Ωの僕がヒート相手のαから逃げる話。

ミカン

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Ωの僕がヒート相手のαから逃げる話。

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三ノ宮奏多は、自らの人生を白く、静かな檻の中で生きてきたと感じていた。 肌は室内で大切に守られてきたせいか、どこまでも白く透き通るようだった。
その対比として、生まれたままの漆黒の髪が柔らかな光を吸い込む。大きな瞳は、常に不安と諦めの中間で見つめていた。奏多は、大手企業・三ノ宮グループの社長令息という立場を与えられていたが、その体はひどく虚弱だった。

幼い頃から入退院を繰り返し、少しの季節の変わり目にも発作を起こす。そして何よりも、彼の体はオメガだった。

オメガバース社会において、オメガは希少な存在であり、その血筋は大切に扱われる。しかし、奏多にとってオメガであることは、ただ苦痛な現実を意味した。抑制剤が、ほとんど効かなかったのだ。

突如として襲い来るヒートは強烈で、ただの薬では抑えきれない。熱と痛みと渇望に身を捩る奏多を、両親は心から案じた。彼を企業の後継者として育てることは難しい。であればせめて、健やかに、そして安全に生きてほしい。

両親が下した決断は、「奏多のヒートを受け止める、優秀なαを探す」ことだった。

三ノ宮家の権力と資産をもって、良質な遺伝子を持つ、社会的地位の高いαを募集する――それは世間的には狂気にも似た契約募集だったが、三ノ宮家にとって、体が弱い奏多を守るためにはそれしか術がなかった。

そして、その募集に名乗りを挙げ、選ばれたのが佐藤浩也だった。

「奏多…ヒートの相手のαを見つけた。」

父にそう告げられた夜、奏多は自室の白いベッドの上で身動きが取れなかった。奏多自身の命を繋ぐための行為であると理解していたが、複雑な気持ちだった。

「申し訳ないな……」 

奏多は鏡に映る自分の顔を見つめた。誰かの自由を奪い、自分の苦痛を和らげるために、優秀なαを利用する。その罪悪感が、体の熱以上に重くのしかかった。




佐藤浩也は、αとして完璧だった。 高身長で引き締まった体に、流行に流されない黒髪。切れ長の目元は遊び慣れた男の色香を漂わせていた。
彼もまた、グループの社長令息。

「いやあ、まさか三ノ宮グループの社長令息のオメガ様の相手をすることになるとはね」

浩也は、都心の最高級バーでグラスを傾けながら、心の中で嘯いた。 彼は優秀なαだったが、それ以上に遊び人でもあった。夜な夜な街を闊歩し、金遣いも荒い。
父親に金銭的援助を依頼したところ、突きつけられた交換条件が、三ノ宮家のオメガ――三ノ宮奏多のヒートの相手をすることだった。

「三ノ宮のオメガは抑制剤が効かない。優秀なαのフェロモンでしか、彼の命は繋げないそうだ。君の優秀なαとしての力を使うのは、三ノ宮家への最大の貢献だ」

父の言葉は冷たかったが、浩也にしてみれば悪くない取引だった。体は弱いが、奏多の容姿は目を見張るものがあった。仕事上の付き合いで一度だけ顔を合わせたことがあったが、その白い肌と大きな瞳は、浩也の記憶に強く残っていた。好ましいとは思う。だが、愛を伴う関係ではない。

