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第一章
まだ夜も明けきらぬうちに
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ルカはパチリと目を覚ました。窓の外は薄っすらと明るい。ピチュチュピチュチュと小鳥のさえずる声がする。屋敷内はしんと静まり返っていた。まだ朝のごく早い時間帯なのだろう。穏やかな時間が流れている。
昨日と同じふかふかのベッドの上だ。清潔な真っ白のシーツ。着せられている服も、ベージュの落ち着いた色合いのワンピースだ。背中と大腿には厚く包帯が巻かれている。おかげで痛みはだいぶましになった。
きゃるるるる。切なげにお腹が鳴り、ルカはベッドから出た。足裏にも分厚く包帯が巻かれている。恐る恐る足を床につける。絨毯と包帯のおかげか、こちらも痛みはない。歩けそうだ。
ルカはそろりと部屋の扉に向かった。リサには勝手に屋敷を出てはだめだと言われた。屋敷以外の者にルカの姿を見られてはいけないからと。ユリウスの指示らしい。王宮騎士団がルカのことを探しているのだという。
それも本当かどうかわからない。
かくまうと見せかけてここにルカを閉じ込め、こちらが油断したとたんに王宮騎士団に引き渡すつもりかもしれない。どうせこの扉の鍵は閉まっているに違いない。
人の気配がないことを確かめ、そっとドアノブを回した。部屋の扉が開いた。……鍵がかかっていない。
驚いた。王宮では当たり前のように部屋に閉じ込められた。それがここではルカは自由だ。
王宮に帰すつもりはないとユリウスは言った。でもそんなことはわからない。ルカを閉じ込めて、ここから出さず、王宮騎士団に突き出すに違いない。そう思っていたのに。
ルカはそろりと廊下に出た。廊下にも絨毯が敷かれ、怪我をした足でも問題なく歩ける。
壁を伝いながらこわごわ歩を進めた。廊下の先に明かりが見える。かちゃかちゃばんばんと何か音がする。
明かりのなかをそっと覗いた。たくさんの鍋や食器が並び、真ん中の大きな作業台で、一人の男が熱心に何かを捏ねたりたたいたりしている。昨日紹介されたコックのアントンだ。高さのある白い帽子を被っている。豊かな銀髪が帽子の下からのぞいていた。
アントンはふぅふぅ言いながら熱心に作業台の上のかたまりを捏ねている。
何をしているのだろうか。興味が湧いてじっと見ていると、アントンと目が合った。
「どうした? 坊主。腹でも減ったか?」
「お腹は空いたけど、坊主じゃない……」
むすっとして言い返すと、アントンは笑いもせず無愛想に大きな箱から取り出したパンを皿にのせ、作業台の上に出した。
「食いな」
こっちへ来いとアントンはルカを手招きし、スツールを置く。アントンの、横に広くお腹の突き出た様子がライニール王に似ていて少し怖かった。またお腹が切なげな音を立てる。
「ほら。早く食いな。この屋敷に、腹を空かせた奴がいることは、コックとして我慢ならない」
厨房の床はタイル張りだ。それもルカが一歩を踏み出すことを躊躇する理由だった。きっと硬い床は足が痛い。しょぼんとして足を見る。
「なんだ。足が痛いのか。なら早くそう言え」
アントンは作業を中断すると手を洗い、ルカの方へ歩いてきた。間近に迫られると思わず体が固くなる。アントンは構わずルカの両脇に手を差し入れるとひょいと軽々持ち上げた。
「なんだ、おまえ。やけに軽いな」
アントンはルカをスツールに座らせると、再び手を洗い、作業に戻る。
その姿を横目に見ながらルカはそっと皿のパンに手を伸ばした。パクリと一口かじる。バターと塩味のきいた柔らかなパンだ。
「……おいしい…」
「当たり前だ。俺が作ってるんだ。うまいに決まっている。どんどん食いな。おまえさんはちっと細すぎる」
