頑張って活動してもほとんど社会に影響を与えられない。それどころか、守ろうとした島の人から否定される…。)
「あっ。」
由紀は電車のドアに駆け寄ったが、すんでのとことで扉は閉まってしまった。自宅のある駅を乗り過ごしてしまったのだ。仕方なく次の駅で下車し、跨線橋を通って反対方向のホームに下りた。そしてしばらく待つと、上り方面の電車に乗った。
帰宅ラッシュとは逆方向の電車の車両には、数えるほどしか人は乗っていなかった。だが、一駅だけなのでシートに座る気にもなれず、由紀はドアの脇に立っていた。
(居眠りしたわけでもないのに、考え事をして乗り過ごしたなんて笑いものね。)
自嘲だったが、歪んだ笑い顔がガラスに映った。その顔があまりにも情けなく不細工に見えたので、自嘲から本当の笑いに変わってきた。
(だめだぞ、由紀。お前はそんなに弱い人間だったか? 壁にぶつかったら、避けたり乗り越えたりするんじゃなくて叩き壊してしまえ。)
下車駅に電車が到着して扉が開くと由紀は自分で両頬を強く叩き、意識して力強く一歩を踏み出してみた。考えてもうまくいかないときは、形から入ってみるのも一つだ。環境と利便性の両立はできないのか。ちょっと今の活動を休止して、何ができないか調べてみよう。
■横浜・根岸
弘樹は顧客である横浜の資産家藤田悦子に呼ばれて向かった。電車を根岸駅で降りると、いつもはそのまま北に進むのだが、今日は乗り継ぎがスムーズだったので思ったよりも少し早めに到着した。かといって、喫茶店に入るほどの時間でもない。桜の季節だったので、ふと少し遠回りをして行こうと思い、掘割川の方に向かって歩き出した。
交通量の多い大通りを五〇〇メートルほど歩くと、左側に古い案内板が立っていた。
「根岸飛行場跡」
飛行場? へえ、こんなところに昔は飛行場があったんだ。そのときはそれ以上深く気に留めることもなく、弘樹は少し遠回りをして顧客の家に向かった。
藤田のおばあさんの家は、歴史の重みを感じられる洋館だった。江戸時代末期に開港した横浜は西洋文化が入ってくるのも早く、山手を中心に今でも多くの建物が残っている。根岸でも当時作られた競馬場の跡が公園として整備されている。そんな洋館の一室で、見るからに高級そうなティーカップに注がれた紅茶を飲みながら藤田は話した。
「そろそろ資産を処分しようかと思ってね。子供もいないし、私も年だし。現金にすれば、死ぬまで老人ホームに入ってもお釣りがくるでしょ。」
確かに、彼女の持っている株や投資信託を整理すれば数億円になるだろう。年齢を考えれば、これ以上資産運用してどうするというものでもないのは分かる。だがしかし。弘樹は言葉に詰まり、それをごまかすためにティーカップに口をつけた。
「残ったらあんたにあげようか。」
弘樹は思わず口に含んだ紅茶を吹き出しそうになり、それを何とか抑えた代わりに大きくむせこんだ。
「冗談だよ。私もそこまで酔狂じゃない。寄付なりなんなり考えてみるわ。」
「分かりました。とりあえず目録を作って、いま現金化したらどれくらいになるか見積もってみますね。」
何とかその場を取り繕って、弘樹は広げていた書類をカバンにしまい始めた。おばあさんは窓から見える根岸湾を眩しそうに見ている。
「そういえば、昔、根岸に飛行場があったんですか?」
ふと、先ほど見た看板のことを思い出して弘樹は聞いてみた。
「飛行場? ああ、水上飛行場のことね。飛行艇って知ってる?」
「飛行艇? 聞いたことはあるような気もするけど、よくわかりません。」
「あんた、『紅の豚』見たことないの?」
おばあさんからアニメ映画のタイトルが出てきたことに驚いた弘樹だが、それでやっと分かった。
「水上から飛ぶ飛行機ですね。海に浮かぶ。」
「そうそう。その飛行艇の飛行場が根岸にあって、南洋に飛んでいたのよ。」
「南洋って、沖縄とかですか?」