浩也の胸にあるのは、αとしての優秀さへの自負と、遊びたい盛りの若さが持つ自由への渇望だけだった。

「まあ、金のためだ。優秀なαとして、きっちり仕事をするさ」



二人が契約に基づき、初めて顔を合わせたのは、三ノ宮家が用意した、人里離れた静かな別荘だった。

白い大理石のエントランスで待っていた奏多は、白いタートルネックに身を包み、まるでガラス細工のように儚く見えた。

「三ノ宮奏多です。浩也さん、本日は、その……誠に申し訳ございません」 

奏多は深々と頭を下げた。

「頭を上げてください、奏多さん」

浩也は、奏多の前に立ち、その顎先に優しく触れ、顔を上げさせた。近距離で見た奏多の瞳は、やはり美しく、中に不安の影を宿している。

「俺としては、とても光栄なことですよ。貴方の命を繋ぐことが、俺のαとしての務めだというのなら。それに、貴方のように美しいオメガを前にして、嫌がるαはいません」

浩也の言葉は、契約の事実を覆い隠す、甘い皮肉のようだった。 奏多は、浩也の言葉に安堵と、一層の罪悪感を覚える。彼はただ、自分に与えられた役割を果たそうとしている。優しげな笑みは、奏多自身に向けられた感情ではない。それは分かっていた。

「ありがとうございます……。今夜、ヒートの症状が重く出ています。どうぞ、この関係が、浩也さんの足枷になりませんように」

浩也は、その大きな手を奏多の華奢な背中に回した。奏多の体温が、平熱よりも幾分高いことを感じた。彼が今、どれほど苦しんでいるのか。

「大丈夫ですよ、奏多さん。今は貴方のαです。今夜は、貴方を楽にして差し上げます」

そう耳元で囁くと、浩也は奏多の白い首筋に、自分のαのフェロモンをそっと纏わせた。奏多の瞳が一瞬大きく見開かれ、そして力が抜けるのが分かった。

二人の特殊な関係は、静かに、そして切なく、始まったのだった。

奏多のために用意された寝室は、別荘の中でも最も静かで広々とした一室だった。しかし、今の奏多にとって、その豪奢な空間は、ただヒートの熱を閉じ込める檻でしかなかった。

浩也に連れられベッドに入ると、奏多の体は既に極限に達していた。契約の相手という理屈はあっても、全身を焼き尽くすようなこの熱と渇望を、優秀なαに晒すのは恥ずかしかった。

「奏多さん、力を抜いて。大丈夫ですよ」

浩也は、熱にうなされる奏多を抱き上げ、慣れた手つきで衣服を剥いでいく。その動きには一切の躊躇がなく、まるで訓練された技術のように滑らかだった。

「ひゃっ……浩也さん……」 

奏多の白い肌が露わになる。体中を走る震えは、ヒートの熱だけでなく、初めての相手に対する羞恥と緊張から来ていた。

「綺麗だ……」 

浩也は、思わず本音を漏らした。それはαとしての純粋な欲求と、奏多という存在に対する「好ましさ」から来るものだった。奏多の白く華奢な体は、浩也のαの血を騒がせた。

決して急ぐことなく、優しく、丁寧に奏多を愛撫した。契約関係にあるとはいえ、奏多の虚弱な体を知っている。
荒々しく力任せに抱けば、奏多の体が壊れてしまうかもしれない。その気遣いが、浩也の動作のすべてに込められていた。

彼の優位なフェロモンが全身を包み込む。それは奏多の体内に乱れ狂っていた熱を、まるで魔法のように鎮静させていった。

「あ……ぁ、浩也、さ……」 

奏多は理性を手放し、αの優しさに身を任せた。契約だ、仕事だという頭の声は、浩也のフェロモンと快感によって掻き消されていく。

(ああ、こんなに、楽になるなんて……)

彼に申し訳ないと思っていた気持ちが、一瞬だけ快楽に支配される。これが、優秀なαの力。

そして、浩也は一気に奏多の内に侵入した。

激しいヒートが収まった後、浩也は奏多の体を丁寧に拭い、自分の腕の中に抱き込んだ。疲労困憊の奏多は、浩也の温もりと、αの残したフェロモンの中で、久しぶりに安らかな眠りについた。

夜が明けて、寝室に朝日が差し込む頃。

奏多は浩也の逞しい腕の中で目を覚ました。浩也はまだ深く眠っている。彼の整った寝顔は、昨晩の情熱的なαとは違い、あどけない青年のように見えた。

(本当に、申し訳ないことをした)

