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27 償うのは君の役目ではない
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幸視はあてもなく歩いていた。
はずだった。なぜかたどり着いた場所があった。
〝おうち〟
表札には柳川と書かれていた。倒れて、その場を立ち去ってから流れてきた記憶がたくさんあったので、今は前よりもはっきり自分の家だと感じることができた。
ここと郁だけが世界だった。それ以外この世にはなにもなかった。あっても怪物にしか見えなかった。
幸視はしばらくの間立ち尽くした。家に立ち入ることなどできないからだ。
何十分かして、玄関が開いた。もちろん幸視を迎え入れるためではなく、出てきた年配の女性はジョウロに水を汲んだ。
――母さん……
植木に水をやってゆく柳川の母の姿をじっと幸視は見つめた。
あまりに見つめすぎたので、柳川の母は幸視に気づいた。
「君……うちに何かご用でしょうか」
「あ、いえ……」幸視は振り向いてそそくさと帰ろうとした。そこで幸視は気がついた。
今この人は、〝君〟と言った。幸視の中身を知るはずはないから、どう見ても初対面の人間に〝君〟という言葉を使っている。
つまり、この人は幸視を子供として見ている。
幸視は懐かしさのあまり、家に入りたい衝動にかられていた。
もし、大の大人が自分の前世はあなたの息子だなどと言ってきたらそれこそ警戒するだろう。
だが、それが子供であったら――信じないまでも、話を聞くフリだけでもしてくれるのではないか?
大人がおかしなことを言うのと、子供がおかしなことを言うのは警戒の度合いが違う。
駄目元だ。幸視は意を決して口を開いた。
「あの――」
口を開くだけで勇気を使い果たし、言うべきことはついてこなかった。
「なあに?」柳川の母は優しげに微笑む。
「こんなことを言ったら、頭おかしいって思うかもしれないけど――」
咄嗟に、嘘をつかずに嘘をつく方法が再び幸視にひらめいた。
「僕、あなたの息子さんを――宏則さんを――知っています」
もちろん、この物言いでも警戒はされる。だが、前世と言った時の警戒より軽いというのが幸視の読みだった。
「君、いくつ?」
「十二です」
「君が生まれる一年前に息子は亡くなっているわ。どういうこと?」
「もう少し――詳しい話をさせてくれませんか」
ここで、中に招き入れられるかどうかがちょっとした賭けだった。大人だったら、まず無理だ。だが子供だったら入れてくれるかもしれない。信じないまでも、説教をしてやろうなどと考えてくれるかもしれないではないか。
「中で――話しましょう」
ひとまず賭けはOKだった。
「いったいどこでそんな情報を聞いてきたの」
「聞いてはいません」
「じゃあどうやって」
「わかったんです」
「私には君の言っていることがわからない」
「庭の太郎柿が大きくなりましたね」
「……!」
柳川の母は大きく目を見開いた。これは家族にしか通じない用語だった。
庭に植わっているのは、本当は次郎柿だ。宏則が生まれた記念に植えられたものだった。次郎柿という品種を宏則が教えられた時、え、じゃあ太郎柿もあるの! と言ったのを父親が気に入り、事あるごとに面白がった。そのうち、庭の木は太郎柿と呼ばれるようになった。その父親は――。
「信じてもらえないかもしれないけど……僕には、宏則さんの記憶があるんです……」
「まさか――そんな――ごめんなさい。ごめんなさいね、お茶も出さずに」
お茶? 幸視の予想外の反応だった。
「麦茶でいい?」
「はい」
「角は?」
幸視は理解した。柳川の母は暗号を投げ返してきたのだ。