「いえいえ、南洋っていったらパラオやサイパンのことですよ。そのころは日本の委任統治領だったから、けっこう繁盛していましたよ。」
おばあさんは、往時の思い出にふけっているようだ。だが、弘樹の頭の中には全く別の考えが浮かんでいた。
(そうか、飛行艇なら環境問題がある空港を作らなくても飛行機で行けるようになるな。)
■江東区新木場・東京ヘリポート
「わざわざ出向いてもらって悪いね。」
「いえ、初めてなので面白いです。」
定年近くになり、資産の見直しのために本郷は新木場の東京ヘリポートにあるレインボー航空事務所に弘樹を呼んでいた。事務所には自社で運航しているヘリコプターや飛行機の模型がたくさん飾ってある。
「ヘリコプターの会社じゃなかったんですか?」
弘樹は模型のセスナを興味深そうに眺めながら聞いてみた。
「小型機のチャーター便とか遊覧飛行もしているよ。そっちは主に調布飛行場からだけどね。」
「へえ、そうなんですね。南陽諸島まで行けたらいいのに。」
「はは、そうだね。でも島には空港が無いじゃない?」
「ええ、環境保護のために、もう何十年も空港の話は出たり消えたりで。自然を守りたいのも分かるんですが、住んでいる身からしたら、定期の航空便がないのはやっぱり不便ですよ。船なんで一本逃したら次の便まで一週間待たないと行けないんですから。」
「そうだよなあ。空港があったら、うちの会社でも定期便をとばしたいよ。遊覧飛行がしたくてこの業界に入ったわけじゃないからね。」
本郷は障害物に遮られてみないはずの羽田空港の方を、目を細めて眺めていた。その顔を見て、弘樹は前から疑問に思っていたことを聞いてみた。
「本郷さん、どうして前の会社を辞められたんですか? 残ることもできたんですよね?」
「ああ、そのことか。」
弘樹の方に一旦顔を向けた本郷は、複雑な表情をしながら目を反らすと、また外を眺めながら言った。
「俺のいた会社が破綻したのは知ってるよな。あれだけニュースになったんだから。元々国策でできた会社だったから、民営化してもその体質が抜けきらなかったってことだ。当時は史上最大の経営破綻とか言われて。
確かに、経営にも現場にも問題はたくさんあったよ。でも、社員ひとりひとりはみんな飛行機が好きだったんだよな。そのとき俺はちょうど人事部にいて、そんな仲間たちを何人も辞めさせなくちゃならない立場になった。まあ、リストラだな。
会社の経営状態は分かっているから、一部には抵抗する人もいたけど大部分は素直に勧告に従ったよ。で、そのリストラが一段落した時・・。
ポジション的に、残ろうと思えば残れたんだ。でも、何人もクビにしといて自分だけ残るなんて寝覚めが悪くてな。」
「でもそれは本郷さんのせいじゃないでしょう?」
「どうだかね。もちろん、自分のせいで潰れたなんてのは逆におこがましいけど、破綻の直前まで自分に危機感があったかというと疑わしいよ。大企業で社会の交通インフラを担っている会社を潰すことはないだろうってね。結局、現場も含めて社員ひとりひとりが会社の経営に関わっているんだという意識がないと、自分一人くらいなんていうわずかな無駄も数万人分が積み重なれば膨大なものになることに俺たちは気が付いていなかったんだ。
たまたま破綻した時に人事部にいただけで生き残れた。そんなの納得できなくてな。それで辞めた。」
本郷は口を閉ざすと、また見えない羽田の方角を見つめた。弘樹はそれ以上何も言えず、別れの挨拶をすると静かに事務所から出て行った。
■幕張・エアレース開場
空のF1とも呼ばれる曲芸飛行のパイロットによるレースが、幕張海浜公園で開催されていた。弘樹は取引先からもらったチケットで、一人で見に来ていた。チケットは二枚もらったので気になる人を誘ってみたのだが、あっさり断られてしまった。期日が近かったので今さら他の友だちを誘うわけにもいかず、結局そのまま単身で来たのだ。
