海辺のハティに鳳仙花

春蘭

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なんでもない日

(2)ある夏の日、布袋葵と②

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─────ぎゃあああぁぁぁ………





「ん?」

 軍港の方から風に乗って悲鳴が二つ。知ってるような声が聞こえた気がした瀧本はそっと振り返ってそっちの方を見た。
 しかし呉はいつも通り、静かな海に黒鉄くろがねの城達を乗せた荘厳な光景を窓の外に映しているだけだ。気のせいか、と思い直して向き直る。

『ちょっと、兄さん? 話聞いてるの、ねえ?』
「うるせえよ、聞いてるって。というかな、いきなり鎮守府にあんな電報寄越してくるなっての。何事かと焦っただろうが。なーにが“宛、瀧本大尉殿。至急、霧島きりしま 紫都しづマデ折リ返シ連絡サレタシ”だ。またお前が倒れたのかと思って慌てて損したじゃねえかよ」
『だって、こうでもしないと兄さん逃げるでしょ。というかまたって何時の話してるの! 私が倒れたのなんて小学校に通っていたあの時だけでしょ』
「あー、はいはい。それでわざわざ兄ちゃんの職場に何の用だよ。お前は知らねぇだろうが、船乗りは停泊中と言ってもやらなきゃいけねぇことが山積みだからけっこう忙しいんだけど」

 受話器を握り直し、壁に背を着きながら瀧本は溜め息を吐く。交換手越しに相手をしているのは彼の妹だ。
 四つ年下の妹である紫都は、今は銀行家の青年に嫁いで霧島姓を名乗っている。夫となった青年は海軍造船少将のご子息とのことで、瀧本も何度か会った事がある。造船科とはいえさすがは海軍軍人の子息であるというか、真面目ではあるがユーモアも解する良い青年だった。

『さっき言ったでしょ。お見合いよ、お見合い。紹介したい人がいるって言ったじゃないの』
「あのなぁ……」

 そっと顔を覆って天井を仰ぐ。悪意が無いというのはなんとも面倒なものだ。本人は本気で兄の事を思って縁談を進めてくる分、質が悪い。

「だからぁ……俺ァ結婚なんざ考えてねぇっつってんだろ」
『結婚考えてないって……将来どうするのよ。一人寂しい老後を送るつもり? それに海軍軍人なんだから、留守中家をしっかり守ってくれる人を……』
「うるさいなぁ。自分の世話くらい自分でできるっての………それになぁ、独身主義者に結婚なんざ勧めんなよ。お前や兄貴はともかく、俺ァこのまま身軽な独身貴族で一生暮らすって決めてんだ。だいだいお前、本チャン(※兵学校出身)の海軍軍人なんざ転勤転勤転勤の職業な上に一度海に出たら数ヶ月帰ってこねぇなんてざらだぞ。下手したら一年以上海外なんてことだってある。お互いに万が一が起きた時は、死に際にも立ち会えねぇ。それを考えたらいっそ独身でいた方がマシだっての」
『あー、もう。うるさぁい。もうお見合いの日時決めちゃったんだから、サクッと行ってきてよ』
「は?」 

───ちょっと待て、今こいつ何か言わなかったか。

「おいこら待て!! テメェ今、なんつったぁ!!?」

 先ほど妹の口から出てきた寝耳に水な発言にギョッとなった瀧本が、取り落としそうになった受話器を慌てて両手で握り直して目を剥きながら絶叫する。交換手を勤める兵の悲鳴が聞こえて来そうだが、珍しくそんなことにも頭が回らず瀧本は妹に詰め寄った。もちろん、電話越しにだが。

『兄さん明日は日曜日で休みでしょ。お義父とうさんから聞いたんだから』
「だからって、お前なぁ!!」
『とにかく明日、九時に広島市内の新天地東入り口で待っといてね。相手の人は洋装だからすぐに判ると思うよ』
「話聞けよ!!!」