奏多は、浩也の額にかかる黒髪をそっと撫でた。自分を楽にするために、浩也は時間とαの力を使った。契約があるとはいえ、そのことに変わりはない。

やがて、浩也がゆっくりと目を開けた。

「おはよう、奏多さん。体は大丈夫ですか?」 

浩也の声は優しく、昨晩の苦しみは遠いものになっていた。

「はい、お陰様で。本当に、ありがとうございました」 

奏多は体を起こそうとしたが、浩也に制された。

「まだ寝ていていいですよ。今日の予定は全部キャンセルしてもらってあります」

浩也はそう言って、優しく奏多の髪を梳いた。この瞬間、奏多の胸に淡い期待が芽生えた。もし、この優しさが、契約ではなく、彼自身の心からのものだったら……。

奏多は、勇気を出して尋ねた。

「浩也さんは、これからどうされるんですか?」

浩也は笑った。いつもの、優しげで、しかしどこか無邪気で冷酷な笑顔だった。

「俺? もちろん、遊びに行きますよ」

奏多の心臓が、微かに跳ねた。

「せっかくαになったんだ。世界中のαと遊びたいオメガが、俺を待ってるんですよ」

浩也の言葉は、悪気のない、純粋な自由への渇望だった。

彼は奏多を重荷とはっきり言葉にしたわけではないが、その行為が彼を一時的に拘束していたことは事実だ。

「奏多さんとのヒートは、最高の仕事でした。優秀なαとして、最大限の満足を提供できたと思っています。でも、仕事は仕事。プライベートは楽しまないとね」

浩也はそう言いながら、冗談めかして奏多の頬をつついた。

奏多の胸の奥で、淡い期待の灯が、音もなく消えていくのを感じた。

「……そう、ですね。浩也さんは、自由でいいな」 

奏多は微笑んだ。その微笑みは、浩也に理解してくれたと錯覚させる、諦めに満ちたものだった。

浩也がシャワーを浴びている間、奏多はそっと目を閉じた。

(契約だ。仕事だ。それ以上を望むのは、私の傲慢だ)

浩也は優しかった。αとして、契約相手として、これ以上ないほど丁寧だった。だが、そこには恋愛的な感情は一切ない。浩也の優しさは、あくまで奏多の体調を気遣う責任感と、αとしての優秀さの証明に過ぎない。

しかし、この浩也の「優しさ」と、それとは裏腹な「遊び人」としての側面が、奏多にとって唯一の救いでもあった。浩也のαのフェロモンが、彼の孤独を一時的に紛らわせてくれるからだ。

二人の間には、ヒートを共有する肉体の繋がりと、仕事上の協力関係、そして埋めようのない心の溝だけがあった。




浩也と奏多の関係は、その後、数ヶ月にわたって続いた。

奏多のヒートは不定期かつ重く、頻繁に浩也が別荘や三ノ宮家の用意した隠れ家に呼ばれた。その度に、浩也は奏多の体を満たし、ヒートを収束させ、翌朝には離れていく。

奏多は、浩也の訪問を待つ静かな日々に慣れていた。
浩也が去った後の部屋に残る彼のフェロモンだけが、奏多にとって唯一の世界との繋がりであり、生を実感させるものだった。

(これでいい。私は彼の自由を奪ってはいけない)

そう自分に言い聞かせる一方で、浩也への淡い好意は日々募っていった。彼はヒート中、いつも優しく、体の弱い自分を決して乱暴に扱わなかった。その気遣いが、奏多の心を徐々に侵食していた。しかし、浩也の態度は契約の枠を出ることはない。彼は奏多の体調を気遣いはしても、プライベートな感情を覗かせることはなかった。

ある冷たい雨が降る夜、事態は一変した。

奏多は自室で発作を起こしていた。持病による呼吸の乱れと、体力の低下。専属の看護師が慌てて対応する中、さらに悪いことに、強烈なヒートが併発してしまった。

「だめだ……抑制剤が効かない!」

看護師が顔を青くする。体が極度に弱っている状態でヒートが始まれば、消耗が激しく、最悪の場合、心臓が持たない。

三ノ宮家は緊急事態として、すぐに浩也に連絡を入れた。

浩也はその時、友人と派手なパーティーに参加していた。賑やかな音楽と、アルコールの香りが満ちる場所だった。携帯に着信が入り、画面に「三ノ宮家 緊急」の文字が表示された瞬間、浩也は顔色を変えた。