レースが終了すると、エキシビションとして案内放送が流れた。それとともに、大きなエンジン音で見たことのない形の飛行機が飛んでくる。
「海上自衛隊の救難飛行艇、US-2がデモンストレーションのために飛来しました。この飛行機は海上で離発着できる飛行で、三メートルほどの高波でも離着水ができます。」
飛行艇は速度を落とすと静かに着水し、数百メートルほど進んだところで静止した。
「こんなに短い距離で離発着できるんだ。これなら空港を作らなくても飛べるのに。」
弘樹は驚いて思わず感嘆の声をあげてしまった。
その声で気が付いたのか、一人の男性が声をかけてきた。
「国枝君じゃないか。」
「あれ、本郷さん?どうしてこんなところで。」
本郷は笑いながら答えた。
「飛行機好きなんだからおかしくないだろ。君こそどうして。」
「チケットもらったんで。」
「一人で?」
言われて気づいたが、本郷の横には一人の若い女性が立っている。弘樹はどこかで会ったような気がしたが、すぐには思い出せなかった。訝しそうにしている弘樹を見て本郷は言った。
「この人はうちの会社のクライアント。たまにチャーターしてくれるから、今日は接待。海洋の観察に飛行機を使うらしい。」
「一人だけ?」
「何人か誘ったんだけど、他の人は二酸化炭素をまき散らすイベントなんかに行きたくないって、この娘だけ来てくれた。」
「二酸化炭素?」
「環境保護団体なんだって。」
そのとき有楽町の出来事がふと頭に浮かんで、目の前の女性と像が結びついた。
「あー、あのときの・・。」
由紀も驚いて目を丸くしている。そんな二人を見て本郷が言った。
「なんだ、二人は知り合いだったのか。せっかくだから、この後予定が無かったら飯でも行こう。今日は驕るよ。」
■東京・八重洲
京葉線で都内に戻った三人は、本郷の驕りで夜景が見えるレストランにいた。
サーブされた食前酒で簡単に乾杯をすると、前菜が運ばれてくるまではしばらく間がある。
「何で君は来たの? 環境保護の立場からしたら、他の人みたいに反対じゃないの?」
料理が来るまでの間に弘樹が意地悪く聞いてみた。
「私が来なかったからってイベントが中止になるわけじゃないし。ちょっと飛行艇に興味があったの。」
「現実的なんだね。で、何で飛行艇なの?」
「助けられたことがあって。」
「助けられた?」
由紀は南陽諸島の沖合で調査船が座礁し、救難飛行艇に助けられた時のことを話した。生々しく間一髪の救出劇の話を聞くと弘樹も、それ以上由紀を責めることができなくなってしまった。
「飛行機が好きなんですか?」
由紀が話題を替えるように切り出した。
「別に。ただチケットをもらったから。」
「じゃあ何でひとり? もしかして彼女に振られたとか。」
少しお酒が入って打ち解けてきた由紀の反撃だ。半分図星なのでお酒のせいばかりでなく弘樹は顔を真っ赤にした。
「君も一人じゃないか。もっとも、あんな仕事をしてちゃ相手もなかなか見つからないか。」
「私は本郷さんに誘われたから。でも、あながち外れでもないかな。正直、何も変えられないことにちょっと限界感じてる。団体の中の人じゃ結婚しても生活成り立たないし、外の人には理解してもらえないし。」
反撃のつもりが、意気消沈した由紀を見ると自分も萎えてきてしまい、今度は慰める立場になってしまった。
「いや、そんなことないよ。きっと分かってくれる人はいるから。」
「俺、帰ろうか?」
二人の世界に入ってしまったように感じて、本郷が少し控えめに言った。二人とも顔を見合わせ、一瞬言葉に詰まる。
「そ、それより、飛行艇ってすごいんですね。あんなに短い距離で離発着できるんだ。あれなら空港作らなくても南陽まで飛べるのに。」
無理矢理取り繕うように弘樹は言った。
「まあ、飛ぶだけならね。」
本郷は受け流したが、弘樹の発言に由紀は黙って考え込んだ。
帰り際、弘樹と由紀は連絡先を交換していた。
