32 / 55
第五章 魔の森の奥深く
逃げ込んだ先には
その後も四日目、五日目と狩りは順調に進んだ。
「ロザリアさん。ちょっとこっちに来てもらえますか?」
なぜか一角獣を呼び集めるロザリアは、いつの間にか乙女達の中心的な存在となっていった。
今も乙女の一人に声を掛けられ行ってみれば、気性の荒い一頭の一角獣が角を振り回しているところだった。その側で逃げ遅れたのか、一人の乙女が立ち尽くしたまま動けずにいた。
ロザリアはそっと取り残された乙女に近づくと後ろへ下がらせ、興奮した様子の一角獣に手を差し伸べた。一際立派な角を持つ堂々たる一角獣だった。
「……どうしたの? そんなに怒って…」
ロザリアが目を見て一角獣に話しかけると、怒った一角獣が角を振り上げた。
「きゃー!」
周りの乙女たちから悲鳴が漏れ、木立の間から控えていた魔法士たちが飛び出してきた。その中にはもちろんセストの姿もあったけれど……。
ロザリアと一角獣との間に割って入ったセストを、ロザリアはやんわりと、けれどしっかりと押しのけた。
「……大丈夫です」
「しかし―――」
「―――少し、興奮しているだけです。わたしを襲いたいわけじゃない。そうでしょう?」
なおもロザリアが手を差し伸べると、一角獣は聡明な青い瞳でじっとこちらを見つめ、鼻先をロザリアの手に近づけてきた。
「今のうちに終わらせよう」
セストは間髪入れず緊縛の魔法を放とうとしたがロザリアはそれも押しとどめた。
「待って。この子は角を失いたくないみたい。乙女たちに釣られてここまで来たけど、角の狩場だってわかって怒ってるみたい。大事な角なんだって。今度ライバルと決闘の予定があるみたい」
一角獣の声が聞こえるわけではない。でもなぜか彼らの考えていることが手に取るように伝わってくる。
ロザリアがそう言うと、セストは「…わかった」と上げた手を下ろした。
「ならさっさと逃がしてやれ」
「―――こっちよ」
ロザリアは一角獣の鼻先を木立の向こうに向けてやり、逃げ道を示してやった。
一角獣は感謝の意を示すように鼻先をロザリアの胸に押し付け、木立の奥へと消えて行った。
「あまり無茶はするな。あの角で突かれればひとたまりもないんだ」
心配げに伸ばされたセストの手を、ロザリアはするりとかわした。覗き込まれた目も逸らす。その頑なな態度に、セストは全てを諦めたように伸ばした手を下ろした。
「こういう時は次からは魔法士を呼ぶんだ」
セストは乙女たちに向き直るとそれだけ言って再び木立の中に隠れた。
―――こうするのが一番いいんだ。
セストの消えた木立の方を見ながらロザリアはいつの間にか握りこんだ手をそっと開いた。
だってどうしようもない。セストの好きだったディーナはロザリアではないし、ディーナの代わりでもいいと思えるほどロザリアも寛容ではない。それではあまりに胸が痛い……。
忘れるのが一番いい。もともと自分は社交場を諦め、結婚を諦め、そういうことは本の世界だけで満足しようと思っていたのだ。仕事が何より大事で、生きる糧で、一生そうやって生きていこうと決めてそれで魔事室で働き始めたのだ。何も変わらない。初めから思い描いていた通りの軌道に戻っただけだ。触れた唇の熱さも、時がたてばきっと忘れる―――。
六日目には魔石室の一角獣の角を保管する棚は満杯になり、狩りにストップがかけられた。それだけあれば、五年は水を浄化し続けられる量だという。
長い時では一年もかかるかもしれないと聞いていたのに、呆気にとられるほど狩りは順調に終わった。
結局三日目からベネデッタは狩りに参加しなかった。乙女達も護衛の魔法士も誰も口にはしなかったが、三日目以降は場を乱す者がおらず、和やかな雰囲気のなか狩りが行われ、皆の表情も穏やかだった。