「悪い、緊急の仕事だ。」

浩也は騒めく友人たちを無視し、コートを掴んで飛び出した。

車を飛ばす彼の心臓は、激しく脈打っていた。通常のヒートとは違う。緊急二文字が、ただならぬ事態を予感させた。

「奏多が……ヒートが始まったのか」

普段、奏多のヒートの相手をすることに「仕事」と割り切っていたはずなのに、彼の脳裏に浮かんだのは、白いベッドの上で苦しげに喘ぐ奏多の儚い顔だった。

(頼む、無事でいてくれ……!)

***

別荘に到着した浩也が案内されたのは、いつもの寝室ではなく、応急処置が施されている病室のような一室だった。

室内は薬品の匂いが濃く、医療機器の電子音が響いていた。ベッドの上には、酸素マスクをつけられ、青白い顔をした奏多が横たわっていた。

「浩也様! 間に合っていただきました。発作とヒートが重なり、このままでは体力の方が……」

医師は必死の形相で訴える。

奏多の体から、強烈なヒートのフェロモンが漏れ出していた。彼は意識が朦朧としており、呼吸も浅い。ヒートを抑えなければ、命の灯が消えてしまう。

浩也は一瞬、息を飲んだ。いつもの、健康な時の美しい奏多ではない。今目の前にいるのは、あまりにも弱々しく、今にも壊れそうな命の形だった。

「奏多……!」

浩也は衝動的に奏多のそばに駆け寄った。契約とか、仕事とか、遊びとか、そんなものはすべて頭から消し飛んでいた。胸を占めたのは、恐怖だった。

もし、このまま奏多がいなくなったら。

いつものように「また会える」ことが、当たり前ではなくなる。
優秀なαとしての責任感ではない。自分がこの命を繋ぎ止める義務があるという使命感でもない。

ただ、奏多という存在を失いたくない。彼の白い肌や、大きな瞳、そして彼が自分に向けてくれる微かな微笑み。そのすべてが、自分の世界から消えることへの、純粋な恐怖だった。

浩也は、震える手で奏多のマスクをそっとずらし、彼の首筋に顔を埋めた。優秀なαのフェロモンを、惜しみなく、奏多の体に注ぎ込む。

「奏多、俺だ。浩也だ。大丈夫、助けに来た」

浩也は、フェロモンを送り込みながら、奏多の微かに熱を持つ唇に、何度も口付けた。それは、契約でも仕事でもない。もはや、懇願に近かった。

「生きてくれ。頼むから……!」

その必死なフェロモンと、浩也自身の焦燥が混ざり合った強い感情が、奇跡的に奏多の乱れた体内を鎮めた。ヒートの波が引き、フェロモンが収束していく。奏多は微かに目を開け、涙を流しながら、ぼんやりと浩也の顔を見つめた。

「こう……や、さん……」

ヒートが抑えられたことで、発作も落ち着き、奏多は緊急の治療を受けることができた。

---

その出来事以来、浩也の態度は明らかに変化した。

ヒートが収束した後も、浩也はすぐに遊びに戻ることはしなかった。彼は別荘に留まり、数日間、奏多の傍にいた。

「もう大丈夫だ。でも、本当に、怖かった」

浩也は、そう言って奏多の手を握った。

奏多は驚いていた。彼は「仕事」の相手である自分に、浩也がこんなにも強い感情を露わにするとは思っていなかった。

「浩也さん、ありがとうございます……私のせいで、ご迷惑を」

「迷惑なんかじゃない」

浩也は言葉を遮った。

「迷惑じゃないんだ。俺は、君が……いなくなるのが、嫌だった」

奏多の命に対する、強い執着と* 大切さを初めて感じさせるものだった。

奏多は、胸の奥が温かくなるのを感じた。

この緊急事態は、浩也の心を動かした。彼は、奏多を単なる「契約のオメガ」ではなく、「失いたくない大切な存在」として認識し始めたのだ。

奏多もまた、浩也の隣にいることが、以前にも増して安らぎに満ちたものに変わっていくのを感じていた。二人の関係は、緩やかに、しかし確実に、契約の外側へと向かい始めていた。



