海辺のハティに鳳仙花

春蘭

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なんでもない日

(9)黄昏草は星の下②

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 戸田の例があるように、あの頃の幼年学校は日露戦争で戦死した軍人の遺児達が多く入校していた。だから、露西亜人と同じ灰色の瞳を持つ尾坂はおそらく人の三倍、いや十倍は苦労するだろうと。
 尾坂を自分の稚児にしたのは戸田の判断だ。そうしなければ、この可憐な美貌の少年はあっという間にそれを理由にする下賎な輩の欲望の餌食となって潰されていただろうから。
 しかし、このとき戸田はふとその可能性を考えてしまった。

────本心では自分も・・・、この青年に対して理不尽な恨みを抱いていたのではないのかと。

 戸田は夫を喪い未亡人になった母の苦労をずっと見てきた。父さえ生きていてくれれば、母はあれほど苦労せずに……日に日に痩せ衰えて最期は枯れた棒切れのような姿となって惨めな末路を迎えることなど無かったのに、と。
 ありもしない復讐心というものを幻視させられて、戸田はすっかり平静さを失っていた。普段の彼ならば決してあり得ないだろうが……この、尾坂という青年が全てを狂わせたのだ。
 そうして戸田は自らも気付かない内に進んではいけない方向に足を向けてしまった。そう、自分の中にあったかもしれないと言われたありもしない復讐心で、知らない内に可愛がっていた自分の稚児をおぞましい怪物にしてしまったのではないのかという後悔と自責の念、それに尾坂に対する言い逃れのできない罪の意識を抱いてしまった。
 それこそが尾坂の目的だったことにも気付かずに。

「やめてくれ………頼む、もうやめてくれ…………せん…………」
「センパイ。たとえ貴方が私のことを憎んでいたとしても……私は、貴方にずっと感謝しているのでありますよ。だからそうやってご自分を責めないで下さい」

 憔悴しきった戸田の耳元で、尾坂はさらに甘い言葉を囁き続ける。

「複数人に犯されて死にそうな目にあっても、センパイの教えがあったからこそ生き延びることができたのであります。でなければ、ここでこうして再会することも叶わなかったでありましょう」

 熱っぽい吐息。甘えるようなしぐさ。そのすべてが戸田を狂わせて、夢中にさせていった。

「華族の子は性に目覚めるのが普通の家の子よりも早いと言われておりますが、私に限ってはそのようなことはなかったであります。なので貴方の掌で皮を優しく剥かれて過敏になっている先っぽを撫でられて精通したあの日のことは今でも鮮明に覚えているでありますよ。そう……侯爵の手によって温室の中で綺麗な水と綺麗な栄養だけを与えられて育った私にとって、刺激的で背徳的な初体験でしたので」
「仙………仙………!」

 それまで戸惑っていた戸田が覚悟を決めたように尾坂を抱きしめる。自分にすがり付いてきた弟分が憐れでたまらなくなって思わずそうしてしまったのだ。些か乱暴にも思えるような勢いで腕を回されて圧迫感に息を詰める。よりいっそう強く感じられた相手のぬくもりが尾坂の優越感と支配欲を満たした。

 その反面───どこか虚しい気持ちに襲われる。

 違う、と思った。これは自分が求めているぬくもりではない……と。

(…………潮の、においがしない……)

 いつも抱き寄せられている時に感じるあのにおいがないからだ。はた、と気付いて我に返った。
 塩辛くて喉の奥がヒリヒリして、なのにどこか懐かしくて安心するあのにおいがしない。それが寂しい。寂しくてたまらない。衝動的にそれを求めてさ迷ってしまいたくなる。

「……センパイのことを好きだったかと問われれば、それは微妙だとお答えしましょう。私がなにものにも執着しない子供であったことは、貴方もよくご存じのはずですから」

 そうだった、この青年は何にも執着しない子供だった。どこまでも淡白で無関心で、この世の全てを斜に見ている小さな大人のようだった。と思い出して、戸田は尾坂をよりいっそう強く抱き締める。

「仙、もうなにも言うな……」
「だって、わからなかったのであります。他人を好きになるという感情が。まったくわからないのであります」

 戸田の肩口に顔を埋めているその下で瑠璃色の瞳が淡く揺れていた。迷子の子供が泣きそうになるのを堪えながら絞り出したような声が、普段の姿と違って酷く幼い印象を与えてくる。その一時はまぎれもなく尾坂自身が本音を吐露した瞬間だったのだろう。

