あなたのすべて

一条 千種

文字の大きさ
44 / 47

第44話 あの日の、美咲

しおりを挟む
 それは、幸太が抱えている秘密の核心に迫る問いだった。
 美咲のまっすぐな眼差まなざしはあくまで真剣で、幸太がお茶を濁そうとしても、それを許してくれそうにない気色けしきだ。
「俺の……俺の部屋へ行こう」
 幸太の提案に、美咲は黙ってうなずいた。
 幸太は母と姉に、「美咲、ちょっと気分が悪いみたい。上にいるよ」とだけ告げて、彼女の手を引いて階段を上がった。
 彼としてはこの時間に、最適な回答を用意したい。
 が、彼の神経回路はこのとき、まるで切れかけの電池のように、従来の思考力を失っていた。
 たまたまだ、美咲の気のせいだよと嘘をつくのもいい。というより、それが一番よさそうだ。地震があるかどうかなど、幸太に分かるはずもない。むしろ美咲の問いこそが突飛とっぴだ。
 しかし、美咲をいつわるのは、幸太にはこれ以上ない苦悩だ。
 幸太と美咲とは、もう、これほど重大な件について、その場限りの嘘でとりつくろうことで解決のできるような、そういう関係ではなくなっていた。
 彼らがどれほど、愛し合っているか。
 どれほど、信頼し合っているか。
 それを思えば、美咲を裏切ることはできない。
 そもそもこれまでが、美咲を裏切り続けてきたようなものだ。
 幸太は自分の正体を、彼が最も愛し信頼するひとに、隠していたのだ。
 これ以上は、隠すことも偽ることもできない。
 ところが、部屋に入っても、幸太は何も言えなかった。
 床に向かい合って座り、美咲は幸太の両手を熱い掌で包み込んで、こう言った。
「コータ、お願いがあるの。私にうそ、つかないで」
 本当のことを、美咲に伝えるべきだ。
 美咲の言葉は、美咲の想いは、幸太の判断の天秤てんびんに、確かな傾斜をもたらした。
 もう、美咲に嘘をつくことはできない。
 だが、この秘密を明かしたら、どうなるのだろう。
 美咲は、美咲は自分から離れてゆくのではないか。
 もし、そうなったら。
 幸太にはそれが、なによりも恐ろしかった。
 彼は、奇妙でしかも不思議な体験ののち、二度目の人生を手に入れることになった。
 高校3年生の自分に残した後悔を、回収するというチャンスを得たのだ。
 美咲を愛し、彼女を自分の手で幸せにする。
 それだけを考えて、この1年を送ってきた。
 手を抜いたことは一度もない。
 美咲をおろそかに考えたことは一度もなかった。
 精一杯、全力で美咲を愛し続けてきた。
 その自分が今、美咲を失ったら、どうなる。
 それはもう、死ぬのと同じだ。
 美咲は自分にとってのすべてだ。
 幸太がそう思い、彼女にも伝えたその想いは、決して誇張こちょうではない。
 美咲は、彼にとってのすべてだ。
 美咲のいない世界に、彼は生きる意味も、生きる情熱も持てないだろう。
 Take1で、彼がある種の救いのように抱いていた、淡く甘い初恋さえも失う。
 美咲とつくった思い出のすべても、はかなく、かなしくなるだろう。
 それらの想いが、ほんのわずかな時間で幸太の胸中をかけめぐり、涙となってあふれた。
「美咲、ごめん。俺、美咲に黙ってたことがあるんだ」
 言葉にすると、さらに涙のしずくが幾筋も流れた。
 目の前にいる美咲の顔が、見えなくなるくらいに。
 もしも美咲がいなくなったら、あとに残された世界は、このように空虚で、このように無表情で、このように彩りや美しさを失ってしまうのだろうか。
 自然と、声が漏れた。
 まるで5歳か6歳くらいの男児が漏らすような、悲痛な嗚咽おえつだった。
 もしも美咲がいなくなったら、彼はこのように泣き叫びながら、残された人生をむなしく孤独に送ることになるのだろうか。
 ふと、感情の高ぶりとともににぶった聴覚が、美咲の泣く声を聞いた。
「コータ、どうして。どうして泣いてるの?」
 美咲の声は激しく揺らいでいたが、優しさといたわりに満ちている。
 幸太は泣きじゃくりながら、美咲以上に不安定な声で、
「美咲が、美咲が離れていったら、俺、もう生きていけないよ……」
 それは幸太の生涯、Take1も含めて、記憶に残っている限り最も悲哀に満ちた叫びであり、なげきだった。
 美咲が去ったら、彼はもう、生きてはいけないのだ。