結局、祖母の葬儀屋ら何やらで弘樹は島に数日留まることになった。用事が済んでも、次の船まで何日か待たなければならないからだ。上司に電話して事情を説明すると、状況が状況だからと認めてはくれたが、忌引きを超過する日数は有給休暇を使わざるを得ない。
(くー。飛行機が毎日飛んでたらこんなことにはならなかったのに。いや、その前にばあちゃん助かってたかもしれないし。)
数日後、たっぷりのお詫びのお土産を配って出社した弘樹は、休暇中の処理を最低限終わらすと、肩身の狭い職場から逃げ出すように営業に出た。
有楽町にあるクライアントを訪問して外に出ると、駅前でどこかの団体が署名活動を行っているのに出くわした。いつもなら興味もなく素通りするのだが、その時はふと「南陽諸島」という言葉が耳に入って進みかけた歩みを止めた。そして掲げられている横断幕を見る。
「南陽諸島空港建設反対!環境破壊を許すな!貴重な生態系を守れ!」
署名活動をしているのは、その分野にあまり興味がない弘樹でも名前をよく知っている環境保護団体だった。あの日、海上保安庁や自衛隊が救助活動に向かった船を運航していた団体だったのだから、それも当然である。そこでは数人の若者が揃いのシャツを着て、駅前を歩く人に声をかけていだが、立ち止まる人はほとんどいない。
弘樹立ち止まっているのを関心があると勘違いしたのか、一人の若い女性がペンとバインダーに挟んだ署名用紙を持って近づいてきた。
「すみません、署名活動に協力していただけませんか? 今、南陽諸島では・・。」
その女性が弘樹の顔を覗き込むように言う。一瞬、好みのタイプかも、と考えた弘樹だったが、頭を振って話を遮り、キッと睨み返した。
「島の不便さが分からないやつらが。お前らのせいでばあちゃんは助からなかったんだ。」
弘樹は差し出されたバインダーを突き返すと、踵を返して立ち去って行った。
夕方、署名活動の道具を片付けながら由紀は落ち込んでいた。昼間に若い男性に言われた言葉が頭から離れない。
「由紀、どうしたの? ぼんやりして。許可とってるの五時までなんだから、それまでに撤収しないと。」
「あ、はい。すぐやります。」
そう答えたものの、心ここにあらずといった感じだ。いつもなら事務所に戻って荷物を片付けてから仲間たちと一杯というところだが、そのときは適当な理由をつけてそのまま直帰させてもらった。
帰りの電車の中で窓に映る自分の姿を見つめながら、由紀は自問自答していた。
(私は正直、この環境保護活動に限界を感じている。活動に意味がないとは思わない。けど、これまで何年かやってきて少しでも何か変えられただろうか。
もうすぐ三〇。自分を見つめ直す時期かもしれない。周りはみんなそれなりに自分の道を生きている。大学院のゼミの仲間の一人は、再生エネルギーの会社でバリバリ働いている。環境保護をビジネスとして生かしているのだ。先生になって、子供たちに環境の大切さを教えると言っている友人もいる。もちろん結婚して子供を抱えている友人もいる。
そんな中で、私は一体何をしているのだろう。どれだけ頑張って活動してもほとんど社会に影響を与えられない。それどころか、守ろうとした島の人から否定される…。)
「あっ。」
由紀は電車のドアに駆け寄ったが、すんでのとことで扉は閉まってしまった。自宅のある駅を乗り過ごしてしまったのだ。仕方なく次の駅で下車し、跨線橋を通って反対方向のホームに下りた。そしてしばらく待つと、上り方面の電車に乗った。
帰宅ラッシュとは逆方向の電車の車両には、数えるほどしか人は乗っていなかった。だが、一駅だけなのでシートに座る気にもなれず、由紀はドアの脇に立っていた。
(居眠りしたわけでもないのに、考え事をして乗り過ごしたなんて笑いものね。)
自嘲だったが、歪んだ笑い顔がガラスに映った。その顔があまりにも情けなく不細工に見えたので、自嘲から本当の笑いに変わってきた。
