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師匠と恩人
しおりを挟むあの日、冷徹だと思っていた父・エドワード公爵から「無事でなによりだ」という言葉をかけられてから、屋敷の空気は微妙に変化した。
執拗な問い詰めや罰があるかと思っていたが、結局、僕がお昼にどこへ行っていたのかを深く追求されることはなかった。僕に興味がないのか、あるいは泳がされているのか……その真意は測りかねるけれど、今の僕にとっては好都合だった。
それから数ヶ月。
僕の日常は、公爵家での「大人しい少年」としての仮面と、森での「闇魔法の修行」という二重生活で埋め尽くされていった。
「いいか、ヴァレリウス。魔力とは水のようなものじゃ。溜めるのではなく、常に循環させろ。淀んだ水は腐り、やがて己の身を焼く毒となる」
森でのルーダさんの教えは、厳しくも合理的で、前世で講義を受けていた頃よりもずっと僕の知的好奇心を刺激した。
ルーダさんは本当に物知りだった。魔法の技術だけでなく、この世界の成り立ちや、失われた歴史、果ては美味しい野草の見分け方まで、彼との会話は僕にとって何よりの宝物になっていた。
「ルーダさんって、本当になんでも知ってるんだね。もしかして、本当は何百歳も生きてる大賢者様だったりする?」
僕が冗談めかして笑うと、ルーダさんはいつものように深々と被ったフードの奥で、優しく目を細めた。
「かっかっか、よしてくれ。わしはただの、隠居した変わり者の老人だよ」
そんな穏やかな時間が、ずっと続くものだと思っていた。
僕の中に眠るヴァレリウスの冷酷さと、ゆうの寂しがり屋な部分が、ルーダという存在によって絶妙なバランスで保たれていたのだ。
---
季節が巡り、森の葉が鮮やかな黄金色に染まり始めたある日のこと。
いつものように転送魔法で森へ飛んだ僕を待っていたのは、修行の準備ではなく、ただ静かに佇むルーダさんの後ろ姿だった。
「ルーダさーん! 今日は影縫いの魔法、教えてくれるって約束……」
駆け寄る僕の言葉を遮るように、彼はゆっくりと振り返った。その表情は、今までに見たことがないほど、澄み渡って、そしてどこか哀しげだった。
「ヴァレリウス。……もう、わしがお前に教えることは何もない」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
「え……? どういう、こと? ほら、まだ時空間魔法の応用だって、呪詛の解呪だって、教えてもらいたいこと、山ほどあるんだよ!」
「いや、お前はもう、基礎を完璧にマスターした。闇魔法を制御する強靭な精神も、それを正しく使うための倫理も、既にお前の中にある。わしがいなくとも、お前はもう、一人でどこまでも歩いていけるはずじゃ」
「待ってよ、いきなりすぎて理解できないよ……! 昨日まで、あんなに楽しくお話ししてたじゃないか!」
視界がじわりと滲む。4歳の子供の体が持つ感情の脆さのせいか、それとも僕自身の本心か。
行かないでほしい。置いていかないでほしい。
ようやく見つけた、僕を不吉な存在としてではなく一人の人間として見てくれる師匠。
「嫌だ! 納得できない! もっと、もっと一緒にいたいんだ!」
わがままだと分かっていても、涙が止まらなかった。魔法のコントロールができるようになっても、自分の感情だけは、どうしても制御できなかった。
「……本当にお前は、まだ泣き虫のままだな。……なあ、ゆう」
---
「へ……?」
聞き慣れない、けれど魂の奥底に刻まれた「名前」を呼ばれ、僕は反射的に顔を上げた。
そこに立っていたのは、腰の曲がった老人の姿ではなかった。
夕陽を背負い、逆光の中に浮かび上がるのは、見慣れた少し癖のある黒髪。
僕よりもずっと背が高くて、少しぶかぶかのジャージを着て、いつも僕を困らせるように笑っていた、あの人。
「……翔……にいちゃん?」
