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目覚め
しおりを挟む意識の底から這い上がろうとするたび、冷たい水の底に沈められるような感覚があった。自分がヴァレリウスとして自覚してからまた眠ってしまったみたいだ。
頭が重い。全身が火照り、指先一つ動かすのにも、鉛を持ち上げるような労力が必要だった。視界は霞み、どこまでが夢で、どこからが現実なのかが判然としない。どうやら寝込んでいたのだろう。
そんな混濁とした意識の隙間に、氷のように冷徹な声が差し込んできた。
「……調子はどうだ」
低く、感情の起伏が一切削ぎ落とされた声。
それは息子を心配する父親のそれではなく、まるで壊れかけた所有物の状態を確認する管理者の響きに似ていた。
「公爵様。ヴァレリウス様のお熱は、ようやく下がり始めました」
怯えたような、震える女性の声が続く。
「そうか。……ヴァレリーの状態を逐一報告しろ。魔力の暴走が起きぬようにな」
それだけ言うと、衣擦れの音と共に、足音は遠ざかっていった。
「ヴァレリー」。
その愛称さえも、その男の口から出ると呪いのように冷たく響く。
「おぼっちゃま、目が覚めましたか」
枕元で、40代後半ほどの女性が顔を覗き込んできた。少し疲れた顔をしていたが、その瞳には確かに僕を案じる光が宿っている。
「……っ」
声を出そうとしたが、喉が焼けるように痛い。
急激な寒気が全身を襲い、視界がぐにゃりと歪んだ。
ここはどこだ? 僕は……僕は、あの時トラックの前に飛び出して……。
整理のつかない思考が渦を巻き、激しい頭痛となって脳内を暴れ回る。
「__っ! 痛い……っっ!」
「おぼっちゃま! 頭が痛いんですね? すぐに薬を持ってきます。これを、これを飲んでください」
女性――乳母のミアが、震える手で茶褐色の液体が入ったコップを口元に運んでくる。
泥のように苦いそれを飲み下すと、強烈な睡魔が津波のように押し寄せてきた。僕は抗う間もなく、再び深い眠りの淵へと引きずり込まれていった。
---
次に目が覚めた時、部屋には誰もいなかった。
静寂だけが支配する地下室で、僕はぼんやりと天井を見つめた。
今度は意識がはっきりしている。
それどころか、驚くほど頭の中がクリアだった。
「……僕は、やっぱり死んだんだ」
ぽつりと、掠れた声がこぼれた。
整理された記憶。それは、僕が「ゆう」という名で日本に生きていた頃の記憶と、この世界で「ヴァレリウス・ドナン」として生きてきた4年間の記憶が、一つの糸に紡がれた証だった。
僕はあの時、男の子を助けて死んだ。
そして、翔にいちゃんからもらったあの小説、『聖剣のレクイエム』の世界に転生したのだ。
それも、孤独の末に自らを破壊する悲劇の悪役、ヴァレリウスとして。
「ひぐっ……う、うう……っ」
溢れ出す涙を止められなかった。
周りに誰かいないかを確認する余裕もなかったけれど、声を殺して枕に顔を埋める。
生まれ変わったからといって、中身がすぐに強くなれるわけじゃない。
翔にいちゃんにもう会えないこと。あの温かな手のひらが、もう存在しないこと。
そして、この世界でもまた、僕は望まれない子供として存在していること。
あまりの悲しさと心細さに、胸が締め付けられる。
「……やっぱり、僕は泣き虫だ」
小説の中のヴァレリウスは、4歳の頃はまだ悪役ではなかった。
ただ、生まれ持った属性が最悪だった。
この世界で不吉の象徴とされる『闇魔法』。
彼はそれを宿して生まれた。さらに不幸なことに、母は彼を産み落とすと同時に命を落とした。
父である公爵は、最愛の妻を奪い、不吉な力を宿す息子を呪った。
「お前さえいなければ。」
その無言の圧力が、ヴァレリウスをこの地下室へと追いやったのだ。
記憶の中のヴァレリウスは、卑屈で、おとなしく、常に誰かの顔色を伺って震えていた。
使用人たちの冷ややかな視線に耐えられず、自ら地下室の隅に閉じこもり、心を閉ざしていた。
けれど。
「……酷い環境だと思ってたけど、まだ詰んではいないんだ」
涙を拭い、僕は部屋を見渡した。
地下室とはいえ、部屋はそれなりに広く、最低限の家具は揃っている。
閉じ込められているわけではない。ただ、ヴァレリウス自身が外の世界を恐れ、拒絶していただけだ。
物語が本格的に動き出し、彼が学園で本物の悪役へと堕ちていくまでには、まだ時間の猶予がある。
---
鏡なんて見たくなかったけれど、僕はふらつく足で部屋の隅にある姿見の前に立った。
そこに映っていたのは、4歳の子供とは思えないほど完成された美の萌芽だった。
真っ黒な、夜の闇を溶かしたような髪。
そして、怪しくも美しい輝きを放つ、紫紺の瞳。
「……これが、異端の象徴か」
この世界の人々は、金髪や銀髪、赤や青といった鮮やかな色彩を尊ぶ。
黒髪に紫の瞳というのは、魔族や呪いを連想させる不吉の色なのだという。
日本人の感覚からすれば、黒髪なんて当たり前だし、紫の瞳なんてミステリアスで格好いいとさえ思えるけれど、
何より、この顔立ち。
幼いながらも、どこか冷ややかで、人を寄せ付けない魔性の美しさがある。
これが成長すれば、あの挿絵のような絶世の美青年になるのだろう。
孤独を深め、誰にも愛されず、ただ美しく朽ちていく悪役。
「……嫌だ。そんなの、もったいなさすぎるよ」
僕は鏡の中の自分を見つめ返し、唇を噛んだ。