 美咲はそんな彼の絶望的な声を受け止め、そして彼を包み込むようにして、抱きしめてくれた。
「コータ、泣かないで。泣かないでいいんだよ」
 そして、涙まじりにこうも言った。
「私たち、離れないよ。離れられるわけないでしょ……」
 幸太は美咲の言葉に再び、荒波にまれる小舟のように感情を大きく揺さぶられた。
 ふたりをつないだ愛。
 今はそれだけを信じて、美咲にすべてを打ち明けよう。
 そう決意を固めたとき。
 不思議な言葉が、彼の耳元で聞こえた。
「私も同じ、私も同じなの」
 幸太にはその意味が分からなかった。
 美咲はすぐに語を継いだ。
「私も、分かってた」
 はっ、と幸太は顔を離し、涙をぬぐって、視界を明らかにした。
 正面に、美咲の瞳がある。
 幸太にすがりつくような、何かを恐れ不安がっているような、そんな表情だった。
「分かってた……?」
「そう、私、分かってたの。地震があること、知ってたの」
 意味が、分からない。
 なぜ、彼女にそのようなことが分かるのだろう。
 知っていた、とは。
 美咲はかまわず続ける。
「今日、この時間に地震があるってこと、知ってた。東日本大震災」
「ぁっ……」
 幸太は小さく乾いた声だけを漏らし、あとは言葉を失った。
 そしてある予感を抱いた。
 東日本大震災、という言葉をこの時点で知っているとすれば、それは予言者だけであろう。
 あるいは、幸太のように未来の知識を手に入れられる者だけだ。
 美咲は絶句する幸太に、決定的な一言を投げかけた。
「私、一度この地震を経験してるの。このあとも、12年間、人生を送ってる。でも、戻ってきたの。意識だけ、17歳の私に戻ったの」
 美咲のその言葉を、幸太は明瞭めいりょうに理解できる。
 彼も、同じ体験をしたから。
 もちろん、驚きはある。
 ただこのに及んで、美咲にだけ真実を告白させ、自分がただぼんやりと黙っているべきではないと、混乱しつつ思った。
 今、彼よりも美咲の方が不安は強いはずだ。
「美咲……俺も、俺も同じだよ。美咲と同じ、12年後から、過去の自分に戻ってきたんだ」
「コータ……やっぱり、やっぱり同じだったんだね」
「美咲は、もっと早くに気づいてた……?」
「ううん、さっき。もしかしたら、コータも私と同じで、この日、地震があるってこと知ってるんじゃないか、私と同じなんじゃないかって、そう思ったの」
「美咲……ごめん。俺、ずっと黙ってた。美咲に、もっと早く打ち明けるべきだったのに」
「コータ、謝らないで。私だってずっと黙ってたんだから。もう謝らないで」
 美咲はまた、ぼろぼろと泣きながら、幸太を抱きしめる。
 幸太も、夢中になって美咲を抱いた。
 美咲の首元からはこのときも、バラの香りがした。
 何分も、何十分も、そうしていた気がする。
 互いに泣きんだあとは、愛するひとのぬくもりや、息づかいや鼓動、愛情をただただ感じていたいがために、そうしていたのだと思う。
 一度、幸美ゆきみが心配して、2階へと上がってきた。
「マシュマロちゃん……大丈夫?」
 幸太は美咲と抱き合ったまま、何も言わず片手だけを上げて応じた。
 姉の気配が消えたのを合図に、ふたりは互いの顔をじっと見つめた。
 そっと、まぶたに触れ、頬に触れ、あごに触れる。
 美しい顔、美しい表情だ。
 女神や、天使が実在するとすれば、きっとこういう表情をしているのだろう。
 すべてを救い、洗うような、慈愛と情愛に満ちた微笑み。
 幸太はひとつ、尋ねた。
「美咲……?」
「うん、なに?」
「美咲はどの日から、戻ってきたの?」
「コータ、先に教えて」
「俺は30歳の、同窓会の日。12年ぶりに、美咲に会った日の夜だよ」
「私も同じよ」
「あの日の……美咲……?」
 思わず声が震え、再び涙があふれた。
 にじむ視界のなかで、幸太の知る30歳の美咲が現れ、目の前の美咲に重なった。
 あの日の美咲が、いる。
「会いたかったよ……」
 この言葉を、あの日の彼女に伝えることができるとは、よもや思っていなかった。
「愛してるよ、美咲……」
「コータ、私も愛してる。あなたに、ずっと、会いたかった……」
 そしてまた、ふたりはどちらからともなく、数えきれないほどの意味とメッセージが込められた抱擁ほうようを交わした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