当のベネデッタはといえば、砦にいても王族の者だけが滞在時に使用する特別な間にいるらしく、姿も見かけない。
ロザリアとしてはこの狩りの間に何かされるのではと心配していたので、顔を合わせずに済むならその方がいい。
そう思っていたのに―――。
狩りが終わったので明日にも一行は王都へと帰還する予定となった。
夜からは祝勝会が行われるし、ロザリアはその前に章子ともう一度会い、お別れを言いたかった。叶うことなら時折は会いに来たいが、転移のできないロザリアでは難しいだろう。
ならばせめて懐かしい日本の話をもう少し聞きたかった。
そう思い、章子の部屋のある螺旋階段を登っていると、下からヒールの音が登ってきた。もしかしたら章子さんかなとロザリアは足を止めたが、姿を現したのはベネデッタだった。
「……ベネデッタ王女…」
自然とロザリアの頬が強張った。これまでの些細ないたずらぐらいではどうということはなかったが、黒妖犬の檻に放り込まれた恐怖は忘れられない。
もしかしたらベネデッタもこの上に用があるのかもしれないと希望的観測をしてみるものの、そんなはずがないことは自明のことだ。果たして壁際に後ずさったロザリアの髪を、ベネデッタはいきなり掴んできた。
「来なさい。この間の実験の続きをするわよ」
「あの、ベネデッタ王女。お放しください。頭が痛いです」
「ならばさっさと歩きなさいな」
「危ないです……。王女様、どうか手をお放しください」
髪を強引に引っ張ったまま階段を降りるものだから、何度もつまずきそうになる。最悪足を踏み外せばベネデッタでさえ巻き添えを食うのに、ベネデッタはお構いなしにロザリアの髪を引っ張った。
ベネデッタは階段を降りきると厨房を抜け、廊下をどんどん進んでいく。途中、砦で働く多くの人々とすれ違った。髪を引っ張られ引きずられるように連れていかれるロザリアを不安げに見つめるが、相手が王女とわかるや、みな道を避けていく。
「あの、ベネデッタ王女。実験ってまさかその……」
また黒妖犬の前に突き出すつもりだろうか。
砦でも魔獣を飼っていただろうかと目まぐるしくロザリアの頭の中が回転する。
声が上擦った。
ベネデッタは恐怖を孕んだロザリアの声に足を止め、にやりと笑った。
「そのまさかよ。この間は中途半端に終わってしまったものね。大事な狩りの間はやめておいてあげたのよ。感謝なさい。ここは魔の森。魔獣は嫌というほどたくさんいるわ」
「わたしをどうするおつもりなのですか?」
「そんなの決まっているじゃない。一人で魔の森に入りなさい。あなたが魔獣に食い殺されて帰ってこなければあなたの潔白は証明されるわ」
「……そんな」
それではこの間と同じではないか。
日はもう沈んでいる。魔獣は夜になると活発に活動するので、いま魔の森に入ることは同時に死を意味している。
ロザリアはきっぱりと足を止めた。ベネデッタの引っ張る髪がびんっと張り、髪がごっそり抜けるのではと思ったが、髪の毛と命では比べ物にならない。
王女の命に逆うことはしてはならないが、このまま大人しくベネデッタの言う通りにするのは無理だ。
身分制度なんてもう知らない。
「何を立ち止まっているの? 早く歩きなさい。さぁ」
ベネデッタはぐいぐいロザリアの髪を引く。
それで髪が抜けたって構わない。魔の森に入るくらいならそんなことどうだっていい。
「王女のご命令は聞けません。放してください!」
まさか身分下のロザリアに強い口調で拒否されるとは思っていなかったのだろう。ロザリアの髪を掴むベネデッタの力が少し緩んだ。
