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穏やかな日々の終り

夜の森を駆ける

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 夜の森を、慌しく駆ける人影が一つ。
 その人影は何度も後ろを振り返っては、頻りに追っ手の存在を気にしている。
 彼の上がった息は逃げてきた距離を表しているのだろう、近くの木に背中を預けた彼は酸素を一杯に取り込むために顔を上げた。

「はあっ、はあっ、はぁ・・・ま、まけたのか?」

 木の陰から半分ほど顔を出して後ろを確認した男は、姿の見えない追っ手に安堵と疑念の混じった声を漏らす。
 休んだ時間に少しは呼吸は整っていたが、その傷口を押さえる手から溢れ出ている血液は誤魔化しようもない。
 刻一刻と失われていく体力に、彼はいつまでもここに留まっている訳にもいかなかった。

「はぁ、はぁ・・・行かないと。クラリッサ、無事でいてくれ」

 よく見れば、彼の身体のあちこちには大小様々な傷が刻まれている。
 それらのほとんどは今や傷跡として残るばかりであったが、幾つかの傷口は今も血を垂れ流していた。
 このまま行けば彼は遠からず力尽きてしまうだろう、疲れ果てた身体を引き摺って彼は歩き出す。
 その口はうなされるように、ある少女の名前を呟いていた。

「う~・・・ワンッ、ワンワンッ!!」
『いたぞっ、奴だ!向こうにいるぞ!!』

 男の後方から獣の唸り声が聞こえたと思うと、それは明らかにこちらに向かって吼え始めていた。
 その声に反応して響いた声がなにを言ったのかはわからないが、続いて聞こえた集まってくる足音に、それが追っ手に見つかったものだということは分かる。
 疲れた身体を引き摺ってどうにか歩き出していた男は、その声に必死に足を上げていた。

「くそっ!もう来たのか!!もってくれよ」

 捕まっていた状態から逃げ出した彼は、当然履物など身につけていない。
 駆け抜けた森の剥き出しの地肌は、彼の足裏を引き裂いていた。
 その痛みは一歩踏み出すたびに悪化していたが、捕まる訳にはいかない状況に気にしてもいられない。
 吐いた悪態を飲み込んで、彼は願うように足に指を触れる、踏み出した一歩はやはり激痛が奔っていた。

「ワン!ワンワンワン!!」
『はっはぁ!いいぞ、そのまま捕まえてしまえ!!』

 必死に駆け始めた男の速度は、それでも訓練された狼とは比べ物にならない。
 遠くで聞こえたはずのその鳴き声も、今やすぐ後ろから響いている。
 追っ手であるゴブリンが上げた笑い声の下卑た響きが、こちらがすでに追い詰められている事を如実に証明していた。

「くっ、ここまでなのかっ!!ここまで来て・・・!」

 迫る追っ手に、男には振り返る余裕すらない。
 彼は強い絶望を感じながらも、必死に足を動かしていた。
 幸運にも逃げ出すことに成功した彼は、捕まっている他の仲間のためにも、ここで諦める訳にはいかなかった。

「ワンワンッ!ワンッ!!」
『よし、いいぞ!!飛び掛れ!!』

 狼はすでに、男のすぐ後方にまで迫っている。
 その姿に先ほどから声を上げているゴブリンは、飛び掛って捕まえろと命令を下す。
 一瞬だけ静まる足音に、狼は力を溜めると大きく飛び上がっていた。

「ギャン!?」
『なんだ、どうした!?』

 今にも男へと飛び掛ろうとした狼は、空中でその勢いを失い地面へと叩き落されていた。
 暗い視界になにが起こったのか把握しきれなかったゴブリンは、いつまで経っても聞こえない男の悲鳴に、動揺の声を上げる。
 彼は事態を確かめるべく狼の声が聞こえた方へと向かおうとするが、それを引き止める存在が後ろから手を伸ばしていた。

『・・・やり過ぎだな』
『なんだと!?後もう少しの所だったってのに!お前が邪魔すんのかよ!』

 後ろから手を掛けてきたゴブリンは、静かに彼の行いを咎める。
 その声に反射的に怒鳴り声を上げた彼は、そのゴブリンが手にする弓を見ると、さらに激昂していた。

『落ち着け。我々の目的を忘れたのか?』
『っぐ・・・そうだな、すまん。俺が悪かった』

 怒りのままに殴りかかろうとする彼に、弓を手にしたゴブリンは冷静に語りかける。
 その内容に言葉を詰まらせた彼は、拳を下ろすと素直に頭を下げていた。

『構わないさ。狼は他にいるんだろう?今度はうまくやれよ』
『あぁ、分かってる』

 怒りを向けられたゴブリンは肩を竦めるだけで、特に気にした様子は見せない。
 そのゴブリンから狼の事を言われた彼は、口に指をやると人には聞こえない音の指笛を吹く。
 遠くから聞こえる足音が、一斉に彼へと向かって近づいてきていた。

「・・・なんだ?さっきまですぐ近くに、迫られてたと思ったが?いや、今はそれより逃げないと・・・」

 絶体絶命の状況に足を急がせていた男は、いつまでもやってこない衝撃に首を傾げる。
 足裏を引き裂く痛みと、傷口から溢れ続けている血液に彼の足が速くなる事はない、それなのに振り切れてしまっている事実が、彼の心に疑念を生んでいた。
 しかしそれも、僅かな時間で掠れて消える。
 それがどんな理由でも、あるいは奇跡だったとしても今は逃げる事の方が大切だ。
 彼は踏みしめる足を強くすると必死に走り続ける、その向かう先に希望が待っていると信じて。
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