緊急事態を乗り越えて以来、浩也は以前よりも頻繁に奏多の元を訪れるようになった。

ヒートがなくても、ただ見舞いに来る。他愛のない世間話をしたり、静かに並んで読書をしたりする時間が増えた。浩也の表情は優しく、彼が以前言っていた「もっと遊びたい」という言葉の影は薄くなっていた。

浩也は、奏多の命の儚さを知ってしまった。その繊細な存在が、自分との肉体的繋がりによって保たれているという事実は、彼のαとしての本能と、失いたくないという感情を強く刺激していた。





(もしかしたら、浩也さんも……)

奏多は、淡い期待を隠せなくなっていた。

しかし、ある朝、その静かな希望は突然の異変によって打ち砕かれた。

その日、奏多は朝食を口にした直後、激しい吐き気に襲われた。胃の中のものを全て吐き出してしまった後も、吐き気は治まらない。虚弱体質の奏多は、日頃から食欲不振に悩まされることはあったが、これほどの強い吐き気は初めてだった。

念のため、専属の医師に検査を依頼した。数日後、診察室で告げられた事実は、奏多の静かな世界を一瞬にして凍りつかせた。

「三ノ宮様。妊娠されています」

「……え?」

奏多は信じられなかった。ヒートの度に優秀なαである浩也と関係を持っていたが、契約に基づく関係であり、避妊は徹底されていたはずだった。しかし、奏多の虚弱な体質と、効かない抑制剤、そしてαのフェロモンが持つ生命力の強さ。それらが複雑に絡み合い、小さな命が芽生えてしまったのだ。

「おめでとうございます。しかし、三ノ宮様の体調を鑑みますと、このまま出産まで進めるのは、非常に危険を伴います」

医師の現実的な言葉は、奏多の耳にはほとんど届かなかった。奏多の腹の中に、浩也との——愛を伴わない契約から生まれた——子供がいる。

奏多は、帰宅後、自室のベッドで体を丸めた。喜びと、それ以上の恐怖と罪悪感が押し寄せる。

(浩也くんに……この子の責任を負わせることはできない)

浩也は今、自由への渇望を捨て、奏多を気遣ってくれている。しかし、それはあくまで「命を繋ぐ」というαとしての責任感や、情愛の類かもしれない。彼にはまだ、遊ぶ時間も、自由に恋愛する未来もあるはずだ。

もしこの妊娠を告げれば、浩也は責任感から、遊びを、自由を、そして彼自身の未来を捨てるだろう。そして、それが浩也の足枷になることだけは、奏多にとって耐え難いことだった。

浩也への淡い恋心と、何よりもこの小さな命を守りたいという母性が、奏多に一つの決断をさせた。

誰にも言わず、この家を出よう」



その日の夜、奏多は静かに荷物をまとめた。
財閥の社長令息としての地位、裕福な生活、専属の看護師……すべてを捨てる。必要なのは、わずかな現金と、最低限の着替え。そして、この子を守るための強い意志だけだった。

郊外にある隠れ家。あの別荘とは違う、三ノ宮家とは無関係の、自分名義で手配した小さなアパートを思い出す。

(あそこなら、しばらくは誰にも見つからない)

奏多は、白い机の上に、何の書き置きも残さなかった。手紙を残せば、浩也が探しに来るだろう。優しい彼はきっと責任を感じてしまう。何も残さず、ただ静かに、夜の闇に紛れて姿を消すことが、彼への最大の配慮だと信じた。

日付が変わる直前。雨戸から漏れる薄明かりだけを頼りに、奏多は三ノ宮家の静かな屋敷を後にした。

翌朝、奏多の不在に気づいた三ノ宮家は騒然となった。

浩也の元にも、すぐに連絡が入った。

「奏多が、消えた?!」

浩也は、その知らせを聞いた時、頭を殴られたような衝撃を受けた。

「どういうことですか!彼は体が弱い…!」

浩也は三ノ宮の父に詰め寄った。

「それが、全く。手紙一つない。まるで蒸発したようだ……」

浩也は、別荘の寝室に残された白いシーツを見て、激しい焦燥感に襲われた。

(なぜだ? なぜ何も言わずに……!)