その機を逃さず、ベネデッタの手を振り払うと駆け出した。
「待ちなさいっ!」
ベネデッタの声が後ろから追いかけてくる。ロザリアは夢中で駆けた。
廊下は弓なりに曲がりながらどこまでも続いている。このまま真っ直ぐ走っていては、いつまでもベネデッタの追跡をかわせない。
ロザリアは左手に現れた階段へ飛び込んだ。
うまく行けば砦の屋上に出られるはずだ。ベネデッタの目をかわすには真っ直ぐ走っていてはだめだ。
章子の部屋があったように突き当たりが行き止まりではないことを願うばかりだ。
幸い、ベネデッタのヒールの靴音は階段を駆け上がってこない。ひとまずはうまく撒けたようだ。
「……あっ…」
ロザリアは階段上に現れた部屋の扉に小さく声を上げた。
どうやらロザリアの登った階段は、尖塔の一つを登る階段だったようだ。最悪ベネデッタが追ってくれば逃げ場がない。
降りていって別の階段を探す手もあるが、今のところベネデッタは追ってこない。それならばこの部屋でしばらく隠れておいた方がいいかもしれない。
ロザリアはそう思い、部屋の扉をそっと開けた。部屋の中は魔石の光石でほんのり明るい。
調度類は何もなく、奥にもう一つ扉がある。
その扉が十センチほど開いており、隙間から光が漏れていた。中から声が聞こえてきた。
「……想定以上に角がとれましたね。……計画以上に資金は集まりそうですね…」
魔石室のグラートの声だった。
一体何の話をしているのだろうか。
ロザリアはそっと扉に近寄ると耳を澄ませた。
「隣国の商人へ話はついている。あいつらなら当初の見込み以上の量があっても、喜んで金を出すさ。もう少し、狩りを続けさせることはできないのか?」
ロザリアの位置からは姿は見えなかったが、グラートの言葉に応える声がある。数えるほどしか聞いたことはないが、低音の良く響くその声がウバルド殿下の声であることに気が付いた。
「魔収室の室長がこれ以上の狩りの続行を停止しましたからね。本当は室長は一日目の狩りが終わった時点でもう予定量の角はとれたと言って、狩りはもう必要ないと言い出しましたが、せっかくの機会だから在庫を増やしましょうとなんとかこれでも粘らせた方なんです。……それにこの調子で狩りを続けては、一角獣は軒並み角を失ってしまいます。魔収室長もその辺りのことを危惧しておりました。それに、セスト副隊長が待ったをかけたという話です」
「セストか。あいつは確かに厄介だ。セストは二年前に兄のオリンド国王が、正規の魔力測定会を経ずに突然召し抱えた魔法士だからな。あいつの魔力値は未知数だ。あいつには知られないよう、乙女の何人かを抱き込んで、私の息のかかった魔法士数名で狩りを行えばよいのではないのか?」
「しかし、それはいくら何でも危険すぎます。正規の狩りのように万全の態勢を敷くことはできません。もし乙女の身に危険が及ぶようなことがあれば、言い訳の仕様もございません」
「乙女でも、爵位の低い家の者を選んで秘密裏に声をかければよいのだ。少し金をちらつかせれば、言うままになるだろう。もし何かあっても、多少の犠牲はやむを得まい。金さえ渡しておけばどうとでもなるさ」
なんてことを。ロザリアはごくりとつばを呑んだ。
今すぐ飛び出してウバルドの頬を殴ってやりたい衝動をぐっとおさえた。こういう時、この世界では録音の出来る装置がないことがもどかしい。前世の機器があれば、会話全部録音して、みんなに聞かせるところなのに。
「……殿下のお考えは、わかりました。でも、私にはもうこれ以上は…」
「今更何を言っている、グラート。おまえには狩りの道案内と、引き続き火石の暴発が起こるよう、処理を続けてもらうぞ」
火石の暴発?