「よっ! 久しぶりだな、ゆう。……いや、今はヴァレリウスって呼ぶべきか?」
信じられなかった。夢を見ているのだと思った。
けれど、その声のトーンも、僕を見つめる優しい眼差しも、間違いなく前世で僕を支えてくれた兄、翔のものだった。
「なんで……? ルーダさんは? なんで翔にいちゃんがここにいるの?」
「ゆうのことが心配でさ。神様……っていうか、こっちの世界の管理者みたいな奴に、無理を言って頼み込んだんだよ。『あいつは一人じゃ何もできないから、少しだけ手助けさせてくれ』って。……でも、ルーダとしての姿を保てるのも、もう限界みたいだ」
翔にいちゃんは、困ったように頭を掻いた。
その体が、夕陽に透けて、端の方からキラキラとした光の粒子になって崩れ始めている。
「やだ! 嫌だよ! せっかく会えたのに、また僕を置いていくの!?」
「ダメだよ、ゆう。正体を明かしたら即強制送還。それが、この姿で君を助けるための条件だったんだ。……もう、時間だ」
僕は彼に抱きつこうと手を伸ばしたが、指先は空虚に彼を通り抜けた。実体がない。彼は最初から、僕を見守るためだけに現れた奇跡の残滓だった。
「どうして……っ、もっと一緒にいたい。僕、一人じゃ怖いよ……!」
「ゆう、お前はこの世界で頑張るんだろ? 最強の悪役になって、運命を変えるって決めたんだろ? ……お前なら、絶対にできる。俺が教えた闇魔法は、お前の弱さを守るための力だ。自分を信じろ」
翔にいちゃんの姿がだんだん薄くなっていく。
溢れる涙のせいで視界が歪むのか、彼自身が消えかかっているのか、もう分からなかった。
「ゆう。……最後にあの日、謝れなかったことを言わせてくれ」
翔にいちゃんは、透ける手で僕の頬を撫でるような仕草をした。
「ごめんな。あの時、一人にして。……道路に、君と同じくらいの年格好の男の子が飛び出してさ。考えるより先に体が動いちゃったんだ。まさか、ゆうまで俺を追って死ぬなんて思わなかったけど……。やっぱり俺たち、兄弟だよな。お節介なところまで似てやがる」
あの日。兄を失った絶望で、僕の視界から色が消えた。
けれど、兄もまた、誰かを守ろうとしてその命を燃やしたのだ。
「俺はずっと、お前を見守ってる。……空の上からか、あるいはこの世界のどこかの風としてか。辛くなったら周りをよく見てみろ。お前は、もう一人じゃない」
「……っ、うん。わかった……わかったよ!」
「じゃあな。……次に会う時は、最高に格好いい悪役になった報告を楽しみにしてるぜ」
「……っ! じゃあね! 大好きだよ、翔にいちゃん!」
最後に彼が見せたのは、いつもの悪戯っぽい、満面の笑みだった。
光が弾け、森に沈黙が戻る。
そこにはもう、ルーダの姿も、翔にいちゃんの影もなかった。
---
「……うぅ……あ、あぁ……」
僕は一人、夕闇が迫る森の真ん中で泣き崩れた。
最愛の兄に再会できた喜びと、同時に、師匠と兄という二人の大切な存在を一度に失ってしまった喪失感。
その両方が胸を掻きむしり、息ができないほど苦しかった。
けれど、不思議と心は折れていなかった。
掌に残る、魔力の熱。
ルーダ……翔にいちゃんが授けてくれた、空間をも切り裂く闇の力。
(……約束したんだ。うまくできたら、褒めてくれるって)
僕は震える手で涙を拭った。
いつまでもここで泣いているわけにはいかない。僕はアスタロト公爵家の嫡男であり、この物語を塗り替える悪役なのだ。
「……見ててね、翔にいちゃん。僕は、誰にも負けない最強の悪役になってみせる。そして、僕が望む最高にハッピーな結末を、この手で掴み取ってみせるから」
僕は立ち上がり、屋敷の方角を向いた。
闇はもう怖くない。僕自身が、その闇の主人なのだから。
一人、静かに森を後にする少年の影は、以前よりもずっと力強く、そして美しく伸びていた。
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