ある侯爵令嬢の失恋

春蘭

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(13)強者と戦う強い意志⑤

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 他にも言ってやりたいことは山ほどあった。自身の母親のことについては、尾坂が今の会話でカッとなって言ってしまったというだけ。侯爵を嫌っている理由はそれだけでは無い。母親の件はその一端に過ぎないのだ。

「お前は優しい子だねぇ。桜花のことを今でもずっと、思っててくれているなんて。きっと彼女も喜んでいるさ。私が今でも彼女のことを想っているように……」
「戯れ言を……! そんなに彼女のことを愛していたのならば!なぜ、あの時!!彼女のことを諦めて差し上げなかったのですか!!!」

 母には将来を約束した婚約者がいた。瑞典人との混血で、しかも両親も既に亡くなっていた彼女の事情を知ってなお、受け入れてくれた存在が。
 灰色の瞳と薄い色素、そして日本人離れした顔立ちのせいで散々辛い目にあってきた彼女が、ようやく幸せを掴んだ矢先のできごとだ。その幸せは、他ならぬ侯爵が現れたことによって呆気なく壊された。
 まだ嫁入り前だというのに、どこの誰とも知らぬ男の子供を身籠った彼女は、家族からも婚約者からも見捨てられて世間から白い目で見られて。最後の情けとして病院に放り込まれたが、そこでも心無い者達からの陰口や根も葉もない噂を鵜呑みにした者達による暴力に耐え続ける他無かった。

 味方など誰一人としていない、自分の身も満足に守れない四面楚歌の状況。それは十七の少女にとってはあまりにも過酷な環境だったのだろう。
 予定よりもずっと早くに息子を産み落とした彼女であったが、その後に出血が収まらずに意識不明の状態に陥り……三日後にようやく目を覚ました時には、命懸けで産んだ我が子は自身の手の届かない所にやられて他人が産んだ子供として届けられていた。
 そのショックが駄目押しとなり、彼女は間も無くこの世を去ったのだ。
 彼女の唯一の味方であった叔父の隼三郎はその直前まで軍務で海外に出ていて、彼女を守れなかったことを今でも悔いていた。時々、酒に酔うと涙ながらに謝罪を口にする大叔父の姿は、尾坂も見ていて辛い。

 侯爵さえ自制していれば母はあんな惨めな最期を迎えることなどなかったのに。非難の視線を父に向ける。
 だが侯爵はというと、愛した女性との間にできた息子から、言い逃れのできないような罪を突き付けられても困ったような微笑を崩すことはなかった。

「ああ、そうか。お前はずっと、母親がいなくて寂しい思いをしてきたんだね。可哀想に……私の仙。あれは仕方の無いことだったんだ。彼女の祖父母から取引を持ちかけられてね……桜花と桜花の子はやるから、我が家に傷を付けないように全てを隠蔽してくれと。だからね、本当に仕方が無く接触を最小限にして私が彼女に関わったという痕跡を消して回っていたんだ。いやぁ、中々大変な作業だったよ」
「たとえそうだったとしても、せめて彼女を謂われようのない悪意から守ってやるために、できることならいくらでもあったでしょう……!」
「それについては本当に悔やまれるよ。もう少し衛生環境の良い静かな場所に囲えたら良かったんだけどね。流石にあれが当時の私にできる限界だったんだ。家令やあれ・・もキンキン煩くて辟易していたしね」

 侯爵が言う「あれ」というのは、恐らく後妻のこと。つまりは胡二郎達の母親だ。
 侯爵は自分の正式な妻を「あれ」呼ばわりするような男。本気で他人に興味がないのだろう。侯爵の目に映る人間という生物は、血と肉の詰まった動く皮袋でしかない。
 ただ二人。尾坂と、尾坂の母親を除いて。

「桜花が亡くなってしまったことは本当に悲しかったよ。でもまあ、仕方の無いことなんだ。だって残念なことだけどよくある話・・・・・だし。産後の肥立ちが悪くて死んでしまうことなんて。私の前の妻もそうだったらしい・・・からね。珍しいことでも無いんだ」

 その一言に、ゾッと背筋が凍った。冷や汗がこめかみを伝っていくのを感じながら、尾坂は怖くなって逃げ出したくなるのをぐっと堪えてなんとか立ち続ける。
 侯爵の一番目の妻が亡くなったのは、長男誕生後数年経ってから。そして死因は崖から身を投げたことによる自殺だ。産後の肥立ち云々ではない。
 本当に、侯爵にとってはどうでも良いことだったのだろう。興味の無いことだったから、覚えてさえいなかったのだ。
 これが九条院梅継という男である。人の心など判らない、人でなしの化け物──

