殉教

坂上靖

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第一章

異端の書

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修道院の朝は静謐のうちに始まる。鐘の音が石壁に反響するなり、修道士たちのひっそりとした足音が石造りの回廊に響き渡る。しかしすれ違う者の表情は皆かたく、怯えすら含んでいた。時は1521年、ルターの95か条の論題が出されてから4年が経過し、カトリックとプロテスタントの対立は激化の一途をたどっている。どちらにつくかで、町全体が魔女狩りや異端審問に巻き込まれるのは日常茶飯事で、自由都市アウクスブルクの修道院でも緊張が走っていた。

そんなある日、若き修道士ヨハネは、まだ夜露の残る中庭を抜けて、書庫へと向かっていた。彼は修道士としての務めを果たす傍ら、古文書の整理と焚書の選別を命じられていた。というのも世俗から寄進された書物の中には、教義から逸脱した異端思想や、呪術めいた自然科学も数多く含まれており、信仰を守るためにもそれらを神聖なる書架から撤去する必要があるからだ。ヨハネは蝋燭に火をともすと黙々と書物を手に取り、目を通していった。中世の神学書、詩篇、アリストテレスの注釈…どれも見慣れたものばかりだった。しかし、その中に異様に薄く、題名すらない冊子があった。恐る恐る本を開くと彼は1ページ目に記されたラテン語の一節に凍りついた。

「地球は太陽の中心にあらず。惑星は太陽を中心として円軌道を描く」

彼は周囲を恐る恐る見回した。これは明らかに地動説を主張する文言だった

「…これは…異端だ…」

思わず声に出した瞬間、背筋が凍り付いた。このような記述は、神学的秩序を否定するものであり、焚書にするべき代物だ。見つけ次第炉に行くよう幼い時から学んできた。しかし、次のページを見た彼は、立ち尽くすしかなかった。

「惑星の逆行は、地球自身の運動による視覚的錯覚である。」

「星々の視差が見えないのは、それらの距離があまりに遠いからである」

もはや彼の目の前にあるのは、占星術の呪文でも神への冒涜でもなく、美しく整った思考の連なりだった。地球の公転と自転という大胆な仮説。昼夜の交替を地球の回転で説明する試み。神が据えた絶対中心として地球の地位を問い直す姿勢。理性が警鐘を鳴らしていたが、ヨハネはページをめくる手を止めることができなかった。同時に知的好奇心という悪魔のような感情が襲い掛かり、彼の心を高ぶらせる。

「…なぜこんな本が修道院に?」

ふと見ると最後のページの余白には、走り書きのような署名があった。

“R.F.1520”

「“R.F.”…以前寄贈記録の中で見たことがある…」

その夜、祈りを終えたヨハネは人目を忍び記録室に向かった。ほこりをかぶった目録帳を開き、“R.F.”の項を辿る。そして、ついに一つの記録を見つけた。

「ルドルフ・フィヒテ。学識ある天文学者。死後、その遺稿が娘によって修道院に寄贈される。」

「娘か…もしや…」

彼の脳裏に浮かんだのは、一人の若い修道女の姿だった。彼女の名はエリーゼ。二年前、大学教授だった父の死をきっかけに自ら俗世を離れ、この修道院の門戸を叩いた。今でもその美しい黒髪と瞳が印象に残っている。

「あの本の著者が、彼女の父親だったというのか?」

ページを閉じた瞬間、彼の心に小さな、そして強烈な炎が灯った。それは神に対する疑念でも、恋でもない。真理に触れた者の静かな目覚めだった。その瞬間から、ヨハネの運命は大きく動き出した。

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