 この妹はかつて大病を患った事があるせいか、やけに思いきりが良すぎる部分があった。明日も生きているか判らないから、今日できることは今日の内に。それが妹の口癖だが、何も兄とは言え他人の人生に対してまでそれを発揮せんでもいいだろうと抗議の声を上げる。

『なに?』
「話聞いてたか!? 俺ァこれからも自由気儘な独身生活を謳歌するつってんだろ!!?」
『それは前にも聞いたよ。でも前の時は言ったじゃない。兄さん「それでも俺に縁談持ちかけたいって言うんなら、結婚した後も仕事を続けるって条件を呑める美人の女医だったら考えてやる」って』
「って、まさか見付けて来たのかお前!!?」

 抜かった───と悟った時にはもう遅かった。気を付けていたが、どうやら瀧本は紫都の行動力を過小評価してしまったらしい。
 明治の頃はともかく大正時代辺りになると日露戦争や世界大戦での働き手不足がきっかけとなって、女性の社会進出黎明期となった時代が来たのだ。電話交換手や看護婦などほんのごく一部だけの狭き門ではあったが、それでも彼女たちの活躍は目覚ましいものであった。職業婦人と言われた彼女たちは、しかし世の少女達の憧れの的となりながらもその大多数は結婚すると同時に家庭に入って仕事を辞めていったのだ。夫のある身でありながら外で働くなどとんでもないとされた時代である。結婚後も仕事を続けるなど、夫や夫の親族だけでなく自分の親兄弟親戚連中からも反対されるに決まっている。
 おまけに女医なんて、明治の頃には二百人と少しほどしかいなかった稀少な存在だ。大正の頃には女子医専が増えたと言っても少数派である。そもそも女医になるには高等女学校を出ていなければならず、そして結婚適齢期になると高等女学校では美人から縁談が纏まり“寿退学”をしていくのが常識であった。なので高等女学校の卒業式に出られるのは俗に言う“卒業面”の娘たちばかりである。高等女学校を卒業したばかりか女子医学専門学校をも卒業して、女医になった美女など、この国には一人いるかいないかくらいの確率であるだろうに。
 だからこそ、瀧本は現実には決してあり得ない荒唐無稽な条件を上げ連ねたつもりだったのだが……まさか、そんなめちゃくちゃな条件を全て満たしたような存在が現れるなど思いもしていなかった。

『そ、私が女学校に通っていた頃にひとつ上の先輩だった方! 勤め先は岡山だけど実家が広島だから、帰省するついでに会うって言ってくれたのよ』
「お、おい、ちょっと待て!! 確かに俺は見付けられつものなら見付けてみろって思って、そんなかぐや姫も真っ青な条件を付けておいたがなぁ!別に考えると言っただけで受けてやるなんて一言も言ってねぇぞ!!」
『もう!往生際が悪い!! 私の顔を立てると思って会うだけ会ってよ!!』
「だぁぁぁあああああ!!!! お前はぁぁああ!!!なんでそう、いつもいつも大事な話を間際になってから言うんだよ、ばかぁ!!」

 先ほどからこちらを遠巻きに見てひそひそ話をしている鎮守府スタッフの視線が痛い。この分だともう今日の夕飯時には鎮守府内どころか呉に所属している全艦艇に自分が明日見合いをするということが知れ渡っているだろう。まんまと妹の嵌め手にかかったというわけだ。外堀を完全に埋められた瀧本にはもはやなす術など無いに等しかった。
 なお、数日前に某陸軍将校に向かって「罵倒のボキャブラリーが少ない」と笑いかけた彼であったが、自分だって他人の事を言えない。

『だって兄さん、こうでもしないと絶対逃げるでしょ!!』
「当たり前だろ!!」
『これでもねぇ、兄さんの将来を心配してるのよ! だってほら………私だって申し訳がなく思っているのよ。私が小学校の時に病気にさえならなかったら、兄さんは軍に入らずに高校に行けていたかもしれないのに………』
「馬鹿言うな。俺は自分で決めてこの道を選んだだけだ。勝手に憐れんで勝手に罪悪感なんざもってんじゃねぇよ」
『でも、兄さん。中学に入学したての頃は荒れて荒れて、毎日のように喧嘩して帰ってきてたじゃない。お父さんもお母さんも私の事で手一杯だったから、あんまり兄さんのこと構えなかったって……』
「ンな昔のことなんざどうでも良いだろ……今はもうなんにも思ってねぇから」

