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生贄
しおりを挟む街でのアル王子との再会を経て、僕の日常は少しずつ変化していた。
イルに誘われるまま、以前よりも頻繁に屋敷の外へ出るようになった。お父様も、イルの将来を見越した社会見学の一環だと考えているのか、護衛をつけることを条件に外出を黙認してくれるようになっていた。
けれど、その平穏の裏で、僕の体には奇妙な違和感が芽生え始めていた。
(……おかしい。魔法が、指先に集まらない)
自室で闇魔法の訓練をしようとしても、魔力の流れが極端に鈍い。まるで血管の中に泥が詰まっているような、重苦しい不快感。街へ出始めたあの日から、日に日に魔力の制御が難しくなっているのだ。
「ルター、君なら何か分かる?」
僕は膝の上で丸まる黒猫に問いかけた。ルターは黄金の瞳を細め、困ったように尾を振った。
【……わしが全盛期だった神話の時代、闇属性の魔法使いなど存在しなかった。聖属性はあったが、闇は後世に生まれた歪な力だ。……すまぬな、ヴェル。わしも原因を探ってはいるが、何かに魔力を『吸い取られている』ような、嫌な感覚がする】
最強の龍であるルターにすら分からない。
このままでは、ダンジョンに潜ってレベルアップするどころか、身を守ることすらままならない。
僕は、目に見えない何かにじわじわと包囲されているような、得体の知れない恐怖を感じていた。
——-
「今日も外出の許可をいただけますか、お父様」
僕は、執務室で書類を検分する父・エドワードの前に立った。最近見つけた古本屋に、どうしても手に入れたい魔導書があったからだ。
「……構わん。だがヴァレリウス、最近は王都近郊で不審な失踪事件が相次いでいる。今日の外出には、精鋭の護衛をさらに10人増員させる。いいな」
「10人も……? はい、ありがとうございます」
多すぎる。けれど、父の言葉にはどこか息子を守るという義務感以上の緊迫感があった。
馬車に乗り込み、街へ向かう。古本屋で目的の本を手に入れ、ずっしりと重い紙の感触に満足した僕は、早々に屋敷へ引き返すことにした。
――悲劇は、その帰路で起きた。
馬車が閑静な森の道に差し掛かった瞬間、視界が歪んだ。
空間そのものが重くなり、馬たちが悲鳴を上げて立ち往生する。
「お前たち! 誰だ!? 公爵家の馬車に何の用だ!」
騎士たちの怒号。直後、凄まじい爆発音が響いた。
僕は咄嗟に闇魔法の障壁を張ろうとしたが――魔力が、出ない。
それどころか、魔法を使おうと意識した瞬間、体中の血液が逆流するような激痛に襲われた。
「ぐっ……ああぁっ!」
「闇魔法の使い手よ。……迎えに来たぞ」
馬車の扉が、引きちぎられた。
目の前に立っていたのは、顔を不気味な仮面で隠した黒ずくめの集団。
外を見ると、精鋭だったはずの護衛10人が、一人残らず地面に伏していた。死んではいないようだが、全員が深い眠りに落とされている。
「まって……やだ……っ!」
僕は震える腕で逃げようとしたが、男の一人が僕の首筋を掴んだ。
「チッ、まだ抗うか。……眠れ、依り代よ」
男が呪文を唱えると、僕の意識は真っ暗な深淵へと吸い込まれていった。
---
「――っ! ……うぅ……」
次に目を覚ました時、僕は冷たい石の床の上に転がされていた。
手足は魔力を封じる特殊な紐で縛り上げられ、視界は目隠しで遮られている。
「目が覚めたかい? ヴァレリウス・ドナン君」
「……誰だ」
「我々は『ラクヴェレ』。世界の理を正し、闇の王を戴くための使徒だ」
ラクヴェレ。
その名を聞いた瞬間、僕の脳内に残っていた原作小説の記憶が鮮烈に蘇った。
ヴァレリウスが破滅の果てに、禁断の闇魔法を暴走させて命を落とした時。その背後にいたとされる謎の狂信者集団。
原作では名前しか出てこなかった黒幕たちが、今、僕の目の前にいる。
