ある侯爵令嬢の失恋

春蘭

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(33)夢に向かって歩く優しさ②

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 チュンチュン、と雀が鳴く声が聞こえてくる。

「………」

 ふ、と目を覚ますとまず真っ先に天井が見えた。いつもの、という訳ではないが知らない天井ではない。
 身を起こしてぼんやりとしていると、少しずつ昨夜のことを思い出してきて。そこで芙三は、ここが実家で自分が使っていた部屋だと気付いて溜め息を吐いた。

 ───たぶん、彼はもうこの家にはいないだろう。

 確信があった。芙三が唯一の恋を捧げた、愛する異母兄は、芙三が目を覚ますより前に、彼女の元からいなくなっていると。

「………護衛として来て頂いたのにね」

 そういえば、と思い出した。彼をここまで引っ張って来たのは、自身の護衛という名目だったと。

「本当に、酷い方……依頼されたお仕事を途中で放り出して行ってしまうなんて」

 口の端に皮肉げな微笑みを浮かべて、精一杯の嫌味を言ってみる。
 当然、部屋の中には一人だけだから、誰に聞かせるというわけでもない。ほとんど独り言だ。
 彼がいつもやっているように、と意識してやってみて………それでも、やっぱり彼とは似ていないと落胆する。

 もう、未練は絶ったつもりなのに。それでも、まだ少し執着してしまう自分に自己嫌悪してしまった。

「……………」

 ゆっくりと寝台から足を抜いて、床の上を歩いていく。
 寝巻きを脱いで行李の中から取り出した和服を手際よく着付けていった。


 外では昨夜の大雪が嘘のように、澄み渡った青空が広がっている。

 もうそろそろ朝食の時間だろう。案の定、帯紐を締めていると部屋の扉が控え目にノックされた。

「おはようございます、姫さま」
「あら、おはよう」

 扉を開けた先にいたのは、芙三がまだこの家にいた頃に彼女専属の世話係として付いていた使用人だ。芙三にとっては、この家の中で信用できる大人の内の一人である。

「ねえ、みどりさん。あの方……仙お兄様、まだいらっしゃる?」
「いいえ? 姫さま、仙さまはもうお屋敷にはいらっしゃらないようですわよ」

 ほら、やっぱり。
 確信していたことに物証が加わって、心の中で張っていた緊張の糸がプツンと切れた。脱力したように肩を下げると、使用人は首を傾げて続きを伝える。

「急ぎで提出しなければならない書類があるので、参謀本部に行くと。今朝早くに……」
「そう……」

 朝食も摂らずに行ってしまうなんて、そんなにこの家が嫌だったのだろうか。
 ……いや、彼のことだ。恐らく、父親である梅継とこれ以上顔を合わせていたくないのだろう。

 なぜこんなにも彼は父親のことを嫌っているのだろうと、芙三自身は思っているのだが。きょうだいの中で……いや、人間の中で・・・・・唯一寵愛を受けていたというのに。

「あの、姫さま? 何か……」
「いいえ、何でもありませんわ」

 行きましょう、と芙三は部屋の外に出ていった。







***






「───芙三」

 朝食後、荷物を取ってくるために部屋に向かう芙三の背に向かってかけられる声があった。振り返ると、そこには次兄である胡二郎の姿が。

「お兄様」
「なあ、芙三。お前、昨日夜会の後に仙の所に行ったか?」

 疑問の体を取ってはいたが、ほとんど確信だったのだろう。胡二郎の声は、妙にハッキリとしていた。

「……それが何か?」
「お前な……」

 あっけらかんとした態度でそんなことをさらりと言ってくる妹に目眩を覚えた胡二郎は、しわが寄ってしまった眉間を指先で解す。

「貴方だって、わたくしよりも先にお兄さまの所を訪れていらっしゃったではありませんか」
「僕は男だぞ。女の……しかも既婚者のお前が行ったことが問題だからだ」
「あら、そう」

 胡二郎のお小言を聞いても、芙三はどこ吹く風。意にも返していない。
 そういう所・・・・・は本当に昔から何一つとして変わっていないな、と飽きれ混じりに胡二郎は肩を落とした。

「ところで胡二郎お兄さま。仙お兄さまは、どこかお怪我でもされていらしたのでしょうか?」
「……なんでそんなことを聞く」
「昨日、あの方から消毒液の臭いがしたので。貴方では無いかと」

 今、この家にいる者の中で消毒液を持ち歩いているのなんか、胡二郎くらいだろう。案の定そうだったらしく、胡二郎は少しばつの悪そうな顔をしていた。

「………」
「何かございまして?」
「……喧嘩した。仙と」
「あら、珍しい。喧嘩なんて……逃げてばかりの貴方にとって、初めての喧嘩では無くて?」
「おまっ………」

 コロコロと笑ってやったら、胡二郎は一瞬声を荒らげたが……すぐに意気消沈して深々と溜め息を漏らす。

「別に、心配なされなくても平気なお顔をされてらしたわよ。怒ってはいらっしゃらないようです。それよりも心配なのは、怪我のことですが……」
「……大したことなかったよ。ただの掠り傷だ」
「?」

 その台詞が妙に気になった。なぜ、そんな教科書を読むような棒読みだったのだろう。
 気になって聞き返そうとしたが、その前に胡二郎は一方的に会話を切り上げて足早に去っていった。