(だめだぞ、由紀。お前はそんなに弱い人間だったか? 壁にぶつかったら、避けたり乗り越えたりするんじゃなくて叩き壊してしまえ。)
下車駅に電車が到着して扉が開くと由紀は自分で両頬を強く叩き、意識して力強く一歩を踏み出してみた。考えてもうまくいかないときは、形から入ってみるのも一つだ。環境と利便性の両立はできないのか。ちょっと今の活動を休止して、何ができないか調べてみよう。
■横浜・根岸
弘樹は顧客である横浜の資産家藤田悦子に呼ばれて向かった。電車を根岸駅で降りると、いつもはそのまま北に進むのだが、今日は乗り継ぎがスムーズだったので思ったよりも少し早めに到着した。かといって、喫茶店に入るほどの時間でもない。桜の季節だったので、ふと少し遠回りをして行こうと思い、掘割川の方に向かって歩き出した。
交通量の多い大通りを五〇〇メートルほど歩くと、左側に古い案内板が立っていた。
「根岸飛行場跡」
飛行場? へえ、こんなところに昔は飛行場があったんだ。そのときはそれ以上深く気に留めることもなく、弘樹は少し遠回りをして顧客の家に向かった。
藤田のおばあさんの家は、歴史の重みを感じられる洋館だった。江戸時代末期に開港した横浜は西洋文化が入ってくるのも早く、山手を中心に今でも多くの建物が残っている。根岸でも当時作られた競馬場の跡が公園として整備されている。そんな洋館の一室で、見るからに高級そうなティーカップに注がれた紅茶を飲みながら藤田は話した。
「そろそろ資産を処分しようかと思ってね。子供もいないし、私も年だし。現金にすれば、死ぬまで老人ホームに入ってもお釣りがくるでしょ。」
確かに、彼女の持っている株や投資信託を整理すれば数億円になるだろう。年齢を考えれば、これ以上資産運用してどうするというものでもないのは分かる。だがしかし。弘樹は言葉に詰まり、それをごまかすためにティーカップに口をつけた。
「残ったらあんたにあげようか。」
弘樹は思わず口に含んだ紅茶を吹き出しそうになり、それを何とか抑えた代わりに大きくむせこんだ。
「冗談だよ。私もそこまで酔狂じゃない。寄付なりなんなり考えてみるわ。」
「分かりました。とりあえず目録を作って、いま現金化したらどれくらいになるか見積もってみますね。」
何とかその場を取り繕って、弘樹は広げていた書類をカバンにしまい始めた。おばあさんは窓から見える根岸湾を眩しそうに見ている。
「そういえば、昔、根岸に飛行場があったんですか?」
ふと、先ほど見た看板のことを思い出して弘樹は聞いてみた。
「飛行場? ああ、水上飛行場のことね。飛行艇って知ってる?」
「飛行艇? 聞いたことはあるような気もするけど、よくわかりません。」
「あんた、『紅の豚』見たことないの?」
おばあさんからアニメ映画のタイトルが出てきたことに驚いた弘樹だが、それでやっと分かった。
「水上から飛ぶ飛行機ですね。海に浮かぶ。」
「そうそう。その飛行艇の飛行場が根岸にあって、南洋に飛んでいたのよ。」
「南洋って、沖縄とかですか?」
「いえいえ、南洋っていったらパラオやサイパンのことですよ。そのころは日本の委任統治領だったから、けっこう繁盛していましたよ。」
おばあさんは、往時の思い出にふけっているようだ。だが、弘樹の頭の中には全く別の考えが浮かんでいた。
(そうか、飛行艇なら環境問題がある空港を作らなくても飛行機で行けるようになるな。)
■江東区新木場・東京ヘリポート
「わざわざ出向いてもらって悪いね。」
「いえ、初めてなので面白いです。」
定年近くになり、資産の見直しのために本郷は新木場の東京ヘリポートにあるレインボー航空事務所に弘樹を呼んでいた。事務所には自社で運航しているヘリコプターや飛行機の模型がたくさん飾ってある。
「ヘリコプターの会社じゃなかったんですか?」