僕はゆうとして一度死んだ。そして「ヴァレリウス」としての絶望も知っている。
二つの人生を背負った今の僕は、ただ泣いて幸運を待つだけの子供じゃない。
翔にいちゃんに誇れるような、強い自分になりたいと願ったはずだ。
「おぼっちゃま? どうかされました?」
扉が開き、ミアが入ってきた。
僕は反射的に肩を跳ねさせたが、彼女の顔を見て、記憶の中にあるミアの優しさを思い出した。
彼女は、この屋敷で唯一、ヴァレリウスを「怪物」としてではなく「子供」として見てくれる人だ。
「……うん」
僕が短く返事をすると、ミアは弾かれたように動きを止めた。
手に持っていた盆がカタカタと震える。
「お、おぼっちゃま……今、お返事を……してくださったのですか?」
ミアの瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
記憶を探ると、これまでのヴァレリウスは一度も彼女の問いかけに答えたことがなかった。
ただ俯き、拒絶するように黙り込むだけ。
そんな彼に、ミアは4年間ずっと声をかけ続けてくれたのだ。
僕は少し申し訳なくなって、視線を泳がせた。
人付き合いは得意じゃない。前世でも翔にいちゃん以外には、うまく笑えなかった。
でも、向けられた善意を無下にするのは、悪役というよりただの失礼な奴だ。
「……心配、かけた?」
たどたどしく問いかけると、ミアはついに堪えきれなくなったように、膝をついて僕を抱きしめた。
「ああ……っ、よかったです……。本当によかったです……っ! お熱が下がって、本当によかった。公爵様も、心配しておられましたよ」
(……それは嘘だ、ミア。お父様が僕を心配するはずがない)
僕の中のヴァレリウスの記憶が、冷ややかにそう囁いた。さっきの声を聞けばわかる。あれは心配などではない。監視だ。
ミアは、僕を傷つけないために優しい嘘をついている。
でも、その嘘をつく彼女の横顔は、とても悲しそうで、そして温かかった。
(……誰も、僕を愛してくれないなんて、言わせない)
僕は心の中で、かつてのヴァレリウスに語りかけた。
大丈夫。今の僕には、君の孤独がわかる。そして、君を愛してくれる人がここに一人いることも。
だから、もう、絶望に身を任せるのはおしまいだ。
---
ミアが食事を運び終え、「ゆっくりお休みくださいね」と部屋を出ていった後。
僕はベッドの上で、自分の掌を見つめていた。
体が元気になってくると、ある衝動がムズムズと沸き上がってきた。
そう、ここは魔法の世界。
そして僕は、生まれながらに強大な『闇魔法』を宿している設定なのだ。
(魔法……使えるんだよね? 本当に?)
前世の僕――「ゆう」としての部分が、興奮で心臓を弾ませる。
日本にいた頃は、小説やアニメを見ては魔法が使えたらなぁなんて妄想していた。そんな厨二病心が、この状況で黙っているはずがない。
ヴァレリウスの記憶には、本能的な魔法の使い方が刻まれている。
彼はそれを不吉なものとして忌み嫌い、使わないように封印していたけれど……。
「……やってみよう」
僕は深く息を吸い込み、体内の奥底にある「熱」のようなものを意識した。
心臓の鼓動に合わせて、冷たくて重い、けれど力強い何かが指先に集まっていく。
「えいっ!」
気合と共に手を突き出すと。
パチッ、という音と共に、手のひらの上に拳ほどの大きさの黒い炎が浮かび上がった。
「うわあああ! 出た、本当に出た!!」
思わず声を上げてしまった。
それは、普通の火とは違う。光を吸い込むような、どろりとした深淵の色。
熱いというよりは、冷気さえ感じるような不思議な魔力の塊だ。
闇魔法――不吉? 災厄?
とんでもない。こんなに美しくて、格好いいじゃないか!
「すごい……。これがあれば、僕はもっと強くなれる」
興奮で頬が上気する。
小説の中のヴァレリウスは、この力をコントロールできずに自滅した。
でも、僕には知識がある。この力がどういうものか、どうすれば強くなれるかを考える知恵がある。
最強の悪役として、華麗に退場するためには、まずは圧倒的な力が必要だ。
誰にも見下されず、誰にも怯えず。
自分が自分であるために、この力を磨き上げたい。
「でも……独学じゃ限界があるよね」
ミアに教えてもらうのは無理だ。彼女は魔法使いじゃないし、何より僕に魔法を使わせたくないと思っている。
公爵に頼むなんて論外だ。
人に教えてもらうのは……正直、まだ怖い。
何を言われるか、どんな目で見られるか。
「……なら、まずは知識だ」
本。
翔にいちゃんが僕に教えてくれた、世界を広げる唯一の手段。
この屋敷のどこかには、必ず膨大な書物を集めた図書室があるはずだ。
闇魔法について、この世界の仕組みについて、もっと知らなければならない。
僕はベッドから降りると、まだおぼつかない足取りで、重厚な扉へと手をかけた。
地下室の重い扉を、僕は僕自身の意思で、初めて押し開けた。
廊下はひんやりとしていて、どこまでも続いている。
ここから僕の、ヴァレリウス・ドナンとしての本当の物語が始まる。
「待ってて、ヴァレリウス。僕が君を、世界で一番格好いい悪役にしてあげるから」
真っ暗な廊下を、僕は一歩ずつ踏み出した。
その背中を、小さな黒い火火が、ランタンのように淡く照らしていた。
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