殉教

坂上靖

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第五章

黄昏

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薄暗い石造りの裁判所の中央に立たされているヨハネの身には、今や粗末な修道着一枚しか纏われておらず、髪は伸び放題で、髭も剃られていなかった。かつて“帝国随一の修道士”とまで謳われた男の姿は、もはやどこにもいない。しかし、目つきだけは異様に鋭く、なにかを見据えていた。しばらくして、裁判長であるモンターニャ枢機卿が、席に着くと法廷は静寂に包まれる。

「ヨハネ。貴様は天体望遠鏡なる道具を用いて地動説を研究した上に、その異端思想を流布し、さらには修道女との淫行という重大な禁忌を犯した罪によりここに召喚された。」

静寂の中、モンターニャは話を続けた。

「貴様は、あのエリーゼという魔女に唆された結果、人心を惑わされ、神の秩序を否定し始めたのではないか?もし彼女がいなければ、信仰の道を踏み外すことはなかったであろうに…今からでも遅くはない…」

異端審問の目的はあくまでも“救済と矯正”にある。ずば抜けた才能を持つ修道士をこのような場所で殺すわけにはいかない。彼はヨハネを更生させるべく、救いの手を差し伸べるつもりだった。しかしその言葉はヨハネを激高させた。

「エリーゼが魔女?この私が唆されただと?ふざけるな!」

彼は椅子から立ち上がり、一歩前に出る。

「エリーゼは魔女ではない!彼女は誰よりも神を愛し、そして真理を追い求めた。そして私は自らの意思でその研究を手伝い、私自身の目で星々が天動説と異なる動きをしていることを突き止めた!」

ざわめく枢機卿達をよそにモンターニャは冷静に質問し始める。

「ほう…聖書を否定する証拠があるとでもいうのか…面白い…申してみよ!」

ヨハネは静かにうなずくと、証拠として押収された天体望遠鏡と記録帳を手に、淡々と話し始めた。

「まず月です。天体望遠鏡で見た月の表面には、明らかな凹凸がありました。影の入り方でそれが山と谷であることが理解でき、月が聖書に書かれている完全な球体ではないことが裏付けられます。こちらが模写となります。」

彼の主張で法廷にざわめきが走る。

「“天上界が完全である”という神学的前提がすでに破綻しているのです。天体もまた、地上の岩石と同じ物質で成り立っているに違いない!」

モンターニャは顔をしかめ、声を荒げた。

「……では、星が地球を回っていると証明できるのか?」

「できます!私は早朝と夕方のタイミングを狙い、この望遠鏡で金星を観測しました。すると、一年七ヵ月の周期でその形が変わるのです。もし金星が常に地球と太陽の間にあるならば、決してこのようには見えない。天動説ではこの現象を説明できません。」

「馬鹿な!金星は地球から見て内側の天球を回っており、太陽の近くを移動している。だから太陽のそばに見える。それだけのことだ!」

「違います。天動説の場合、金星は常に太陽と地球の間にあり、常に三日月状にしか見えないはずです。ですが私は、“半月以上に満ちた金星”を見ました。これは、金星が太陽の向こう側に回り込む瞬間があるということ。すなわち金星が太陽の周りを公転しているということを意味します。」

ヨハネは続けた。

「さらに私は、木星の周辺に小さな光点が存在することに気づきました。毎晩その位置を記録したところ、それらは木星の周囲を規則正しく回っていたのです。」

枢機卿達が驚きを含みつつ、低い声で尋ねた。

「…木星にも月があるということか?」

「はい。よってすべての天体が地球を中心に回っているという教義は破綻します。木星の周りにも秩序がある。天球の中心は唯一無二ではありません!」

モンターニャは立ち上がり、吐き捨てるように怒鳴った。

「それは神の秩序を否定する冒涜だ!」

「違います。」

冷静さを失ったモンターニャとは裏腹にヨハネは静かに応じた。

「むしろ、それは神の創造の“広大さ”を示すものです。我々は神の創った宇宙のわずかな片隅しか理解していない。そんな無知に延々としがみついているあなた方こそ、神を冒涜しているのではないでしょうか?」

モンターニャはすかさず反論した。

「だが、もし地球が動いているというのであれば、星々の位置は季節によって変化するはずだ。それが“視差”という現象であろう。しかし、何人もそれを見たことがない!」

ヨハネは頷いた。

「はい。星の視差が見えないのは事実です。しかし、それは地球が動いてないからではなく、星々が我々の想像を絶するほど遠くにあるからです。たとえば我々が海の向こうの山を見ているとき、海岸を数歩歩いても、山の位置はほとんど変わらない。それと同じように地球の公転による位置の変化など星々にとっては微細すぎて影響しないのです。」

皆が彼の理路整然とした主張に圧倒される中、彼は言い添える。

「これこそが、神が創られた宇宙の偉大さを示す一番の証拠です。広大な宇宙の中で我々はそのほんの片隅を回っている小さな存在にすぎません。それを受け入れることこそが、真の謙虚さ、そして神に対する信仰の念ではないでしょうか?」

モンターニャは最後の手札を叩きつけるように尋ねた。

「だが、もし地球が動いているのであれば、我々はそれを感じるはずだ!なぜそうはならないのだ?」

そういえば昔、エリーゼと同じ話をしていた…ヨハネはなつかしさのあまり微笑んだ。

「“すべてが一緒に動いている”と考えてはいかがでしょうか?例えば海の上をすべるように進む船の上で、物を落としても真っ直ぐに落ちます。というのも人間も空気も船も、そして落としたものも、すべて同じ速度で動いているからです。地球もまた例外ではありません。空気も海も我々も、地球という船に乗り、共に宇宙という大海原を旅している。その運動は相対的なものであり、私たちには静止しているように見えているだけです。」

法廷では論争が巻き起こった。ヨハネの言葉は、もはや“信仰の敵”ではなく、“神の予言”に近い響きがあった。だが、それこそが教会にとっての最大の脅威であった。モンターニャは立ち上がり、沈痛な面持ちで判決文を読み上げる。

「ヨハネ…貴殿の論理は大変的確だ…しかしそれゆえに非常に危険である。人間の理性によって、神の秩序と教義の権威を凌駕しようとするその姿勢こそ最大の異端である。よって火刑に処す。汝の魂をその炎で清めるがよい!」

ヨハネは黙って頷いた。翌朝、ロザリオすら身に着けることが許されないまま、民衆の怒声を浴びせられて火刑台へと進んでいった。だがその瞳には恐怖も悔いもなく、静かなる誇りと確信が宿っていた。空を見上げると天蓋のような曇天の隙間から、一条の光が差し込んでいるように見えた。

 

彼の記録帳と天体望遠鏡は火刑の際に焼却されたため、現存しない。そして彼がアウクスブルクの修道院に在籍した記録や、ローマでの裁判記録も、それぞれドイツ農民戦争とイタリア戦争の戦火で失われた。後世の歴史家で彼の名を知る者はいない。

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