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聖女と救世主

もう一つの暗闇の先 2

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「なーーーんて、うっそーーー!!」

 そしてその手だけでなく、その全身を返り血は汚していた。
 チェルシーは見事な手つきでどこかから小ぶりなナイフを取り出すと、それを真一文字に振り払う。
 その切っ先は、先ほどクルスが止めを刺した筈の被害者の喉元を切り裂いていた。

「ばーーーっか!!俺がこんな気持ちいいこと他人に譲る訳ねーだろ!!ひゃー、気持ちいー!!見ろよほら、さっきまでピクリともしなかったくせに、いざ死ぬとなったらめっちゃ暴れてやがる!はははっ、馬鹿みてー!!」

 その喉の傷は、どう考えても致命傷だ。
 それを何とか塞ごうとしているのか、先ほどまで一切の反応を見せなかった被害者は、必死のその傷口を掻き毟っていた。
 チェスターはそんな被害者の姿を見ては大声を上げ、指を突きつけては笑いものにしているようだった。

「そん、な・・・でも、さっきは確かに・・・」
「あー?何、本当に殺したと思ったって?だからさー、さっきから言ってんじゃん。俺はそういうのうまいって。ギリギリの所で加減したの、加減。分かる?か・げ・ん!」

 もはや新たに流された血によって塗りつぶされたその両手を見つめながら、クルスは信じられないと呟いている。
 そんな彼の姿に、チェスターは面倒臭そうにナイフを弄りながら、そんな事など何てことないと種明かしをしていた。

「大体さー、童貞ってのは自分で捨てなきゃ意味ないでしょ?分かんだろ、男ならさ!」
「・・・分かりませんよ、そんな事」
「あーん?ま、そういうのは追々な!追々!!がはははっ!!」

 適当に遊んでいたナイフを弾いてしまい、真剣な様子でクルスへと語りかけるチェスターの目からは、悪意は窺えない。
 それでもその言葉を、そのまま呑み込む訳にはいかなかった。
 そんなクルスの背中を叩き、豪快に笑い声を上げるチェスターの表情は、あくまでも無邪気だ。
 それに、思わず息を呑む。

「ぶるるあああぁぁぁぁ!!!寄越せぇぇぇ、そいつを寄越せぇぇぇ!!!」

 チェスターの笑い声だけが響く僅かな沈黙に、爆裂音のような音が響く。
 それは続いて響いたこの声を聞けば、どういったものかは想像つくだろう。
 隣の部屋で暴れていたアドルフが、施錠された扉を破って飛び込んできたのだ。

「おいおい、勘弁してくれよアドルフの旦那。お互い、迷惑は掛けないって約束だろう?どーすんだよ、それ。派手に壊しちゃってくれてまぁ。俺、そういうの直すの苦手なんだけど」

 明らかに興奮状態にあるアドルフに対して、チェスターはあくまでも軽い調子で、ひょいひょいと近寄っていく。
 しかしその後ろ手には、しっかりと幾本ものナイフが握られていた。

「迷惑というのならば、そちらが先であろうチェスター殿!!吾輩の、吾輩の貴重な研究対象を!!お主が奪ったのではないかぁぁぁ!!!」

 冗談めいた口調で、笑い話で済まそうとしたチェスターの態度は、アドルフに対しては火に油を注ぐだけ。
 最初から頭に血が上っている、物理的にも間違いなくその状態にあるアドルフは、その真っ赤に染まった顔にさらに怒りを滾らせては、突撃してくる。
 手の両手には、手術にも使う鋭い刃物が握られていた。

「よっとっと。へー、この坊やが研究対象ね。至って普通の坊やにしか見えないがね?」

 しかしそんな猛烈な攻撃も、チェスターは軽くいなしていた。
 彼は両手に握ったナイフでアドルフが振るう刃物を絡め取ると、そのまま彼の身体ごと横へと受け流してしまっていた。

