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70 迷子

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 俺は立ち上がって円形の噴水周りを歩いた。
 半径五メートルくらいで特段大きくもない。乳白色の石で表面は全体的に覆われていて、直視したら目がくらみそうになる。
 池の中心にも光り輝く身の丈ほどの石塔が立っている。表面はやはり眩しい乳白色。
 間違いなく蛍光石。シギネフから手に入れたものより遥かに輝いていた。

 池の周囲は他の場所より手入れがされていない。雑草は伸びて、拳大の石がいくつか転がっている。
 池の縁に立って中の様子を窺う。深さは一メートルもなかった。水も三十センチほほどしか貯まっていない。
 水面はキラキラと陽光を反射して輝き、とてもきれいに透き通っている。
 川ではないからか、水量が少ないからかはわからないが、水を恐れる気持ちは出てこない。

 俺は靴を脱いで、ズボンの裾を上げてからゆっくり池の底へ下りた。
 想像以上に冷たい水が膝頭あたりまで来たけど不快ではない。歩くたびに水面が揺れる。目がくらみそうなほどの眩しさは、何処を歩いているのかもわからなくなるほどだった。
 ほぼ一周を終えようとしたその時、体が急に揺れた気がした。冷たさに麻痺した足の裏に力が入らない。バランスを崩して、とっさに池の真ん中にある石塔へ抱き着いた。
 石塔は俺の体重を支えられず傾き始めた。
 そんなに重くないと抗議する間もなく、池の中へ崩れ落ちると、もはや目を開けていられないほどの眩さが池からあふれ出した。

 思わず目を覆うように手を挙げようとしたが上がらない。
 まだホワイトアウトをした視界から戻らない目をしばだたせながら体を動かしてみた。全然言うことをきない。
 鉄の盾にもどったのではないかと思えるほど身動きが取れない。異常に重くてどうにもならない。
 後頭部やら背中が冷たい。耳へも水が入ってくる。崩れた塔の蛍光石が俺の体の下になければ溺れていただろう。
 体の冷えだけではない寒気が走った。

「マット‼ ミレーネ‼」

 思うようにならない状況に耐えきれず必死で声を上げる。期持した答えは聞こえなかった。
 何とか動かせる目だけで周囲を見渡した。
 噴水池の縁や大きさはよく似ているものの、俺が崩したはずの噴水塔の形状が明らかに違う。仰向けの視界もあの庭園ではない気がする。
 何処なのかさえ分からない俺の視界から眩しさ唐突に消えた。体も急に軽くなった気がした。

 試しに腕を伸ばしたところ、縁に手を掛けられた。ひょっとしてとの想いを抱きながら、強張った体へ力入れると起き上がれた。妙な気怠さを感じながら、庭園露天風呂へ入ってるかのような視点になる。
 目の高さの地面には草本は伸び放題で、少し向こうにある石造りの建物は崩壊している。
 廃墟の中だろうか。

 さっきまでいた庭園ならばミレーネやマットが目に入る。手入れをされた植栽や花も咲いていたし、見間違えるわけがない。
 暫く茫然とした俺の意識を戻したのは、すっかり濡れてしまった衣服による冷えだった。
 このままだと風邪をひいてしまう。衣類の換えは手元にはない。
 俺は風呂から出るようにノロノロと池の縁から這い上がって、辺りを見回した。

 何も持たずにこんな状況になったらしい原因はただ一つ。『ハインリヒの魔法』だろう。
 ミレーネの話をきいた限りでは、プリシラは単に異次元空間の出入りしていたと思えたけど、大間違いだった。
 異次元空間を移動していたのだろう。

 どこをどうしてこうなるのかなど全然わからないが、魔道バッグを実用化している時点で不可能ではないと気づくべきだった。
 改めて考えれば、俺が勝手にそう思い込んだだけで、ミレーネは俺とポン吉が現れた時にもそう言っていた。

 誰もいないし、何処かもわからない。このままでは時間だけが虚しく過ぎる。
 もっとも簡単に取り得る行動は、来た道を戻るために再び噴水へ飛び込むことだろう。
 あそこが異次元空間への出入口らしいのだから、もとの庭園につながっている可能性は高い。そこまでわかっていながら、俺の足は動こうとしない。
 溺れるのではないかとの恐れが出る。水の中で体が動かない恐怖は拭いようがない。
 先ほどもまでの輝きが噴水に無くなっているのも気になる。

 必ずハインリヒの庭園へつながるのか。はたまた他の入口があるのではないか。元の世界での余計な知識かある分、様々な可能性が思いついてしまう。
 他にも根拠はある。他ならぬポン吉とエルフのベアトリスだ。

 彼女の故郷である大森林はかなりの遠方にあると間いている。にもかかわらずあっさり行って帰ると公言をした。ポン吉の脚が異常なのは十分知っている。新幹線並みの速さは体感したけれど、地の果てと呼ばれる場所まで行くのは容易ではない。
 ましてベアトリスは二本足のエルフ。風の魔法で飛べるとかの裏ワザがあるかもしれないから一概には言えないのだけど、通常の旅程を使っているとは思えない。
 異次元空間を使っている憶測は的外れでもないだろう。

 再び飛び込んで元の場所へ戻れるか、知らない場所へ飛ばされるのか。
 次も同じような場所だったら、もう本当に何ともならなくなってしまう。
 怖い。
 一歩を踏み出す勇気が出てこない。
 スーに会えないのは絶対に嫌だ。

 進むも退くもできず、噴水の縁へ腰を下して悩んだ。
 水面には疲れ切った顔をした女の子が映る。時折起きる波紋がその顔を揺らす。
 すっかり泣き虫になってしまった。
 思わず浮かべた泣き笑いは、水面に益々波紋を増やした。

 どうすればいい⁉
 何ができる⁉
 誰でもいい教えてくれ‼

 喉の奥に苦いものが込み上げる。
 身を切り裂くような口惜しさが止めどもなく溢れ出る。
 太ももの上で握っていた拳が自然と動き、池の縁を激しく殴った。
 骨が折れてもおかしくない勢いに痛みは走るが、他人事のように鈍い。
 何度やっても俺の手は少し赤くなるだけだ。
 この力をもっとうまく使えれば、スーをみすみす奪われなかったかもしれない。
 次々と襲い来る後悔に再び涙がこぼれて水面を揺らす。
 起きた波紋は一度収まったが、突然池の水が激しく動くと黒く濁り始めた。

 異変を感じた俺は即座に立ち上がって池の縁から離れる。地震か何かの類ならいずれ収まるだろう。
 今はまだわずかな可能性が残っていると信じているのに、おかしな場所へ引き込まれでもすれば万事休すになる。
 息を殺して成り行きを見守る俺の目に、池全体から黒茶の水が自噴泉のようにあふれ出した。
 さらに後ろへ大急ぎで下がり、降った水を避けるように両腕を挙げる。
 先ほどまできれいに澄んでいた水が黒く見える。重油でも噴き出るのではと危惧をして眉をしかめた俺は、見覚えのある目と視線が合った。

「ウォン?」
「……ポン吉?」
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