完璧な悪役になってみせる

ミカン

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理想の悪役

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その施設は、いつも少しだけカビと古い石鹸の匂いがした。
親の顔も知らない僕にとって、そこが世界のすべてだった。けれど、その世界はあまりに冷たく、幼い僕の心を守るにはあまりに脆かった。

「……うう、ひぐっ……」

階段の踊り場、西日が差し込む隅っこで、僕は膝を抱えて泣いていた。理由は些細なことだったと思う。他の子にからかわれたとか、おやつを落としたとか、そんなこと。でも、孤独な僕にとっては、その一つ一つが世界が崩れるような大事件だった。

「ゆう。また泣いてるの? ほら、鼻水出てるぞ」

頭の上から、聞き慣れた、陽だまりのような声が降ってきた。
顔を上げると、そこには少し困ったように笑う翔にいちゃんが立っていた。施設の年長者で、僕よりずっと背が高くて、いつも少しだけ洗剤のいい匂いがする、僕だけのヒーロー。

「……翔にいちゃん」

「そんなに泣くと、お目々がなくなっちゃうぞ。ほら、暇つぶしにこの本でも読みなよ」

翔にいちゃんが差し出したのは、表紙の端が少し擦り切れた、分厚いハードカバーの小説だった。タイトルは『聖剣のレクイエム』。

「高校の図書館で見つけたんだ。司書さんに頼み込んで、特別に借りてきた。なかなか面白いぞ、魔法とか騎士とかいっぱい出てきてさ」

「ありがとう……」

僕は、まだ湿った手でその本を受け取った。重たかった。その重さは、翔にいちゃんが僕を気にかけてくれた優しさの重さのようだった。
それからというもの、僕はその本を何度も、何度も読み返した。文字を覚えたての僕には難しい言葉も多かったけれど、翔にいちゃんに読み方を教わりながら、僕は物語の海に溺れていった。

ある日、僕は興奮気味に翔にいちゃんの部屋に飛び込んだ。

「ねぇ! 翔にいちゃん! 僕、この人が好き!!」

ページを指差す僕を見て、翔にいちゃんは不思議そうに眉を寄せた。

「ん? 主人公か?……いや、そっちは悪役だろ? ヴァレリウス・ドナン……。悪役がかっこいいのか?」

「うーん! かっこいいというか、もったいないの!」

「もったいない? そうか?」

翔にいちゃんは笑って僕の頭を撫でた。
当時の僕には、うまく言葉にできなかった。けれど、物語の中で孤独を深め、最後に誰からも理解されずに死んでいくヴァレリウスの姿が、どうしようもなく自分と重なって見えたのだ。彼がもっと強く、もっと自分勝手に振る舞えていたら。誰かに頼ることができていたら。

「僕は、この人が最後、泣かないで笑ってたらよかったのになって思うんだ」

僕の言葉に、翔にいちゃんは少しだけ寂しそうな顔をした。

「……そうだな。ゆうは優しいな」

その時の翔にいちゃんの瞳に映っていたのが、僕への同情だったのか、それとも自分自身の境遇への共鳴だったのか、今の僕にはわからない。
けれど、翔にいちゃんは僕にとって、実の兄以上の存在だった。親に捨てられた僕にとって、この世界と僕を繋ぎ止める唯一の、そして最強の鎖だったんだ。

---

不幸は、いつも何の前触れもなく、日常の顔をしてやってくる。

「え? 翔が?」

職員室から聞こえてきた施設長の悲鳴のような声。
僕は廊下で立ち止まり、息を呑んだ。

「翔にいちゃんがどうかしたの?」

僕の問いかけに、施設長は振り返った。その顔は幽霊でも見たかのように真っ青で、震える手で受話器を握りしめていた。

「ゆう。少し待ってて……」

嫌な予感なんて、しなきゃよかった。
次に翔にいちゃんに会えたのは、真っ白なシーツが敷かれた台の上だった。

「……ねぇ、翔にいちゃん。起きてよ」

冷たくなって、ピクリとも動かない指先。いつも僕の頭を撫でてくれた、あの温かな手のひらは、もう二度と僕を救ってはくれない。
事故だった。登校中、幼い子を庇ってトラックに撥ねられたらしい。

「自分を犠牲にするなんて、翔にいちゃんらしいね……」

なんて、誰かが言った。
そんなの、嘘だ。
翔にいちゃんは、僕を置いていくような人じゃない。僕を一人にするなんて、そんなの、優しくなんてない。

「う、わあああああああああん!」

僕は子供のように――実際、子供だったけれど――喉がちぎれるほど叫んで泣いた。
世界から色が消えた。
僕の心を照らしていた唯一の太陽は、あまりにも早く沈んでしまった。