「君はドナン公爵家の長男。不吉な黒髪、そして純粋な闇属性。……素晴らしい。君こそが、我らが神を地上へ招くための最高の『器』なのだ」
「……ふざけないで。協力なんて、絶対にしない……!」
「拒否権はないよ。君には既に『従属の烙印』を刻んである。最近、魔法がうまく使えなかっただろう? それは君の魔力を我々が外部から制御していたからだ。君の体はもう、我々の所有物なのだよ」
男の笑い声が地下室に響く。
足音が近づき、僕は荒々しく抱え上げられた。
「これから、君には悪魔を呼び出すための生贄になってもらう」
「……悪魔……?」
魔物やモンスターとは違う、この世界で唯一召喚してはならない」とされる高次存在。
逃げようとしても、足に力が入らない。心の中で必死にルターの名前を叫んだが、反応はない。魔力のリンクを完全に遮断されているのだ。
---
目隠しを外された時、僕は円形の広大な祭壇の中心にある、冷たい台の上に固定されていた。
周りには、百人を超える黒ずくめの魔術師たちが、奇妙な韻を踏んだ呪文を唱えながら僕を囲んでいる。
「やはり美しいな、ヴァレリウス君。君の魂は、恐怖に染まるほど芳醇な香りを放つ」
リーダー格の男が、僕の口に革製の枷(をはめた。声すら奪われ、僕はただ絶望の中で目を見開くことしかできない。
「では、始めよう。我ら百人の魔力を、君という一つの『器』に一気に流し込む。君の限界を超えた魔力がオーバーフローした瞬間、現世と魔界の門が開くのだ」
男が冷酷な手つきでナイフを取り出した。
「まずは、魔力が入り込みやすくするために、通り道を作らせてもらうよ」
「んん!! んぁぁぁ!!」
鋭い刃が、僕の腹部を無造作に切り裂く。×字型に刻まれた傷から、赤い血が溢れ出し、白い服を染めていく。
痛みで叫ぼうとしても、枷が邪魔をして、漏れるのは掠れた呻き声だけだ。
「さあ……捧げよ!」
一斉に、周囲の魔術師たちが手を掲げた。
その瞬間。
「――――――――ッ!!!」
爆発的な魔力の奔流が、傷口から、そして毛穴から、無理やり僕の体内へなだれ込んできた。
熱い。熱すぎる。
血管の中に沸騰した鉛を流し込まれているような、地獄の苦しみ。
僕の魔力回路が、他人の汚濁した魔力によって無理やり引き裂かれ、拡張されていく。
心臓が耳元で爆音を鳴らし、眼球が裏返るほどの衝撃。
(ルター……! 翔にいちゃん……! 助けて、誰か……殺して……っ!)
意識が白濁し、体が勝手にガクガクと跳ねる。
器が壊れる寸前の、極限の飽和状態。
「そろそろだな。では、召喚の儀を……っ! なんだ、このプレッシャーは!?」
突然、儀式場を包む結界が、外側から凄まじい力で粉砕された。
「……何者だ! 聖騎士団か!?」
「――いや。聖騎士ごときが、これほど汚らわしい『神の気配』を纏うはずがない」
暗闇の奥から、静かな、けれど世界を凍りつかせるような声が響いた。
黒ずくめの男たちが、恐怖に顔を歪めて後ずさる。
「ヒッ、化け物……! 退散だ! 儀式を中断して逃げろ!」
瞬間移動の魔法が乱れ飛び、百人いた魔術師たちが蜘蛛の子を散らすように消えていく。
一人残された僕は、台の上で、膨れ上がった魔力の激痛に悶え続けていた。
「あ……あつ、い……んんっ……!」
焼け付く視界の端に、一人の男性の姿が映った。
その男は、僕の顔を覗き込み、細長い指で僕の頬を優しく撫でた。
「……ヴェル。随分と派手にやられたな。遅くなってすまない」
その声。その、僕を「ヴェル」と呼ぶ響き。
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僕はその温もりに触れた瞬間、張り詰めていた意識を、深い闇へと手放した。
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