殉教

坂上靖

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第四章

破滅への序曲

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その後も二人は観測を繰り返し、記録し、模写し続けた。ある晩、ヨハネは記録帳を閉じて、ぽつりとつぶやいた。

「しかし…もし地球が本当に動いているのであれば、人はそれを“感じる”はずだという者もいるよな……」

「ええ、彼らはそう主張しているわ…もし地球が自転していたら、空気も水も、私たちも吹き飛ばされているはずだって。」

「それが感じられないのであれば、地球はやはり止まっているのでは…」

エリーゼはしばらく考えた後、ゆっくりと顔を上げ、ヨハネを見つめた。

「私…ずっと前に父と一緒にガレー船に乗ったことがあるの。船が滑るように穏やかに進んでいた時にうっかり物を落としても、それが前や後ろに飛んで行ったりしなかったわ…」

ヨハネは黙って聞いている中、エリーゼは話し続ける。

「それに船が動いているのに、私たちはその中では“静止”しているように感じるの。それと同じじゃないかしら?だから地球が動いていたとしても、地球上にいる私たちも一緒に動いていると仮定すれば……それを直接感じないのも無理はないわ。あと地球が動いている証拠は空を見上げれば沢山あるわ!星々は嘘をつかないもの…」

ヨハネは思わず感心してしまった。そして2年前研究し始めた時より大人びて美しくなったエリーゼの顔を見つめた。これほどまで知性があり、そして美しさを秘めた少女を好きにならない男はいない。しかし神に仕える身として恋愛は禁忌中の禁忌である。必死に煩悩を抑えようとしたが、エリーゼの次の一言で理性は吹き飛んでしまった。

「ヨハネ…もう私…戻れないわ…だって、恋というものを知ってしまったもの…」

その夜、二人は理性と禁忌の壁を越え、男女の契りを交わした。互いの存在が、かつてのアベラールとエロイーズのように、信仰や学問以上に深く結びついてしまったのだ。しかし、すぐ近くにその全てを台無しにする者がいた。ゲスラーである。彼は扉の隙間から目を光らせ、不気味な笑みを浮かべていた。

「ほぉ…眼鏡のレンズを何に使うのかと思えば…禁断の知を追い求めるばかりか淫行を重ねるとは…フフフ…」

翌日、男子棟の書庫に教会史の写本を返却すべく、エリーゼは一人で廊下を歩いていると、背後からゲスラーに呼び止められた。

「おはよう、シスター・エリーゼ。昨晩は随分と楽しそうだったねぇ。ヨハネとの“夜のミサ”はよほど熱心だったように見える…」

エリーゼの白い顔から血の気が引いた。

「……あなた、見ていたのね……」

「見たとも。そしてお前たちが進めていた“地動説”の研究もね。“天体望遠鏡”とやら…あれも実に興味深かった。」

ゲスラーは舌なめずりしながら、彼女に詰め寄った。

「ただし…秘密を守るには、代償が必要だ。簡単なことさ。一夜だけ、私の部屋に来て昨日の晩と同じことをしてくれればよい。それだけで何もかも忘れてくれる!」

エリーゼは恐怖で足の力が抜けた。しかし同時に自分の尊厳を踏みにじったゲスラーに対する怒りがこみ上げてきた。

「ふざけないで!私はあなたのような卑劣な人間に、魂と肉体を売る気はないわ!地獄に堕ちた方がましよ!」

ゲスラーの顔が一瞬で青ざめた。

「今に見ているがいい…きっと、後悔させてやる!」

ついに二人の関係と研究内容が、院長に密告された。異端審問にかけられるのは時間の問題となった。その晩、二人は脱走を決行した。雷鳴が不穏な空を切り裂き、風が教会の鐘を不規則に揺らしている。二人はわずかな荷物を携え、門番に見つからぬよう、悪天候に紛れて裏門に向かった。

「北に行こう。真理を口にしても火炙りにされない場所へ。」

「プロテスタントが優勢な街なら、きっと学問に理解があるはずよ……!」

強風と雷が荒れ狂う中、二人は扉を押し開けると、足早に修道院を後にした。

逃亡は過酷だった。秋雨が続き、道はぬかるみ、宿をとる金すらなかった。しかし、数週間後、二人はやっとの思いでルター派の聖地“ヴィッテンベルク”に辿り着いた。そこには最新式の活版印刷工場もあり、学問にも理解のある神学者もいるはずだった。しかし期待は絶望に変わった。

「……地動説だと?星々が地球の周りを回っておらぬと申すのか?」

聖職者たちはおろか、その場にいた神学者や一般人でさえも失笑した。

「聖書にも星々が地球を中心として回っていると書いてあるではないか。お前たちはその御言葉をも否定するのか?」

「いや、星々の秩序の背後にも、神の意志が宿っていると信じております。しかし、それは観測を続けた結果でして…」

「ふざけるな!神の言葉を肉眼で見た星の記録ごときと一緒にするな!」

牧師は激怒し、二人の記録帳を地面に叩きつける。彼らは、カトリックに背を向けたものの、“真理の門戸“を開いたわけではなかった。彼らの掲げていたのはあくまで”聖書原理主義“であり、その方針はカトリックの神学的全体主義と大して変わらなかったのである。エリーゼは言葉を失い、ヨハネは唇をかんだ。彼らはその日のうちにヴィッテンベルクから追放された。城門が閉じる音は、彼らの希望がまた一つ消える音のようだった。その晩、エリーゼが倒れた。どうやらヴィッテンベルクへの道中からかなり無理をしていたらしい。野宿に近い宿の片隅で、ひどい咳と高熱にうなされ、体を震わせていた。ヨハネは必死に水を運び、身体をさすったが焼け石に水だった。彼女の呼吸はますます荒く、そして浅くなっていく。

「ヨハネ…もう二人で天体観測はできそうにないわ…地動説という真理を書き起こして…あなたなら私がいなくてもできるわ…」

「エリーゼ…お願いだ…そんな弱気なことは言わないでくれ…きっと良くなる…だから…」

「ヨハネ…愛している…」

それが最後の言葉だった。彼女はただの急性肺炎に倒れたのではない。旅の疲れと新天地で味わった絶望、雨に濡れた身体、そして凄まじい情熱がその身を焼き尽くしたのだった。ヨハネはしばらく彼女の手を握ったまま、動けなかった。翌朝、埋葬を終えた彼は、教皇庁の命を受けた巡察使によって証拠である天体望遠鏡と記録帳とともに捕えられ、ローマに連行された。彼の先に待つのは裁き、そして破滅だった。だがその目の奥には、まだかすかに光が残っており、笑みさえ浮かべていた。

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