恋と首輪

山猫
恋愛
日本屈指の名門・城聖高校には、生徒たちが逆らえない“首輪制度”が存在する。 絶対的支配者・東雲財閥の御曹司、東雲 蓮の「選んだ者」は、卒業まで彼の命令に従わなければならない――。 地味で目立たぬ存在だった月宮みゆは、なぜかその“首輪”に選ばれてしまう。 冷酷非情と思っていた蓮の、誰にも見せない孤独と優しさに触れた時、みゆの心は静かに揺れはじめる。 「おめでとう、今日から君は俺の所有物だ。」 イケメン財閥御曹司 東雲 蓮 × 「私はあなたが嫌いです。」 訳あり平凡女子 月宮 みゆ 愛とか恋なんて馬鹿らしい。 愚かな感情だ。 訳ありのふたりが、偽りだらけの学園で紡ぐカーストラブ。

【完結】1日1回のキスをしよう 〜対価はチョコレートで 〜

田沢みん
恋愛
ハナとコタローは、 お隣同士の幼馴染。 親から甘いもの禁止令を出されたハナがコタローにチョコレートをせがんだら、 コタローがその対価として望んだのは、 なんとキス。 えっ、 どういうこと?! そして今日もハナはチョコを受け取りキスをする。 このキスは対価交換。 それ以外に意味はない…… はずだけど……。 理想の幼馴染み発見! これは、 ちょっとツンデレで素直じゃないヒロインが、イケメンモテ男、しかも一途で尽くし属性の幼馴染みと恋人に変わるまでの王道もの青春ラブストーリーです。 *本編完結済み。今後は不定期で番外編を追加していきます。 *本作は『小説家になろう』でも『沙和子』名義で掲載しています。 *イラストはミカスケ様です。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

イケメン副社長のターゲットは私!?~彼と秘密のルームシェア~

美和優希
恋愛
木下紗和は、務めていた会社を解雇されてから、再就職先が見つからずにいる。 貯蓄も底をつく中、兄の社宅に転がり込んでいたものの、頼りにしていた兄が突然転勤になり住む場所も失ってしまう。 そんな時、大手お菓子メーカーの副社長に救いの手を差しのべられた。 紗和は、副社長の秘書として働けることになったのだ。 そして不安一杯の中、提供された新しい住まいはなんと、副社長の自宅で……!? 突然始まった秘密のルームシェア。 日頃は優しくて紳士的なのに、時々意地悪にからかってくる副社長に気づいたときには惹かれていて──。 初回公開・完結*2017.12.21(他サイト) アルファポリスでの公開日*2020.02.16 *表紙画像は写真AC(かずなり777様)のフリー素材を使わせていただいてます。

遠回りな恋〜私の恋心を弄ぶ悪い男〜

小田恒子
恋愛
瀬川真冬は、高校時代の同級生である一ノ瀬玲央が好きだった。 でも玲央の彼女となる女の子は、いつだって真冬の友人で、真冬は選ばれない。 就活で内定を決めた本命の会社を蹴って、最終的には玲央の父が経営する会社へ就職をする。 そこには玲央がいる。 それなのに、私は玲央に選ばれない…… そんなある日、玲央の出張に付き合うことになり、二人の恋が動き出す。 瀬川真冬 25歳 一ノ瀬玲央 25歳 ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。 表紙は簡単表紙メーカーにて作成。 アルファポリス公開日 2024/10/21 作品の無断転載はご遠慮ください。

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

ズボラ上司の甘い罠

松丹子
恋愛
小松春菜の上司、小野田は、無精髭に瓶底眼鏡、乱れた髪にゆるいネクタイ。 仕事はできる人なのに、あまりにももったいない! かと思えば、イメチェンして来た課長はタイプど真ん中。 やばい。見惚れる。一体これで仕事になるのか? 上司の魅力から逃れようとしながら逃れきれず溺愛される、自分に自信のないフツーの女子の話。になる予定。

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

処理中です...