軍艦乗りの献立表─海軍主計科こぼれ噺─

春蘭

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第七週「海軍さんの紅茶」

(31)酒で逃げると後々さらに面倒臭いことになる

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(主計長はいったい何のつもりなんだ……?)

 ここに悩みを抱えた若い士官がいた。
 名前は瀧本零士。重巡洋艦「古鷹」砲術科第一分隊長として乗り組む大尉である。

 ところで話は変わるのだがこの「大尉」という階級、陸軍では「たいい」と読むが海軍では「だいい」と濁点を付けて読んでいた。
 なぜかというと諸説あるので定かではないが、一説によると「陸軍と同じ呼び方をしたくないから」だそうだ。
 陸軍嫌い、ここに極まれり。陸軍も陸軍で海軍との仲は悪かったが、海軍も海軍で陸軍のことを嫌っていた。喧嘩両成敗。どっちもどっち。正に同じ穴の狢である。
 海軍にかかれば「大佐」も「だいさ」だ。ただし、一番偉いベタ金の大将閣下のことだけはそのまま「たいしょう」と読んでいた。別の名称と被るからだそうだが、ややこしいことこの上ない。閑話休題。

(あー……クソ、まったく判らん)

 自分がいったい、あの主計長になにをしてしまったのだろう。灰色の脳細胞をフル回転させて考えてみるが、答えはまったく出てこない。
 当たり前だろう。なにせ、思い出そうにもこれといった心当たりなど存在しないのだから。ありもしないやらかしで呼び出されるなど心外である。

 あの主計長。前々からやけに馴れ馴れしいとは思っていたが、いきなり部屋に来いとはこれいかに。本人は自然に誘ったつもりのようなのが、強引さが目に余って余計に困惑を誘った。

(うーん……いかん。酔いが回ったか……)

 さしもの酒豪でも、ウヰスキー四杯をストレートで呑むのはキツかったか。少尉中尉のころは安全装置が壊れていたかのような呑みっぷりで、際限無しに流し込められたというのに。今ではある程度呑むと、途端に眠くなるようになってしまった。三十路手前の身体とはそんなものなのか。あの当時は想像もしていなかったし、自分は大丈夫だと根拠も無しに思っていたが……老化はまったく容赦なく誰にでも平等に襲いかかってくる。
 歳をとるとはなんともまあ残酷なものだ。眠気で少し鈍くなった頭を切り換えようと、瀧本は軽く息を吐く。

「…………」

 海軍士官はウヰスキーの味にうるさい。建軍時にお手本とした英国海軍の影響がここでもまた濃く出ていたのだろう。だが、なにせ高いので司令や艦長が部屋で一人静かに呑んでいるもののイメージが中々拭い去れないもの。
 そんなものを瀧本はガブガブ呑んでいたのだ。同期が見たら目を剥いて卒倒していたに違いない。当然だ。瀧本だって、普段だったらあんなもったいない飲み方など絶対にしない。
 それをしたのは──単純に、彼の中で答えの出ない悩み事があったからだ。

 酒でも呑んでいたら、その悩みの解決法が天啓のようにパッと頭に浮かんでくるんじゃないかと考えての行動だった。しかし、どうやらそれは完全に裏目に出てしまったらしい。

(……アクアビット…………)

 どれだけ旨い酒を呑んでも、脳裏に浮かんでくるのはとある蒸留酒。その名も「アクアビット」という、北欧で作られる芋焼酎である。
 原材料は馬鈴薯。毎年夏になると白夜が来る、北の果ての地で作られる酒だ。栄養の細い北の大地でも関係なく育つ馬鈴薯を使うのは自然の摂理だろう。しかも、寒い地域の酒であるため、当然ながらアルコール度数もウヰスキー並みに高い。その上、輸入時にかかる経費も含めると、下手な国産ウヰスキーよりも高いときた。
 なにせ当時の大陸を跨いだ移動手段と言えば、船一択。一応飛行機もあったが、貨物便に使えるような大型の輸送機が出来上がるのはまだ先のことだ。
 アクアビットという北欧の蒸留酒は、昭和六年二月の日本において、知る人ぞ知る珍しい酒であったことは間違いないだろう。

 そんな高価で珍しい酒に釣られて行った先で起きた出来事こそが、瀧本の悩みの原因だった。

(……ああ、)

