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第1章 Life in Lacra Village

第1話 最悪なスタート

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 今日も日差しが強い。

 肩口で汗を拭いながら、彼──黒川ハジメは今や日課にもなった農作業をこなす。

「ハジメ、山菜採りに行くよー」

 田を均す彼の元に少女が駆け寄ってきた。 少女はいつも通り朝にやって来てそんなことを言う。

 ハジメと呼ばれた青年は農具を下ろし、こちらもいつも通りの言葉を返す。

「農具返す。 待って」
「うん、待ってるね」

 少女の人懐っこい笑顔から元気の良い返事が投げ返された。 彼女は小麦色の肌に、やや健康的とは言えない痩せた体型。 15歳にしてはある部分の発育が少しだけ良く、そして15歳にしては体重が少し軽い。 そんなアンバランスさは、ここでの生活を知っていれば特におかしなことではない。

 ハジメは急いで納屋まで戻る。 そして田畑に使用していた鍬を置くと、代わりに手斧を携帯した。

「待たせた」
「うん、行こ!」

 少女に手を取られて、ハジメは引き摺られるように山手の方へ。

(いつまでこの生活が続くんだろう……? でもまぁ、この娘が一緒なら別にいいか)

 ハジメがこの世界にやってきて早数ヶ月。 その間、彼は原始的な生活を強いられていた。

「ハジメ、別に毎回手斧を持って来なくても大丈夫だよ?」
「心配。 お守り」
「心配性だね。 それにしても、最近は言葉の上達が早くなってるねっ」
「そうか? うれしい」
「あたしもハジメと話せてうれしい。 いひひー」

 純粋な笑顔を向けてくる少女。

(優しくしてくれるのはこの娘だけだよな……大事にしないと。 この娘がいなかったら俺は今頃──)

 ハジメは当時の出来事を思い出していた。 時折夢にでも見る、あの日の忌まわしい記憶を。


          ▽


『……国……へ……』

 記憶の開始は、自身の声にも似た脳裏に響く謎の言葉だっただろうか。

「なん……?」

 ひんやりとした地面。 靡く夜風。 それらは中途半端で朧げな彼の意識を覚醒に至らせる。

「……え!?」

 ハジメは驚きのままに勢いよく身を起こした。

(え、え? どこだ、ここは!? 俺はいつここにきた? そもそもここはどこなんだ?)

 そこは見知らぬ大地。 周囲に明かりもなければ人影もない。 空はずっと曇りのため、月の光すら届かない。 雨でも降りそうな、そんな暗さだ。

 ハジメはパニックになりそうな頭をなんとか冷やしながら状況判断に徹する。

(俺は……どうやってここに来た? 飲み会で酔って……ってことは無いよな。 だって俺の最後の記憶は……)

 冷静を装いながら、記憶を辿る。 ハジメの最後の記憶は朝方、大学に登校したあたりで止まっている。

(朝起きて、大学行って、掲示板を確認して、それで……)

 やはり何度思い返しても、記憶はそこで途切れている。

(拉致された……? 誰に? それともイタズラか?)

 答えなど出るはずもない。 これがドッキリだとしても、ネタバレが起こるのは彼が極限まで焦った状態になってからなのだから。

(ちょっと待てよ、今日は講義の後にバイトの予定が……)

 と、徐々に思考が回復してきたあたりでハジメはふとポケットの膨らみに手をやった。 スマホ。 何がなんでも、それさえあれば大抵のことは解決できる。 むしろこれがなかったら死んでしまうくらいには依存している。 ハジメは焦りで震える手を抑えながら電源をON。

「25時13分……」

 やはり深夜。 バイトはすっぽかしてしまったようだ。 また店長にどやされてしまう、という謎の心配が彼の中に巡る。

(誰だよクソ! なんで俺をこんな目、に……)

 イライラしながらパスワードを解除。

 内心で怨嗟を吐き出しているハジメの目が、スマホの右上で停止した。

「電波、が」

 思わずそんな言葉が口を突いて出てしまっている。

 スマホに表示されている限りでは、メールや連絡ツールの受信すらない。

 ハジメは焦りながら周囲を見渡す、 今や少しずつ目も暗順応で慣れてきて周囲が確認できるようになっている。 そしてわかるのは、ここが電波を遮断できるような遮蔽された環境ではないということ。 つまるところ、ここは電波もやってこないような屋外である。 そんな場所にハジメは一人。

 誰からも連絡がきていないということは、この状況に関わる全員がグルか、電波が来ない期間が相当時間あったか。 大学の知り合いとバイト先の店長が繋がってるなんてことはなさそうだから、前者はあり得ない。 ということは、ハジメが眠らされて(?)から相当な期間ここに放置されたことになる。
 
(GPSも……当然機能してないって、まじか。 えっと待て、こういう場合ってどうするんだっけ……? 助けを呼ぶ? そんなことして焦ってる俺を誰かが見てやがるのか? どこかで誰かが笑いながら俺を見ている……最悪それならいいが、そうじゃ無い場合どうする? そもそもそうじゃ無い場合ってのはどんな場合なんだ……? えっとまず……)

 グルグルと思考が巡る。 やはり思考は万全の状態ではない。

 ハジメは徐に立ち上がった。 しかし数十センチ視線が高くなったところで、見える景色など大差ない。 分かるのは大きな山のようなシルエットが左右に二つで、前後はだだっ広い荒野だ。