「2!」
これは『麦茶に角砂糖をいくつ入れますか』という意味の問いだ。友達の少ない宏則も、麦茶に砂糖を入れる家庭が少ないことぐらいは知っていた。だから、角砂糖のやりとりなどする家庭すら少ないのに、〝角〟などという用語が通じるなら有力な証拠になる。
そして、幸視は宏則がいつも答えていた数字を答えた。
もちろん、こんな平和なやりとりができたのは子供の頃だけだったけれど……。
甘ったるい麦茶は懐かしかった。わざわざ少量のお湯に溶かして冷たい麦茶に注ぎ込む手順もそのままだ。ガムシロップなどというものは結局この家に導入されなかったようだ。
「その……どこまで……?」
「物心ついてから、ストーカー行為をやって自殺するところまでです。最後まで」
「……そう……」
「あの……父さんは……」
「父さんは……」柳川の母は目を逸らした。「亡くなったわ」
「僕のせいですか」
「関係ない。ほんの三年前よ。あなたが死んだことで私たちはずいぶん苦しんだけれど、それで死に至るようなことはなかった」
「……苦しんだのはストーカーをやったからじゃないんですか? 死んで楽になったんじゃ……」
「そんなわけない!」柳川の母は逸らした目を戻して、きっと幸視を直視した。「子供が死んで嬉しい親はこの世のどこにもいない」
「でも僕はひどいことをしました」
「それは、その通りよ。でも今、あなたはそれがひどいことだとわかることができる。とても――嬉しいわ」
嬉しい、という言葉が幸視にはわからなくなっていた。
自分はこの人に出会えて嬉しいのか。わざわざ昔の息子の悪事を思い出させて、嬉しいのか。
「お父さんにお線香をあげてくれる?」
仏壇には、幸視の記憶にある顔よりも老けた写真があった。線香に火をつけ、鈴を鳴らし黙って二人で手を合わせる。
鈴の響きが消えると幸視は口を開いた。
「亡くなってしまっては罪を償いようがありませんね」
「償うのは君の役目ではないわ。それはもう終わってしまったこと」
「……」
「もし、君が何かを償いたいと思うなら――」母は両手を幸視の両肩に置いた。「君自身が、幸せになること」
幸視は、うわあー、と、生まれ直したみたいに泣き声をあげた。
母は幸視をしっかと抱きしめた。長いこと母親の胸に抱かれて、幸視は泣きじゃくった。
本当に、子供の泣き方で、太郎柿の話をした頃のように、泣いたのだ。
はずだった。なぜかたどり着いた場所があった。
〝おうち〟
表札には柳川と書かれていた。倒れて、その場を立ち去ってから流れてきた記憶がたくさんあったので、今は前よりもはっきり自分の家だと感じることができた。
ここと郁だけが世界だった。それ以外この世にはなにもなかった。あっても怪物にしか見えなかった。
幸視はしばらくの間立ち尽くした。家に立ち入ることなどできないからだ。
何十分かして、玄関が開いた。もちろん幸視を迎え入れるためではなく、出てきた年配の女性はジョウロに水を汲んだ。
――母さん……
植木に水をやってゆく柳川の母の姿をじっと幸視は見つめた。
あまりに見つめすぎたので、柳川の母は幸視に気づいた。
「君……うちに何かご用でしょうか」
「あ、いえ……」幸視は振り向いてそそくさと帰ろうとした。そこで幸視は気がついた。
今この人は、〝君〟と言った。幸視の中身を知るはずはないから、どう見ても初対面の人間に〝君〟という言葉を使っている。
つまり、この人は幸視を子供として見ている。
幸視は懐かしさのあまり、家に入りたい衝動にかられていた。
もし、大の大人が自分の前世はあなたの息子だなどと言ってきたらそれこそ警戒するだろう。
だが、それが子供であったら――信じないまでも、話を聞くフリだけでもしてくれるのではないか?