 どうやら妹はずっと、次兄が自分のせいで高校に進学できなかった事に後ろめたさを感じていたらしい。
 大正の頃は軍人はとにかく肩身が狭く、それは陸軍よりも希少価値が高くて第二種軍装がカッコいいと人気の海軍だって例外では無かったのだ。それは今でも同じだが。妹自身もその例に漏れずに軍に対してあまり良い感情を持っていないらしく、自分の兄が軍学校に行くというのも内心では反対だったようだ。
 だが幼い上に長いこと病院生活を送っていた彼女では、兄が海軍兵学校に行くのを止められるはずもなかった。せめて結婚相手だけは良い人を──とでも思っているのだろう。

『じゃあ、明日九時にちゃんと約束の場所に行ってね。それじゃあ』
「あッ!テメ、待ちやがれ!! 話はまだ終わって……」

 と、言い終わる前に通話はブツンと切れた。

「あのアマ……」

 ひくり、と口許をひきつらせてそっと受話器を置き、後ろを振り返る。それを合図にしたかのように、聞き耳を立てていた鎮守府のスタッフ達が蜘蛛の子を散らしたように一斉に背を向けて散開していった。書類や資料を抱えて、さも「通りすがりです」と言わんばかりの態度でせかせか歩いていく鎮守府の士官達……そのうちの一人の姿が目に止まった瀧本はギョッと目を剥く。

(ゲッ!? 司令長官オヤジまで!!)

 まるで何事も無かったかのようにスタッフ達の先頭に立ってススス……と廊下の向こうに消えていくのは、呉鎮守府の司令長官。
 どうやら聞かれていたようだ。これではもう逃げられない。正しく四面楚歌……という奴か。

(あいつめ……せめて呉で会うよう手はずを整えとけよ!!)

 なぜ妹はわざわざ広島市内を指定したのだ。この時瀧本の脳裏に浮かんだのは、あの美貌の陸軍将校のこと。

(明日は日曜日だからあいつ、引きこもってて出てこないとは思うけど……ど、どうする? 万が一あいつと街中で鉢合わせになっちまったら………)

 もしそんな事にでもなって……“彼”に現場を押さえられでもしたらと思うと気が気でない。なにせ“彼”は瀧本がいつか結婚してしまうことに対して強い不安を抱いているのだから、自分が明らかに見合い相手と思わしき女と歩いている姿を目撃したらどうなることやら……
 まず、拒絶されることは確定だ。ああ見えて“彼”は瀧本関係に対してだけは許容範囲が狭い。本人も無自覚だが。
 ようやく心を開きかけて自傷行為も落ち着いていた“彼”だが、そんな場面を目の当たりにしてしまったら今度こそ完全に心を閉ざしきってしまうだろう。それどころか自棄を起こして隼三郎閣下との養子縁組を解消し、侯爵が用意している鳥籠の中に自分から引きこもりに行くかもしれない。そうしたらもう二度と“彼”と会えなくなる。
 そもそもそれは“彼”の信頼を裏切るような行為だ。そんなこと、できるはずもない。だが……

(あー……クソッ。約束すっぽかしたら紫都だけじゃねぇ……霧島さんに何を言われるか………)

 妹の義父は海軍造船科少将である。いくらこっちが兵科の将校といえども、こちらは尉官であちらは将官だ。狭い海軍社会、一度でも気まずい関係になったら吊し上げられて予備役にまで追いやられるかもしれない。そうなったら“彼”との距離もますます遠くなる。

(あぁ、紫都の奴め!! 面倒な話を持ち込んで来やがって……もう、しょうがねえ。一応会って話をして、速攻で頭下げて断ってくるか……)

 気は重いがそうするしか無い。片手で顔を覆ってがっくり項垂れ、瀧本はとぼとぼと歩き出した。




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