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♦♦♦
──夢を、見る。
頭に響く鈍痛と母親だった女の泣き声を感じながら、まだ幼い氷室彗は薄暗い室内に座り込んでいた。
てめぇ金出せっつったろクソアマ、と男が怒鳴りながら、先ほどは彗を殴っていた手を止め、泣き崩れる女の腹を蹴った。側にあった箪笥が、がたん、と揺れる。女が、顔はやめて、ごめんなさい、ごめんなさい、ゆるして、と譫言のように繰り返して、腹をかばうように床に伏す。
彗はただ、ただ、それを見ていた。
男と目が合う。何見てんだクソガキが、と男がまた、彗の頭を殴った。がん。ぐらりと視界が揺れる。休む間もなく、引きちぎれるかと思うような力で腕を引っ張られた。ただそれを、人形のように受け入れた。すると、今度は目つきが生意気だという理由で、顔を3回、打たれる。鼻から生温かい液体が流れて、それでやっと、汚いという理由で男の手が離れた。
女のバッグから財布を取り出し、中身を抜き取った男がこんだけかよ、と舌打ちして、乱暴に扉を閉めて出ていく。それを確認した彗はようやく、止めていた息を吐くのだ。
視界の端で、よろり、と女が立ち上がった。彗に目をくれることもなく、縋りつくようにバッグのそばの財布を掴んでそのまま、りひとくん、りひとくん、あぁ行かなきゃ、と呟いた。ふらふら、と幽鬼のような姿で部屋の奥に消える。そして赤いワンピースに着替えた女が、何かに惹かれるように出て行った。おかあさん。彗は小さく鳴いたが、後に残されたのは甘ったるい香水の匂いだけだった。
女は、男に殴られた後は決まって、りひとくん、と譫言のように繰り返して、それから服を派手なものに着替えて高いヒールを履いて5日ほど帰ってこなかった。『りひとくん』、が男の名前ではないことを、彗は知っていた。男が、また外の野郎なんかに貢ぎやがって殺すぞ、とよく怒鳴っていたから。彼女が顔だけは守るのも、『りひとくん』のためだと知っていた。
女は、彗に関心がなかった。だが、週に1度、6枚切りの食パンを買って彗に投げた。餓死されるのは防ぎたかった、のだろう。3日ほどしか賞味期限の持たない安売りのそれを、次にもらえるまで、もそもそと大切に食べた。散らかってかびた匂いのする部屋。男がいるときに食べると、見つかって殴られるから、男がいない時に、少しずつ。
男は、常に機嫌が悪いわけではなく。ある時は、彗の口に食べ物を突っ込むことさえあった。おら、食えよ。嘲るように笑って差し出された握り飯を受け取ろうとした時、勢いよく口の中に無理やり突っ込まれた。喉に詰まって、嘔吐くように咳き込む彗を、男は嗤っていた。飯が食えてよかったな、と馬鹿にするように。
しかし、彗が9歳の時。
女が、子を産んだ。腹を大きくした母がふらふらと青い顔で帰ってきた。彗は空腹のまま、女を見送った。そのころにはもう、彼女は彗の中で『母親』ではなく、ただの『女』として認識されていた。
ぼーっと見ていた彗の耳に、女が消えた部屋の奥から、甲高い泣き声が聞こえてきた。
それは、初めて聞く、弟の泣き声だった。りひとくん、と、また女のか細い声が聞こえた。ああ、りひとくん。
女はその日、部屋の奥から出てこなかったが、男が帰ってくると、赤ん坊の泣き声で気が付いたらしくどすどすと部屋の奥に入った。そして女の悲鳴と男の怒声が響く。テメェまたガキなんぞ作りやがって、ぶち殺すぞ。やめて、やめて、ごめんなさい、ゆるして。
やがて音が止んで、男が出てきた。突っ立っていた彗を蹴って舌打ちすると、いつものように女の財布から金を抜き取って出て行った。
女は、後を追うように、ふらふらと夕方に出て行った。『りひとくん』に会いに。
残された彗は起き上がって、空腹から呆然と空虚な部屋を見つめていたが、火が付いたような泣き声にハッと顔を上げた。部屋の奥から聞こえるそれに、立ち上がって、ゆらゆらと進む。
