完璧な悪役になってみせる

ミカン

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師匠

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あの不思議な老人、ルーダさんと出会ってから数日が経過した。
僕の心の中では、今も静かな変革が起きている。前世のゆうとしての記憶と、この世界のヴァレリウスとしての魂。かつては水と油のように分離していた二つの意識が、今は一滴のインクが水に溶け込むように、滑らかに混ざり合っていた。

(……ああ、もう「僕」がどっちなのかなて、考える必要もないんだな)

ヴァレリウスの絶望も、ゆうの穏やかな日常も、すべては僕という一人の人間の血肉となった。

ただ、少しだけ寂しいこともある。魂が馴染むにつれ、前世の記憶が「知識」としては残っても、「実感」として薄れていくのを感じるのだ。大好きだったはずの小説の細かなエピソードも、砂が指の間からこぼれ落ちるように、少しずつ曖昧になっていく。

けれど、これだけは、魂の深層に刻み込まれている。
「翔兄ちゃん」のこと。
僕を愛し、守ってくれたあの人の温もりだけは、この命が尽きても忘れないだろう。そして、その愛に報いるためにも、僕はここで「最強の悪役」として生き抜かなければならない。

(悪役はクールで、冷酷で、それでいて圧倒的に美しくなきゃいけない……。よし、目標は決まった!)

ふと鏡を見ると、そこには以前より少しだけ生気の宿った、しかしどこか影のある美少年の顔があった。

「……よし。決めたからには、今日も特訓だ」

誰にも見つからないよう、僕は再びあの秘密の抜け穴を通って、ルーダさんの待つ森へと向かった。

---

「ルーダさーん!!」

森の奥、いつもの広場。そこには既に、古びたローブを纏ったルーダさんが立っていた。僕は思わず駆け寄り、彼に抱きついた。
前世でも今世でも、誰かに自分から抱きつくなんて翔にいちゃん以外は初めてかもしれない。けれど、不思議と躊躇いはなかった。今の僕にとって、ルーダさんは唯一、ありのままの自分をさらけ出せる存在なのだ。

「おやおや、元気じゃな、ヴァレリウス。何日ぶりかな?」

「三日ぶりです! ずっと、ルーダさんの魔法を教わりたくてウズウズしてました」

ルーダさんは僕の頭を優しく撫で、それから少し真剣な表情を浮かべた。

「よかろう。では今日は、前回言った通り『移動の魔法』を教えてやろう」

「移動……瞬間移動ですか!? でも、闇魔法って破壊の力なんですよね? どうして移動ができるんですか?」

僕の問いに、ルーダさんはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「良い質問じゃ。普通の魔法使いは、風を操って高速で動くか、光の屈折を利用して位置を変える。だが、闇魔法は違う。闇の本質は『無』への還元……。つまり、ヴァレリウス。わしらは移動するために、空間そのものを、あるいは流れる時間の一瞬を『破壊』するのじゃよ」

「空間を……破壊する?」

「そうじゃ。今ここにいる自分と、あそこにいる自分の間にある『距離』を、闇の力で喰らい尽くし、無にする。点と点を結ぶ線を消し去れば、そこには到達しか残らん。凄まじい理屈じゃろう?」

その説明を聞いた瞬間、背筋に電流が走った。
なんて合理的で、そして恐ろしい魔法なんだ。
空間を壊して、その断層を飛び越える。それはまさに、神の領域に手をかけるような背徳的な響きがあった。

「だが、この魔法は危険じゃ。イメージを少しでも違えれば、体の一部が元の空間に置き去りにされたり、あるいは見知らぬ空間の裂け目に飲み込まれる。怖くなったかな?」

「……少しだけ。でも、ルーダさんがそばにいてくれるなら、怖くないです。やってみたい!」

僕の返答に、ルーダさんは満足そうに頷いた。

「よかろう。まずはあそこにある、わしが作った魔法の輪をターゲットにするんじゃ。目を閉じ、全身を魔力の膜で包み込みなさい。そして……今いる場所を『拒絶』し、あそこへ『跳ぶ』イメージを持つんじゃ。魂ごと弾けるようにな!」

僕はルーダさんの言葉をなぞるように、深く集中した。
体内の魔力が、ドロリとした黒いオーラとなって全身を覆う。
ターゲットの輪の中に、自分の魂を叩きつけるような感覚。

「……えいっ!」

パチン、と空間が爆ぜるような音がした。
次の瞬間、視界が真っ白になり、内臓が浮き上がるような強烈な浮遊感に襲われる。
……成功した!?