ルカは夢中になってパンを頬張った。頬張りながらアントンの作業を眺める。黄みがかった白い何かをふぅふぅ言いながら捏ねている。
「何してるの?」
「おまえさんの食べてるそのパンを作ってるのさ」
へぇと思った。パンってそうやって作るんだ。こんな明け方からふぅふぅ大変そうだ。それなのにルカはこの人の目の前でパンを投げ捨てた。
「……その、」
ルカはもじもじして下唇をかんだ。謝らなきゃと思うが、素直に言葉が出てこない。アントンはそんなルカのことをじっと待ってくれる。それでも「う」とか「あ」とか言葉を忘れたみたいに謝れない。
そしたらアントンは「もっと食え、坊主」と焼きたてのパンをたくさん皿に盛ってくれた。
「……昨日は床に落としたりしてごめんなさい。それと、坊主じゃないけど」
「わかりゃいいんだよ。さぁもっと食え」
「うん」
アントンが新たに置いてくれたパンの一つには何か甘い果肉が入っていた。ルカは夢中になって食べた。途中で注いでもらった牛乳も新鮮でおいしい。
アントンがパンを捏ねる音と、ルカの喉がごくごくなる音だけが厨房を満たした。
しばらくそうやって過ごしていたが、不意に屋敷内が騒がしくなった。誰かが声を張り上げるのが聞こえ、物々しい雰囲気だ。
そこへリサが駆け込んできた。
「ああ、ここにいた。早く隠れて!」
リサはいつものひっつめ髪ではなく、まだ下ろしたままだ。まだ唇に紅も引いていない。慌てている。
「一体どうした?」
アントンが作業の手を止めて訊く。
「王宮騎士団が抜き打ちに来たんですよ! こんな朝早くから、屋敷内を調べさせろと言って押し入ってきたんです。今はまだカレルが玄関で足止めしていますが、とにかく早くルカを隠さないと」
「ならここだ」
アントンは作業台の下を開き、ルカをまたひょいと持ち上げるとそこに押し込めた。ルカの上から麻袋をかぶせ、棚に並んでいた大鍋をいくつも前に置き、ルカを隠した。
「ちょいと辛抱してな」
アントンはそう言うと、扉をきっちりと閉める。真っ暗な中に閉じ込められ、ルカは膝を抱えて丸くなった。
アントンがまた作業を開始したのか。ばんっばんっと音が響いてくる。その音に混じって複数の足音が聞こえる。
何か言い合う声も聞こえる。剣が鞘に触れてカチャカチャとなる音。騎士団だ。王宮の騎士団が来たんだ。
ルカを捕まえに来たんだ。連れ戻される。
ルカは怖くて更にぎゅっと膝を抱え丸くなった。
アントンとリサはかくまってくれたけれど、王宮騎士団に抵抗できる人なんていない。すぐに見つけられて連れ戻される。ユリウスも返さないと言ったが、こうやって王宮騎士団が来れば、きっと騎士団に突き出すに違いない。
「ここは厨房か」
カチャカチャと音を響かせながら、複数の軍靴が厨房のタイルを叩いた。アントンの作業の音が止まった。
「お待ち下さい。いかに王宮騎士団の方々とはいえここはモント領主の屋敷にございます。これ以上の勝手はご遠慮くださいませ」
カレルの声だ。続いてシャリンと剣を鞘から抜く音がする。
「黙れ。王宮騎士団に逆らうか。これは王直々のご命令ぞ」
「待て。カレル。下がっていろ」
ユリウスの声が割って入った。
「騎士団の方々。屋敷の者が失礼を致した。当主のユリウス・ベイエルです。早朝よりのお勤め、ご苦労さまでございます。当屋敷に、何かご不審な点でもおありでしょうか」
ユリウスの声に、剣が鞘に戻される音。続いて先ほどと同じ、王宮騎士団の者と思われる声。
「貴殿の屋敷だけではない。領内主要な屋敷は全て回っている。やましいことがないのなら、我々の捜索を受け、潔白を証明するといい」
「なるほど。そういうことならば好きなだけ見ていくといい」
「ユリウス様!」
カレルが抗議の声をあげるが、ユリウスが制したのか。
