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十四、物語
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『ねぇ、アレ、いつまで居座るのかなぁ。』
手洗いの、洗面前での会話。漏れ聞こえた声は、よく知っているもので、『アレ』と称されているのは自分であると自覚していた。
どこからがヒトで、どこからがモノなのかという境界は、酷く曖昧なものだと思う。
一応、『言葉を持って、共同して労働する生命体』という定義は存在するらしいが、いまいち納得いかない。
人と話さず、ただひたすらキーボードを打っている自分は、一体何になるのだろうか。
買い物はネットで。会社では、話す人がいないばかりか、まるで給料泥棒のような目で見られる。帰っても、待っているのは、暗い、冷えた部屋。大体…
「…モノってなんだ。」
ポツリと呟いても当然返事はない。
食欲もなく、ダラダラと着替えて直ぐに冷え切った万年床にくるまった。
…今何時だろうか。
ふと意識が浮上する。薄目を開けると、窓の外はまだ暗い。
動くのも面倒で、目を閉じ、じっとしていた。しかし、どうやら眠気はどこかへ行ってしまったようで、一向に眠りに落ちていかない。
これは困った。何か温かいものでも飲もうかと考え始めた時だった。
ザワリ
部屋が動いた。
いや、正確に言うならば、部屋の中の物が一斉にざわめき出した、と表現したほうが良いだろう。
あの、ざわめき特有の空気が部屋に満ちる。
内容は何も聞こえないが、誰かが話しているのは分かる、という、あの状態。
だがしかし、部屋にいるのは自分だけだ。
夢でも見ているのかと思うが、それにしてはやけに頭が冴えている。明晰夢とか言うものだろうか。反射的に寝たふりをしたが、目を開けたくて仕方がない。けれど、目を開けた瞬間、あの、冷え切った、静寂の満ちる部屋に戻ってしまうかと思うと、なんだか少しもったいない。
目を開けるのは諦めて、必死で耳をそばだてる。すると、枕元、本棚の辺りの会話が耳に飛び込んできた。
若い声と年老いた声。なかなかに議論が白熱しているようだ。
「物『が』語るから物語なのだ。お前のような、間違った事ばかりのは話にならん。」
「いやいや、物『を』語るのが物語ですとも。解らないところこそ書き手の勝負どころじゃあないですか。」
「なんと…!そんなやつがいるから間違いばかりが増えるのだ!」
嗚呼嫌だ嫌だ!と年老いた声が言う。
どうやら、新旧の哲学書を並べたのがいけなかったようだ。明日並べなおしてやろう。
他に意識を向けようとしたところで、二冊の議論に、違う、低い声が口を挟んだ。
「お二方、どうやら声が大きすぎたようだ。…家主が起きておるぞ。」
ギクリと思わず肩が揺れる。部屋のざわめきは、止まるどころか、一斉に大きくなった。
寝たふりを続けてやろうかと思ったが、自分の下敷きになっている布団から『起きてるでしょう』と言われてしまっては仕方ない。渋々と目を開けた。
とはいえ、辺りは真っ暗で、何も見えない。声だけがざわざわと空気を揺らしている。
一体何の用かと訝しんでいると、先程の低い声がまた此方に話しかける。
「いやはや、いやはや…。毎日お疲れ様ですなぁ。」
本棚の一番下の隅辺りから聞こえる穏やかな声は、初めて聞くものなのに、何故か懐かしさを感じた。声が続ける。
「あなたの『物語』、見つかりましたか?」
なんのことか全くわからない。
さっきの議論のことかと思って、ぼんやりと答える。
「…モノじゃないから、自分の物語なんてないよ。」
「…君は、真面目に考えすぎですよ。」
子供を宥めるような、笑みを含んだ優しい低い声。
「人だって、人『物』と言うでしょう?『物』というのは、全てを表せる言葉。つまり、君が君である限り、君の『物語』ができるのです。」
なんだかやけに道徳的だ。小学校の先生のようだと思った。
「君の物語は既に『起』こっていて、色々な困難を『承』けている。ならば次は『転』。今ある困難を転じれば良い。そうすればすべて『結』びに繋がるのです。」
すなわち、『起承転結』。
その、流れるような説明の声を聞いていると、睡魔が帰ってきたようだ。だんだん意識が遠くなる。瞼が落ちる。
「まだ続きますよ…」
その声を最後に、意識が途切れた。
攻撃的な携帯のアラーム音で目が覚める。
昨夜の夢を思い出し、なんとなく、本棚の下の隅に目をやった。
「…あ。」
使い古した辞書。手垢に汚れ、あちこちに付箋が付きっぱなし。小学校の頃買ってもらった物だった。親にねだって、わざわざ大人用の辞書を買ってもらったもんだから、実家においてくるのも忍びなく、そっと棚の隅に置いておいたのだった。
そっと引き出し、上に薄く積もった埃を払う。表紙を開いて、ハッとした。
『あなただけの物語を作ってください。』
丁寧な字で書かれたその文の下には、懐かしい名前。
小学校の頃、大好きだったおじいちゃん先生。穏やかな低い声をしていた。
ギュッと辞書を抱きしめてから、本棚の一番目立つ場所にしまう。