話がそちらにも及び、ロザリアは更に聞き耳を立てた。
「お待ち下さい、ウバルド殿下。王都では死者も出ていると聞き及んでおります。私にはもうこれ以上は……」
グラートの言葉に、ウバルドは笑ったようだった。コツンと靴のつま先で床の石畳を叩く音がした。
「……貴重な妙薬を買う金は、そろそろ溜まりそうか?」
「は、い。はい、殿下。ですから私はもう……」
「妙薬が買えればそれで終わりか? グラート、おまえは対価に見合った働きをするべきだ。そうだろう?」
「……殿下には、感謝しております。私の財力では一生かかっても買えない妙薬を買えるお金をいただいたのですから。これで私の婚約者の命は助かります。…それに魔収室の次長の地位まで」
「そう思っているのなら、私のために働け。ああ、そうだ。妙薬を買うのなら、良い店を教えてやるぞ。あれは調合の具合で効果に大きく差が出る。よい調合師のいる店を教えてやる」
「……ありがとうございます…」
「おまえの婚約者が、元気になることを私も祈っているぞ」
そこまで聞き終えた時、
「あら? ロザリア、こんなところでどうなさったの?」
背後から声をかけられ、ロザリアは飛び上がった。後ろを振り返ると、乙女の一人がキョトンとした顔でこちらを見つめていた。
「えっと、その……。あなたはどうしてここへ?」
「ウバルド殿下に呼ばれたんです。…もしかしてロザリアもそうなの? 中にウバルド殿下はいらっしゃる? ……あら、ウバルド殿下だわ」
ロザリアははっとしてまた振り返った。いつの間にかウバルド殿下は、ロザリアのすぐ背後に立っていて、鋭い視線を投げて寄越した。
「いつから、そこにいた?」
背筋に悪寒が走るほどの冷たい声で問いかけられ、ロザリアは「今。今です」と上擦った声で答えた。平静ではないことがばればれで、我ながら嘘の下手さ加減に嫌気がさす。
ウバルドは、もちろんロザリアのそんな嘘では誤魔化されなかった。
いきなり胸倉を掴まれたかと思うと、鳩尾に衝撃が走った。くの字に体が折れ曲がり、鳩尾にめりこんだウバルドの拳が視界に入る。
「え? え?」
乙女の困惑した声が聞こえ、「逃、げて」とロザリアはなんとか声を出したが、更に深く拳を突き立てられ胃液が逆流し、堪らず呻いた。そのまま視界が暗転し、ロザリアはその場に崩れるように倒れた。
「ロザリアさん。ちょっとこっちに来てもらえますか?」
なぜか一角獣を呼び集めるロザリアは、いつの間にか乙女達の中心的な存在となっていった。
今も乙女の一人に声を掛けられ行ってみれば、気性の荒い一頭の一角獣が角を振り回しているところだった。その側で逃げ遅れたのか、一人の乙女が立ち尽くしたまま動けずにいた。
ロザリアはそっと取り残された乙女に近づくと後ろへ下がらせ、興奮した様子の一角獣に手を差し伸べた。一際立派な角を持つ堂々たる一角獣だった。
「……どうしたの? そんなに怒って…」
ロザリアが目を見て一角獣に話しかけると、怒った一角獣が角を振り上げた。
「きゃー!」
周りの乙女たちから悲鳴が漏れ、木立の間から控えていた魔法士たちが飛び出してきた。その中にはもちろんセストの姿もあったけれど……。
ロザリアと一角獣との間に割って入ったセストを、ロザリアはやんわりと、けれどしっかりと押しのけた。
「……大丈夫です」
「しかし―――」
「―――少し、興奮しているだけです。わたしを襲いたいわけじゃない。そうでしょう?」
なおもロザリアが手を差し伸べると、一角獣は聡明な青い瞳でじっとこちらを見つめ、鼻先をロザリアの手に近づけてきた。
「今のうちに終わらせよう」
セストは間髪入れず緊縛の魔法を放とうとしたがロザリアはそれも押しとどめた。
「待って。この子は角を失いたくないみたい。乙女たちに釣られてここまで来たけど、角の狩場だってわかって怒ってるみたい。大事な角なんだって。今度ライバルと決闘の予定があるみたい」
一角獣の声が聞こえるわけではない。でもなぜか彼らの考えていることが手に取るように伝わってくる。
ロザリアがそう言うと、セストは「…わかった」と上げた手を下ろした。
「ならさっさと逃がしてやれ」
「―――こっちよ」
ロザリアは一角獣の鼻先を木立の向こうに向けてやり、逃げ道を示してやった。
一角獣は感謝の意を示すように鼻先をロザリアの胸に押し付け、木立の奥へと消えて行った。
「あまり無茶はするな。あの角で突かれればひとたまりもないんだ」