「だからどうか、私の元に戻ってきてはくれないか。仙、私がこの世で最も愛する息子」
「……」

 もう何もかもが詭弁にしか聞こえない。言葉の一つ一つが恐ろしくて堪らなかった。
 尾坂の目の前にいるのは人間でも何でもない、ただの化け物だ。口では愛を語るが、その本性は昆虫のそれ。機械的に淡々と生きている存在が、人間の情緒を模倣しているに過ぎない。

 侯爵の言う「愛」とは、ただそう名付けただけの虚無でしかなかった。

「貴方が私を愛してくれているというのなら……」

 ぐっと戦慄く唇をぎゅっと噛んで、尾坂は声を絞り出す。前々からずっと、聞きたかったことの答えを求めるために。

「どうして、私に“仙”と名付けたのですか? どうして……っ、」

 ぎゅう、という手套が擦れて嫌な音がした。自分でも気付かない内に、拳を握り締めていたのだ。


「どうして、私に“三”の文字をくれなかったのですか──────!!?」


 叫んだ言葉は悲痛な訴えだった。自分を愛しているというのならば、どうして侯爵家の子供達から明らかに浮くような名前を付けたのだ。なぜ、侯爵家の子供達から爪弾きにされていることを強調するような名前を付けたのだ、と。

 長男の樟一郎、次男の胡二郎。長女の芙三と次女の鈴四。
 侯爵家の子供達には名前のどこかに、産まれた順の漢数字が必ず入っているというのに。胡二郎と芙三の間にいるべきはずの尾坂は、その名付けの法則から完全に外れてしまっている。そして彼が本来頂くはずであった「三」の文字は……異母妹である芙三に付けられていた。

「お前の名前は鳳仙花から付けたんだ。だって、鳳仙花は桜花が一番好きな花だったからね。だから……それは特別な名前だよ」
「……」

 尾坂が聞きたかったのはそういう答えではない。
 心の内に失意が広がっていくのが判った。もう、これ以上この男と話をしていても無駄なのだろう。

「……私には貴方だけでしたのに、貴方は私を息子として愛してなどくれなかった。貴方が愛したのは人形としての私であって、今の私では無いのでしょう……?」

 最後にこれだけ言わせてほしい、とばかりに尾坂は口を開いた。

「私は、貴方の愛した女ではありません。私はもう、九条院 仙ではありません。私は───尾坂仙です」

 違う世界を見てきた、独立した意思を持つ一人の人間だ。
 無言のままで、もう貴方の思い通りにはならない。と、意思表示だけはしておく。

 だが、侯爵は尾坂のそんな心情など一切読めていなかったようだ。次の瞬間、信じられないことを言い放つ。

「仙、我が儘もいい加減にしなさい」
「っ……!」
「もうそろそろ満足しただろう? いい加減に我が儘ばかり言っていないで、尾坂さんとの養子縁組を解消して帰ってきなさい」
「……お断りします、父上。なぜ私が閣下との養子縁組を解消せねばならぬのですか」

 尾坂が覚悟を決めて叩き出した本音だった。
 だが、侯爵にはひとつも届かなかったのだ。元より期待するだけ無駄だった、と思考を切り替え尾坂は思考回路から本音を切り離して淡々と父親をつっぱねる。心を完全に閉ざせばどうってことない、と自分に言い聞かせながら。

「あの時、お前が初めておねだり・・・・をしてきたことが嬉しくて、ついつい甘やかしてしまったがね。流石さすがにこれ以上、お前の外泊・・を引き伸ばすことはできないよ」
「いいえ、父上。私はあの日、閣下の養子となってこの家を出ていく際に言ったでしょう。もうこの家に戻るつもりはないと」

 私的な感情を含まず淡々と論じ続ける。ここで感情的になったら終りだと解しつつ、どうやって逃げようかと思考を巡らした。

「少し目を離した隙にダンスホール通いや料亭での芸者遊びを覚えて……随分と派手に遊び回っているそうじゃないか。遠く離れた東京にまでお前の噂は届いているよ。侯爵家の三男は、メリケンかぶれの不良軍人だとか」
「何か問題でも? きちんと節度は守っておりますし、私も既に成人しております。玄人相手の健全な遊び・・・・・など、問題にさえならないと思いますが」

 遊び回っていることは確かだが、節度は守っている。ダンスホールで淑女を相手に踊っても、一緒に踊るだけで決して手出しはしなかった。料亭での芸者遊びは同期や上官達の付き合いだし、彼女たちは玄人。つまり仕事でやってる。
 遊びと本気を線引きできないほど、尾坂は愚かではないのだ。

 素人の娘に手出しをした挙げ句に孕ませた上で、その事実を隠蔽したどこぞの・・・・人でなしとは違うと言外に吐き捨ててやった。

「お前も再来年で三十路になる。そろそろ腰を落ち着けてみればどうかな?」
「それで貴方の元に戻れと? お断りします。私は今の生活が気に入っておりますので」
「軍人というのは不安定な職だろう。いつ予備役に編入されてもおかしくはない。そうなっても良いように、今のうちに働く場所を用意するのも手だと思うがね」