「……大失敗じゃな、ヴァレリウス」

ルーダさんの呆れたような声に、僕は恐る恐る目を開けた。
そこは確かに、数メートル先の魔法の輪の中だった。移動は成功している。けれど、なんだか体が妙にスースーする。

「……え?」

足元を見ると、そこには何もなかった。
さっきまで着ていたはずの、公爵家特製の高級な絹の服が……ない。

少し離れた、元いた場所を見てみると、そこには僕の服一式が、抜け殻のようにポツンと地面に落ちていた。

「服……服だけ置いてきちゃったぁ!!」

「かっかっか! 空間の破壊が不十分で、無機物まで連れて行けなかったようじゃな。体ごと消えなくて良かったわい」

「笑い事じゃないですよ、ルーダさん!」

真っ裸で森の中に立ち尽くす4歳児。前世の理性がある分、恥ずかしさは倍増だ。けれど、ルーダさんの底抜けに明るい笑い声を聞いているうちに、なんだか自分まで可笑しくなってきた。

「あはは! 本当だ、これじゃダメだ!」

森の中に、僕たちの笑い声が響き渡る。
公爵家の重苦しい雰囲気の中では、絶対にありえなかった時間。ルーダさんと出会ってから、僕は初めての感情をたくさん知っていく。

---

 

楽しい時間はあっという間だ。日が沈みかけ、空に一番星が輝き始める頃、僕は帰路につかなければならなかった。

「まだ一人で転送魔法を使うのは危ない。今日はわしが送ってやろう」

ルーダさんの魔法により、僕は瞬きする間に自分の部屋のベッドの上に戻っていた。
「ありがとう、ルーダさん。またね!」
空中に溶けるように消えていく老人の気配に手を振り、僕はホッと息をついた。

——だが、その安堵は次の瞬間に打ち砕かれた。

廊下から、慌ただしい複数の足音が聞こえてくる。バタンと激しく扉が開かれた。

「……おぼっちゃま!! どこにいらしたのですか!?」

部屋に飛び込んできたのは、顔を真っ青にした乳母と、数人の使用人たちだった。彼女たちの目は血走り、服は乱れている。

「えっ……あの、えっと」

「お昼頃から姿が見えないと、屋敷中が大騒ぎだったのですよ! 騎士団まで動員されるところでした!」

乳母の必死な訴えに、僕は言葉を失う。
まずい、想像以上に騒ぎが大きくなっている。けれど、まさか空間を破壊して森で裸になってましたなんて言えるはずもない。

僕が黙り込んでいると、廊下の空気が一変した。
重厚な、氷の刃を突きつけられるような冷徹なプレッシャー。
使用人たちが一斉に左右に分かれ、深く頭を下げた。

「……下がれ」

低く、響く声。
入り口に立っていたのは、一人の男だった。
整えられた長い紫色の髪。冷徹な光を宿した、深淵のような瞳。彫刻のように整った顔立ちは、美しくも一切の感情を排している。
彼こそが、このアスタロト公爵家の当主であり、僕の父。
エドワード・ヴァン・アスタロト。

目覚め時は声しか聞こえなかったためしっかりと姿を見るのは初めてだ。

(……お父様)

記憶の中にある父親の姿は、赤ん坊の頃の断片的なものだけだ。

目の前の男から放たれる圧倒的な威圧感に、僕の体は本能的に震え始めた。
原作での彼は、息子であるヴァレリウスを無能として切り捨て、冷遇し続けた冷酷な人間のはずだ。
今の僕は、勝手に屋敷を抜け出した「問題児」。

(……殺される、かもしれない。あるいは、今ここで家を追い出されるか……)

覚悟を決め、僕は俯いたまま拳を握りしめた。

「どこにいた」

短い問い。蛇に睨まれた蛙のように、僕は声が出ない。
何を言っても言い訳になる。沈黙が死ぬほど長く感じられた。

「……申し訳、ございません……」

それだけを絞り出すのが精一杯だった。
エドワードはゆっくりと僕に近づき、その大きな影が僕を包み込む。
彼は僕の前に膝をつき、視線を合わせた。
殴られる、そう思って目を強く瞑った。

だが、数秒経っても痛みは来なかった。
代わりに聞こえてきたのは、微かな、本当に微かな溜息だった。

「……無事で、なによりだ」

「……え?」

驚いて顔を上げると、父の表情は相変わらず鉄面皮のままだった。けれど、その瞳の奥にある険しさが、ほんの少しだけ和らいでいるように見えた。

「夜道は危険だ。次は、せめて護衛を一人連れていけ。……乳母、ヴァレリウスに食事を。かなり腹を空かせているようだ」

それだけ言い残すと、父は一度も振り返ることなく部屋を去っていった。
後に残されたのは、呆然とする僕と、安堵でへなへなと座り込む使用人たち。

(怒られなかった……? どころか、心配されていた?)

原作のヴァレリウスが知っていた「父」は、もっと冷たくて、関心すら持たない怪物だったはずだ。
けれど、今、僕の目の前にいた男は……。

「……お父様」

僕は自分の胸に手を当てた。そこには、恐怖とは違う、不思議な鼓動が刻まれていた。
もしかしたら、この物語は、僕が知っている筋書きとは違う方向へ動き始めているのかもしれない。

最強の悪役を目指す僕の道は、まだ始まったばかりだ。
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