魔の森の奥深く

咲木乃律

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第二章 セストの心を占めるのは

最期に見た光景

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 なぜかセストに辛辣な言葉を吐き捨てられ、巨大な掃除機の吸引口かのような黒い転移の渦に吸い込まれたロザリアは、まるでジェットコースターに乗ったかのような浮遊感に、たまらず目の前のセストにしがみついた。

 浮遊感のある乗り物は苦手だった。まさかこの世界であのふわっ、ストーン、ひぃー、の恐怖をまた味わうことになろうとは。

「きゃーきゃーきゃー」

 地の底までも落ちていきそうな感覚に、唯一頼れるのは今しがみついている存在だけだ。両腕をまわし、ついでに地につかない足もまわして、大木にしがみつくかのように目の前の存在にしがみついた。

 相当間抜けな格好だが、こんな時に格好なんてどうだっていい。ただただ夢中でしがみついた。
 ふと、セストの指が前髪に触れ、ロザリアは顔を上げた。セストは、さきほど苛立ちを見せていた表情を和らげ、優しい眼差しでロザリアを見ていた。

 その瞳に安堵感を覚え、ロザリアは意識を手放した。焼けるような腕の痛みはもはや限界だった。
 







 ああ、またこの夢だ。

 ロザリアはうつらうつらと夢の中を彷徨っていた。これは前世の夢だ。会社からの帰り道。駅から一人暮らしをしているアパートへの帰り道だ。繁華な駅前通りを抜けると急に寂しくなる通りを、足早に歩いていた。

 ロザリアは、いや、山本めぐは暗い通りを歩きながらも、それを俯瞰して見ているもう一人の自分がいることに気がつく。たまにみる夢だ。おそらく、前世で命を落とすきっかけになった出来事がこれから起ころうとしている。その直前の夢。
 けれど夢はいつも唐突に闇に覆われ終わる。今日もまたそうなのだろう。
 果たして予想通り、暗い通りを歩いていた山本めぐは、突然暗い闇に覆われ、全てがフェードアウトした。……いやな夢だ。

 ロザリアはぼんやりと開いた目をまたたき、また力なく閉じた。前世の自分が、どうして命を落としたのか。ロザリアは覚えていない。最期の時、あの暗い通りを歩いていたことは覚えているけれど、その先のことはいくら考えても思い出せない。何かの犯罪に巻き込まれたのか、それとも事故だったのか。
 せめて先に逝った娘のことで、前世の両親や弟が長く嘆いていなければいい。そう祈るだけだ。けれどおそらく、現実には両親も弟も、数少ない友人も知人も、亡くなった自分のために涙を流してくれたのだろうと思う。こうして第二の生を生きていることを知ることもなく、悲しんでくれているのだろう。
 そう思うと、いつもやるせない気持ちでいっぱいになる。でも、今のロザリアにできることは何もなかった。どうすることもできなかった。

「……………厄介な……だな。……黒妖…、…を抑え込むとは、さすがはディー…の……だ。あいつは、魔物の類に好かれて―――と、おっと」

 枕元で話す声に、ロザリアはぼんやりと再び瞳を開けた。今は何時で、ここはどこだったか。しばらくもやのかかった頭で考え、腕の違和感にようやく脳が動き出す。
 そうだ。黒妖犬に腕を引っ掻かれたのだった。そこへセストたち魔法士が助けに来てそれで―――。

 王宮まで転移するとセストに言われ、あのジェットコースターに似た感覚をもたらす黒い渦に入って、きゃーきゃー騒いでセストにしがみついた。
 優しいセストの目を見て、尋常ではない痛みに気を失った。黒妖犬につけられた傷は、腐敗速度が速く、わずかな傷口からでも急速に体全体を蝕んでいくという。

 枕元には薬師のテオが立っていて、ロザリアと目が合うと、テオは話を止め、ロザリアを見下ろした。側のスツールにはセストもいて、目の開いたロザリアを同様にのぞきこんだ。

「痛みはもう引いただろう?」

 テオは確認するように言い、サイドテーブルから取り上げた乳鉢の中身を薬包紙に載せると、ロザリアに飲むようにと水とともに差し出してくる。ロザリアはがさごそと起き出して水と薬を受け取ると喉に流し込んだ。

「……う、にがっ……」

 今までに飲んだことのない、草いきれのような湿気た匂いに、舌を刺激する苦み。うえーっと思わず舌を出すと、「ちゃんと最後まで飲み込め」とセストにコップの水を喉に流し込まれた。

