あなたのすべて

一条 千種

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第40話 夢のように

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 旅行の当日は晴天に恵まれた。
 朝、渋谷で美咲と待ち合わせた幸太は、彼女のまるで別人のような姿に目をみはった。
「美咲、髪めちゃくちゃ短くしたね!」
 以前は長いときで胸まで毛先が届くほどだったが、今はその半分もない。肩にも届かないくらいだ。
 美咲は少しはにかみつつ、短くなった髪を掌に乗せるようにポーズをとった。
「えへへ、ばっさりいったよ。どうかな?」
「短いの、すっごくいいよ。服もおしゃれで似合ってる」
「これ、ママが貸してくれたワンピなんだけど、似合ってたかなぁ?」
「最高。美咲の通るとこだけパリコレみたいになってるじゃん」
「あははっ、コータはほんとにおジョーズ!」
 ワントーンの深緑のワンピースに、茶色のショートブーツはクラシカルで落ち着いた姿だが、白地に黒のリボンを垂らしたボーターハットが若くみずみずしい印象を放っている。
 誇張こちょう抜きで、モデルみたいだ。
 渋谷から直通の電車に乗り、みなとみらい駅で降りる。
「横浜来るの、久しぶり! コータは来たことある?」
「あるけど、結構前かな。姉ちゃんの大学合格祝いだった気がする」
「コータの家族、みんな仲良しだね」
「俺と姉ちゃんはすっごく仲悪いけどね」
「でも、わざわざ卒業式と謝恩会に来てくれたんでしょ?」
「大学が休みで暇だからだよ。あいつ、ほんと生きる価値ないから」
 幸太は姉のことになると辛辣しんらつだ。幸太が本気でそう思っているわけではなく、ある種のじゃれ合いとして悪口を言っているというのが分かるだけに、美咲もくすくすと笑っている。
「かわいいお姉さんいて、うらやましいよ。私、一人っ子だから」
「うらやましいような姉貴じゃないけどね」
「それでも、コータのお姉さんと仲良くできたらいいなって思うよ」
「美咲は一人っ子な分、ご両親から大切にされてるでしょ」
「うん……」
 美咲はうなずいたが、声にはどことなく歯切れの悪さがある。
 彼女の親子関係、というより家族関係については、以前から少し気にかかっていたことではあった。
 お義母かあさんは素敵な人だし、お義父とうさんも厳格そうではあるが腹を割って話せば分かってくれた。二人とも、美咲を大切に思っていることがうかがえた。
 ただ、美咲がこれまでに話してくれた家族のこと、あるいは彼女の自宅を訪問した際に感じた、家族間の微妙なよそよそしさは、幸太の違和感を確かに刺激していたのだった。
 駅の改札口を通りながら、美咲はことさらに明るく、
「私、パパもママも大好き。でも、二人はあまり仲が良くないの。私はそれが残念だし悲しいけど、私がどうにかできるわけじゃないからね」
 そうは言うが、横顔はやはりどこかさびしげだ。
 幸太にはそれが妙に腹立たしかった。
 美咲を悲しませるもの、それはすべて、幸太にとって不都合なものだ。
 幸太は美咲の心情に配慮しつつ、慎重に尋ねた。
「二人は、どうして仲良くないのかな?」
「私は、パパがよくないと思ってる。最近も、口論があったの」
 まずは一緒に何か食べよう、ということで、ふたりはランドマークプラザにある蕎麦そば屋に入った。
「ママは大学出てから、病棟看護師として働いてたんだけど、私が生まれたのを機に、パパの希望もあって専業主婦になったの。医師と看護師のカップルが、どちらも夜勤のある病棟で働きながら子どもを育てるのは無理ってことで、二人は話し合って、私が大学に入るまではママが家庭に入ることになったの。けど、ママはずっと仕事に戻りたかったのね」
「お義母さんは、仕事が好きなんだね」
「うん。だから、ママは私の第一志望が決まったあと、改めて病棟勤務に戻りたいって話をパパにしたの。ちょうど、コータと久しぶりに大正記念公園でデートした日の夜よ」
「それで?」
「パパは、反対した。18年もって、今からまた若いナースに交じってきつい仕事を覚え直すのは無理だろうって。生活には困ってないんだし、働く必要はない、専業主婦でいなさいって」
「それは」
 お義母さんにとってはむごい話だ、と幸太は思った。専業主婦として美咲を育ててきたのは必ずしも嫌々ではなかったろうが、お義母さんとしては仕事に復帰するのを希望に思ってきたに違いない。
 ようやくその最終地点までたどり着いて、反対するというのは酷だ。
「もともと、家族としてはともかく、夫婦としてはずっと前に終わってたみたい。好きな仕事もできない、女としても見られないって、きっとすごくつらいと思うの。それがこれからも続くって思ったら、ママも我慢できなかったみたい。その日、二人は夜中まで大ゲンカしてた。私は、物音をたてないで、階段に座ってその話、ずっと聞いてたんだ」
「そう……」
 お義父さんの意見も分からないではない。以前、美咲の看護大進学先にも反対していると聞いたが、それは自らも医師として勤務している経験から、お義母さんや美咲に苦労を背負わせたくないという思いがあるからだろう。
 ただ、幸太の感覚からすれば、美咲と同様で、お義父さんの肩を持つ気にはなれない。
 意見そのものに別に問題はない。家族とのコミュニケーションの問題だ。