 スッと目を細めて、侯爵が言わんとしていることを探るために鎌をかける。

「……私に爵位でも継がせるおつもりですか? 私は味噌っかすの三男ですよ。それならば貴方のご長男という、これ以上無い適役がおるでしょうに。あの方は貴方の後を継いで外交官を立派に勤めていらっしゃる。いつなんどき戦場に招集されて戦死するかも判らぬ軍人、それもどこの馬の骨・・・・・・かも判らぬ毛唐けとうの娘のはらから産まれた庶子に侯爵の肩書きは荷が重すぎると思いませんか?」

 皮肉げに口の端を歪めた。今の台詞は侯爵の後妻から実際に言われた言葉を再現したものだ。しかし侯爵はそれに気付かなかったのか、大して顔色も変えずに妙に機嫌が良いまま話し続ける。

「そんなまさか。お前に爵位を継がせる気は無いよ。お前が爵位を継いでしまったら、隠居する私の側にいさせられないじゃないか」

 とりあえず侯爵は自分に爵位を継がせる意思は無いらしい。ホッと一息吐く反面、続け様に言い放った台詞にギリッと歯を軋ませた。

「予備役に編入されたらいつでもおいで。私の秘書の席を用意して待っているからね」
「お気遣い無く。陸軍も決して少なくない経費と時間を注ぎ込んで育てた私を早々手放すほど愚かではありませんよ。それに今の陸軍で人事の全てを掌握している方がどのような方だったのかお忘れで? 貴方にとって都合の悪い秘密を知ってらっしゃる尾坂閣下が陸軍省の次長である以上、貴方も下手に口出しはできないはずだ。たとえそれで私が万が一にも陸軍から放逐されるような事があれば、大陸に渡って馬賊ばぞくにでもなります」(※17)

 学費を支払わなければならなかった陸軍幼年学校は横に置いておくとして。
 士官学校、砲工学校……それと米国に留学する際に必要になった往復の旅費と大学の学費。尾坂一人を育てるために、どれほどの投資があったのか判らない。それを無駄にするほど陸軍も落ちぶれてはいないと言ったつもりだったが、残念ながら侯爵にはその意図は伝わっていなかったようだ。

「ああ、こら。馬賊なんて危ないことは止めなさい。こちらでお前が望む職をいくらでも斡旋してあげるから」
「父上」
「もしかして陸軍での出世を望んでいるのか? それなら、九条院の姓を再び名乗るようになった方が有利だと思うのだが。田舎者ばかりの陸軍のことだ。それだけでも上層部の見る目は変わるだろう」
「私は出世には興味がありません。それに自分に与えられた職務を責任をもって全うするには、その肩書きは単なる足枷に他なりません」

 はぁ、と溜め息。話をするだけ無駄だ。どうしようもできないくらいに自分勝手な男、それが自分の父だ。侯爵家存続に必要なことは何でもするが、それは仙を自分の手の届く場所に引き留めるためにやっていることだ。彼にとって仙以外の子供は、いいや仙以外の人間はどうでもいい存在なのだろう。現に今だって、自分の長男のことを“あれ・・”呼ばわりしたじゃないか。

「これ以上話し合っても無駄なようですね、父上。私は退席させていただきますよ」
「せっかく海外留学までしてきたというのに、田舎で燻ってばかりじゃもったいないだろう?」
「ッ!?」

 思ってもみなかった事を投げ掛けられ、回れ右をしそうになった足を慌てて踏ん張ってどうにか平静に見せかける。
 米国留学の件は父親には徹底的に伏せていたはずだ。なのに、いったいどこから漏れた?

「なぜ………どこでそれを……!?」
「帰国どころか留学の件さえも父に報せてくれないとは、酷い息子だよ」
「貴方にはもう関係無いっ……!私はもう、九条院家の者では無いのだから!!」

 ぎゅっと拳を固く握って吐き捨てる。頼むからもう自分に関わらないで欲しいと懇願するが、それを聞き入れるようならこの男との仲は拗れてなどない。

「やれやれ……血は水よりも濃いと言うだろう? たとえお前が尾坂家に養子に行った所で、九条院家との、私との繋がりは決して切れないのだよ。そう考えるのならばいっそ戻ってきた方が賢明だと思うのだがね。そうだろう、仙?」
「嫌です………私はっ…………貴方のお人形には戻りたく無い………!」
「仙、あまり我が儘を言って、父を困らせないでおくれ」
「父上!!私は────」

 尾坂が思わず隠したはずの本音を吐露しそうになった瞬間、コンコンと軽い音を立てて扉が叩かれた。



※17:当時満州の辺りにいた盗賊……ではなく実際は自警団的な集団だったそう。文字通りに騎乗していてその機動力を生かした列車強盗を行うなどという話が有名。
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