文豪カヤーマ・神楽坂、午後4時の決斗

加山 淳

文字の大きさ
6 / 6

純喫茶 その4

しおりを挟む
 この純喫茶、思ったより手ごわいな。
  そう考えていた時だった。
  流れていたBGMが変わる。
  バイオリンの軽快な音が鳴り響き始めた。



  ワルキューレの騎行



  店内に一気に緊張感が漂う。
  厨房から漂ってくるバターと玉ねぎを炒める香り…………それは地平線の彼方から飛来する戦乙女たちの雄姿。
  これから起こるであろう激戦を前に震える戦士を鼓舞するがごとき、ワルキューレの乱舞と言ってよかった。

  その時はもうすぐそこまでやって来ている。最終決戦の時がもう手の届くところまで……


 逸るな、まだだ。まだその鏑矢は飛んでいない。文豪たるものこの程度で狼狽えてはならないのだ。

  まだか……まだ来ないのか。

  気を許せば荒れ狂いそうになる私の胃袋にその芳香は容赦なく襲ってくる。おのれ、こしゃくな。

  ナポリタン、なにするものぞ!

  叫びたい衝動を必死で抑えつけ、私は文豪としての威厳を何とか保っていた。だが、それも何時決壊するか私にも自信はなかった。
  気が狂いそうになったその時、マスターが現れる。

  絶妙なタイミング、憎らしいほどの演出だ。

  こんなに読者を焦らせ、気分を高揚させる作家は最近私を除いてついぞ見たことがない。



  一芸に通ずるものは全てに通ず。



  これほどこの言葉を痛感させられることはないだろう。私はマスターを見つめた
 落ち着き払って持ってきたそれは、今やもう絶滅したと思っていた銀の皿だった。

  かつて喫茶店ではよく見られた、あの銀の皿である。やってくれる、やってくれるではないかマスター!

  これほどの衝撃は最近なかったことだ。まさかこんなところで出会うとは人生とは分からないものだ。
  事実は小説より奇なり、を地で行くのを体験する日がこようとは夢には思わなかった。


  やられた、やられたよマスター。

  たしかに緒戦はマスターの勝ちを認めようじゃぁないか。それはボクシングでいうならフェイントのジャブの中に本命の、打ち倒すためのジャブを紛れ込ませた熟練の技巧派ボクサーのそれと言ってよかった。
  ものの見事にマスターの術中に嵌ったという訳だ。ここまで見事にやられたら、ぐうの音も出ないというものだ。


  ことり。


  静かにそれは置かれる。
  隣にはペーパーナプキンに巻かれたフォークがあった。どこまで見せつけてくれるのだ、マスターよ。
  この細部に至るまでの心憎い気遣いに私は小説家としての自負にヒビが入るのを感じる。



  もはや出し惜しみはなしだ。
  何より問題は味だ。そうだ、味は嘘を付かない。幾ら見た目を誤魔化そうとも最後はそこだ。
  焦る気持ちを押さえ、フォークを取り出す。
  大丈夫だ、手は震えていない。私は冷静だ。


  銀の皿に盛りつけられた紅蓮のパスタを見てみる。具は玉ねぎ、薄切りにされたピーマン、そして短冊に切られたハム。
  分かってるじゃぁないか、まったく驚きだよ、マスター。
  昨今、何を勘違いしたか矢鱈豪華なナポリタンがあるが、そんなものはまやかしに過ぎない。



  はっ、何が選りすぐりのトマトから作り出したソースだ!

  はっ、何がイベリコ豚のベーコンだ!

  具だくさんのナポリタンなど、それこそお笑いだ!



  シンプル イズ ベスト。

  そんな言葉が頭に浮かぶ。そうだ、その通りだ。真実は何時だってシンプルにこそ宿るのだ。着飾れば着飾るほど、その本質から遠ざかると何故分からない?
  その点、このナポリタンはどうだ?
  これ以上ないほどシンプル、これから更に引いてしまえば、それはもうナポリタンではなくなってしまう。
  最小限にして最大の魅力を余すことなく引き出しているこのナポリタン…………強敵だ。

  私の心はこれから起こるであろう無慈悲かつ非情な戦いに打ち震えている。
  駄目だ、もう我慢出来ない。
  例え締切がそこまで迫っていようと、私はもう止められないぞ。
  さぁ至福の時はもうそこまで来ている。
  あとは存分に口中に押し込み、咀嚼し、胃袋に流し込むだけなのだ!



  フォークにパスタが絡みつく。
  触れたところが真っ赤になり、立ち上がる湯気が私の欲望を加速させる。
  最初の一口は何も付けない。
  いきなりタバスコだのチーズだの掛けるのはならず者の所業と心せよ!







  いざ、尋常に勝負!





  放り込まれたそのナポリタンは紛うことなきケチャップのそれだ。
  そうだ、それこそ喫茶の女王たるに相応しい。トマトソース? 冗談を言うな。
  ケチャップのみの味付けこそ正義。

  そして何よりはこのパスタだ。
  茹でたて? 何を言っている?
  喫茶店のナポリタンと言えば、茹でて放っておかれパサついたパスタにこそ、その神髄があるのではないか?
  そんなことも分からないで、世の真実を余すことなく記述する文豪となれるものか。

  もはやこのナポリタンは私のこめかみを的確かつ強烈に打ち抜く必殺のフックだった。
  気付いたときにはすでに空になった銀の皿があるのみだった。



  完敗だ。



  まったくもってマスターの完勝と言っていいだろう。悔しいが私は負けを認めなければならないようだ。
  残ったメロンソーダを一気に呷り、私は会計を済ませた。



  「美味かったよ、マスター」


  私はその勝利者を讃える。
  ロマンスグレーのマスターは無言で目礼をする。
  そうだ、言葉はいらない。
  最後まできっちりと私の心を鷲掴みにしたこの純喫茶には脱帽するよりないようだ。









  扉を開けて外に出る。
  空は何処までも高く、秋の訪れを感じさせた。
  しかし、完敗したにも関わらず、この満足感はなんだ?
  この清々しさはどうしたことだ?

  そんな疑問が心に浮かぶが適度に満たされた腹の前ではもうどうでもいいことだった。
  いい戦いだった、そういい戦いだったのだ。
  全力でぶつかり合い、己の力を余すことなく出し切り、その結果私は負けた。

  気付けば今まで抱えていた焦燥感も苛立ちも消えていた。
  あぁなんと気持ちの良い空なのだろう。

  そう言えば最近、空を見上げることすら忘れていた気がする。
  それを思い出させてくれたあの店には感謝をしなければならないだろう。
  私は軽くなった足取りで自宅に向かう。



  今ならきっと傑作が書ける予感がするのだ。


  また来よう、私は密かに誓っていた。





しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

可愛らしい人

はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」 「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」 「それにあいつはひとりで生きていけるから」 女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。 けれど、 「エレナ嬢」 「なんでしょうか?」 「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」  その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。 「……いいえ」  当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。 「よければ僕と一緒に行きませんか?」

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

抱きしめて

麻実
恋愛
夫の長期に亘る不倫に 女としての自信を失った妻は、新しい出会いに飛び込んでいく。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

一番でなくとも

Rj
恋愛
婚約者が恋に落ちたのは親友だった。一番大切な存在になれない私。それでも私は幸せになる。 全九話。

処理中です...