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第42話 神の泉
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その昔、人を愛した古の神は、人が生きやすいように世界を作っていた。雨を降らし川を創り、虫や動物を集め土を肥やし、人々の暮らしを楽にしてやった。人々は神に感謝し、神も幸せそうに暮らす人間たちを見て幸福だった。
月日が過ぎ、次第に人々が知恵をつけ、自分たちで食物を育てて食うに困らぬようになると人はその数を増やし、争いが始まった。欲が深まり憎しみや悲しみが増幅し、殺戮が起こり権力が物を言う世界に変わった。
ある時から巨大な権力を持つ朝廷が神の力をも欲し出し、古の神を騙して新たにまつろう神々を創り、新たな神こそが真の神と崇め始めた。人々の恐怖を煽るため、朝廷は彼らの意にそぐわぬ古の神を悪として世界の果てへと追いやり、人々の信仰を奪った。
悲しみに囚われた古の神は、朝廷にまつろわぬ神―居ぬ神―鬼と呼ばれ激昂した。荒れ狂い、憎しみを抱き人を殺し、狂乱の果てにその肉を喰った。肉片は神の体の一部となって呪いとなり、人を喰らわねば生きられぬ宿命を持つ鬼となった。かつて人を愛した古の神は朝廷の目論んだ通り、人々が恐れ慄く悪鬼となったのだ。
悪鬼(鬼神)は憎しみに駆られたまま人を喰い続け、食べねば己が消える恐怖から自分の血を分けて何体も分身を生み出した。だが幾年も経つ間に、その血が人間と交わることもあった。血の希薄化と力の鈍化を恐れた鬼神は自分の匂いをたどり人間や物の怪と交わって生まれた半妖を殺し続け、強く、濃い血を持つ者だけを残し、絶命の恐怖に駆られればそれらを食べて再び自分の血肉として生き永らえる事を求め続けた。
人間への憎しみは、殺しても食べても止まる事を知らず増幅するばかり。人の憎悪を食べ続け体の一部とするのだから消える筈がなかった。
人が増えるほどに鬼の数は増え、果ては地獄と変わらぬ醜き世界となるように思えて神々は憂いた。水を司る戦いの神である弁財天は諦観していた事を悔い、人の為に童子を集め鬼たちの退治を始めた。これにより鬼神は神々の中でも弁財天神を憎むようになった。
鬼神の手下に襲われたが鬼を返り討ちにして生き残った生命は、鬼神の血を引く半妖でありながら不思議と人間のままだった。鬼よりも強い彼をこのまま人として踏みとどまらせることができたなら、鬼を諫め、人を導く生き神になれるのではないかと弁財天は考えた。鬼になるなと何度も諫言し、愛する者と未来を護ろうと考えたのだ。
だが願い儚く紅生も鬼へと堕ちてしまった。人間の不義により鬼神は生まれ、童子たちは鬼となった。古の神の悲しみが今や自分の核に纏わりつくような気がして仕方ない。弁財天の心には澱みが生れていた。それは愛を持つがゆえ。神が人を愛す度に世界は悪転する。やはり神は人を愛してはならないのだと弁財天は思った。
鬼に堕ちても気高く、唯一自分を信じ続けた男の事ばかりが心に映る。鬼になってしまった紅生が可哀想でならない。自分の父親も鬼ながら、親を鬼に殺され、己がその憎む鬼となってしまった悲運の半妖。だが何もしてやることができなかった。どれほど愛しく思おうとも、鬼から人へ戻してやることもできず、触れることすらできなかった。鬼神の呪いは強い。そして七福神として据えられた神の言霊は強靭な力をもち、神自身も縛っていた。触れることすらできないのなら、いっそ人に堕ちてもいいと願うのに、それも叶わない。神とて全知全能ではなかった。
いつまで経っても交わる事の出来ぬ神である自分を慕っていては紅生も苦しいだろう。世界を救う事もできず、愛しい者を愛する事も出来ぬなら愛など捨ててしまおうと、弁財天は決心した。
愛しき鬼たちに名を与えた後、空高く上った弁財天は月下煌々と光る自身の胸に指を突き刺した。胸から取り出した心の臓の形をした塊は真っ赤な色をしていたが、すぐに蛍石のような美しい色に変化した。弁財天はそれを掌に載せて、そのまま握りつぶした。指の間から零れ落ちたそれは星屑となって山頂に湧く泉へと落ちる。そして水中で柔らかく光り、蒼く光る魚が優雅に泳ぐように泉の中を回遊し、ゆっくりと川へ流れていった。弁財天は森の中に女の影を見つけると羽衣を翻し雲間に消えていった。星屑の欠片は知らず女の上にも降り注いでいた。
何も知らない人間の女は一人、ふらふらとおぼつかない足元で泉に向かって歩いていた。森の奥で密やかに男と逢瀬を重ねた汗を拭い、乾いた喉を潤そうと川を目指す。川上からゆるりと流れてくる不思議な色の水に見とれ、女はそっと両手を水につけた。どくどくと心臓のように波打つ水面は神々しく光っている。酔っているのだろうか、不思議なこともあるものだとそっと川の水を手に掬うと水が蛍の光りの如く輝いた。手のひらに掬った水を飲むと、体の中の悪気が全て消えていくように爽やかになる。砂漠の乾いた砂が水を吸うように女は何杯も川の水を飲んで腹を満たし、山路を下りて行った。