ただの契約相手がいなくなっただけではない。浩也の心臓を鷲掴みにするような喪失感が、全身を駆け巡った。奏多の静かな美しさ、彼の儚い体、自分を信頼しきった瞳……それらすべてが、もう二度と自分の前に現れないかもしれないという事実に、浩也は絶望した。

その瞬間、浩也ははっきりと自覚した。

自分は、三ノ宮奏多を愛していた

ヒートを共にする中で、いつの間にか彼の存在が自分のαとしての生活のすべてになっていた。彼がいなくなって初めて、自分の世界の中心に、奏多というガラス細工のような存在があったことを知ったのだ。

浩也は、会社の業務をすべて放り出し、奏多の行方を探し始めた。

「奏多、どこへ行ったんだ……。頼む、俺が間違っていた。君を遊びの対象だなんて思っていた俺が馬鹿だった。君を、心から愛しているんだ……!」

しかし、奏多は巧みに身を隠し、浩也の優秀な情報網をもってしても、その行方は掴めなかった。


---

三ノ宮奏多が、すべてを捨てて家を出てから、四年という月日が流れていた。

奏多は、郊外の古いアパートの一室で、息子である健太と静かに暮らしていた。健太は四歳になっていた。

健太は、まるで浩也の生き写しだった。流行りの髪型ではないが、艶やかな漆黒の髪。そして、父親譲りの切れ長で、少し斜に構えたような涼しげな瞳。しかし、その肌は奏多と同じく驚くほど白く、仕草の一つ一つには奏多の持つ柔和さが滲み出ていた。健太は、奏多にとって、この世で最も尊い、愛そのものの存在だった。

健太は、自分の父親が誰なのかを知らない。奏多は、浩也の影を追うことのないように、細心の注意を払って生きてきた。しかし、健太が浩也にそっくりであればあるほど、奏多は時折胸が締め付けられるような痛みを感じた。

「パパ、お花、きれいだね」

健太がアパートのベランダに咲いた小さな朝顔を指差す。

「そうだね、健太。健太みたい…強く、美しいね」

奏多の生活は、健太という灯火によって守られていたが、彼の体は日ごとに蝕まれていた。

出産は奇跡的に乗り越えられたが、αのフェロモンによる継続的なケアを欠いたオメガの体は、限界を迎えていた。抑制剤は相変わらず効かず、ヒートの周期は乱れ、発作の頻度も増した。医師が呼ぶところの、重度のオメガ・ヒート症候群だった。

常に体がだるく、節々が痛む。そして何よりも、ヒートが起きるたびに、体力が急激に奪われていった。

(そろそろ、限界かもしれない)

ある日の午後、健太がおもちゃで遊んでいる傍らで、奏多は激しい目眩に襲われ、床に崩れ落ちた。

「パパ!」

健太は幼いながらも、その状況に慣れていた。パパは時々、顔を真っ白にして動けなくなる。

「大丈夫だよ、健太……ちょっと、おやすみするだけ」

奏多は絞り出すようにそう言って、健太の手を握りしめた。

奏多が床に倒れるたび、健太の心には不安が募った。健太はまだ四歳だが、変化には敏感だった。

奏多は浩也のことは何も話していなかったが、健太の中に眠っているαとしての本能が、父親のフェロモンを求める奏多の無意識の欲求を感じ取っていた。健太自身の中にも、優秀なαの遺伝子が眠っている。健太は、パパを楽にしてくれるのは、あの強い雨と木の匂いを持つ誰かしかいないのだと、直感的に知っていた。

