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純喫茶 その2

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 私はやっと会えた好敵手に心躍りながらも、その髭面のマスターから目が離せなかった。
  ウェイトレスと同じシンプルなエプロン、そこから覗くチェックのシャツ。
  いいではないか。
  私は満足してカウンターの席に座った。

  落ち着いたところで私は戦うべき戦場をよく観察した。
  客は他にはいない。間違いなく一騎打ちになるだろう。今日の戦いは厳しいものになりそうだ。
  入り口付近には年季の入ったキャッシャーが置かれ、その横にはガラス張りの四角い冷蔵ケースがあった。
  中には近所のケーキ店から卸してもらっているのだろうケーキが入っている。ショートケーキは言うに及ばず、ベイクドチーズケーキに白いのはレアチーズケーキだろうか?
  その変哲もないチョイスに思わず唸る。

  下手にデコレーションされた、いかにもウチのウリですとでもいう様なゴテゴテしたものなど、ここには相応しくないのだ。
  只の喫茶店ではない、純喫茶なのだ、ここは。
  改めてその真剣が持つ本物の凄味を感じさせた。



  だが、勝負はここからだ。
  そのお手並み拝見といこうではないか。
  私はカウンターに置かれたメニューを手に取ろうとした。しかし、ここに来て思わぬ伏兵に強烈なジャブを喰らうことになった。
  目の前には丸い物体があった。
  そうだ、私は知っている。これが何か知っている。

  一気に私の思考は過去にまで飛ばされた。
  高度成長時代、まだこの東京にも得も言われぬ熱気と高揚感が存在した時代だった。喫茶店は街に溢れ、世の人々はみなそこに集い、熱い文学論などを戦わせたものだ。
  若かりし頃の自分の姿を思い出し、あの頃の情熱がぶり返してくるようだ。

  そうだ、そのころにこれはあったのだ。喫茶店ばかりではない。レストランにも場末のラーメン屋にも静かに、無駄な主張もせず、ただそこに存在した。

  卓上占い機。

  コインを入れれば、丸いカプセルに占い結果の小さな紙が入っていて、恋人たちがそれに一喜一憂したものだ。何時の間に無くなってしいまったのだろう? 懐かしい戦友に思いがけず会えた喜びに私は打ち震えた。
  友よ、お前はこんなところで静かに私を待っていたのか。健気な姿に涙が出そうになる。

  なんと手ごわい店か、このような絡め手で攻めてくるとは。
  敵の戦術にどっぷりと嵌ってしまうところであったわ。だが、この文豪カヤーマ、ただのノスタルジーで打ち倒せるほど軟ではないぞ。


  本命は軽食にあり!


  そうだ、ここでブレンドなどと頼もうものなら見事にマスターの術中に嵌るのは目に見えている。そこを敢えて外し、ややもすると手を抜きたくなる軽食で勝負を掛ける。

  これだ、これこそ必勝の策。

  そこで私は冷静なる智謀を巡らす必要が生じた。圧倒的な戦力で勝つのは容易い。だが、それは相手に対して礼を失した行為だ。
  如何にギリギリの線で攻め、最後に勝利を得るかがポイントだ。

  無難に行けばカレーライスだが、これは博打に過ぎる。湯煎したインスタントなど出されようものなら、それは不戦勝のようなものだ。それは断じて、そう断じて避けねばならない。
  このような至高の戦いの場を得て、不戦勝などあってはならないのだ。
  マスターとのギリギリの切り合いの末、打ち勝たなければ意味がない。



  では何がある?
  ハンバーグランチ? 駄目だ、それは些か重すぎる。夕飯までの時間を考えれば、この小腹を満たし過ぎるものになってしまう。

  考えろ、考えるんだカヤーマ!

  ん?

  思わずそこにあった文字に目が釘付けになる。いやいや、待て。それは無いぞ。
  たしかに小腹を満たすちょうどいい量かもしれない。だが、それを頼んだ瞬間、埋設された地雷を踏むがごとく爆死間違いなしだ。

  私の積み重ねてきた文豪としての歴史も重みも一気に吹き飛ばす危険物だぞ、それは。
  しかし、しかしだ。この誘因するがごとし魅力はなんだ?
  思い出せ、お前は文豪と呼ばれる50過ぎのオッサンなんだぞ?
  止めろ、止めるんだ、カヤーマ。


  私は寸でのところで思い留まった。
  無表情を装ってはいたが、このとき私の背は冷や汗でびっしょりと濡れていた。まさか、このような地雷が隠されていようとは……



 お子様ランチ……恐るべし。


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