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第八週「オムレツ」
(34)伝書鳩は友達
しおりを挟む「──軍医長、いい加減にウチの親分と和解してください!」
その日、ついにそんな叫びが重巡「古鷹」一角で上がった。それは何か。庶務主任である若い主計中尉が軍医長である赤岡中佐に物申す声である。
「……は、」
「あのですね、軍医長。オレも上官に対してこんなこと言いたくは無いのですが、本当にいい加減に鷹山少佐と和解して献立の相談くらい受けてやってほしいのですが」
「はい?」
庶務主任が精一杯の勇気を振り絞って出したと思われる発言の数々を聞き、赤岡は困惑しながら首を傾げる。
主計長、即ち睦郎と和解しろと言われても別に仲違いをしたわけではないのだ。
してもいない仲違いで和解をしろと言われても、という奴である。これにはさしもの軍医長も困惑しきりだ。
まったく意味が判らんとばかりの視線を受けて、それでも若い中尉は物怖じすることなく軍医長に意見を述べた。
「ですから、もう良い加減にオレや従兵を伝書鳩代わりに使わずに主計長と直接お話しくださいと言っておるのです」
その場の勢いも借りたのだろうか。中尉は妙にハキハキとしており、いつも以上に声が大きい気がする。
誰かに入れ知恵でもされたのだろうか。それなら一番の有力候補に上がってくるのは機関長の鶴田だが。もしや本当に、自主的に陳情しに来たのだろうか。それなら耳を傾けてやらんこともない。
「もうそろそろ一ヶ月になりますよ。軍医長が主計長を避けるようになってから……喧嘩でもされたのでありますか? それでしたら、自分から艦長に仲裁に入って頂くよう進言いたしますから……」
「お言葉を返すようですがね、アナタ。私は別に彼と仲違いなどしておりませんよ」
「え?」
そんなに意外なことだったのだろうか。中尉はきょとんとして目を瞬かせている。
「確かにここしばらく顔を合わせてはいませんが、それはお互いに時間が合わないというだけですよ。ほら、もうじき会計監査が始まるでしょう。それに私の方も月例検査と看護兵への指導が重なったので、お互いにバタバタしているだけです」
「は、はあ……」
「別に彼とは何ともありませんよ。至って健全な関係のままです。仲違いをしたとか喧嘩をしたとか、どっちかが不関旗を上げたとか、そのようなことは無いのでご安心を」
赤岡だって、睦郎の時間さえ取れればいつでも献立の相談には乗ってやる。今回はただ、タイミングが悪かった。
あのやり取りを起こしたのが、お互いに忙しくなる直前だったというだけ。確かに気まずくはなったが、喧嘩をしたわけではないのだ。
「私たちは特に何とも無いというのに……そんな話、どこから出てきたので?」
「そりゃぁ、あんだけ機関長がデカイ声を出していたら誰だって……」
困った中尉がポロッと白状した。機関長、の単語が飛び出してきた瞬間、赤岡はスッと目を細めて脳裏に鶴田の顔を思い浮かべる。
(あのお節介……)
口髭の機関長はえらくお節介な人物だ。おそらく、この中尉とほぼ同じ理由で彼が睦郎に説教をかましているところを、聞いた奴が何人もいたのだろう。
いや、本当に睦郎とは何ともないのだ。過去の遺恨は全て心の奥底に。今はただ、この二十年でできた新しい“大切なもの”のために。
「……主計長がここに来てからですよ」
不意に、そんな囁きを耳で拾った赤岡は顔を上げる。
低く小さい声だったが、それは確かに聞こえた。どこからと言うと、目の前にいる庶務主任の中尉から。
「何か」
「何に置いても完璧で、何事にも動じること無く任務を遂行していた貴方がそうなったのは」
鷹山少佐がこの「古鷹」に来た直後から、だった。真性サド野郎として数多の将兵から畏怖と尊敬の念を集め、孤高を貫いていた赤岡の人物像が崩れ始めたのは。