 掌をそっと撫でて、思い出すのは大切な人のぬくもり。
 出航してから早一ヶ月。おかに残してきてしまった“彼”はどうしているだろうか。
 辛い目に合っていたらどうしよう。また、自分ではどうしようもできないような身体的な特徴で、酷い言葉を浴びせられていたら? それで深く傷付いていたらどうしよう。心配事は尽きることなく、むしろ心の底からどこからともなく次々と湧き出てきて絶えない。
 まだ……自分を信じてくれているだろうか。ただひたすら、次は何ヵ月先にやってくるかも判らぬ瀧本が来るのを待って耐えているのだろうか。

 本音で言ったら、今すぐにでも駆け付けてやりたい。側にいてやりたい。だが、それは絶対にできない。
 瀧本は重巡洋艦「古鷹」で分隊長を務める責任ある立場にいる。一度でもこの軍服に袖を通した以上は、職務に対する責任があるのだ。おいそれ簡単に放り出すことなどできぬ責任が。
 そして、自分が何もかも放り投げて“彼”の側に寄り添う選択をすれば、それは巡りめぐって“彼”のプライドを著しく傷付けることに繋がる。それだけは、決してやってはいけない。そのプライドは“彼”にとって、唯一残った矜持なのだ。それを傷付ける行為を、自分がするなどあってはならない。
 瀧本の中で、自分は“彼”にとっての最後の砦であるという自負があった。それが矛盾を生んで、ジレンマに苦しむ原因になっていようとも。

(俺は、どうしてやれば良いんだ。あれは、お前にとって本当に正しい選択だったのだろうか)

 そっと目を閉じる。
 今度こそ、この手を決して離してやるかと誓った。どんなことになっても良いから、あの青年を自分のものにすると。自分の心に、魂にそう誓ったはずなのに。

 それとは別で、ふとした瞬間思考の端を掠めていく囁きがある。これで、本当に良いのだろうかと。あのやり方で、本当に正しかったのだろうかと。

 国内最高峰の難関校である海軍兵学校を六番目の成績で抜け、次は海軍大学だと噂される約束された輝かしい将来を邁進する若き大尉。だが、人生経験が圧倒的に少ないこともまた事実。
 ましてや────自分の拗らせた初恋への対処法など、一人ではまったく思い付かなくて当たり前だろうに。

 それでも、他人に相談するという選択肢など端から存在しない。そもそも考えられない。なので、瀧本はここ一ヶ月間丸々一人で悩み続けねばならなかったのだった。

「はぁ……」

 気が重い。正直早く寝てしまいたいのだが、なぜ主計長に呼び出されねばならぬのだ。
 そう思った時、瀧本はふと気付く。彼の頭の中にある会話が甦ってきた。それは、数週間前に交わした赤岡軍医長との会話。


 ────……どうしても私に言いたくない、ということでしたら仕方がありません。主計長ならその手の相談に乗ってくださると思いますよ


「ん……」

 赤岡からのアドバイスを素直に受け取れば、このまま一人でうんうん悩むよりも主計長に意を決して打ち明けるべきなのか。もちろん、相手の名前は完全に伏せた上で。
 赤岡曰く、主計長は見かけによらずに口が固いとのこと。特に、この手の話題はたとえ拷問されても口を割らぬという。
 あの赤岡が言うのなら間違いないとは思うが……

 言うべきか、言わざるべきか。ある意味での究極の選択肢の前に立たされ、若い大尉は悶々と悩みながらトロトロ廊下を進んでいく。

「あ、」

 と思いきや、いつの間にかもう主計長の部屋の前に来ていた。
 さて、どうするか。このまま当たり障りの無い会話を交わして何事も無かったように出ていくか、それとも洗いざらい全部ぶちまけてしまうか。

 ────ええい、じれったい。後は野となれ山となれアフター・フィールド・マウンテンってヤツだぁ

 元々瀧本は思いっきりの良い江戸っ子気質の兄貴肌。いつまでも悶々と悩むのは性に合わない。
 ならば、ここは潔く突撃していって、流れに任せてしまえばいい

「────」

 キッと前を向き、戦場に立ったような気になりながら瀧本は主計長私室のドアをノックした。
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