心配げに伸ばされたセストの手を、ロザリアはするりとかわした。覗き込まれた目も逸らす。その頑なな態度に、セストは全てを諦めたように伸ばした手を下ろした。
「こういう時は次からは魔法士を呼ぶんだ」
セストは乙女たちに向き直るとそれだけ言って再び木立の中に隠れた。
―――こうするのが一番いいんだ。
セストの消えた木立の方を見ながらロザリアはいつの間にか握りこんだ手をそっと開いた。
だってどうしようもない。セストの好きだったディーナはロザリアではないし、ディーナの代わりでもいいと思えるほどロザリアも寛容ではない。それではあまりに胸が痛い……。
忘れるのが一番いい。もともと自分は社交場を諦め、結婚を諦め、そういうことは本の世界だけで満足しようと思っていたのだ。仕事が何より大事で、生きる糧で、一生そうやって生きていこうと決めてそれで魔事室で働き始めたのだ。何も変わらない。初めから思い描いていた通りの軌道に戻っただけだ。触れた唇の熱さも、時がたてばきっと忘れる―――。
六日目には魔石室の一角獣の角を保管する棚は満杯になり、狩りにストップがかけられた。それだけあれば、五年は水を浄化し続けられる量だという。
長い時では一年もかかるかもしれないと聞いていたのに、呆気にとられるほど狩りは順調に終わった。
結局三日目からベネデッタは狩りに参加しなかった。乙女達も護衛の魔法士も誰も口にはしなかったが、三日目以降は場を乱す者がおらず、和やかな雰囲気のなか狩りが行われ、皆の表情も穏やかだった。
当のベネデッタはといえば、砦にいても王族の者だけが滞在時に使用する特別な間にいるらしく、姿も見かけない。
ロザリアとしてはこの狩りの間に何かされるのではと心配していたので、顔を合わせずに済むならその方がいい。
そう思っていたのに―――。
狩りが終わったので明日にも一行は王都へと帰還する予定となった。
夜からは祝勝会が行われるし、ロザリアはその前に章子ともう一度会い、お別れを言いたかった。叶うことなら時折は会いに来たいが、転移のできないロザリアでは難しいだろう。
ならばせめて懐かしい日本の話をもう少し聞きたかった。
そう思い、章子の部屋のある螺旋階段を登っていると、下からヒールの音が登ってきた。もしかしたら章子さんかなとロザリアは足を止めたが、姿を現したのはベネデッタだった。
「……ベネデッタ王女…」
自然とロザリアの頬が強張った。これまでの些細ないたずらぐらいではどうということはなかったが、黒妖犬の檻に放り込まれた恐怖は忘れられない。
もしかしたらベネデッタもこの上に用があるのかもしれないと希望的観測をしてみるものの、そんなはずがないことは自明のことだ。果たして壁際に後ずさったロザリアの髪を、ベネデッタはいきなり掴んできた。
「来なさい。この間の実験の続きをするわよ」
「あの、ベネデッタ王女。お放しください。頭が痛いです」
「ならばさっさと歩きなさいな」
「危ないです……。王女様、どうか手をお放しください」
髪を強引に引っ張ったまま階段を降りるものだから、何度もつまずきそうになる。最悪足を踏み外せばベネデッタでさえ巻き添えを食うのに、ベネデッタはお構いなしにロザリアの髪を引っ張った。
ベネデッタは階段を降りきると厨房を抜け、廊下をどんどん進んでいく。途中、砦で働く多くの人々とすれ違った。髪を引っ張られ引きずられるように連れていかれるロザリアを不安げに見つめるが、相手が王女とわかるや、みな道を避けていく。
「あの、ベネデッタ王女。実験ってまさかその……」
また黒妖犬の前に突き出すつもりだろうか。
砦でも魔獣を飼っていただろうかと目まぐるしくロザリアの頭の中が回転する。
声が上擦った。
ベネデッタは恐怖を孕んだロザリアの声に足を止め、にやりと笑った。
「そのまさかよ。この間は中途半端に終わってしまったものね。大事な狩りの間はやめておいてあげたのよ。感謝なさい。ここは魔の森。魔獣は嫌というほどたくさんいるわ」
「わたしをどうするおつもりなのですか?」
「そんなの決まっているじゃない。一人で魔の森に入りなさい。あなたが魔獣に食い殺されて帰ってこなければあなたの潔白は証明されるわ」
「……そんな」
それではこの間と同じではないか。
日はもう沈んでいる。魔獣は夜になると活発に活動するので、いま魔の森に入ることは同時に死を意味している。