大人がおかしなことを言うのと、子供がおかしなことを言うのは警戒の度合いが違う。
駄目元だ。幸視は意を決して口を開いた。
「あの――」
口を開くだけで勇気を使い果たし、言うべきことはついてこなかった。
「なあに?」柳川の母は優しげに微笑む。
「こんなことを言ったら、頭おかしいって思うかもしれないけど――」
咄嗟に、嘘をつかずに嘘をつく方法が再び幸視にひらめいた。
「僕、あなたの息子さんを――宏則さんを――知っています」
もちろん、この物言いでも警戒はされる。だが、前世と言った時の警戒より軽いというのが幸視の読みだった。
「君、いくつ?」
「十二です」
「君が生まれる一年前に息子は亡くなっているわ。どういうこと?」
「もう少し――詳しい話をさせてくれませんか」
ここで、中に招き入れられるかどうかがちょっとした賭けだった。大人だったら、まず無理だ。だが子供だったら入れてくれるかもしれない。信じないまでも、説教をしてやろうなどと考えてくれるかもしれないではないか。
「中で――話しましょう」
ひとまず賭けはOKだった。
「いったいどこでそんな情報を聞いてきたの」
「聞いてはいません」
「じゃあどうやって」
「わかったんです」
「私には君の言っていることがわからない」
「庭の太郎柿が大きくなりましたね」
「……!」
柳川の母は大きく目を見開いた。これは家族にしか通じない用語だった。
庭に植わっているのは、本当は次郎柿だ。宏則が生まれた記念に植えられたものだった。次郎柿という品種を宏則が教えられた時、え、じゃあ太郎柿もあるの! と言ったのを父親が気に入り、事あるごとに面白がった。そのうち、庭の木は太郎柿と呼ばれるようになった。その父親は――。
「信じてもらえないかもしれないけど……僕には、宏則さんの記憶があるんです……」
「まさか――そんな――ごめんなさい。ごめんなさいね、お茶も出さずに」
お茶? 幸視の予想外の反応だった。
「麦茶でいい?」
「はい」
「角は?」
幸視は理解した。柳川の母は暗号を投げ返してきたのだ。
「2!」
これは『麦茶に角砂糖をいくつ入れますか』という意味の問いだ。友達の少ない宏則も、麦茶に砂糖を入れる家庭が少ないことぐらいは知っていた。だから、角砂糖のやりとりなどする家庭すら少ないのに、〝角〟などという用語が通じるなら有力な証拠になる。
そして、幸視は宏則がいつも答えていた数字を答えた。
もちろん、こんな平和なやりとりができたのは子供の頃だけだったけれど……。
甘ったるい麦茶は懐かしかった。わざわざ少量のお湯に溶かして冷たい麦茶に注ぎ込む手順もそのままだ。ガムシロップなどというものは結局この家に導入されなかったようだ。
「その……どこまで……?」
「物心ついてから、ストーカー行為をやって自殺するところまでです。最後まで」
「……そう……」
「あの……父さんは……」
「父さんは……」柳川の母は目を逸らした。「亡くなったわ」
「僕のせいですか」
「関係ない。ほんの三年前よ。あなたが死んだことで私たちはずいぶん苦しんだけれど、それで死に至るようなことはなかった」
「……苦しんだのはストーカーをやったからじゃないんですか? 死んで楽になったんじゃ……」
「そんなわけない!」柳川の母は逸らした目を戻して、きっと幸視を直視した。「子供が死んで嬉しい親はこの世のどこにもいない」
「でも僕はひどいことをしました」
「それは、その通りよ。でも今、あなたはそれがひどいことだとわかることができる。とても――嬉しいわ」
嬉しい、という言葉が幸視にはわからなくなっていた。
自分はこの人に出会えて嬉しいのか。わざわざ昔の息子の悪事を思い出させて、嬉しいのか。
「お父さんにお線香をあげてくれる?」
仏壇には、幸視の記憶にある顔よりも老けた写真があった。線香に火をつけ、鈴を鳴らし黙って二人で手を合わせる。
鈴の響きが消えると幸視は口を開いた。
「亡くなってしまっては罪を償いようがありませんね」
「償うのは君の役目ではないわ。それはもう終わってしまったこと」
「……」
「もし、君が何かを償いたいと思うなら――」母は両手を幸視の両肩に置いた。「君自身が、幸せになること」
幸視は、うわあー、と、生まれ直したみたいに泣き声をあげた。
母は幸視をしっかと抱きしめた。長いこと母親の胸に抱かれて、幸視は泣きじゃくった。
本当に、子供の泣き方で、太郎柿の話をした頃のように、泣いたのだ。
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