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一つ目の命
2日目
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次に目が覚めたのは、やはり檻の中だった。男は部屋から出ていってしまったようで、自分の呼吸音と心音だけが空気を揺らす。頭の中に奇妙な蟲が居着いたような違和感があるのは、例の『治療』のせいなのだろうか。肉体の疲労とはまた別の倦怠感に溜息を漏らす。
そもそも、である。
此処はどこなのだろうか?正直、記憶がないのだ。自分の名前すら靄がかかったように実感がなく、全く知らない場所であるのに、時折、ふと郷愁に駆られるような…。
無意識に頭を掻こうとした指が几帳面に巻かれた包帯に触れる。命の危険をあそこまで身近に感じたのは初めてだった、気がする。思い出さないようにしようと頭を軽く振った際、手術台の脇、白い床に黒く変色しかけた丸い染みを見つけてしまった。脳の奥がジワリと痛くなる錯覚を覚える。
なんとか気を紛らわそうと(手術台は見ないようにして)ぐるりと部屋を見回す。窓からの光は随分弱くなっており、逆に廊下の電灯は点滅を繰り返しながらも点いているようだ。それなりに長い間意識を失っていたのだろうと容易に推測できた。
(…帰らなきゃ…)
漠然とした使命感が再び脳裏に浮かぶ。ただ、『帰らなければいけない』という思いが焦燥感のみを募らせた。…いや、しかし。『帰らなきゃ』とは思うものの、『帰る場所』が思い浮かばない。そのことに気づいて、一人、首を傾げる。誰かに問おうにも今は一人ぼっちだ。喉元過ぎればなんとやら。先程の男がいない事をちらりと寂しく思う。次に『聴力検査』をされたらちゃんと答えられるのに。
そんなことを思いながら廊下の方に視線をやった。
「 」
ぽしょりと声が聞こえた気がした。先程の『治療』の成果か、神経を研ぎ澄ますとよりはっきりと聞こえる。
「せつ じょ。」
あの医者、ヤブ医者じゃなかったのか。頭の隅ではそんな呑気な考えが浮かんでいるが、聞こえた言葉を反芻し何度目かになる恐怖に襲われた。せつじょ、セツジョ、せつじょ…
「切 除。」
舌っ足らずな声が徐々に近づいてくる。不規則に点滅を繰り返す廊下の電灯が、丸いシルエットをカーテンに映し出した。その影は何か、大きなものを引き摺りながら徐々に部屋の入り口へ向かう。
扉が、開いた。
「せゆ じょ。せつ じょ。せちゅ じょ。」
逆光になってそのシルエット以外よく見えないが、それが気にならない程、ある一点視線を奪われる。
「せつ じょ。」
あどけない言葉と共に振り上げられたのは、人一人分はありそうな、真っ赤に染まった鋸。声にならない悲鳴とともに思わず頭を抱え、身を縮こませる。金属同士がぶつかる音がして手の甲や首筋に冷たい雫が散った。どうやら、鋸は檻の鉄格子に阻まれたようだった。初めて檻に感謝するのも束の間、苛立った様子で再び鋸が振り下ろされる。
「せつ じょ。せつじょ。せゆじょ、せうじょ!」
何度も、何度も。
鋸が檻にぶつかる度、付着していたのであろう『ナニカ』の肉片と、まだ乾いていない鉄臭い赤い雫が檻の中に降り注ぐ。狂ったような金属音と自分の声帯から迸る悲鳴が、鋭敏になった聴覚を無遠慮に刺し貫く。
永遠に思えた時間は唐突に終わりを告げた。
檻を叩いていた音がピタリと止まる。今度は何が来るのかと一層身を固くしたが、待っていたのはは予想外の展開だった。
「…まったく…。この部屋には入らないように言ってあった筈だが?」
例の白衣の男の声がした。
数秒の沈黙の後、大きな鋸を引き摺る音がじわじわと遠いていった。
「…せつ じょ…。」
声も徐々に遠ざかる。完全に聞こえなくなったところでそっと目を開けると、いつの間に近寄ってきたのか、白衣の男が檻のそばまで来ていた。
「…使い給え。夜は長いぞ。」
言葉と共に、鉄格子の隙間から何かを捩じ込む。こわごわ手を伸ばし、広げ、また目を丸くする羽目になる。
「…毛布…?」
「見たことが無いわけではあるまい。」
まさかと言うように男が鼻を鳴らす。少し厚手の毛布は程よい手触りで、少し、落ち着く。
「…あの、ありがとう、ございます…。」
戸惑いながらも感謝を告げれば、今度は満足そうに腕を組んだ。
「治療は成功したようだ。今日は大人しく寝るといい。」
奴は馬鹿だが、今さっきで此処に来るほど馬鹿ではない。
そう一言付け加えて男は振り向かずに部屋を出ていった。扉はピタリと閉じられ、再び沈黙が降りる。