その夜、女は腹に子を宿し、十月十日後、玉のように美しい男の子を生んだ。
男の子の名は、竜胆のように青く光る川の水を飲んで生まれた事から、青竜と名付けられた。
月日が過ぎ、次第に人々が知恵をつけ、自分たちで食物を育てて食うに困らぬようになると人はその数を増やし、争いが始まった。欲が深まり憎しみや悲しみが増幅し、殺戮が起こり権力が物を言う世界に変わった。
ある時から巨大な権力を持つ朝廷が神の力をも欲し出し、古の神を騙して新たにまつろう神々を創り、新たな神こそが真の神と崇め始めた。人々の恐怖を煽るため、朝廷は彼らの意にそぐわぬ古の神を悪として世界の果てへと追いやり、人々の信仰を奪った。
悲しみに囚われた古の神は、朝廷にまつろわぬ神―居ぬ神―鬼と呼ばれ激昂した。荒れ狂い、憎しみを抱き人を殺し、狂乱の果てにその肉を喰った。肉片は神の体の一部となって呪いとなり、人を喰らわねば生きられぬ宿命を持つ鬼となった。かつて人を愛した古の神は朝廷の目論んだ通り、人々が恐れ慄く悪鬼となったのだ。
悪鬼(鬼神)は憎しみに駆られたまま人を喰い続け、食べねば己が消える恐怖から自分の血を分けて何体も分身を生み出した。だが幾年も経つ間に、その血が人間と交わることもあった。血の希薄化と力の鈍化を恐れた鬼神は自分の匂いをたどり人間や物の怪と交わって生まれた半妖を殺し続け、強く、濃い血を持つ者だけを残し、絶命の恐怖に駆られればそれらを食べて再び自分の血肉として生き永らえる事を求め続けた。
人間への憎しみは、殺しても食べても止まる事を知らず増幅するばかり。人の憎悪を食べ続け体の一部とするのだから消える筈がなかった。
人が増えるほどに鬼の数は増え、果ては地獄と変わらぬ醜き世界となるように思えて神々は憂いた。水を司る戦いの神である弁財天は諦観していた事を悔い、人の為に童子を集め鬼たちの退治を始めた。これにより鬼神は神々の中でも弁財天神を憎むようになった。
鬼神の手下に襲われたが鬼を返り討ちにして生き残った生命は、鬼神の血を引く半妖でありながら不思議と人間のままだった。鬼よりも強い彼をこのまま人として踏みとどまらせることができたなら、鬼を諫め、人を導く生き神になれるのではないかと弁財天は考えた。鬼になるなと何度も諫言し、愛する者と未来を護ろうと考えたのだ。
だが願い儚く紅生も鬼へと堕ちてしまった。人間の不義により鬼神は生まれ、童子たちは鬼となった。古の神の悲しみが今や自分の核に纏わりつくような気がして仕方ない。弁財天の心には澱みが生れていた。それは愛を持つがゆえ。神が人を愛す度に世界は悪転する。やはり神は人を愛してはならないのだと弁財天は思った。
鬼に堕ちても気高く、唯一自分を信じ続けた男の事ばかりが心に映る。鬼になってしまった紅生が可哀想でならない。自分の父親も鬼ながら、親を鬼に殺され、己がその憎む鬼となってしまった悲運の半妖。だが何もしてやることができなかった。どれほど愛しく思おうとも、鬼から人へ戻してやることもできず、触れることすらできなかった。鬼神の呪いは強い。そして七福神として据えられた神の言霊は強靭な力をもち、神自身も縛っていた。触れることすらできないのなら、いっそ人に堕ちてもいいと願うのに、それも叶わない。神とて全知全能ではなかった。
いつまで経っても交わる事の出来ぬ神である自分を慕っていては紅生も苦しいだろう。世界を救う事もできず、愛しい者を愛する事も出来ぬなら愛など捨ててしまおうと、弁財天は決心した。
愛しき鬼たちに名を与えた後、空高く上った弁財天は月下煌々と光る自身の胸に指を突き刺した。胸から取り出した心の臓の形をした塊は真っ赤な色をしていたが、すぐに蛍石のような美しい色に変化した。弁財天はそれを掌に載せて、そのまま握りつぶした。指の間から零れ落ちたそれは星屑となって山頂に湧く泉へと落ちる。そして水中で柔らかく光り、蒼く光る魚が優雅に泳ぐように泉の中を回遊し、ゆっくりと川へ流れていった。弁財天は森の中に女の影を見つけると羽衣を翻し雲間に消えていった。星屑の欠片は知らず女の上にも降り注いでいた。
何も知らない人間の女は一人、ふらふらとおぼつかない足元で泉に向かって歩いていた。森の奥で密やかに男と逢瀬を重ねた汗を拭い、乾いた喉を潤そうと川を目指す。川上からゆるりと流れてくる不思議な色の水に見とれ、女はそっと両手を水につけた。どくどくと心臓のように波打つ水面は神々しく光っている。酔っているのだろうか、不思議なこともあるものだとそっと川の水を手に掬うと水が蛍の光りの如く輝いた。手のひらに掬った水を飲むと、体の中の悪気が全て消えていくように爽やかになる。砂漠の乾いた砂が水を吸うように女は何杯も川の水を飲んで腹を満たし、山路を下りて行った。
その夜、女は腹に子を宿し、十月十日後、玉のように美しい男の子を生んだ。
男の子の名は、竜胆のように青く光る川の水を飲んで生まれた事から、青竜と名付けられた。
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