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弟
しおりを挟む「……お兄様、このスコーン、とっても美味しいです! 中にベリーのジャムが入っているんですよ。はい、あーん、してください!」
「……イル、自分で食べられる。あと、声が大きい」
僕は努めて無愛想な態度を崩さず、差し出されたフォークを軽く手で遮った。
場所は、公爵邸の地下にある僕の部屋へと続く専用のテラス。ここには滅多に人が来ない。僕の「呪われた髪」を避ける使用人たちにとって、この場所は禁忌に近いからだ。
けれど、目の前に座る僕の「弟」――イルは、そんなことなど微塵も気にしていない様子で、リスのように頬を膨らませてスコーンを頬張っている。
(……可愛い。いや、ダメだ。僕は冷酷な悪役を目指しているんだ。こんな風に弟と仲良くお茶をしていていいのか?)
僕は心の中で葛藤した。原作のヴァレリウスなら、ここでスコーンを投げつけるか、毒でも盛っているところだろう。
すると、足元で昼寝をしていた黒猫(中身は最強のドラゴン)が、欠伸をしながら脳内に声を響かせてきた。
【おい、ヴェル。何をそんなに思い悩んでいる?】
(ルター……だって、悪役だよ? 弟とティータイムなんて、設定崩壊じゃないかな)
【ふん。お主は頭が固いな。悪の組織の首領だって、身内には甘かったり、家族を溺愛するタイプもいるぞ。むしろ、そのギャップこそが強者の余裕というものではないか?】
(……! 確かに、そうかもしれない。家族すら守れない奴に、世界を揺るがす悪役なんて務まらないよね)
ルターの、もっともらしい(適当な)アドバイスに、僕は妙に納得してしまった。
そうだ、これは「懐の深い悪役」になるための修行なのだ。
「……そうだね。そのスコーン、美味しいよ」
僕がほんの少しだけ口角を上げてそう言うと、イルは弾かれたように顔を上げた。その紫色の瞳が、驚きと喜びでキラキラと輝き始める。
「――っ! はい! お兄様が好きなら、僕、毎日持ってきます!」
あまりの眩しさに、僕は思わず目を逸らした。
この時、僕はまだ知らなかった。
この天使のような弟が、内側にどれほど「真っ黒な」本音を隠し持っているのかを。
---
イルside
「イル! 姿勢を正しなさい! あなたは本家へ行くのよ、粗相があったら承知しないから!」
「そうだぞ。お前のような貧乏貴族のガキが、アスタロト公爵家の養子になれるなんて、奇跡なんだ。俺たちの生活は、お前の双肩にかかっているんだからな!」
ヒステリックに叫ぶ母親と、酒の匂いを漂わせながら説教を垂れる父親。
……反吐が出る。
僕はこの二人の子供として生まれた。家は一応、貴族の末端だが、両親の浪費癖のせいで常に借金に追われ、食卓には腐りかけのパンが並ぶことも珍しくなかった。
二人にとって、僕は「血のつながった子供」ではなく「高価な商品」だった。
幸運なことに、僕の容姿は公爵家の血筋が強く出た。紫色の髪と、紫色の瞳。それが、本家の現当主であるエドワード様に酷く似ていた。
その「価値」だけで、僕は本家への養子入りという切符を手に入れたのだ。
「……全部、消えてなくなればいい」
本家へ向かう馬車の中で、僕は冷めた目で流れる景色を見ていた。
両親も、この国の身分制度も、僕を利用しようとする大人たちも。
公爵家には同い年の息子がいると聞いた。けれど、その子は「闇属性」の不吉な子で、次期当主の座を追われる予定だという。
きっと、劣等感に塗れたワガママなガキに違いない。
僕は適当にいい子を演じて、そのバカな兄を追い落とし、この公爵家を乗っ取ってやろう。そうすれば、あのクズな両親からも、不自由な生活からもおさらばできる。
そう、思っていたのに。
「ヴァレリウスです」
初めて会ったその瞬間、僕は自分の心臓が、今まで聞いたことのないような大きな音を立てるのを聞いた。
(……なんだ、この人は)
部屋に入ってきたその人は、僕が想像していた不気味な兄とは、正反対の存在だった。
夜の静寂をそのまま形にしたような、艶やかな漆黒の髪。
長い睫毛に縁取られた、深淵を覗かせるような美しいアメジストの瞳。
肌は白磁のように透き通り、佇まいは、幼い子供とは思えないほど完成された美学に満ちていた。
不吉? 呪われている?
笑わせないでほしい。こんなに美しい人が、呪われているはずがない。
僕がこれまで見てきた、醜くて汚い大人たちに比べれば、この人こそが唯一の「聖域」に見えた。
---
「……イル。よろしくね」
お兄様は、少しだけ戸惑ったような、どこか不器用な声で僕に挨拶をしてくれた。
その瞬間、僕の「野望」は、音を立てて崩れ去った。
(乗っ取る? 追い落とす? ……違う。僕は、この人を手に入れたい。この美しい人の隣に、僕だけの場所を作りたい)
僕は即座にプランを変更した。
まずは、「無害で可愛い、お兄様を慕う弟」という完璧な仮面を被ることにした。
お兄様は自分の髪を気にしているようだけど、僕にとってはそれこそが彼を独占するための絶好のチャンスだ。周囲が彼を遠ざけるなら、僕だけが彼の一番近くにいればいい。
「お兄様、お勉強、教えてください!」
「お兄様、庭の花が綺麗ですよ!」
毎日毎日、僕は彼の地下の部屋へ通い詰めた。
お兄様は最初、面倒そうな顔をしていたけれど、絶対に僕を追い出そうとはしなかった。時々、僕が甘えると、困ったように眉を下げて……ほんの少しだけ、優しくしてくれる。
今日のティータイムもそうだ。
僕が差し出したスコーンを見て、お兄様がほんの一瞬だけ、微かに微笑んだ。
その笑顔があまりに神々しくて、胸の奥が熱く焼けるようだった。
「……そうだね。美味しい」
(――っ! お兄様が、笑った……!)
美しすぎて、頭がクラクラする。
世間の奴らは見る目がない。この黒髪こそが、闇魔法の気配を纏ったこの神秘的な美しさこそが、本物の「王」の器ではないか。
無害な弟がそんなことを考えているなんて、お兄様は気づいていない。
お兄様は時々、どこか抜けていて、自分の魅力に無頓着だ。だから、僕が守ってあげなきゃいけない。
「お兄様。僕、ずっとお兄様のそばにいますね」
「……勝手にすればいい」
素っ気ない返事。けれど、その耳の端がほんのり赤くなっているのを、僕は見逃さなかった。
ああ、お兄様。僕の可愛い、恐ろしい、世界で一番大切なお兄様。
俺はあんたを絶対に離さない。あんたを馬鹿にする奴らは全員、俺が裏で灰にしてやるから。
僕は天使のような満面の笑みを浮かべながら、心の中で真っ黒な誓いを立てた。
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