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第二章
禁断の知
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ヨハネが修道院の女子棟の扉の前に立つのは、これが初めてだった。その朝、先輩の老修道士から命じられたのは、貴重な教会史の写本を女子棟の書庫に届けるという単純な任務だったが、彼の胸には妙な緊張が走っていた。石畳の上を歩くたびに、サンダルの音が異様に大きく響く。女子棟の空気は、男子棟のそれとはどこか違っていた。冷たい石壁の向こうからかすかに聞こえる讃美歌ですら異国の言葉のように感じられた。
写本の受け渡しは拍子抜けするほどあっさり終わった。応対したマザーは礼儀正しく会釈し、淡々とした態度で巻物を受け取った。彼女と数語話したあとは、再び長い廊下を戻るだけ…そのはずだった。しかし長い回廊の角を曲がった先で道を間違え、気づけば見覚えのない廊下に立っていた。
「…ここはどこだ?」
焦りながら出口を探していると、やがて木の扉が目に入る。出口だと思い扉を開けると、そこには木漏れ日に照らされた清潔な空間が広がっていた。誰もいない。しかし、明らかに生活の気配がある。几帳面に畳まれた寝具、整理された書物、花瓶に活けられたラベンダー…シスター達の生活区域だった。
「まずい…急いで立ち去らねば…」
慌てて部屋を出ようとしたその時、ふと木製の戸棚に目がとまる。吸い寄せられるようにそれを開くと、中には見覚えのある羊皮紙が数枚保管されていた。その文面を見た瞬間、ヨハネは驚愕した。
「地球は太陽の中心にあらず。惑星は太陽を中心として円軌道を描く」
紛れもない、先日彼が書庫で見つけた地動説の文書の一節だった。
「なぜこんな場所に…まさかここが…」
「見てしまったのね…」
その声に、ヨハネは凍りつく。振り返ると黒髪と瞳が綺麗な修道女が立っていた。
「君が…かのルドルフ・フィヒテの娘…エリーゼか?」
問いかける声に、エリーゼは小さくうなずいた。白い顔は青ざめ、胸元で固く結んだ手は小刻みに震えている。だが、その目は恐れとは違う、確かな意志が宿っていた。しばらく重苦しい沈黙が流れた後、エリーゼが口を開いた。
「どうか…この本のことは誰にも言わないでください…これは…父が命を削って記した遺稿なの…」
確かに彼女の声は震えていた。だがそこには、揺るがぬ芯と修道女としては異様なほどの情熱が込められていた。彼女はさらに続ける。
「星がどう動くのか、なぜ逆行するのか、どうして昼と夜が生まれるのか、そして天ではなく地球こそが動くのではないか…父はそういう問いを祈りではなく、記録と計算で解き明かそうとしたの。でも彼の主張は、最期まで誰にも信じてもらえなかったわ。皆に笑われて、異端扱いされて…」
「でも君の父の主張は…神の奇跡を疑うことではないのか?地球がただの“小さな惑星”に過ぎないとすれば、人間の存在はどうなる?神が創造された秩序そのものを否定することにならないのか?」
ヨハネの声には素朴な疑問と戸惑いが含まれていた。その問いに、エリーゼはかすかに笑って首を振った。
「いいえ。星々の秩序の背後にも、神の意志が宿っていると信じております。ただ聖書の天地創造の一節だけで世界を理解した気にはなれないの…神がそこに秩序を与えたならば、それを解き明かす責任があるのではないでしょうか?」
それは神に対する疑念ではない。むしろ信仰に根差した、真理に対する渇望だった。
「私は父の遺志を継ぎたい。父が見た“地動説”という真理を証明したい。例え理解されなくても。たとえ異端扱いされてここから追い出されても。だから…あなたも…」
エリーゼは、ふと我に返り、口を閉ざしてうつむいた。しかし、それには異端審問や魔女狩りすら恐れぬ覚悟、そして決意が込められていた。“修道士としての自分”と“目の前の”地動説“という真理に魅せられた自分”…ヨハネの胸に凄まじい葛藤が渦巻いた。彼の脳裏には魔女狩りによって理不尽に火刑台に送り込まれる人々の姿が浮かんだ。自分も同じ運目を辿るかもしれない。しかし同時に、あの論理が美しく連なったページの数々が焼き付いて忘れられなかった。もはや迷いはない。