ロザリアはきっぱりと足を止めた。ベネデッタの引っ張る髪がびんっと張り、髪がごっそり抜けるのではと思ったが、髪の毛と命では比べ物にならない。
王女の命に逆うことはしてはならないが、このまま大人しくベネデッタの言う通りにするのは無理だ。
身分制度なんてもう知らない。
「何を立ち止まっているの? 早く歩きなさい。さぁ」
ベネデッタはぐいぐいロザリアの髪を引く。
それで髪が抜けたって構わない。魔の森に入るくらいならそんなことどうだっていい。
「王女のご命令は聞けません。放してください!」
まさか身分下のロザリアに強い口調で拒否されるとは思っていなかったのだろう。ロザリアの髪を掴むベネデッタの力が少し緩んだ。
その機を逃さず、ベネデッタの手を振り払うと駆け出した。
「待ちなさいっ!」
ベネデッタの声が後ろから追いかけてくる。ロザリアは夢中で駆けた。
廊下は弓なりに曲がりながらどこまでも続いている。このまま真っ直ぐ走っていては、いつまでもベネデッタの追跡をかわせない。
ロザリアは左手に現れた階段へ飛び込んだ。
うまく行けば砦の屋上に出られるはずだ。ベネデッタの目をかわすには真っ直ぐ走っていてはだめだ。
章子の部屋があったように突き当たりが行き止まりではないことを願うばかりだ。
幸い、ベネデッタのヒールの靴音は階段を駆け上がってこない。ひとまずはうまく撒けたようだ。
「……あっ…」
ロザリアは階段上に現れた部屋の扉に小さく声を上げた。
どうやらロザリアの登った階段は、尖塔の一つを登る階段だったようだ。最悪ベネデッタが追ってくれば逃げ場がない。
降りていって別の階段を探す手もあるが、今のところベネデッタは追ってこない。それならばこの部屋でしばらく隠れておいた方がいいかもしれない。
ロザリアはそう思い、部屋の扉をそっと開けた。部屋の中は魔石の光石でほんのり明るい。
調度類は何もなく、奥にもう一つ扉がある。
その扉が十センチほど開いており、隙間から光が漏れていた。中から声が聞こえてきた。
「……想定以上に角がとれましたね。……計画以上に資金は集まりそうですね…」
魔石室のグラートの声だった。
一体何の話をしているのだろうか。
ロザリアはそっと扉に近寄ると耳を澄ませた。
「隣国の商人へ話はついている。あいつらなら当初の見込み以上の量があっても、喜んで金を出すさ。もう少し、狩りを続けさせることはできないのか?」
ロザリアの位置からは姿は見えなかったが、グラートの言葉に応える声がある。数えるほどしか聞いたことはないが、低音の良く響くその声がウバルド殿下の声であることに気が付いた。
「魔収室の室長がこれ以上の狩りの続行を停止しましたからね。本当は室長は一日目の狩りが終わった時点でもう予定量の角はとれたと言って、狩りはもう必要ないと言い出しましたが、せっかくの機会だから在庫を増やしましょうとなんとかこれでも粘らせた方なんです。……それにこの調子で狩りを続けては、一角獣は軒並み角を失ってしまいます。魔収室長もその辺りのことを危惧しておりました。それに、セスト副隊長が待ったをかけたという話です」
「セストか。あいつは確かに厄介だ。セストは二年前に兄のオリンド国王が、正規の魔力測定会を経ずに突然召し抱えた魔法士だからな。あいつの魔力値は未知数だ。あいつには知られないよう、乙女の何人かを抱き込んで、私の息のかかった魔法士数名で狩りを行えばよいのではないのか?」
「しかし、それはいくら何でも危険すぎます。正規の狩りのように万全の態勢を敷くことはできません。もし乙女の身に危険が及ぶようなことがあれば、言い訳の仕様もございません」
「乙女でも、爵位の低い家の者を選んで秘密裏に声をかければよいのだ。少し金をちらつかせれば、言うままになるだろう。もし何かあっても、多少の犠牲はやむを得まい。金さえ渡しておけばどうとでもなるさ」
なんてことを。ロザリアはごくりとつばを呑んだ。
今すぐ飛び出してウバルドの頬を殴ってやりたい衝動をぐっとおさえた。こういう時、この世界では録音の出来る装置がないことがもどかしい。前世の機器があれば、会話全部録音して、みんなに聞かせるところなのに。
「……殿下のお考えは、わかりました。でも、私にはもうこれ以上は…」
「今更何を言っている、グラート。おまえには狩りの道案内と、引き続き火石の暴発が起こるよう、処理を続けてもらうぞ」
火石の暴発?
