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なんでもない日
(10)八峰の椿に唇を寄せて①
しおりを挟むにぃ、にぃ。というか細い鳴き声。それはまだ産まれて半年も経っていないような小さな仔猫の発する声だった。しかも一匹だけではない。千歳二等兵が酒保から失敬してきた空き箱の底でひしめいている仔猫の数はなんと五匹。
「こんっ────アホがぁぁぁあああぁぁぁああッ! 猫なんかひらってきてどうするんじゃあああ!!」
「いでっ!?」
「返事はどうしたぁ!!」
「ハッ! 申し訳ありません伍長殿!!」
「あっ、馬鹿!! 乱暴に扱うんじゃない!! 猫かわいほうじゃろ!」
自分の班の下士官である堀野 憲吾伍長にどやされ、おまけとばかりに脳天に拳骨をくらった千歳が慌てて腰を九十度に曲げる勢いで敬礼してしまった。当然、千歳が両手で大事そうに抱えていた箱の中でコロコロ転がる仔猫達は、突然地面がガクンと一段階下がった衝撃のせいで一斉に「にお"ー」という潰れたような悲鳴を上げている。
入営から今日に至るまで叩き込まれた結果、脊髄反射で行えるようになった諸々の挙動がここに来て仇となってしまったようだ。ぎょっとなりながら堀野は大慌てで千歳を諌めた。
「とにかくちゃっちゃとそれを下ろしいや! 乱暴に揺すって猫が死んだらどうするんじゃああ!!」
「ハッ! 気付かずに申し訳ありません!!」
珍しくお国言葉で声を荒らげる堀野の剣幕に圧されて、千歳は持っていた箱を床にそっと下ろした。こんな頼りない人間に拉致されて箱に詰められた挙げ句に乱暴に揺さぶられるという憂い目にあった憐れな仔猫達は、とりあえず安定感を得られて目先の危機から解放されたためか少しは喚くのを止めて大人しくなる。それでも騒いでいる奴はいるのだが。
「そもそもなぁ、こんなぁらどこでひらってきたんだ!!?」
「はいっ! こちら、炊事場の近くで師団長のお宅の黒猫が匿っていたのを発見した次第であります!!」
「それでひらってきたんか!」
「はいッ!」
「バカタレ!!」
ごちん!と、本日二発目の拳骨が飛んできた。ぎゃん、という千歳の悲鳴。
建物の外まで響く勢いの怒鳴り声に何だ何だと集まってきていた別の分隊の面々は、千歳の情けない声に「犬みとぉじゃのぉ……」という素朴な感想を脳裏に浮かべた。それも全員ほぼ同時に。中隊の下士官兵の間で妙な一体感が生まれた瞬間だった。
「おおかたわりゃぁは……」
涙目になりつつ堀野から大目玉を喰らっている千歳を尻目に、二人の間に挟まれてしまった仔猫入りの箱を分隊長である軍曹がそっと引きずって救出してやる。さしもの鬼軍曹も何の罪も無い仔猫が巻き込まれるのは忍びなかったらしい。
軍曹がさりげなく救出してきた箱の中を、千歳と堀野以外の分隊の面々が覗き込んでしげしげと眺めた。
「うわ、こまいの」
「まだ乳飲み子じゃないんか」
「いや、これくらいじゃったらもう乳からぁ卒業しとるはずで」
「そうなんか」
「ああ。昔、わしの実家の猫がガキ産んだことがあるからの」
彼らもまだ二十歳そこそこの青年達である。若者らしい感性は十分すぎるほど持ち合わせているし、いくら日曜外出が許可されているとはいえ兵営での缶詰め生活で鬱屈とした気持ちは溜まりに溜まっていた。
そんな中での仔猫である。昔から、赤ん坊と動物は荒んだ大人の心の癒しというわけで、場は一気に和んでいる。
「これくらいじゃったらわしらの掌に乗せられるんじゃないか」
「待て待て。持った時に潰しそうでいびせぇから止めろ」
「判った判った。にしてもこまいなあ……これで何ヵ月くらいじゃろうか?」
「まだ目も青いから産まれて一ヶ月くらいじゃないか。こいつらのおかんはどこに行ったんじゃろ」
なお、徴兵検査を不運にもすり抜けて入営し、工兵科へ配属された下士官兵卒には共通点がある。それが下は二等兵から上は特務曹長まで、入営前は大工や土木作業者などの建設業に従事していたということ。当然、全員とにかくガタイが良い。いずれも過酷な現場労働で鍛え抜かれ、筋肉が著しく発達した屈強な工兵ばかりである。
……地味に圧迫感を感じるのは気のせいだろうか。
「ひらってどうするつもりじゃった!! まさかここで飼うとかゆうつもりじゃないじゃろうの!」