「あのね、パパ。パパが倒れるとね、おそらが暗くなるんだ」

健太は、自分にできる唯一のこととして、奏多の汗で濡れた額を、小さな手で何度も拭った。



そして、その夜、最悪の事態が起こった。

冷たい外気にもかかわらず、奏多の体は灼熱の窯のように熱を帯びた。それはヒートだった。これまでで最も強烈な、命を削るようなヒートの波。

「はぁ、はぁ……け、健太……救急車、呼ぶから……向こうに、いってて……」

奏多は苦しむあまり、声が掠れていた。全身が痙攣し、意識が遠のきかけている。

健太は、布団の上で呼吸を乱す奏多を見て、パニックにならなかった。幼い健太の顔には、父譲りの冷静さが浮かんでいた。

(どこ? どこにいるの? パパを助けてくれる、人……)

健太は、奏多が肌身離さず持っている、一枚の古いカードを思い出した。それは、奏多が家を出る前に、浩也からもらった名刺だった。汚れないように、いつも小さな木箱に仕舞われていた。奏多は、浩也を忘れるために家を出たが、どうしてもこのカードだけは捨てられなかったのだ。

健太は、よろめきながら立ち上がり、木箱を見つけ出した。中には、少し黄ばんだ名刺が一枚。

『佐藤浩也』の文字と、電話番号。

健太は、奏多の教え通りに電話機を操作し、震える手でその番号を押した。

「……もしもし」

健太の小さな声は、何度もコールした後、静かな男の声に繋がった。

浩也は、四年ぶりに鳴ったその古い番号からの着信に、驚きと緊張で体が硬直していた。

「だ、誰だ?」

「あのね、パパがね、たいへんなの」
健太は涙をこらえ、一生懸命に言葉を繋いだ。

「パパの体がね、すっごく熱いの。泣いてるの。パパ、壊れちゃうかもしれないの……」

浩也は、その声を聞いた瞬間、全身から血の気が引いた。幼い子供の声。そして、「パパ」という言葉。

「君は……誰だ? そこはどこだ?」
浩也は冷静を装おうとしたが、声は震えていた。

健太は、アパートの住所を、たどたどしいながらも正確に伝えた。そして最後に、震える声で言った。

「パパを助けて。パパ、には必要なの」

奏多自身が発した言葉ではない。しかし、健太のαとしての本能が、奏多の魂の叫びを代弁していた。

浩也は、その小さな声が発した一言に、四年間の苦しみと後悔をすべて打ち砕かれた。愛する奏多が、自分の子供と共に、一人で、命の危機に瀕している。

「すぐ行く! 絶対、そこにいろ!」

浩也は、受話器を叩きつけるように置くと、ただひたすらに、奏多と我が子の元へと車を飛ばした。四年間、探し続けても見つからなかった奏多の居場所が、まさか、自分たちの小さな命によって知らされることになるとは、夢にも思わなかった。




---

浩也が、健太の告げた古いアパートに辿り着いた時、夜は最も深い時間だった。

みすぼらしいアパートの階段を駆け上がり、健太が教えてくれた扉を叩く。返事はない。浩也は躊躇することなく鍵を破壊し、ドアを開けた。

室内は、ひどい熱気に包まれていた。強いオメガのフェロモンが充満し、それが限界を訴える悲鳴のように浩也の鼻腔を刺激した。

視界に飛び込んできたのは、部屋の隅で、小さな体を震わせている健太と、その横で布団を蹴り上げ、苦痛に顔を歪める奏多の姿だった。

「奏多!」

浩也は、声を上げ、奏多の元へ駆け寄った。

奏多の体は火照りきり、肌は発汗で濡れていた。呼吸は浅く、意識はほとんどない。その瞳は開いていたが、光を失い、焦点が合っていなかった。ヒートの波が、命の限界を超えようとしているのがわかった。