「大丈夫だ。この屋敷には見られて困るものは何もない」
ユリウスの言葉と共に、王宮騎士団の探索が始まったようだ。あちこちの扉を開ける音が聞こえてくる。アントンの作業の音がまた始まる。
「おい。そこの食べかけのパンと牛乳はどうした」
「それは私の朝食でございます。食べている途中で騎士団の方々がいらっしゃったので」
「おい、おまえ。作業を止めてそこをどけ。あとはその扉の中だけだ」
アントンの作業の音が止み、ぎぃと音を立てて扉が開いたようだ。ルカは息を殺し、震える体を抑えつけた。
時間にしてはほんの一瞬だったが、ルカには永遠にも思えるほど長かった。息を殺し、恐怖で震えそうになる体を押し留めた。幸い、ルカの前に置かれた大鍋をどけることはなく、
「よしっ。いいだろう」
中を覗いた騎士が声とともに立ち上がる気配。
「他も案内しろ」
カツカツと軍靴の音をさせて、複数の足音が厨房から出ていった。
「もうちっと我慢してな」
アントンが小声で囁やき、元通りに扉を閉めた。
どれほどの時が流れたのだろう。ルカは息を殺し続け扉の中で時を過ごした。
ぎぃと扉が開けられ、また王宮騎士団が調べに来たのかと身を縮めたが、大鍋をどける音に続いて聞こえたのは、アントンの声だった。
「出て来い坊主」
「まぁ。アントン。この子は坊主じゃありませんよ。こんなにかわいいのに、どこをどう見たら坊主になるのやら」
リサの騒がしい声も聞こえる。麻袋が取り払われ、膝に押し付けていた顔をそろりとあげる。
「さぁ、もう大丈夫よ。出ておいで」
リサが手を差し出す。
「固まっちまってるな。どれ。出してやる」
アントンが手を伸ばしてくる。
ルカは首を振った。奥の壁にぴたりと背中をつけてアントンの手を拒んだ。
「どうした。もう出てもいいんだぞ?」
「そうですわよ。出てらっしゃいな。いつまでもそんなところにいては体がつらいでしょう。さぁ」
リサも手を差し出すが、ルカは顔を膝に押し付けた。アントンとリサはかわるがわる声をかけるが、怖くて出て行けない。出た途端、王宮騎士団に見つかるかもしれない。
「困ったわね……」とリサの声。
そこへ、
「どうした?」
ユリウスの声がした。
「ルカが出てこないんです。もう大丈夫だって言っておりますのに」
「おい、ルカ」
ユリウスの声にルカはそろりと顔を上げた。金色の髪が明かりに当たってきらきらしている。
「出てこい。王宮騎士団は出ていった。もう戻ってはこん」
ユリウスがルカに向かって手を差し出す。アントンの手は拒んだけれど、なぜかユリウスの手ならとってみようと思った。
ユリウスの方へ少し手を差し出す。ルカの意思を読んだユリウスはルカの腕を引くと自分の方へ引き寄せ、抱き上げた。
「なんだ。震えているのか?」
ユリウスは縦抱きにルカを抱くと、震える体をそっと抱きしめてくれる。さらさらの金糸が頬に当たり、ルカは縋り付くようにその首に腕を回して顔を埋めた。
「大丈夫だ。落ち着け」
ユリウスはルカの頭をあやすように何度も撫でた。しばらく震えながらユリウスの首に抱きついていたルカだが、がっしりとした大きな体躯に支えられ、完全に守られているような安心感に、ようやくほぅと体の力を抜いた。
「これ、食事の途中だったのか?」
ユリウスの声に顔を上げた。ユリウスは作業台の上に置かれた食べかけのパンを見ている。甘い果肉の入ったパンが食べかけだ。ルカが頷くと、ユリウスはルカを抱いたままもう片方の手で皿を持ち上げた。
「食堂で続きを食べよう。アントン、俺の分も頼む」
ユリウスがそう言い、皿を持ったまま厨房を出ていこうとするのを、アントンが止めた。
「もう一度オーブンで温め直して持っていきます」
「そうですわ。そうなさいませ。このパンは温かいほうがおいしいですものね」
リサが、ユリウスから皿を受け取った。
