軍艦乗りの献立表─海軍主計科こぼれ噺─

春蘭

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第八週「オムレツ」

(36)籾殻は万能の緩衝材

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 そのノックのせいで佳境に入っていた自分の推理が中断されることとなり、中尉は少々不満そうな顔だ。赤岡にとっては助かったのだが。

「──軍医長、鷹山少佐であります」
「入れ」

 噂をすればなんとやら。ちょうど話題の中心にしていた主計科の親分、鷹山少佐ご本人の登場である。
 まさか本人がやって来るとは思っていなかった中尉は、ほとんど反射でバッタのように飛び上がりながら直立不動の体勢を取った。

「失礼いたしま……あれ、なんやお前。こんなところで何やっとんねん」

 医務室の扉を開けてみれば、そこにいたのはなぜか自分の部下。
 庶務主任を担当している若い主計中尉の姿を認めた睦郎は、扉の内側に自分の身を滑り込ませながら疑問符を飛ばす。
 睦郎としては意味不明な現場だっただろう。サド野郎として畏怖の念を向けられる赤岡の元へ、それも何も言い付けていないのに自ら立ち寄るなどと。もっとも睦郎は珍しいこともあるものだと思ったっきり、特になんの疑問も挟まずそれで終わらせたのだが。

「アナタと直接会って話すのは、随分久し振りなようですが……それで、本日は何用でしょうか」
「いやぁ、ぼちぼち来週の献立を作り始めなアカン思てな。今週は珍しく時間が取れたさかい、久々に軍医長のとこまで行ってこよかぁって……なんか話し込んどるんやったら、日を改めまっせ」
「いいえ、お気遣いなく」

 この会話で、中尉の中に最後まで残っていた疑念は綺麗に拭い取られた。
 と、同時になぜだか疑って損したような気分になる。よく考えてみたら、いくら平時における暇の代名詞である三長官でも忙しい時にはとことん忙しいのだ。軍医科はともかく睦郎と同じ主計科、それも庶務主任である中尉は判っていたはずなのに。

「だから、言ったでしょう。仲違いなどしていないと」
「は、はあ……」
「ん?」

 中尉がはるばる医務室までやって来た経緯をしらない睦郎は、片方の眉を跳ね上げて首を傾げた。いったい、赤岡と自分の部下は何を深刻そうな顔で話し合っていたのだろうかと。

長島ながしまくん、赤岡中佐となんかあったん?」
「あっ。い、いえ別に何でも無いですよ主計長。オレたちは決して主計長の出身に纏わるあれこれを邪推していたりしていませんし、例の陸サンの美人の話なんて……」
「んんっ」

 動揺からか口を滑らせた中尉に向かって咳払いをする。それで中尉が漏らしそうになった先程の会話の粗筋を散らして、赤岡はやんわり彼を諭す。

「長島中尉、もうそろそろ戻ってやった方がよろしいのでは。少々お疲れ気味・・・・・・・のようですし、アナタも適度に休憩を挟みなさい」
「あっ……」

 軍医長直々に失言へのフォローを入れてもらった中尉は、挙動不審になりそうになった自分を制しつつ深呼吸を一つ。

「申し訳ありません、軍医長。オレの勘違いでお時間を取らせてしまって……」

 非常に申し訳無さそうな顔をしつつ、自分の上司の顔色を伺う中尉。しかし彼の危惧とは裏腹に、睦郎は何が起きたか判らないとばかりに不思議そうな顔をするだけだ。その上「別にエエでー」と呑気に答えている。

「こら、なぜアナタが答える」

 さすがと言うべきか、なんというか。あの真性サドとして恐れられる赤岡に対してもこの調子。この肝が据わっているのかなんなのか掴ませぬところが、睦郎の強味であった。

(なぁんだ……オレの杞憂だったのかな?)