慌ただしく会社に行く準備をして、部屋に声をかけた。
「行ってきます!」
手洗いの、洗面前での会話。漏れ聞こえた声は、よく知っているもので、『アレ』と称されているのは自分であると自覚していた。
どこからがヒトで、どこからがモノなのかという境界は、酷く曖昧なものだと思う。
一応、『言葉を持って、共同して労働する生命体』という定義は存在するらしいが、いまいち納得いかない。
人と話さず、ただひたすらキーボードを打っている自分は、一体何になるのだろうか。
買い物はネットで。会社では、話す人がいないばかりか、まるで給料泥棒のような目で見られる。帰っても、待っているのは、暗い、冷えた部屋。大体…
「…モノってなんだ。」
ポツリと呟いても当然返事はない。
食欲もなく、ダラダラと着替えて直ぐに冷え切った万年床にくるまった。
…今何時だろうか。
ふと意識が浮上する。薄目を開けると、窓の外はまだ暗い。
動くのも面倒で、目を閉じ、じっとしていた。しかし、どうやら眠気はどこかへ行ってしまったようで、一向に眠りに落ちていかない。
これは困った。何か温かいものでも飲もうかと考え始めた時だった。
ザワリ
部屋が動いた。
いや、正確に言うならば、部屋の中の物が一斉にざわめき出した、と表現したほうが良いだろう。
あの、ざわめき特有の空気が部屋に満ちる。
内容は何も聞こえないが、誰かが話しているのは分かる、という、あの状態。
だがしかし、部屋にいるのは自分だけだ。
夢でも見ているのかと思うが、それにしてはやけに頭が冴えている。明晰夢とか言うものだろうか。反射的に寝たふりをしたが、目を開けたくて仕方がない。けれど、目を開けた瞬間、あの、冷え切った、静寂の満ちる部屋に戻ってしまうかと思うと、なんだか少しもったいない。
目を開けるのは諦めて、必死で耳をそばだてる。すると、枕元、本棚の辺りの会話が耳に飛び込んできた。
若い声と年老いた声。なかなかに議論が白熱しているようだ。
「物『が』語るから物語なのだ。お前のような、間違った事ばかりのは話にならん。」
「いやいや、物『を』語るのが物語ですとも。解らないところこそ書き手の勝負どころじゃあないですか。」
「なんと…!そんなやつがいるから間違いばかりが増えるのだ!」
嗚呼嫌だ嫌だ!と年老いた声が言う。
どうやら、新旧の哲学書を並べたのがいけなかったようだ。明日並べなおしてやろう。
他に意識を向けようとしたところで、二冊の議論に、違う、低い声が口を挟んだ。
「お二方、どうやら声が大きすぎたようだ。…家主が起きておるぞ。」
ギクリと思わず肩が揺れる。部屋のざわめきは、止まるどころか、一斉に大きくなった。
寝たふりを続けてやろうかと思ったが、自分の下敷きになっている布団から『起きてるでしょう』と言われてしまっては仕方ない。渋々と目を開けた。
とはいえ、辺りは真っ暗で、何も見えない。声だけがざわざわと空気を揺らしている。
一体何の用かと訝しんでいると、先程の低い声がまた此方に話しかける。
「いやはや、いやはや…。毎日お疲れ様ですなぁ。」
本棚の一番下の隅辺りから聞こえる穏やかな声は、初めて聞くものなのに、何故か懐かしさを感じた。声が続ける。
「あなたの『物語』、見つかりましたか?」
なんのことか全くわからない。
さっきの議論のことかと思って、ぼんやりと答える。
「…モノじゃないから、自分の物語なんてないよ。」
「…君は、真面目に考えすぎですよ。」
子供を宥めるような、笑みを含んだ優しい低い声。
「人だって、人『物』と言うでしょう?『物』というのは、全てを表せる言葉。つまり、君が君である限り、君の『物語』ができるのです。」
なんだかやけに道徳的だ。小学校の先生のようだと思った。
「君の物語は既に『起』こっていて、色々な困難を『承』けている。ならば次は『転』。今ある困難を転じれば良い。そうすればすべて『結』びに繋がるのです。」
すなわち、『起承転結』。
その、流れるような説明の声を聞いていると、睡魔が帰ってきたようだ。だんだん意識が遠くなる。瞼が落ちる。
「まだ続きますよ…」
その声を最後に、意識が途切れた。
攻撃的な携帯のアラーム音で目が覚める。
昨夜の夢を思い出し、なんとなく、本棚の下の隅に目をやった。
「…あ。」
使い古した辞書。手垢に汚れ、あちこちに付箋が付きっぱなし。小学校の頃買ってもらった物だった。親にねだって、わざわざ大人用の辞書を買ってもらったもんだから、実家においてくるのも忍びなく、そっと棚の隅に置いておいたのだった。
そっと引き出し、上に薄く積もった埃を払う。表紙を開いて、ハッとした。
『あなただけの物語を作ってください。』
丁寧な字で書かれたその文の下には、懐かしい名前。
小学校の頃、大好きだったおじいちゃん先生。穏やかな低い声をしていた。
ギュッと辞書を抱きしめてから、本棚の一番目立つ場所にしまう。
慌ただしく会社に行く準備をして、部屋に声をかけた。
「行ってきます!」
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