弘樹は模型のセスナを興味深そうに眺めながら聞いてみた。
「小型機のチャーター便とか遊覧飛行もしているよ。そっちは主に調布飛行場からだけどね。」
「へえ、そうなんですね。南陽諸島まで行けたらいいのに。」
「はは、そうだね。でも島には空港が無いじゃない?」
「ええ、環境保護のために、もう何十年も空港の話は出たり消えたりで。自然を守りたいのも分かるんですが、住んでいる身からしたら、定期の航空便がないのはやっぱり不便ですよ。船なんで一本逃したら次の便まで一週間待たないと行けないんですから。」
「そうだよなあ。空港があったら、うちの会社でも定期便をとばしたいよ。遊覧飛行がしたくてこの業界に入ったわけじゃないからね。」
本郷は障害物に遮られてみないはずの羽田空港の方を、目を細めて眺めていた。その顔を見て、弘樹は前から疑問に思っていたことを聞いてみた。
「本郷さん、どうして前の会社を辞められたんですか? 残ることもできたんですよね?」
「ああ、そのことか。」
弘樹の方に一旦顔を向けた本郷は、複雑な表情をしながら目を反らすと、また外を眺めながら言った。
「俺のいた会社が破綻したのは知ってるよな。あれだけニュースになったんだから。元々国策でできた会社だったから、民営化してもその体質が抜けきらなかったってことだ。当時は史上最大の経営破綻とか言われて。
確かに、経営にも現場にも問題はたくさんあったよ。でも、社員ひとりひとりはみんな飛行機が好きだったんだよな。そのとき俺はちょうど人事部にいて、そんな仲間たちを何人も辞めさせなくちゃならない立場になった。まあ、リストラだな。
会社の経営状態は分かっているから、一部には抵抗する人もいたけど大部分は素直に勧告に従ったよ。で、そのリストラが一段落した時・・。
ポジション的に、残ろうと思えば残れたんだ。でも、何人もクビにしといて自分だけ残るなんて寝覚めが悪くてな。」
「でもそれは本郷さんのせいじゃないでしょう?」
「どうだかね。もちろん、自分のせいで潰れたなんてのは逆におこがましいけど、破綻の直前まで自分に危機感があったかというと疑わしいよ。大企業で社会の交通インフラを担っている会社を潰すことはないだろうってね。結局、現場も含めて社員ひとりひとりが会社の経営に関わっているんだという意識がないと、自分一人くらいなんていうわずかな無駄も数万人分が積み重なれば膨大なものになることに俺たちは気が付いていなかったんだ。
たまたま破綻した時に人事部にいただけで生き残れた。そんなの納得できなくてな。それで辞めた。」
本郷は口を閉ざすと、また見えない羽田の方角を見つめた。弘樹はそれ以上何も言えず、別れの挨拶をすると静かに事務所から出て行った。
■幕張・エアレース開場
空のF1とも呼ばれる曲芸飛行のパイロットによるレースが、幕張海浜公園で開催されていた。弘樹は取引先からもらったチケットで、一人で見に来ていた。チケットは二枚もらったので気になる人を誘ってみたのだが、あっさり断られてしまった。期日が近かったので今さら他の友だちを誘うわけにもいかず、結局そのまま単身で来たのだ。
レースが終了すると、エキシビションとして案内放送が流れた。それとともに、大きなエンジン音で見たことのない形の飛行機が飛んでくる。
「海上自衛隊の救難飛行艇、US-2がデモンストレーションのために飛来しました。この飛行機は海上で離発着できる飛行で、三メートルほどの高波でも離着水ができます。」
飛行艇は速度を落とすと静かに着水し、数百メートルほど進んだところで静止した。
「こんなに短い距離で離発着できるんだ。これなら空港を作らなくても飛べるのに。」
弘樹は驚いて思わず感嘆の声をあげてしまった。
その声で気が付いたのか、一人の男性が声をかけてきた。
「国枝君じゃないか。」
「あれ、本郷さん?どうしてこんなところで。」
本郷は笑いながら答えた。