 機関長が大声で言っていた内容に反して、今見ている分には二人の関係に亀裂が入ったとか。そんなものは一欠片も見受けられない。二人とも至って普通の態度を取っている。確かにうっすらとよそよそしい空気が漂っている気もしないでないが。
 まさか、あれは機関長の勘違いだったのだろうか。
 ホラ話が大好きな彼のことであるから、少々ばかりか話を大きくして大袈裟にしてしまったとも考えられるが……

「あ、ではオレはここで席を外させて頂くので……後はお二方でごゆっくりどうぞ」
「おう。堪忍なぁー」

 睦郎は睦郎で中尉が医務室に来た理由を自身の体調相談だと思ったのだろう。特に何の疑問も挟まず、にこっと愛嬌のある笑顔で部下を送り出す。
 失礼します、の声を最後に彼は医務室を出て去っていった。

「ところで、ぼちぼち作り始めねばとは?」

 遠ざかる足音が消えそうになった瞬間、ふと疑問に思ったことを口にする。ぼちぼち作り始めなければ、とはどういうことだ。まさかとは思いたいがもしやこの男、また予定献立表を白紙のままにしていたのか。

「あっ……えーっと。その……ははっ」
「その反応、まさか忘れていたとは言いませんよね」
「すんません」

 へらっと苦笑いを浮かべ、後頭部に手をやった。それで確信した赤岡はそっと目を閉じて、深い深い溜め息を吐く。

 軍医長ができるのは、あくまで献立の相談。健康を考えた栄養面でのアドバイスのみであって、最終的に副長の手に渡る予定献立表の立案は主計長である睦郎が考えねばならないはずだ。それが週の半ばを過ぎていまだ白紙とは、かなり焦らねばならぬのでは。

「いやぁ……会計監査の資料集めに奔走してて……な」
「そんなのは言い訳になりませんよ。だから普段から身の回りのものは日付と五十音順に並び替えて整頓しておきなさいと……」
「すんません、次から気をつけます……」
「早めにやりなさい、今すぐやりなさい」

 こういうズボラで怠惰な所は昔からの彼の悪い癖。今さらの話だなと思いつつも、赤岡は既に自身の中で固定化されている文章をポンと投げて寄越す。

「でもおれ、今回入れたいメニュウがあってな……」
「鯖カレーですか。それとも豆腐入り甘煮ですか」
「ちゃいますよ。というかまだそれ引きずってはったんどすか」

 数ヶ月前の変化球メニュウをまだ引きずっていたのだろうか。確かにあれらはありとあらゆる理由で「古鷹」乗組員にとって、忘れられない一夜の思い出となったが。しかしそれはそれ、これはこれ。赤岡の発言に静かに抵抗しつつ、睦郎はその料理の名前を口にする。

「おれが今回入れたいのはオムレツですえ」
「オムレツ?」

 そんなに意外だったのだろうか。件の陸サンの坊っちゃんの兄君から送られてきた手紙をぞんざいに机の上に放って、赤岡は訝しげに眉を寄せた。

「別に、今週は卵が主役の料理が無いので構わないとは思いますが……なぜまた急にオムレツを?」

 まさかいつぞやの馬鈴薯の時のように大量に余っているのだろうか。いや、それは無いだろう。
 鶏卵は殻に覆われているとは言え肉類と同じく生のたんぱく質なのだ。保管や使用時期を誤ると食中毒の原因になる。
 昔の鶏卵は籾殻もみがらを入れた木箱で保存・保管をしていた。プラ製や紙製の卵ケース? そんなものなど昭和六年二月現在には存在しないし、材料だって高価な品である。ご家庭ならともかく、大量に扱う海軍に納品されるならこの形が最も効率が良い。
 長い後悔の中ではやはり腐ってしまうものもある。そのため、烹炊員は卵を使う時は割った卵を一度別の器に入れて確認してからボウルなどに放り込んでいた。

「いや、別に三個連続で腐っとったとかそういう訳や無いで」
「なら……」
「冷蔵庫の不調でもあらへんで」

 言われる前に言ってしまえとばかりにピシャッとハッキリ告げる。ほんのつい二ヶ月ほど前に冷凍庫が壊れたのに、短期間で今度は冷蔵庫まで壊れてたまるものかと。

「いやぁ、この間瀧本くんと茶ぁのんどってな。そん時に、紅茶ゆうたらオムライスやと思って……」

 なるほど、確かに紅茶と言ったらオムライスだろう。海軍士官はこの組み合わせを連想する。
 だがしかしちょっと待って頂きたい。今の話、少しおかしく無かったか。



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