「……別に、私だってそういう面はありますよ。今までアナタ方には見せていなかっただけで」
「それにしたって露骨過ぎます。その……みんな、噂しているんですよ。軍医長と主計長が……あの、そういう関係だったとか……」
「……」
ピクリ、と一瞬指が動いたのは動揺によるものだったのか。しかし赤岡は内心揺れ動いた感情を相手にはおくびも見せずに淡々と返していく。
「軍医長は、主計長が帝大で給仕をやっていた頃から面識があるのでしょう? それが余計に疑いを招いて……」
「だったら、何です。たとえ過去に何があろうと今は今。昔のことに執着したところで意味などありません。そんな下らぬ戯言にいつまでもかかっているのは止しなさい」
「……」
素っ気ない態度の軍医長に何かを感じ取ったらしい。中尉はじっと赤岡を見つめ、そして一言。
「軍医長がそこまで頑なになるの、もしや瀧本さんと何か関係あるのでしょうか」
これには流石の軍医長も意表を突かれて息を詰めた。
瀧本とはあれだ。重巡「古鷹」に来てわずか二ヶ月少ししか経っていないのに、何かと目立つあの男。
「……なぜ彼の名前が出てくるのです」
「だって……あの人も何か悩んでいるようでしたし…………それも、軍医長と主計長の仲の雲行きが怪しくなり始めたちょうどその頃に」
ああ、なるほどと相槌を打って、そして赤岡は呆れたように深い溜め息を吐く。
「確かに彼が何事かを悩んでいるのは知っていますがね。彼が悩んでいるのは、私たちとは特に関係が無いことですよ」
彼も彼でタイミングが悪かった。いや、まさか赤岡と睦郎が仲を拗らせているのとほぼ同時期に、彼の方でもまた顔馴染みとの関係が拗れているとは。
まさに運命の神の悪戯か。こんなに近い人間が短期間で別々の方向に問題を抱えるなんて。
「彼が悩んでいるのは、自分の中学時代の同級生の件ですよ」
「は……同級生?」
「そうですよ。まったく……これだから勢いと若さだけの青二才は」
脳裏に浮かぶのは瀧本大尉のあの精悍な顔付きと、そしてつい最近赤岡の元に届けられた、ある人物からの手紙。
随分と深刻そうな表情で悩んでいた瀧本にまつわる噂話を既に耳に入れていた赤岡は、目の前にいるこの若い中尉へ解説してやろうと口を開いた。
「アナタ、去年の年末に呉の周辺を彷徨いていた陸サンの軍服着込んだ美人については小耳に挟んだことくらいあるでしょう」
「え? ええ、まあ。そりゃまあ、あれだけ騒ぎになっていたら……」
昨年の末に呉の周辺を彷徨いていた陸軍については、呉に属する海軍関係者の間で知らぬ者などいないくらいに有名になっていた。さすがの中尉もこれくらいは知っていたらしい。
「その美人は瀧本大尉の中学時代のクラスメートで、大尉と共に府立一中に通っていた頃は毎日のように喧嘩三昧をしている犬猿の仲だったのですよ」
「え、」
「それが十五年経って再会したわけです。ところが些細なことからまた喧嘩が始まって……というところでしょうね。彼が悩んでいたのは、自分の中学時代の喧嘩相手との関係ですよ」
だから自分と主計長とは何も関係ないと言い切り、赤岡は半目になって億劫そうに天井を眺める。
こちらとしては、何も関係の無いことで疑われてとんだとばっちりだ。豪放磊落、竹を割ったようにさっぱりとしていながら男気溢れた江戸っ子気質の瀧本が兵科将兵問わずに幅広い層から慕われることは判るが……それの流れ弾を受けるのは勘弁願いたい。
「向こうも向こうで、何か目的があって瀧本大尉に近付いたようですし……お互いの間で解決すべき案件です。外野は黙って引っ込んでいなさい」
「ですが……」
「それに相手は陸軍省次長を養父に持っている侯爵家の息子。しがないただの海軍士官が下手に関わっても、良いことなどありませんよ」
「え?」
何を言われたのか一瞬理解できなかったらしい中尉が、変な声を出した。
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