「仙、」
「わかりません、わかりません。だって、私は人でなしの化け物ですから。人の心がわからない怪物ですから。人を好きになるということがどのようなものなのか、なにひとつとしてわかりません」

 声はか細く、震えていた。情事の後のような低く掠れた甘い声と、それに反した無垢な子供のように幼い言動がアンバランスさを際立たせる。
 純朴であどけない子供の心と、強制的に成熟させられた大人の心が同じ器の上に乗っている不安定さ。それが尾坂 仙という青年だった。

「センパイ………教えて下さい、あの時のように………私にご教示ください……………人の心、とは……どのようなことなのか………私に……」

 そこで一旦切り、間隔を測る。焦ってはいけない。たっぷりと溜め込んで、だが相手に不審を抱かせない適切な一瞬を狙って……


「無知で愚かな私に、誰かを好きになるということを教えて下さい────センパイ」


 耳元でうっそりと囁くと、背中に回された腕に籠る力がさらに強くなった。まるで、もう二度と離さない、と言うように……

「………」

 ふ、と。耳が何かの異音を拾う。
 寝ている時でさえも半径二メートル以内に新しい気配が現れたら飛び起きられるほど人の気配に対して過敏な尾坂だ。それほど遠くない場所からバタバタと足音を立ててこちらに向かってくる気配の正体など、声を聞かなくても判る。

「ん………」

 身を捩って戸田の胸板を軽く押す。唐突な行動に不意を突かれた戸田が目を円くしてじっと尾坂の顔を眺めてきた。その表情はどこか熱に浮かされたようにぼうっとしている。その瞬間──

「────失礼します、尾坂大尉! 大久保上等兵であります!!」

 慌てて走ってきたのだろうか。かなり息が上がっていたが、その声を間違うはずがない。
 声の主は尾坂の当番兵である大久保おおくぼ 喜一きいち上等兵のものだった。

「入れ」
「ちょっ!?」

 尾坂の赤い唇から出てきたのは感情など微塵たりとも挟まぬ機械のように淡々とした声。いっそ別人と言った方がしっくり来そうなくらいに抑揚の無い声だった。先程までの甘い誘惑の時間が都合よく見ていた幻覚のように思えたのも無理はないだろう。

「入りま……う、うわああぁぁぁぁああああ!!!?」

 中隊長からの許しを得た当番兵がなんの疑いもなく開けた扉の向こうに広がっていた光景に仰天して大きな悲鳴を上げる。
 礼を欠いているがこればかりは仕方がなかろう。誰が想像できるか。扉の先で敬愛する中隊長が客人に壁際まで追いやられてその華奢な体躯を抱き留められていたなんて。しかもお互いに若干服装が乱れている。
 どう見ても真っ昼間から“いけないこと・・・・・・”をする寸前だったとしか思えない場面に出くわしてしまった憐れな当番兵は、目を白黒させつつダコのように顔を真っ赤にさせて直立不動の体勢でカチカチに固まった。

「おっ、お取り込み中、大変申し訳ありませんっ!! 失礼いたしましたぁ!!」
「構わん続けろ。そんなに慌ててどうした大久保上等兵」

 戸田の腕からするりと逃れ、何事も無かったかのように尾坂は緩めていた釦と襟を正す。
 あっという間にいつものように一寸の隙も無くかっちり軍服を着込んだ中隊長に戻った尾坂の姿を見て、大久保はどうにか跳ね上がった心拍を落ち着かせて口を開く。

「そ、それが……自分の班に所属しております千歳二等兵が………」
「千歳がどうした。怪我でもしたか、それとも急病か」
「いえ、その……たいへん申し上げにくいお話なのでありますが………」

 大久保というらしい尾坂の当番兵の声を聞いていて、冷静さを取り戻したらしい。無意識のうちか、戸田が尾坂の方に足を向けながら慌てて緩められた自分の服装を整えていく。
 尾坂とその背後に立った戸田を顔を真っ赤にさせたまま交互に見比べつつ、大久保は意を決したように報告した。

「千歳が───仔猫を、拾ってきてしまったのであります」
「……は?」

 唖然としたような声。
 その日、戸田は十五年の付き合いの中で初めて弟分が豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をしているのを見た。





    
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