話がそちらにも及び、ロザリアは更に聞き耳を立てた。
「お待ち下さい、ウバルド殿下。王都では死者も出ていると聞き及んでおります。私にはもうこれ以上は……」
グラートの言葉に、ウバルドは笑ったようだった。コツンと靴のつま先で床の石畳を叩く音がした。
「……貴重な妙薬を買う金は、そろそろ溜まりそうか?」
「は、い。はい、殿下。ですから私はもう……」
「妙薬が買えればそれで終わりか? グラート、おまえは対価に見合った働きをするべきだ。そうだろう?」
「……殿下には、感謝しております。私の財力では一生かかっても買えない妙薬を買えるお金をいただいたのですから。これで私の婚約者の命は助かります。…それに魔収室の次長の地位まで」
「そう思っているのなら、私のために働け。ああ、そうだ。妙薬を買うのなら、良い店を教えてやるぞ。あれは調合の具合で効果に大きく差が出る。よい調合師のいる店を教えてやる」
「……ありがとうございます…」
「おまえの婚約者が、元気になることを私も祈っているぞ」
そこまで聞き終えた時、
「あら? ロザリア、こんなところでどうなさったの?」
背後から声をかけられ、ロザリアは飛び上がった。後ろを振り返ると、乙女の一人がキョトンとした顔でこちらを見つめていた。
「えっと、その……。あなたはどうしてここへ?」
「ウバルド殿下に呼ばれたんです。…もしかしてロザリアもそうなの? 中にウバルド殿下はいらっしゃる? ……あら、ウバルド殿下だわ」
ロザリアははっとしてまた振り返った。いつの間にかウバルド殿下は、ロザリアのすぐ背後に立っていて、鋭い視線を投げて寄越した。
「いつから、そこにいた?」
背筋に悪寒が走るほどの冷たい声で問いかけられ、ロザリアは「今。今です」と上擦った声で答えた。平静ではないことがばればれで、我ながら嘘の下手さ加減に嫌気がさす。
ウバルドは、もちろんロザリアのそんな嘘では誤魔化されなかった。
いきなり胸倉を掴まれたかと思うと、鳩尾に衝撃が走った。くの字に体が折れ曲がり、鳩尾にめりこんだウバルドの拳が視界に入る。
「え? え?」
乙女の困惑した声が聞こえ、「逃、げて」とロザリアはなんとか声を出したが、更に深く拳を突き立てられ胃液が逆流し、堪らず呻いた。そのまま視界が暗転し、ロザリアはその場に崩れるように倒れた。
あなたにおすすめの小説
王宮の万能メイド、偏屈魔術師を餌付けする
葉山あおい
恋愛
王宮で働く勤続八年のメイド、エレナ・フォスター。仕事は完璧だが愛想がない彼女は、いつしか「鉄の女」と呼ばれ恐れられていた。
そんな彼女に下された辞令は、王宮の敷地内にありながら「魔窟」と呼ばれる『北の塔』の専属メイドになること。そこの主である宮廷魔術師団長・シルヴィス・クローデルは、稀代の天才ながら極度の人嫌い&生活能力ゼロの偏屈男だった!
ゴミ屋敷と化した塔をピカピカに掃除し、栄養失調寸前の彼に絶品の手料理を振る舞うエレナ。黄金色のオムレツ、とろける煮込みハンバーグ、特製カツサンド……。美味しいご飯で餌付けされた魔術師様は、次第にエレナへの独占欲を露わにし始めて――?