それをアントンが、ルカが大きな箱と思った中へ入れていく。あれがアントンの言ったオーブンらしい。
ルカはもう少しパンの行方を見守りたかったが、ユリウスはルカを抱いたままさっさと厨房を出ていく。
落とされないようにまた慌てて首に抱きついた。
昨日と同じふかふかのベッドの上だ。清潔な真っ白のシーツ。着せられている服も、ベージュの落ち着いた色合いのワンピースだ。背中と大腿には厚く包帯が巻かれている。おかげで痛みはだいぶましになった。
きゃるるるる。切なげにお腹が鳴り、ルカはベッドから出た。足裏にも分厚く包帯が巻かれている。恐る恐る足を床につける。絨毯と包帯のおかげか、こちらも痛みはない。歩けそうだ。
ルカはそろりと部屋の扉に向かった。リサには勝手に屋敷を出てはだめだと言われた。屋敷以外の者にルカの姿を見られてはいけないからと。ユリウスの指示らしい。王宮騎士団がルカのことを探しているのだという。
それも本当かどうかわからない。
かくまうと見せかけてここにルカを閉じ込め、こちらが油断したとたんに王宮騎士団に引き渡すつもりかもしれない。どうせこの扉の鍵は閉まっているに違いない。
人の気配がないことを確かめ、そっとドアノブを回した。部屋の扉が開いた。……鍵がかかっていない。
驚いた。王宮では当たり前のように部屋に閉じ込められた。それがここではルカは自由だ。
王宮に帰すつもりはないとユリウスは言った。でもそんなことはわからない。ルカを閉じ込めて、ここから出さず、王宮騎士団に突き出すに違いない。そう思っていたのに。
ルカはそろりと廊下に出た。廊下にも絨毯が敷かれ、怪我をした足でも問題なく歩ける。
壁を伝いながらこわごわ歩を進めた。廊下の先に明かりが見える。かちゃかちゃばんばんと何か音がする。
明かりのなかをそっと覗いた。たくさんの鍋や食器が並び、真ん中の大きな作業台で、一人の男が熱心に何かを捏ねたりたたいたりしている。昨日紹介されたコックのアントンだ。高さのある白い帽子を被っている。豊かな銀髪が帽子の下からのぞいていた。
アントンはふぅふぅ言いながら熱心に作業台の上のかたまりを捏ねている。
何をしているのだろうか。興味が湧いてじっと見ていると、アントンと目が合った。
「どうした? 坊主。腹でも減ったか?」
「お腹は空いたけど、坊主じゃない……」
むすっとして言い返すと、アントンは笑いもせず無愛想に大きな箱から取り出したパンを皿にのせ、作業台の上に出した。
「食いな」
こっちへ来いとアントンはルカを手招きし、スツールを置く。アントンの、横に広くお腹の突き出た様子がライニール王に似ていて少し怖かった。またお腹が切なげな音を立てる。
「ほら。早く食いな。この屋敷に、腹を空かせた奴がいることは、コックとして我慢ならない」
厨房の床はタイル張りだ。それもルカが一歩を踏み出すことを躊躇する理由だった。きっと硬い床は足が痛い。しょぼんとして足を見る。
「なんだ。足が痛いのか。なら早くそう言え」
アントンは作業を中断すると手を洗い、ルカの方へ歩いてきた。間近に迫られると思わず体が固くなる。アントンは構わずルカの両脇に手を差し入れるとひょいと軽々持ち上げた。
「なんだ、おまえ。やけに軽いな」
アントンはルカをスツールに座らせると、再び手を洗い、作業に戻る。
その姿を横目に見ながらルカはそっと皿のパンに手を伸ばした。パクリと一口かじる。バターと塩味のきいた柔らかなパンだ。
「……おいしい…」
「当たり前だ。俺が作ってるんだ。うまいに決まっている。どんどん食いな。おまえさんはちっと細すぎる」
ルカは夢中になってパンを頬張った。頬張りながらアントンの作業を眺める。黄みがかった白い何かをふぅふぅ言いながら捏ねている。
「何してるの?」
「おまえさんの食べてるそのパンを作ってるのさ」