「パパ……パパ!」

健太が、恐怖に泣きながら、奏多の足に抱きついた。

浩也は、健太の小さな体を抱き上げ、その顔を見た。目元、鼻筋、口元……自分と奏多の面影を合わせ持つ、紛れもない、自分の息子だ。

「よくやった、健太。俺をを呼んでくれて、ありがとう」

浩也は、健太を抱えたまま、奏多の上に覆いかぶさった。四年間、探し続けた愛しい人。別れの理由も知らず、ただただ喪失感に苛まれていた相手。

「奏多! 俺だ、浩也だ! なんで何も言わずに消えたんだ! 俺を、俺を置いていくな!」

浩也は、奏多の肌に強く抱きつき、その首筋に顔を埋めた。自分の優秀なαのフェロモンを、全存在をかけて放出した。

「ごめん、奏多……本当にごめんなさい。君を愛しているのに、その気持ちを伝えられなかった。契約じゃなかった、遊びなんかじゃなかった! 俺は、君を心から愛しているんだ!」

浩也のフェロモンと、心の底からの謝罪と情愛の言葉は、奏多の体内に乱れ狂っていたヒート症候群を、文字通り焼き払うように鎮静させていった。

奏多の痙攣が止まり、呼吸がゆっくりと深くなる。意識が、ゆっくりと戻ってきた。

「……浩也、さん……?」

奏多の掠れた声が、浩也の耳に届いた。

「ああ、そうだ。俺だ、奏多。もう大丈夫だ。俺が来たから。」

浩也は涙を流していた。優秀なαとして、冷静沈着な社長令息として、人前で感情を露わにすることなどなかった男が、大粒の涙を流し、奏多の体を強く抱きしめている。

「どうして……どうして、ここに……」

奏多の白い指が、浩也の背中に回された。

「この子が呼んでくれたんだよ。俺たちの、子供が」

浩也がそう言って顔を上げると、奏多は初めて、浩也の腕に抱き上げられている健太の顔を見た。

「健太……ありがとう……」

「パパを助けられてよかった」
健太は、浩也に抱かれたまま、安堵の涙を流して奏多に微笑みかけた。

浩也は、そのまま奏多を抱き起こし、自分のαのフェロモンを浴びせ続けた。四年間、飢餓状態にあった奏多のオメガの体は、貪るように浩也のフェロモンを受け入れた。ヒートの熱は下がり、代わりに満たされる幸福感で、奏多の瞳に再び光が戻った。

この再会は、奏多にとって、煉獄のような孤独から、愛の灯火へ帰還する瞬間だった。




その後、奏多はすぐに病院に運ばれ、浩也の協力の元、徹底的な治療を受けた。ヒート症候群は、αである浩也との継続的な接触とケアが必要不可欠だったため浩也は片時も奏多のそばを離れなかった。

退院後、奏多はアパートを引き払い、浩也が用意した安全で日当たりの良い、新しい住居へと移った。

浩也は、奏多を抱きしめ、何度も謝罪した。

「あの時、遊びたいなんて言わなければ、君は逃げなかったかもしれない。俺は、君の心を理解しようともしなかった。本当にごめん」

奏多は、浩也の胸に顔を埋めたまま、涙を流した。

「私も、ごめんなさい。浩也さんに責任を負わせたくなくて……。でも、ずっと、浩也さんを求めていました」

隠されていた真実の愛が、ようやく通じ合った瞬間だった。

浩也はすぐに奏多の実家に挨拶に行った。奏多の両親は、奏多が生きていたこと、そして孫である健太の存在に涙を流して喜び、浩也を家族として受け入れた。

数ヶ月後、体調が完全に回復した奏多は、浩也と正式に番の誓いを交わした。

浩也の人生から「遊び」の要素は消えた。彼の世界は、奏多と健太の愛と笑顔で満たされていた。

夜、浩也は奏多と、間に健太を挟んで川の字になって眠る。健太は、父の強いフェロモンと、母の柔らかな温もりに包まれ、安らかに眠っている。

「奏多」
「はい、浩也さん」

浩也は、奏多の額に口付けた。

「もう、君を一人にしない。ずっと、俺のそばにいてくれ。俺の愛しいオメガ」

奏多は、浩也の腕の中で、初めて心から安堵し、満たされた。

「はい。もう、どこにも行きません」

煉獄のような孤独の中、白い檻に囚われていたオメガは、愛するαと、そして二人の大切な灯火と共に、激愛に満ちた、温かい人生を歩み始めたのだった。



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