「それのどこが普通の坊やか!!貴公、目が腐っておるのではあるまいか!!その者は神の子!神代の知恵をその身に宿す、至高の存在である!!それを解剖せずして、何を解剖するといぅぅぅのかぁぁぁ!!」

 アドルフが研究対象にするにしては、クルスは普通の少年に見える。
 そう口にするチェスターに、アドルフはそんな訳がないと叫んでいた。

「へぇー、そうなんだ。ふーん、そう言われると・・・」

 アドルフの言葉に感心するような声を漏らしたチェスターは、改めてクルスの事を観察し始めている。
 そのジロジロとした視線は、彼がアドルフの言うように特別な存在かどうか確かめようとするものだろう。
 それなのに何故か、その首筋には冷たい汗が伝っていた。

「―――殺したくなっちゃうじゃん」

 刹那、響いた声はゾッとするほどに冷たい。
 それは先ほどまでの軽い口調とは、似ても似つかないものであった。
 またしても向かってくるアドルフを軽くいなしたチェスターは、その反動で流れてしまったかのような自然さでクルスへとナイフを振るう。
 その切っ先は、正確にクルスの首元へと狙いを定めていた。

「えっ?」

 自らに向かって、凄まじい勢いで向かって来ているアドルフに怯え、そちらへと注意を向けていたクルスには、それを予測することは難しい。
 ましてやそれが、自らの事を守り助けてくれていた人物からの攻撃だとすれば尚更。
 クルスは自らに向かってくるナイフを目にしては、呆けたような表情で口を開くばかり。
 その思考は、今だ疑問と驚きだけで満たされていた。

「―――あらあら、これは困ったわね。一体、誰を殺そうというのかしら?」

 金属の刃が肉へと食い込む音は、無音に近い。
 その場にはそれに代わって、耳障りな音が響いていた。
 それは金属の刃が何か固いものにぶつかって擦れ、更にはぽっきりと折れてしまった音。
 そしてそれを押し潰すような、密やかに、しかし決して聞き逃すことを許さない冷たい声が響いていた。

「ねぇ、教えてくださる?そこのお二方・・・貴方がたは一体、誰に手を出そうとしていらしたのかしら?」

 その声の主、ルナ・ダークネスは酷くゆっくりとした速度でこの部屋へと足を踏み入れてくる。
 しかしその一歩一歩が進むたびに、この部屋の空気は確実に重くなっていっていた。
 それは比喩ではなく、間違いなく物理的な重さである。
 事実として、クルスはチェスターの骨がギシギシと軋んでいく音を耳にしていた。

「おいおい・・・冗談だっての。まさか本気な訳ないだろ?な、旦那!あんたもそうなんだろ?」
「吾輩は・・・吾輩は・・・断じて!本気だったと、ここに宣言―――」

 チェスターが恐れたのは、その骨を軋ませる物理的な圧力だったのか、それとも他の何かだったのかは分からない。
 しかし彼はこちらへと向かってくるルナに視線を向けながら、必死にそんなつもりではなかったと弁明している。
 チェルシーはその意見への同意をアドルフにも求めていたが、彼は薬の効果のため圧力による痛みを感じていないのか断固として戦う姿勢を打ち出していた。

「ふしゅ~・・・・・・はて?吾輩は何故このような場所に?ぬぉ!?痛い痛い痛い!!?何ですかな、これは!?面妖なっ!!さては悪霊の仕業か!?むむむ、しかし悪霊とは非科学的な・・・では、ポルターガイストかっ!?いやいやいや、待てよ!そういえばそのような魔物の類の話も聞いたことがあったな・・・ええいっ!アンデッドめ、待っておれよ!!今、吾輩特製の聖水を・・・」

 アドルフの発言に、ルナはその美しいカーブを描く眉の端をひくつかせてしまっている。
 その様子にチェスターは焦った表情を浮かべていたが、どうやらその心配は杞憂で終わったようだ。
 突如、まるでその大きな身体から蒸気を吐き出すように、何やら大量の湿り気を放出したアドルフは、急に大人しくなると今度は素っ頓狂な事を叫び始めていた。
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