「ごほっ、ごほっ」

 ロザリアがむせて咳き込むと、セストはロザリアの顎を持って口を開かせ、口の中に薬が残っていないことを確認した。

「よし。ちゃんと飲んだな。全く世話の焼ける女だ」

 ロザリアがきちんと飲み干したことを確かめ、再びスツールに足を組んで座った。テオはロザリアの腕をとると、包帯の上から腫れ具合を見、

「もう腫れは引いたし、あとは体内に残った黒妖犬の毒を消せば大丈夫。また一時間後にこれ飲ませといてね、セスト。俺は他の怪我人を診に、王宮の方へ戻るからね」

「ああ」

 テオは軽く片手を上げると肩で切り揃えた銀髪を揺らして部屋を出ていった。
 セストと二人きりで部屋に残され、ロザリアはキョロキョロと辺りを見回した。王宮内の医務室の一室かと思ったが、黒を基調とした調度類でまとめられたシンプルな内装の部屋だ。格子の嵌った窓の向こうに、鬱蒼とした森が広がっている。

「ここって、……セストの家?」

 緑の濃い森の風景には見覚えがあった。王宮内の扉から迷い込んだセストの屋敷を囲っていた緑だ。
 部屋は、あの灰白色のきれいな女性の肖像画が置かれた部屋ではなかったが、セストの屋敷の一室と思われる。
 ロザリアは、優に四五人は眠れるのでは、という大きなベッドに寝かされていた。

「王宮の医務室でよかったのに……」

 思わずそう漏らすと、セストはぐりぐりとロザリアの髪を混ぜた。

「あっちは基本もさい騎士共の医務室だからな。ベッドは空いていたが、男共の中に寝かせるわけにはいかないだろう。それとも何か? 何が起こってもよかったのなら、今からでもそちらに入れてやるぞ」

「…ごめんなさい」

 それは、想像しただけでも遠慮したい。前世とあわせて四十二年間、ロザリアは男性には耐性がないのだ。もぞもぞと掛布を引き寄せ、セストを見上げた。

「セストは意地悪だ……」

 ぽろりと本音をこぼすと、セストはきれいな緑眼を細めた。

「これでも最大限優しくしているつもりだ。何度も言っているが、俺はおまえの心が欲しいからな。好きな女に優しくするのは当たり前だろう」

「……うそばっかり。ほんとはわたしのこと嫌いなくせに」

 口ではいくらでも歯の浮くようなことを言うセストだけれど、それが心から出た言葉とはどうしてもロザリアに思えない。拭えない違和感が、いつもロザリアを不安にさせる。

「思い通りにならないから腹が立つ? それとも地味女のくせに、生意気だってそう思う? モテるプライドにかけてわたしのこと、気に入らないってそう思ってるでしょう」

 この際、セストの攻勢に終止符を打たせたい。ロザリアは怪我で浮ついた気持ちのまま、勢いで言いたいことを言った。
 中身が地味女のロザリアには、どうしたってセストは無理だし、何よりセスト自身、ロザリアのことをなんとも思っていないことは明白だ。

「何か目的があるなら言ってくれていいよ。叶えられるかわからないけれど、わたしに近づくのは他に何か目的があるからなんでしょう」

「なぜ、そう思うんだ?」

「そんなのセストを見ていればわかる。自分に向けられる好意が本物か偽物かくらい、わたしにだって見抜ける。もしかして、妹のアーダに近づきたいとか? それとも姉のフランカ? フランカはだめだよ。もう結婚してるんだから。アーダだってまだ十五だし、セストの毒牙にかけるにはかわいそう―――、わぷっ」

 セストはいきなり大きな手の平でロザリアの口を覆った。

「口の減らない女だな。そんなことは思っちゃいないさ。見当違いな勝手な想像を膨らませるな。俺が好きなのはロザリアだ。何度もそう言っている」

 ロザリアを真っ直ぐに見てセストは告げる。でも、その瞳の奥に映るのは、やっぱりロザリアではないような気がして……。
 セストの真っ直ぐな強い視線から瞳を逸らすと、セストはロザリアの口から手を離し、肩から腕を辿るとそのままロザリアの指に指を絡ませ、敷布に押さえつけた。
 あっと思う間もなかった。
 絡められた指に気を取られている合間にセストの唇が落ちてきて、唇が重なった。驚きにぽかんと開いた唇の隙間に何かぬるりとしたものが挿し込まれ、ロザリアはようやくくぐもった声を上げた。

「んんんっ!」

 けれどロザリアの抗議の声を無視し、セストは更に深く舌を挿れると、喉の奥で縮こまっていたロザリアの舌を絡め取り、強く吸い上げた。足をバタバタ動かして体を捻ったけれど、セストの力は強くびくともしない。思う存分口内を蹂躙され、糸を引きながらセストの唇は離れた。

「カルテローニ男爵には、ロザリアがここにいることはちゃんと伝えてあるから心配するな。もう少し眠れ」

 セストは真っ赤な顔のロザリアを残し、何事もなかったかのように部屋を出ていった。
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