「飛行機好きなんだからおかしくないだろ。君こそどうして。」
「チケットもらったんで。」
「一人で?」
言われて気づいたが、本郷の横には一人の若い女性が立っている。弘樹はどこかで会ったような気がしたが、すぐには思い出せなかった。訝しそうにしている弘樹を見て本郷は言った。
「この人はうちの会社のクライアント。たまにチャーターしてくれるから、今日は接待。海洋の観察に飛行機を使うらしい。」
「一人だけ?」
「何人か誘ったんだけど、他の人は二酸化炭素をまき散らすイベントなんかに行きたくないって、この娘だけ来てくれた。」
「二酸化炭素?」
「環境保護団体なんだって。」
そのとき有楽町の出来事がふと頭に浮かんで、目の前の女性と像が結びついた。
「あー、あのときの・・。」
由紀も驚いて目を丸くしている。そんな二人を見て本郷が言った。
「なんだ、二人は知り合いだったのか。せっかくだから、この後予定が無かったら飯でも行こう。今日は驕るよ。」
■東京・八重洲
京葉線で都内に戻った三人は、本郷の驕りで夜景が見えるレストランにいた。
サーブされた食前酒で簡単に乾杯をすると、前菜が運ばれてくるまではしばらく間がある。
「何で君は来たの? 環境保護の立場からしたら、他の人みたいに反対じゃないの?」
料理が来るまでの間に弘樹が意地悪く聞いてみた。
「私が来なかったからってイベントが中止になるわけじゃないし。ちょっと飛行艇に興味があったの。」
「現実的なんだね。で、何で飛行艇なの?」
「助けられたことがあって。」
「助けられた?」
由紀は南陽諸島の沖合で調査船が座礁し、救難飛行艇に助けられた時のことを話した。生々しく間一髪の救出劇の話を聞くと弘樹も、それ以上由紀を責めることができなくなってしまった。
「飛行機が好きなんですか?」
由紀が話題を替えるように切り出した。
「別に。ただチケットをもらったから。」
「じゃあ何でひとり? もしかして彼女に振られたとか。」
少しお酒が入って打ち解けてきた由紀の反撃だ。半分図星なのでお酒のせいばかりでなく弘樹は顔を真っ赤にした。
「君も一人じゃないか。もっとも、あんな仕事をしてちゃ相手もなかなか見つからないか。」
「私は本郷さんに誘われたから。でも、あながち外れでもないかな。正直、何も変えられないことにちょっと限界感じてる。団体の中の人じゃ結婚しても生活成り立たないし、外の人には理解してもらえないし。」
反撃のつもりが、意気消沈した由紀を見ると自分も萎えてきてしまい、今度は慰める立場になってしまった。
「いや、そんなことないよ。きっと分かってくれる人はいるから。」
「俺、帰ろうか?」
二人の世界に入ってしまったように感じて、本郷が少し控えめに言った。二人とも顔を見合わせ、一瞬言葉に詰まる。
「そ、それより、飛行艇ってすごいんですね。あんなに短い距離で離発着できるんだ。あれなら空港作らなくても南陽まで飛べるのに。」
無理矢理取り繕うように弘樹は言った。
「まあ、飛ぶだけならね。」
本郷は受け流したが、弘樹の発言に由紀は黙って考え込んだ。
帰り際、弘樹と由紀は連絡先を交換していた。
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支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
「魔物の討伐で拾われた少年――アイト・グレイモント」
(イェイソン・マヌエル・ジーン)
ファンタジー
魔物の討伐中に見つかった黄金の瞳の少年、アイト・グレイモント。
王宮で育てられながらも、本当の冒険を求める彼は7歳で旅に出る。
風の魔法を操り、師匠と幼なじみの少女リリアと共に世界を巡る中、古代の遺跡で隠された力に触れ——。
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