「いいえ、何も考えて無かったであります!!」
「はぁぁああああああ!!!!?」
堀野がとうとう頭を抱えて絶叫した。入営以降、同郷のよしみでこのとろくさい千歳の世話を焼いてきたが……その末が考え無しに仔猫を五匹も拾ってくるという面倒事の持ち込みだ。さすがにこれは誰でも叫びたくなるだろう。苦労をかけている自分の部下にそっと同情しつつ、軍曹は壁をよじ登ってひょっこり顔を出そうとしていた仔猫をそっと箱の中に戻した。
「ふざけるんもたいがいにせえ!! このっ、バカタレ!!」
「ハイッ!! 千歳は考え無しの大馬鹿野郎でありまぁぁあす!!!」
叱られまくって半ばヤケクソになりながら千歳が叫んだ。その声に驚いたのかは知らないが、また箱をよじ登ろうとしていた仔猫が落下して兄弟の背中に飛び込んでいく。
「動物をひらってきたんじゃのぉんて、こがぁな失態がチュー助にバレでもしたらどうするんじゃ!!」
「ふぎゃっ」
今度は鼻をつままれた。堀野自身も拳が痛かったらしい。本日の拳骨はあれにて終了だ。
「あのチュー助に猫をひらってきたなんて事が知られたら、これ以上ななんぼいにたいぎいなことになるんじゃで!! 判っとるんか!!」
「たいぎ………いえ、面倒なこと……で、ありますか?」
堀野の脳裏に浮かんでいたのは、彼ら第二中隊を率いる長である美貌の大尉のこと。
そう。冷淡・冷酷・冷血漢 、の三拍子が揃った血も涙も無いサド野郎ともっぱらの噂の尾坂大尉である。
たとえ敵が自分の親でもなんの迷いも無しに銃の引き金を引くことができる人でなし。目的のためなら人情をも切り捨て手段でさえ選ばない合理主義と完璧主義の怪物。その反面、その絶世の美貌で女どころか男でさえも骨抜きにして遊び回っている希代の好色男。
良くも悪くも冗談めかしてそんな噂が飛び交う我らが中隊長にこの仔猫達が見付かったら、どうして面倒なことになるのだろうか。そう思った千歳は恐る恐る聞いてみる。
「堀野伍長殿。もしかして……中隊長殿は、その………猫が……お嫌いなのでありますか?」
だとしたら、この仔猫が中隊長の目に入ればどんな恐ろしいことになるか判らない。もしかすると二度と戻ってこれないような場所まで棄てられに行くかもしれないという嫌な考えが過った。当事者である千歳は、軍曹に引きずられていった仔猫入りの箱の方を不安そうに見つめる。
「ええや、中隊長は特に猫が嫌いっちゅうわけじゃ無い。今までにも猫をひらってきては引き取り先まで面倒を見ょぉったけぇの」
「えっ?」
「実際にわれがさっきゆぅた師団長の所の黒猫。あれも大尉殿が去年、木に登って降りられなくなりょぉったのを救出して師団長が引き取った奴じゃけえ」
「!」
まさかの事実であった。あのふてぶてしい鍵尻尾の黒猫と自分達の中隊長にそんな繋がりがあったとは知らなかったと、千歳を含める新兵達は目を円くする。血も涙も無い冷血漢と思って畏敬の念を向けていた上官の意外な側面を知った瞬間だ。
「大尉に猫を見せたら、たいぎいなことになるんは別の理由じゃ」
何かあったのだろうか。堀野は悟りを開いた修行僧のような目で遠くの方を見ている。
「とにかく中隊長に猫を見せたら駄目じゃ。最悪、わしらの手に負えんことになるからの」
「はあ……」
いったいどのような事態に陥るのだろう。こわごわしつつも好奇心に駆られたが、まるで魂魄が抜けたような虚ろな目でこんこんと諭してくる堀野の様子に只事ではないと悟った。さすがの千歳と言えども空気を読んでコクコクと頷いておく。
「判ったら大尉殿に見付かる前にどうにかするんじゃ」
「は、はい」
ひとまず酒保(※売店)の裏辺りに隠すのが今のところの最適解だろうか。あそこなら隠せる場所もあるし、それに餌も調達しやすい。だが、酒保の裏は人通りが激しい場所だ。この案を通すためには、誰か──それもかなり上の階級の協力者が必要だった。少なくとも尾坂に発見された時にどうにかできる、中隊長以上の役職の。
「では……取り急ぎ、酒保の裏あたりで匿うというので……」
「───良・い・わ・け・無・い・だ・ろ・う」
ぎゃっ、と千歳の口から潰れた悲鳴が絞り出された。口から心臓が飛び出すのでは無いかという位に飛び上がって仰天する。
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