「………変な胡二郎お兄さま」
「あ、姫さま! 姫さまー!」

 遠くの方から使用人が自分を呼ぶ声が聞こえて、芙三はふと窓の外を見る。

「あら」

 思わず、声が出た。窓の外、玄関前に見覚えのある車が一台停まってる。
 芙三の婚家である来栖家の所有している車だ。ということは、迎えが来たのだろう。

「お迎えがお越しになっております、お早くー!」
「今行くわ」

 既に荷物は纏めてあるから、後は行李を持って外に出るだけ。机の上に置いてあったそれを部屋の前まで来ていた使用人に持たせ、芙三は玄関に向かった。

「あ、おはようございます」

 玄関ホールに佇んでいたひょろりと背の高い男がにこりと微笑んだ。
 男の正体は、芙三の夫である海だ。いつもは胡散臭いと散々なことを思っている貼り付けたような笑みが、今日はなんだかとても安心感をもたらしてくるような気がする。

「お迎えに上がりましたよ」
「ええ、ありがとう」
「では、帰りましょうか」

 もう義父侯爵への挨拶は済ませたのだろうか。使用人から芙三の荷物を受け取って、海は妻を伴いながらあっさりと玄関を潜っていった。

「………」

 ふ、と。玄関を抜ける直前に振り返って後ろを見る。
 視線の先に広がっているのは、懐かしい生家の玄関ホールだ。

 この扉を閉めたら……侯爵令嬢としての自分と共に、一夜のもこの屋敷の中に置いていかねばならない。

 少し前なら嫌だと言っただろう。だが、今は違う。大丈夫、ちゃんと受け入れられる。と、自分に言い聞かせて深呼吸。
 ほんのちょっと手を離しただけで、重い扉は呆気なく閉まって行った。もう興味は無いとばかりに踵を返し、夫がドアを開けた車の後部座席に身を滑り込ませる。
 その次に入ってきた海がドアを閉めたことが合図となって、車は軽快なエンジン音を響かせながら走り出す。

「それで、どうなったのでしょうか?」
「…………」

 どこか楽しそうな表情をしている夫を横目でじっと見詰め、芙三は静かに首を横に振る。

「その反応……失敗、ということですか」

 中々手強い相手だ、と海は腕を組んで苦笑した。あの青年は、自分が出会った中でも攻略難易度が高い部類に入っている相手だろう。警戒心が強く、誰にも心を開かない。そんな男の心を抉じ開けることができたら、どれほど自尊心を擽れるのだろうか。想像しただけでも楽しい。

「まあ、次の手を考えれば良いでしょう。貴女の気が済むまで……」
「いいえ、もう結構よ。わたくしの気は、もう十分晴れました」
「え、もうよろしいので?」

 今回の企ては失敗に終わったというのに、どうしてもい満足したなどとのたまうのだろう。

「……ねえ、海さま。わたくし、貴方と結婚して良かったと思っておりますわ」

 妻からの思わぬ発言に、海は鳩が豆鉄砲を喰らったような表情をして固まった。

「どうしたのですか、藪から棒に」
「言葉通りの意味ですわ。貴方の所に嫁いで良かったと申し上げているだけです」
「は、はあ………?」
「貴方はわたくしにとって最高の共犯者でしてよ。わたくしの願いを……ここまで真摯に聞いて頂けたもの。わたくしは、とても幸せな女です」

 もうこれ以上は何も望まない。本当の本当に気が晴れたのだ。この窓の外に広がる青空のように。

「わたくしの望みはもう、霧散して消えていってしまったのです。ですから、わたくしはもう十分。今度は貴方さまの願いを聞き入れる番でしてよ」
「……そうですか」

 どうやら本当に気は済んだらしい、と判断したようだ。海はもうそれ以上は何も言わぬと決め込んだ。

「では、僕から貴女に向けての願い事をひとつ」
「わたくしで叶えられるものでしたら、いくらでもどうぞ」
「僕と夫婦になりませんか?」
「はい?」

 この人は何を言い出すのだろう。本気で意味の判らない発言をされ、芙三は狂人でも見るかのような目で夫を見た。

「いったい何を仰るのですか。わたくしたちはもう夫婦ではありませんか」
「ええ、まあ……それはそうですけどね。それはただの契約上の関係でしょう? 僕は言いたいのはですね、その…………家族になりましょう、ということです」

 今度は芙三が豆鉄砲を喰らったような顔をする番だった。

「…………」
「あの……芙三さん?」
「……ぷっ」

 思わず、吹き出してしまった。それで羞恥心を感じたのか、海が頬を真っ赤に染めてふいと視線を明後日の方に向ける。

「拗ねないでくださいまし」
「………別に、拗ねてなどおりません」
「あらやだ、貴方……意外と可愛い人でしたのね」

 結婚してもう八年も経つというのに、まったく気が付かなかった。そういえば、最近になって海の料亭遊びが収まってきたと思っていたが……

「やっぱり良いです……忘れてください」
「───良いですわよ」

 別に良い。思っても見なかった返答に、そっぽを向いていた海は大慌てでバッと振り返る。
 いつもは飄々としていて掴み所が無いというのに、こういう表情はまだあどけがない。

「貴方と夫婦・・になるのも、良いかもしれませんね」

 ───ちょうどわたくしも、失恋をしたばかりで新しい恋でも探そうかと思っていたところですし。

 ふわりと笑った芙三の、まるで少女のような無邪気な笑みは、銀世界と青空を背景に目映く輝いていた。



 雪の振る夜に再会して、雪が止んだ朝に──彼女が初めての恋を捧げた青年は去って行った。
 そしてもう……生きて二度会うことは無いだろう。

 脳裏に浮かんだそんな不吉な予感に気付かなかったふりをして。芙三は隣の座った夫の手の甲に自身の手をそっと重ねた。







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