じっと耳を凝らすが自分の音以外には何も聞こえない。毛布を身体に巻きつけると、緊張の糸が緩んだせいか、急激に睡魔が襲ってきた。固い床も、毛布のお陰で幾分か楽に眠れそうだ。
(…全部、夢だったらいいのに…)
そんなことを願いながらゆっくりと眠りに落ちていった。
そもそも、である。
此処はどこなのだろうか?正直、記憶がないのだ。自分の名前すら靄がかかったように実感がなく、全く知らない場所であるのに、時折、ふと郷愁に駆られるような…。
無意識に頭を掻こうとした指が几帳面に巻かれた包帯に触れる。命の危険をあそこまで身近に感じたのは初めてだった、気がする。思い出さないようにしようと頭を軽く振った際、手術台の脇、白い床に黒く変色しかけた丸い染みを見つけてしまった。脳の奥がジワリと痛くなる錯覚を覚える。
なんとか気を紛らわそうと(手術台は見ないようにして)ぐるりと部屋を見回す。窓からの光は随分弱くなっており、逆に廊下の電灯は点滅を繰り返しながらも点いているようだ。それなりに長い間意識を失っていたのだろうと容易に推測できた。
(…帰らなきゃ…)
漠然とした使命感が再び脳裏に浮かぶ。ただ、『帰らなければいけない』という思いが焦燥感のみを募らせた。…いや、しかし。『帰らなきゃ』とは思うものの、『帰る場所』が思い浮かばない。そのことに気づいて、一人、首を傾げる。誰かに問おうにも今は一人ぼっちだ。喉元過ぎればなんとやら。先程の男がいない事をちらりと寂しく思う。次に『聴力検査』をされたらちゃんと答えられるのに。
そんなことを思いながら廊下の方に視線をやった。
「 」
ぽしょりと声が聞こえた気がした。先程の『治療』の成果か、神経を研ぎ澄ますとよりはっきりと聞こえる。
「せつ じょ。」
あの医者、ヤブ医者じゃなかったのか。頭の隅ではそんな呑気な考えが浮かんでいるが、聞こえた言葉を反芻し何度目かになる恐怖に襲われた。せつじょ、セツジョ、せつじょ…
「切 除。」
舌っ足らずな声が徐々に近づいてくる。不規則に点滅を繰り返す廊下の電灯が、丸いシルエットをカーテンに映し出した。その影は何か、大きなものを引き摺りながら徐々に部屋の入り口へ向かう。
扉が、開いた。
「せゆ じょ。せつ じょ。せちゅ じょ。」
逆光になってそのシルエット以外よく見えないが、それが気にならない程、ある一点視線を奪われる。
「せつ じょ。」
あどけない言葉と共に振り上げられたのは、人一人分はありそうな、真っ赤に染まった鋸。声にならない悲鳴とともに思わず頭を抱え、身を縮こませる。金属同士がぶつかる音がして手の甲や首筋に冷たい雫が散った。どうやら、鋸は檻の鉄格子に阻まれたようだった。初めて檻に感謝するのも束の間、苛立った様子で再び鋸が振り下ろされる。
「せつ じょ。せつじょ。せゆじょ、せうじょ!」
何度も、何度も。
鋸が檻にぶつかる度、付着していたのであろう『ナニカ』の肉片と、まだ乾いていない鉄臭い赤い雫が檻の中に降り注ぐ。狂ったような金属音と自分の声帯から迸る悲鳴が、鋭敏になった聴覚を無遠慮に刺し貫く。
永遠に思えた時間は唐突に終わりを告げた。
檻を叩いていた音がピタリと止まる。今度は何が来るのかと一層身を固くしたが、待っていたのはは予想外の展開だった。
「…まったく…。この部屋には入らないように言ってあった筈だが?」
例の白衣の男の声がした。
数秒の沈黙の後、大きな鋸を引き摺る音がじわじわと遠いていった。
「…せつ じょ…。」
声も徐々に遠ざかる。完全に聞こえなくなったところでそっと目を開けると、いつの間に近寄ってきたのか、白衣の男が檻のそばまで来ていた。
「…使い給え。夜は長いぞ。」
言葉と共に、鉄格子の隙間から何かを捩じ込む。こわごわ手を伸ばし、広げ、また目を丸くする羽目になる。
「…毛布…?」
「見たことが無いわけではあるまい。」
まさかと言うように男が鼻を鳴らす。少し厚手の毛布は程よい手触りで、少し、落ち着く。
「…あの、ありがとう、ございます…。」
戸惑いながらも感謝を告げれば、今度は満足そうに腕を組んだ。
「治療は成功したようだ。今日は大人しく寝るといい。」
奴は馬鹿だが、今さっきで此処に来るほど馬鹿ではない。
そう一言付け加えて男は振り向かずに部屋を出ていった。扉はピタリと閉じられ、再び沈黙が降りる。
じっと耳を凝らすが自分の音以外には何も聞こえない。毛布を身体に巻きつけると、緊張の糸が緩んだせいか、急激に睡魔が襲ってきた。固い床も、毛布のお陰で幾分か楽に眠れそうだ。
(…全部、夢だったらいいのに…)
そんなことを願いながらゆっくりと眠りに落ちていった。
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