意地悪な聖女や侯爵夫人のいびりも、完璧なスキルで華麗に返り討ち。平民出身のメイドが、身分差を乗り越えて幸せな花嫁になるまでの、美味しくて甘いシンデレラストーリー。
崖っぷち令嬢は冷血皇帝のお世話係〜侍女のはずが皇帝妃になるみたいです〜
束原ミヤコ
恋愛
ティディス・クリスティスは、没落寸前の貧乏な伯爵家の令嬢である。
家のために王宮で働く侍女に仕官したは良いけれど、緊張のせいでまともに話せず、面接で落とされそうになってしまう。
「家族のため、なんでもするからどうか働かせてください」と泣きついて、手に入れた仕事は――冷血皇帝と巷で噂されている、冷酷冷血名前を呼んだだけで子供が泣くと言われているレイシールド・ガルディアス皇帝陛下のお世話係だった。
皇帝レイシールドは気難しく、人を傍に置きたがらない。
今まで何人もの侍女が、レイシールドが恐ろしくて泣きながら辞めていったのだという。
ティディスは決意する。なんとしてでも、お仕事をやりとげて、没落から家を救わなければ……!
心根の優しいお世話係の令嬢と、無口で不器用な皇帝陛下の話です。
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす
小木楓
恋愛
完結しました✨
タグ&あらすじ変更しました。
略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。
「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」
「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」
大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。
しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。
強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。
夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
お兄様はやさしく笑って、逃げ道だけをなくしていく
星乃和花
恋愛
縁談に悩む子爵令嬢リゼットが助けを求めたのは、名門侯爵家の長男アルフレッド。
穏やかでやさしく、理想のお兄様のような彼は、「君のことは僕が見ている」と甘く手を差し伸べてくれる。
送り迎え、花や手紙、完璧なエスコート。
守られているだけのはずが、気づけば周囲には「彼女はもうノースウェル侯爵家のもの」という空気ができあがっていて――。
ふわふわ優しいのに、実はかなり策略家。
やさしく逃げ道をなくしてくるお兄様系ヒーローに、恋愛に疎い令嬢がじわじわ囲い落とされていく、甘くて幸せな溺愛ラブストーリー。
――「待つよ」と言いながら、外堀はきっちり埋めてくる――
(完結済ー本編10話+後日談2話)
異世界に逃げたシングルマザー経理は、定時退勤だけは譲れない
木風
恋愛
DV夫から一歳の娘を抱えて逃げた鈴木優子は、光に飲まれて異世界の王宮へ転移してしまう。
生きるために差し出した武器は簿記と経理経験――崩壊寸前の王宮会計を『複式簿記』で立て直すことに。
ただし譲れない条件はひとつ、「午後五時の定時退勤」。娘の迎えが最優先だからだ。
その姿勢に、なぜか若き国王ヴィクトルが毎日経理室へ通い始めて――仕事と子育ての先に、家族の形が芽吹いていく。
捨てた騎士と拾った魔術師
吉野屋
恋愛
貴族の庶子であるミリアムは、前世持ちである。冷遇されていたが政略でおっさん貴族の後妻落ちになる事を懸念して逃げ出した。実家では隠していたが、魔力にギフトと生活能力はあるので、王都に行き暮らす。優しくて美しい夫も出来て幸せな生活をしていたが、夫の兄の死で伯爵家を継いだ夫に捨てられてしまう。その後、王都に来る前に出会った男(その時は鳥だった)に再会して国を左右する陰謀に巻き込まれていく。
拾ってないのに、最上位が毎日“帰る”んですがーー飼い主じゃありません!ただの受付係です!
星乃和花
恋愛
王都ギルド受付係リナは、今日も平和に働く予定だった。
……のに。
「お腹すいた」
そう言って現れたのは、最上位の英雄レオン。
強いのに生活力ゼロ、距離感ゼロ、甘え方だけは一流。
手当てすれば「危ない」と囲い込み、
看病すれば抱きしめて離さず、
ついには――
「君が、俺の帰る場所」
拾ってない。飼ってない。
ただ世話を焼いただけなのに、英雄が毎日“帰ってくる”ようになりました。
無自覚世話焼き受付嬢 × 甘えた天然英雄の
距離感バグ甘々ラブコメ、開幕!
⭐︎火木土21:20更新ー本編8話+後日談9話⭐︎