へぇと思った。パンってそうやって作るんだ。こんな明け方からふぅふぅ大変そうだ。それなのにルカはこの人の目の前でパンを投げ捨てた。
「……その、」
ルカはもじもじして下唇をかんだ。謝らなきゃと思うが、素直に言葉が出てこない。アントンはそんなルカのことをじっと待ってくれる。それでも「う」とか「あ」とか言葉を忘れたみたいに謝れない。
そしたらアントンは「もっと食え、坊主」と焼きたてのパンをたくさん皿に盛ってくれた。
「……昨日は床に落としたりしてごめんなさい。それと、坊主じゃないけど」
「わかりゃいいんだよ。さぁもっと食え」
「うん」
アントンが新たに置いてくれたパンの一つには何か甘い果肉が入っていた。ルカは夢中になって食べた。途中で注いでもらった牛乳も新鮮でおいしい。
アントンがパンを捏ねる音と、ルカの喉がごくごくなる音だけが厨房を満たした。
しばらくそうやって過ごしていたが、不意に屋敷内が騒がしくなった。誰かが声を張り上げるのが聞こえ、物々しい雰囲気だ。
そこへリサが駆け込んできた。
「ああ、ここにいた。早く隠れて!」
リサはいつものひっつめ髪ではなく、まだ下ろしたままだ。まだ唇に紅も引いていない。慌てている。
「一体どうした?」
アントンが作業の手を止めて訊く。
「王宮騎士団が抜き打ちに来たんですよ! こんな朝早くから、屋敷内を調べさせろと言って押し入ってきたんです。今はまだカレルが玄関で足止めしていますが、とにかく早くルカを隠さないと」
「ならここだ」
アントンは作業台の下を開き、ルカをまたひょいと持ち上げるとそこに押し込めた。ルカの上から麻袋をかぶせ、棚に並んでいた大鍋をいくつも前に置き、ルカを隠した。
「ちょいと辛抱してな」
アントンはそう言うと、扉をきっちりと閉める。真っ暗な中に閉じ込められ、ルカは膝を抱えて丸くなった。
アントンがまた作業を開始したのか。ばんっばんっと音が響いてくる。その音に混じって複数の足音が聞こえる。
何か言い合う声も聞こえる。剣が鞘に触れてカチャカチャとなる音。騎士団だ。王宮の騎士団が来たんだ。
ルカを捕まえに来たんだ。連れ戻される。
ルカは怖くて更にぎゅっと膝を抱え丸くなった。
アントンとリサはかくまってくれたけれど、王宮騎士団に抵抗できる人なんていない。すぐに見つけられて連れ戻される。ユリウスも返さないと言ったが、こうやって王宮騎士団が来れば、きっと騎士団に突き出すに違いない。
「ここは厨房か」
カチャカチャと音を響かせながら、複数の軍靴が厨房のタイルを叩いた。アントンの作業の音が止まった。
「お待ち下さい。いかに王宮騎士団の方々とはいえここはモント領主の屋敷にございます。これ以上の勝手はご遠慮くださいませ」
カレルの声だ。続いてシャリンと剣を鞘から抜く音がする。
「黙れ。王宮騎士団に逆らうか。これは王直々のご命令ぞ」
「待て。カレル。下がっていろ」
ユリウスの声が割って入った。
「騎士団の方々。屋敷の者が失礼を致した。当主のユリウス・ベイエルです。早朝よりのお勤め、ご苦労さまでございます。当屋敷に、何かご不審な点でもおありでしょうか」
ユリウスの声に、剣が鞘に戻される音。続いて先ほどと同じ、王宮騎士団の者と思われる声。
「貴殿の屋敷だけではない。領内主要な屋敷は全て回っている。やましいことがないのなら、我々の捜索を受け、潔白を証明するといい」
「なるほど。そういうことならば好きなだけ見ていくといい」
「ユリウス様!」
カレルが抗議の声をあげるが、ユリウスが制したのか。
「大丈夫だ。この屋敷には見られて困るものは何もない」
ユリウスの言葉と共に、王宮騎士団の探索が始まったようだ。あちこちの扉を開ける音が聞こえてくる。アントンの作業の音がまた始まる。
「おい。そこの食べかけのパンと牛乳はどうした」