汚れたシーツの上に、ぽつねんと置かれている、小さな小さな命。それが、まるで存在を示すように泣いていた。
何もかも、小さい。
どうしようもなく、ただ、その命を見つめていると、泣き声に堪えかねた隣人がどん、と壁を殴った。その音で我に返って、宙に投げ出された手に、そっと、触れる。小さな小さな指が、彗の出した人差し指を、ぎゅう、と握った。温かかった。
こんなところに生まれてかわいそうに、という憐憫よりも先に、ただ、まもらなくちゃ、と、思った。
それから、人形のようにじっとしていた彗の態度は、大きく変わった。朝夕に、帰ってきた男が赤子の泣き声に苛立ち、感情のまま手を上げようとすると、彗は素早く男と弟の間に入り庇う。それが気に入らない男は、また、彗を殴る。無言で睨む彗を見て男が舌打ちをして腹を蹴って、出ていく。彗は小学校には通っていたが、男が帰る前に帰る必要があったため、午後の授業にはほとんど参加しなかった。給食を食べるために昼だけ行き、早退することさえあった。彗にとって、それが、日常と化していた。
男は、弟が生まれてからというもの、以前に増して機嫌が悪く、暴力的になった。男の血を引く自分とは違い、弟は『りひとくん』と血が繋がっているらしい。それがまた、男を苛立たせる要因の一つであったが、一方で女は、『りひとくん』と少し似ている弟を彗よりかは気にかけているようで、最低限の世話だけはしていた。だから、彗はそれでいい、と思っていた。
しかし、2年後に状況は一変した。雨の降る6月のことだった。女は、また大きくした腹でふらふらと部屋の奥に消え、そうして、妹が生まれた。翌日の夜、ふらふらと、ぼさぼさの髪のまま、着替えずに、しかしヒールは履いて、片手にはバッグ。ゆっくりと消えるその背中を呆然と見送る。
それ以降、女は二度と帰ってこなかった。
朝方、男が帰ってくる。部屋に残された赤子を見て、男は激高した。あの女はどこだと錯乱する男に襟首を掴まれ、出て行った、と返す。ガッ、と頬を殴られた。小学校に上がってから、目につくところを殴ると面倒だと言って胴を殴られてばかりだったので、久しぶりの血の味に顔を顰めた。その表情を反抗と見られたのか、また、殴られる。二歳の弟が泣いて、部屋の奥で泣く生まれたばかりの妹と共鳴しているかのように響いた。
男の矛先が、二人に向きそうになったのが分かる。だから、男が怒るより先に、彗は吐き捨てた。何回も、男が浮かべた、あの嘲笑を貼り付けて。
「捨てられたんだよ、お前」
かわいそうにな。
直後視界が揺れた。床とほぼ平行な視界。馬乗りになった男が、拳を振り上げ、何度も打ち付けてくる。何も分からずに顔をぐしゃぐしゃにして泣く弟が見えて、彗は血まみれになりながら、渾身の力で男の下から藻掻く。手を伸ばして、男の薄汚れたTシャツの襟首を掴み、殴り返した。
「おまえも、さっさと居なくなれ、クソ野郎」
はーっ、はーっ、と獣のように息を荒げて。ただ、殴り、殴られを繰り返した。するとやがて、男は体力を無くし、ふら、と立ち上がった。そして、彗の上から退くと、誘われるように玄関へと消える。
あとには、幼い弟妹と、血まみれの自分だけが、薄暗くカビっぽい部屋に残された。起き上がる気力を失っていた彗は、血を拭うこともなく天井を見つめた。にぃに、と泣きながら駆け寄ってくる弟を呆然と見つめる。自分に生まれたばかりの妹を育てることが、できるのか。弟だってまだ2歳だ。自分の学校の費用はこの先どうなるのか。家賃は、光熱費は、食費は。男の残した借金は、どうなるのだろうか。そんなことを思いながら、しかし解決策が浮かぶでもなく。
捨てられたんだよ、という自分の言葉を反芻する。あの男も、自分も、弟達も。女に捨てられたのだろう。
そして、女も同様にまた、『りひとくん』に捨てられたのだと思った。
ただ、それは、今となってはもう、どうでもいい事実だった。
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