 お義父さんが、お義母さんの職場復帰に反対するのはいい。18年も専業主婦をやってきた人が、過酷な病棟勤務に復帰するのは確かにリスクがあるだろう。その見解を提示することに何ら不都合はない。
 不都合なのは、自説にこだわって、妻の希望や生き方を尊重しないことだ。まして、美咲が生まれた際には、すでにお義母さんが一度、譲歩している。貸し借りの点から言えば、美咲の大学進学が決まった段階で、お義父さんはお義母さんの願いを聞き入れてしかるべきだ。
 でなければ、お義母さんが18年間も自分のやりたいことを我慢して生きてきた甲斐かいがない。お義母さんとしては、自分自身の幸せだけを追求するなら、美咲の大学進学やあるいは成人をひとつの区切りに、夫婦関係の完全な解消を考えたとしても、これは不思議ではないだろう。しかしそうした結末が、この家族にとって望ましい最適解、最大幸福と言えるのだろうか。
「私、ママには幸せになってほしい。ママにとって一番、後悔のない生き方をしてほしいなって思うの。私やパパのために、ママが自分の幸せを犠牲にするなんて間違ってると思う。人が生きるのは誰でも、幸せになるためでしょ?」
「俺も、そう思うよ」
「ママにも、そう言ったの。私のことは気にしないで、ママはママの幸せを考えてねって」
「美咲は、優しいね」
「……ごめんね、せっかくの旅行なのに、暗い話、しちゃったね」
「そんなことないよ。教えてくれてありがとう。俺も美咲と同じ考えだよ。人生で、全部を一度に手に入れるのは難しいかもしれないけど、それでも大切な人のなにかを一方的に犠牲にするのは違うと思う。問題があっても、お互いにとって一番いい方法を、ちゃんと話し合って考えていけるのがいいよね」
「うん、コータはきっとそういう考えだと思った。信頼してるよ」
 ふたりは向かい合い、座っているときでも、ほとんど常に手を握っている。爪が、桜貝のように可憐かれんに色づいている。
「家族でちゃんと話し合って、いい結論が出せるといいね」
「うん、そうだね。もやもやしてたけど、私にできること、考えてみるね」
「俺に話すだけでも、美咲の考えがまとまるかもしれないから、なんでも相談してね」
「うん、そうする!」
 両親の仲が悪いのは子どもにとって確かに不幸だが、それでも美咲のように愛情豊かに、まっすぐ人間は育つことができるのかと思うと、幸太には目の前のその女性の存在が奇跡のようにさえ思えた。
 少し早めの昼ご飯のあとで、ランドマークプラザやクイーンズスクエアで美咲の買い物に付き合う。臨港パークのアーチ橋からはるかにベイブリッジを望み、女神橋を通って、赤レンガ倉庫へ。
 そこからさらに大さん橋へ移動した頃には、すでにみなとみらい一帯は幻想的な夜景へと衣替えを済ませている。船着き場の待合スペースに座ると、みなとみらい方面が一望できる。
「夜の海、一緒に見るの久しぶりだね。お台場以来かな」
「そうだね。あれは美咲の誕生日の日だったから……5ヶ月ぶりくらいになるね」
「そうそう、私のお誕生日、コータが一緒にいてくれたんだよね。うれしかったなぁ……」
「これからも、毎年、俺が一緒にいるよ」
「うふふ、ありがとう。コータの誕生日も、私が必ず毎年、お祝いするよ!」
 優しい口づけを交わしたあと、ふたりはしばらく、眼前に広がる夜景に見入った。
「私、コータとデートするときは、夜になるといつもさびしくなる」
「帰らないといけない?」
「そう。でも今日はその心配がないから、さびしくないよ」
 (なんてかわいいんだ……)
 幸太は美咲にぴったりとタコのようにへばりつきたい衝動をおさえながら、ごく紳士的に肩を抱き寄せ、額にキスをした。
 屋外デッキに出てみると、思ったよりも海風が強い。美咲は帽子が飛ばないよう、片手でおさえながら、
「周り、カップルばっかだね」
「ほんとだ。みんなおあついね」
「うふふ、コータだって私におあついでしょ」
「うん、たぶんこんなかで一番おあついのが俺だね」
「じゃあ、いつもみたいに後ろからギュッてして。一緒に夜景見よ」
 言われたとおりにすると、それからは美咲の求める仕草に誘われるまま、甘いキスを繰り返した。
 このように愛し合うとき、ふたりはしばしば時間を忘れる。
 合間、観覧車の時刻表示に注視すると、もうこの場を離れなければならない刻限だ。
「それではプリンセス。ディナーの予約をとってありますので、そろそろ参りましょう」
「苦しゅうない」
 (美咲の言ったことは本当だ)
 と、幸太は美咲の手をとり歩きながら、彼女と同じことを感じた。
 この日は、ふたりはさびしさを感じる必要がないのだ。
 それは、別れのときがないから。
 今日という日が終わるまで、愛するひとをひとりにはさせない、決してさびしくさせない。
 ずっと、このように手をつないで、互いのぬくもりを感じ、互いの瞳に自分の姿を映し出すことができる。
 それは幸太にとって、まるで夢のようだった。
 夢のように、幸せなことだ。
 その気持ちが、歩き疲れて重いはずの足を、ふわふわとした雲の上にいるかのような浮揚感で、包んでいる。
 美咲も、同じなのだろうか。
 うきうきとして、ともすれば早足になりがちな幸太に、彼女はぴったりとくっついて、今も隣を歩いている。
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