それからの数年間、僕は抜け殻のように生きた。
高校生になっても、僕の傍らにはいつもあの古びた小説があった。
ヴァレリウス・ドナン。
読み返せば読み返すほど、彼への想いは複雑になっていった。
彼は帝国の魔導士でありながら、卑怯な手口で聖騎士である主人公を陥れようとする。けれど、その動機はいつだって愛されたいという渇望からくる、歪んだ孤独だった。
最後、彼は禁術に手を出し、自らの肉体ごと戦場を吹き飛ばして果てる。

「やっぱり、もったいないよ。ヴァレリウス」

彼は泣いていた。最期の瞬間、魔力が暴走する中、彼は誰にも見られないように涙を流していた。
泣き虫な自分が嫌いな僕は、彼の中に自分の弱さを見ていた。
完璧な悪役なら、最期まで高笑いをして消えていくべきだ。
弱さを見せず、美しく、冷酷に。
もし、僕がヴァレリウス・ドナンの立場だったら。
こんなにボロボロになって泣いたりしない。最強の悪役として、誰もが畏怖するような華麗な退場を演じてみせるのに。

そんな妄想が、僕の空っぽな心を埋める唯一の慰めだった。

---

夕暮れ時。学校帰りの商店街は、夕飯の買い出しをする主婦や、部活帰りの学生で賑わっていた。
僕はカバンの中に、新刊のファンタジー小説を忍ばせていた。
あの日、翔にいちゃんからもらった本がきっかけで、僕は活字中毒と言われるほど本を読むようになった。物語の中にいる間だけは、現実の孤独を忘れられたから。

「おにーちゃーん! まってよー!」

不意に、甲高い子供の声が響いた。
見ると、小さな男の子が、何かを追いかけるようにして道の真ん中に走り出していた。
「あ……」

周囲の大人はスマホを見ていたり、立ち話をしていたりして、その異変に気づいていない。
男の子は泣いていた。迷子なのだろうか。泣きじゃくって前が見えていないその足取りは、無情にも車道へと向かっていく。

反対方向から、大型のトラックが猛スピードで走ってくるのが見えた。
運転手は脇見をしているのか、ブレーキを踏む気配がない。

(危ない!)

思考よりも先に、体が動いていた。
あの日、翔にいちゃんがどうして子供を助けたのか、その理由を考える暇なんてなかった。ただ、泣いている子供を放っておけなかった。

「危ないッ!!」

僕は男の子の背中を、力の限り歩道側へと突き飛ばした。
その瞬間。

――ドォォォォンッ!!

鈍い衝撃が全身を貫いた。
体がふわりと宙に浮く。視界がぐるりと回転し、オレンジ色の空が目に焼き付いた。
アスファルトに叩きつけられた衝撃は、不思議と痛くなかった。ただ、熱い。全身が燃えるように熱くて、そして急激に冷えていく。

「うわ~~ん! ママぁ、ママぁ!!」

遠くで、男の子の泣き声が聞こえる。
ああ……よかった。助かったんだな。
視界がじわじわと白く霞んでいく。

(翔にいちゃん……僕も、同じことができたよ)

たった一人の命を助けられた。
それだけで、僕の灰色の人生にも、少しは意味があったと思える。
意識が遠のく中、僕はカバンからこぼれ落ちた小説のページが、風にめくられる音を聞いた気がした。

もし、生まれ変われるなら。
次は、泣かない自分になりたい。
誰かを守れるくらい、強くて、かっこいい自分に――。




僕が横たわっているのは、沈み込むほど柔らかいシルクのシーツが敷かれた天蓋付きのベッドだった。

「……ここ、は……?」 

自分の声を聞いて、息が止まった。 低い、低音の、鈴が鳴るような冷ややかな美声。僕の知っている自分の声じゃない。

震える手で、近くにあった姿見を覗き込む。 そこに映っていたのは。

銀糸のような艶やかな長髪。 すべてを見通すような、冷徹で美しい紫紺の瞳。 色白い肌に、スッと通った鼻筋。

それは、僕が何度も何度も読み返した挿絵の姿そのものだった。 物語の終盤、孤独に狂い、世界を呪って死んでいく悲劇の悪役。

「ヴァレリウス・ドナン……?」

鏡の中の「僕」が、信じられないものを見るような目でこちらを見返している。 どうやら、神様は僕の最期の願いを、少しばかり極端な形で叶えてくれたらしい。

もし、この世界があの物語の通りに進むのだとしたら、僕を待っているのは破滅と孤独の結末だ。 けれど。

(……泣かない。もう、絶対に泣かないって決めたんだ)

僕は鏡の中の自分を見据え、薄く微笑んだ。 本物のヴァレリウスなら決して見せないような、強気で、不敵な笑み。

最強の悪役になって、華麗に物語から退場してやる。 けれど、原作通りの無様な死に方はもう選ばない。 この世界で、僕は僕の美学を貫いてみせる。

たとえこの先に、僕を憎む正義の味方や、僕を翻弄しようとする運命が待ち受けていたとしても。

僕は、ヴァレリウス・ドナンとして、この新しい人生の幕を開けた。


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