「それは私の朝食でございます。食べている途中で騎士団の方々がいらっしゃったので」
「おい、おまえ。作業を止めてそこをどけ。あとはその扉の中だけだ」
アントンの作業の音が止み、ぎぃと音を立てて扉が開いたようだ。ルカは息を殺し、震える体を抑えつけた。
時間にしてはほんの一瞬だったが、ルカには永遠にも思えるほど長かった。息を殺し、恐怖で震えそうになる体を押し留めた。幸い、ルカの前に置かれた大鍋をどけることはなく、
「よしっ。いいだろう」
中を覗いた騎士が声とともに立ち上がる気配。
「他も案内しろ」
カツカツと軍靴の音をさせて、複数の足音が厨房から出ていった。
「もうちっと我慢してな」
アントンが小声で囁やき、元通りに扉を閉めた。
どれほどの時が流れたのだろう。ルカは息を殺し続け扉の中で時を過ごした。
ぎぃと扉が開けられ、また王宮騎士団が調べに来たのかと身を縮めたが、大鍋をどける音に続いて聞こえたのは、アントンの声だった。
「出て来い坊主」
「まぁ。アントン。この子は坊主じゃありませんよ。こんなにかわいいのに、どこをどう見たら坊主になるのやら」
リサの騒がしい声も聞こえる。麻袋が取り払われ、膝に押し付けていた顔をそろりとあげる。
「さぁ、もう大丈夫よ。出ておいで」
リサが手を差し出す。
「固まっちまってるな。どれ。出してやる」
アントンが手を伸ばしてくる。
ルカは首を振った。奥の壁にぴたりと背中をつけてアントンの手を拒んだ。
「どうした。もう出てもいいんだぞ?」
「そうですわよ。出てらっしゃいな。いつまでもそんなところにいては体がつらいでしょう。さぁ」
リサも手を差し出すが、ルカは顔を膝に押し付けた。アントンとリサはかわるがわる声をかけるが、怖くて出て行けない。出た途端、王宮騎士団に見つかるかもしれない。
「困ったわね……」とリサの声。
そこへ、
「どうした?」
ユリウスの声がした。
「ルカが出てこないんです。もう大丈夫だって言っておりますのに」
「おい、ルカ」
ユリウスの声にルカはそろりと顔を上げた。金色の髪が明かりに当たってきらきらしている。
「出てこい。王宮騎士団は出ていった。もう戻ってはこん」
ユリウスがルカに向かって手を差し出す。アントンの手は拒んだけれど、なぜかユリウスの手ならとってみようと思った。
ユリウスの方へ少し手を差し出す。ルカの意思を読んだユリウスはルカの腕を引くと自分の方へ引き寄せ、抱き上げた。
「なんだ。震えているのか?」
ユリウスは縦抱きにルカを抱くと、震える体をそっと抱きしめてくれる。さらさらの金糸が頬に当たり、ルカは縋り付くようにその首に腕を回して顔を埋めた。
「大丈夫だ。落ち着け」
ユリウスはルカの頭をあやすように何度も撫でた。しばらく震えながらユリウスの首に抱きついていたルカだが、がっしりとした大きな体躯に支えられ、完全に守られているような安心感に、ようやくほぅと体の力を抜いた。
「これ、食事の途中だったのか?」
ユリウスの声に顔を上げた。ユリウスは作業台の上に置かれた食べかけのパンを見ている。甘い果肉の入ったパンが食べかけだ。ルカが頷くと、ユリウスはルカを抱いたままもう片方の手で皿を持ち上げた。
「食堂で続きを食べよう。アントン、俺の分も頼む」
ユリウスがそう言い、皿を持ったまま厨房を出ていこうとするのを、アントンが止めた。
「もう一度オーブンで温め直して持っていきます」
「そうですわ。そうなさいませ。このパンは温かいほうがおいしいですものね」
リサが、ユリウスから皿を受け取った。
それをアントンが、ルカが大きな箱と思った中へ入れていく。あれがアントンの言ったオーブンらしい。
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