文豪カヤーマ・神楽坂、午後4時の決斗

加山 淳

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蕎麦屋

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 次に現れたのは蕎麦屋だった。
  如何にも日本的なその店構えは日本人としての私の心に響くものがあった。少しくすんだ木を基調とし、格子戸と白土の壁のコントラストが和のテイストを醸し出している。
  そうだ、これだ。こういったのを待ってたのだ。
 やはり和の心を持った私のようなものには、こういった店こそが相応しい。今までのささくれ立った心をたおやかに包み込むような店構え、漂うカツオ節の香り……否が応にも気分が高揚するというものではないか。
  その蕎麦屋の前で私は夢想する。

  からりと小気味いい音をさせ私が店に入る。
  そこには小上がりとテーブルが置かれ、壁にはどこの物とも知れない民芸品などが鎮座しているに違いない。
  落ち着いた店内、テレビから流れる幕内の取り組みの実況、そして少し無愛想だが腕のいい大将…………そんな店内を私は軽く見渡し、小上がりに座る。
  もちろんテーブルで、というのも悪くはないが、今日の気分は断然小上がりだ。
  席に落ち着いた私はお品書きを手に取り、そこに書かれた品をざっと見渡す。
  ザルから始まり丼物、一品物、飲み物と書かれたそれを見、そして逡巡する。
  まぁここはまずは酒だろう。ビールも悪くはないが日本酒、それも冷に限る。
  不味い日本酒なら熱燗で誤魔化すというのも納得は出来るが、蕎麦屋でそれはいけない。


  それを説明するには少し長くなる。
  東京が江戸と呼ばれた頃には酒を飲ます店と言えば造り酒屋、それも店先で塩を肴に一杯というものだったという。その後、煮売り屋が今の居酒屋のようになり、江戸の酒飲みはそこで日夜管を巻いた。

  しかし、よくある時代劇のように机と椅子なんてものはなかった。ベンチのような椅子に座り、自分の横に酒と肴を置き一杯やるのが当時のスタイルだったようだ。
  そんな当時の酒飲みの中でも通と呼ばれる者たちはそういった煮売り屋などにはいかず、安く美味い店を探し通ったという。
  それが蕎麦屋と言う訳だ。

  何故か?
  それは通常酒を売りにしている店は、酒から利益が出るよう値段を設定していた。当然仕入れ値より高く、そして当時の酒は発酵が止まっていないため酸味が増していた。それを防ぐ意味でも利益を出す意味でも、酒に水を足して客に提供していた。よく水っぽい酒と言うが、大元はここから来ていると言ってよい。

  そこで通の酒飲みたちが探し当てたのが、蕎麦を売りにしている蕎麦屋である。何故なら蕎麦屋としての矜持が酒で利益を出すのは邪道と考えられており、酒の値は押さえ味のいい酒を出していたのが当時の蕎麦屋だったのである。
  だから安くて美味い酒が飲みたいのなら蕎麦屋に行けというのが暗黙の了解だった。

  だからこそ、蕎麦屋で熱燗はないという訳である。ま、もっとも今はあまり関係ないかもしれないが、気分的なものである。

  さて、そこで私はまずは冷で喉を潤そうとするだろう。当然それには肴がいる。
  板ワサ? それもいいだろう。
  だが、せっかく蕎麦屋に来てそれはもったいない。


  ここは天抜きといこうじゃないか。
  何? 天抜きを知らない?
  なんと嘆かわしいことだ。これぞ戦後教育の弊害をいうのは言い過ぎだろうか?
  蕎麦屋で抜きと言えば、蕎麦の蕎麦抜きのことだ。だから、天抜きと言えば、天ぷら蕎麦から蕎麦を抜きたもの、つゆに天ぷらが入っただけのものをいう。他には鴨南蛮蕎麦の蕎麦抜き、鴨抜きなんかもよく酒の当てに使われるな。よく覚えておきたまえよ、諸君。

  そんな天抜きを肴に冷で一杯。考えただけでも堪らないではないか。
  そして最後は当然蕎麦だ。
  しかし、ここであまりこってりした蕎麦を注文するのは頂けない。そんなのは野暮や芋のすることだ。
  夏ならザルかモリ、寒くなってきたらカケといったところだろう。さっぱりと最後を締めくくることにこそ、江戸情緒があるというものだ。

  何故江戸の食べ物は淡泊なのか、それはやはり江戸五白に関係するだろう。
  白米・豆腐・大根・鯛(白身魚)・白魚、これが江戸五白。何故ならみな白い食べ物だから五白と言う訳である。
  良く見てみれば分かるように、全て淡泊ですっきりした味、これが好まれた。
  くどい味など野暮天の食い物と言う訳だ。
  それに江戸で旬を味わえると言えば、蕎麦に限った。だからこそ蕎麦は江戸の食べ物としての価値を有したのだ。

  当初、江戸でもうどんは食べられた。もっとも当時は七味がなく、うどんと言えば胡椒というくらい、うどんに胡椒を掛けていたそうである。ま、これは余談だな。

  それで旬のないうどんに変わって、江戸近郊で取れた蕎麦は旬があり、その淡泊な味と旬というトレンドに当時の江戸っ子たちは夢中になったということである。
  だからこそ、最後の締めはそんな江戸っ子に思いを馳せ、さっぱりとした蕎麦で終わりたいものだ。

  うぅむ、しかし酒臭い息を吐きながら帰ったら、幾ら温厚で気の弱いキヤマ君でも流石に鬼の形相でドロップキックくらいはしてくるやもしれん。もちろん、そんなヘナチョコキックにやられる私ではない。昔鳴らした何とやら、得意の柔術の空気投げで対抗くらいするのはわけはないが、酒が入っていては返ってやり過ぎてしまうかも知れない。キヤマ君は虚弱体質だから、全治3か月くらいになりかねない。
  流石に不味いな、それは。



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