「…わかった。協力しよう。今日の夜8時に書庫の屋根裏部屋に来てほしい。一緒にその真理を追究しよう。」
かくして二人の命を懸けた研究が始まった。
写本の受け渡しは拍子抜けするほどあっさり終わった。応対したマザーは礼儀正しく会釈し、淡々とした態度で巻物を受け取った。彼女と数語話したあとは、再び長い廊下を戻るだけ…そのはずだった。しかし長い回廊の角を曲がった先で道を間違え、気づけば見覚えのない廊下に立っていた。
「…ここはどこだ?」
焦りながら出口を探していると、やがて木の扉が目に入る。出口だと思い扉を開けると、そこには木漏れ日に照らされた清潔な空間が広がっていた。誰もいない。しかし、明らかに生活の気配がある。几帳面に畳まれた寝具、整理された書物、花瓶に活けられたラベンダー…シスター達の生活区域だった。
「まずい…急いで立ち去らねば…」
慌てて部屋を出ようとしたその時、ふと木製の戸棚に目がとまる。吸い寄せられるようにそれを開くと、中には見覚えのある羊皮紙が数枚保管されていた。その文面を見た瞬間、ヨハネは驚愕した。
「地球は太陽の中心にあらず。惑星は太陽を中心として円軌道を描く」
紛れもない、先日彼が書庫で見つけた地動説の文書の一節だった。
「なぜこんな場所に…まさかここが…」
「見てしまったのね…」
その声に、ヨハネは凍りつく。振り返ると黒髪と瞳が綺麗な修道女が立っていた。
「君が…かのルドルフ・フィヒテの娘…エリーゼか?」
問いかける声に、エリーゼは小さくうなずいた。白い顔は青ざめ、胸元で固く結んだ手は小刻みに震えている。だが、その目は恐れとは違う、確かな意志が宿っていた。しばらく重苦しい沈黙が流れた後、エリーゼが口を開いた。
「どうか…この本のことは誰にも言わないでください…これは…父が命を削って記した遺稿なの…」
確かに彼女の声は震えていた。だがそこには、揺るがぬ芯と修道女としては異様なほどの情熱が込められていた。彼女はさらに続ける。
「星がどう動くのか、なぜ逆行するのか、どうして昼と夜が生まれるのか、そして天ではなく地球こそが動くのではないか…父はそういう問いを祈りではなく、記録と計算で解き明かそうとしたの。でも彼の主張は、最期まで誰にも信じてもらえなかったわ。皆に笑われて、異端扱いされて…」
「でも君の父の主張は…神の奇跡を疑うことではないのか?地球がただの“小さな惑星”に過ぎないとすれば、人間の存在はどうなる?神が創造された秩序そのものを否定することにならないのか?」
ヨハネの声には素朴な疑問と戸惑いが含まれていた。その問いに、エリーゼはかすかに笑って首を振った。
「いいえ。星々の秩序の背後にも、神の意志が宿っていると信じております。ただ聖書の天地創造の一節だけで世界を理解した気にはなれないの…神がそこに秩序を与えたならば、それを解き明かす責任があるのではないでしょうか?」
それは神に対する疑念ではない。むしろ信仰に根差した、真理に対する渇望だった。
「私は父の遺志を継ぎたい。父が見た“地動説”という真理を証明したい。例え理解されなくても。たとえ異端扱いされてここから追い出されても。だから…あなたも…」
エリーゼは、ふと我に返り、口を閉ざしてうつむいた。しかし、それには異端審問や魔女狩りすら恐れぬ覚悟、そして決意が込められていた。“修道士としての自分”と“目の前の”地動説“という真理に魅せられた自分”…ヨハネの胸に凄まじい葛藤が渦巻いた。彼の脳裏には魔女狩りによって理不尽に火刑台に送り込まれる人々の姿が浮かんだ。自分も同じ運目を辿るかもしれない。しかし同時に、あの論理が美しく連なったページの数々が焼き付いて忘れられなかった。もはや迷いはない。
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かくして二人の命を懸けた研究が始まった。
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