(日本……だよな? たしかに日本のはずだ。 だって時間的に丸一日も経過してないし、頭も……)

 ハジメは全身を隈なく触ってみせた。 頭部に打撲されたような痛みや違和感はない。 その他特記事項は見られない。
 
 ハジメは再び周囲に目を遣った。 スマホのライトを点灯させて周囲を照らすが、背負っていたはずのリュックが無い。 どこを探しても無い。

(ちょっと待てって……。 イタズラにしちゃ手が混みすぎだろ……! スマホと身一つで電波も無い田舎に放り出すとかどんだけだよ、クソ! 俺はバイト先にも電話しなきゃいけねーし、明日だって予定があんのに……! 財布もなきゃ電車すら乗れねーっての!)

 理不尽な状況に対する怒りがハジメを支配するが、すぐに恐怖によって塗り替えられる。

 誰もいない荒野。 電波もなければ建物も無い。 まだ廃墟などがあった方が人間の生活の痕跡を感じられてよかっただろうが、ここは本当に何もない。

 常に誰かが跡を付けてきているような、あのゾワゾワした感覚。 そんな不快かつ気が気でない状態に置かれているようで、ハジメの心拍は限界まで高鳴る。 ここから何か安心できる材料を探さなければ、張り裂けて壊れてしまいそうなほどには心臓が脈打っている。

(やばいやばいやばいやばい……。 なんとか、なんとかしないと……)

 ハジメは動きの悪い両足を引きずり、とりあえずこの場を離れることに終始する。

 前方か後方か、どちらが正しいのだろうか。 

 スマホが機能しない以上、ハジメ個人でできることなどただひたすら歩き続けるだけだ。 そもそも特技すらない彼からスマホを取り上げれば、動物以下の生存力しかない雑魚キャラの出来上がりだ。 このまま朝を待つという選択肢もあるが、この状態で数時間も知らない場所に居られる自信はないし、野犬などが襲って来たらなおアウトだ。 だからハジメは歩くしかなかった。

 ハジメはスマホのライトで足元を照らして、屁っ放り腰でノロノロと進む。 決まりきった目的地などない。

「ひッ……!」

 時折響く獣の声。 都会でこんな声は聞いたことがない。 つまり、ここは田舎。

 それにしても短時間で東京から連れて来られる場所などどこにあるのだろうか。

(神隠しっつっても、あんなのは迷信だしな。 でも、いや……誰かの話に上がる以上それが迷信じゃない可能性も……)

 この思考に意味はない。 ただ、そんなことでも考えていないと身が持たない。

 それから数時間──。

 未だ朝陽は登らない。

 スマホが指す時刻は午前3時を過ぎており、すでにハジメは全身がヘトヘトだ。 真っ直ぐ行き先を決めて歩くのとは違い、これはもはや徘徊に近い。 永遠にも思える緊張の持続は肉体的疲労以上に精神的な不調を来し、それが思考低下に拍車を掛ける。

(……あ?)

 ふと赤い何かがチラついた。 それは右手の山の麓あたり。 ハジメがよく目を凝らせば、それが左右に揺らめいているのが確認できた。

(あれは火、か?)

 眺めていると、その火らしきものは二つ三つと数を増やしていく。

(ま、まじか……! これは間違いない、人間がいる!)

 恐らくは人里離れた村か何かだろう。 しかしここで問題がある。 人間が居ると高い確率で予測できるとはいえ、それがまともな人種であるのかどうか、ということ。

(いや待て。 そういえば……)

 ハジメはとある話を思い出した。 誰も近づかない奥地の閉鎖的な部族が、迷い込んだ人間を生贄に捧げる話を。 その部族は優しい顔をして迷い人を誘惑し、寝込んでいるところを襲って処分するとか。 そうして最後にはその人の肉を部族で分け合って食べるとか。 そこまで行くと流石に眉唾物だが、“事実は小説より奇なり”という言葉もある。 あるかないかで言えば、ない話ではない。

 さてどうするべきか。

(ここにはあの村しかない場合、俺の頼れるところはそこしかない。 歓迎されるとも思っちゃいないが、邪険にされることは有り得そうだよな……)

 まずはここがどこかという確定情報もなければ迂闊な行動はできない。 せめて帰る手段さえ分かれば、最悪徒歩での帰還が可能。 しかし食料などの問題もある。

 どこかに電源があれば良いが、スマホの充電器が入ったリュックはハジメの手元にない。 電気が通ってない村が日本にあるのかどうかは定かではないが、村や集落といった単位が未だに日本に存在している以上スマホは諦めなければならない。

 ちなみにここまでスマホのライトを多用しているだけあって、残りの充電は20%を切っている。 このまま使用せずとも、充電を繰り返してヘタったバッテーリーでは数時間と持つまい。 だからスマホは諦めるとしても、せめて地図は欲しいところだ。

 あとは食料と……挙げればキリがない

 ここまでハジメは迷っているが、彼にサバイバルの技術はない。 ハジメは昔から大した習い事も許してもらえず、地元の中高大一貫のエスカレーター式の学校になあなあで通っていただけ。 大学に入ってもサークルにすら属さず、講義とバイトで終わる日々。 つまり、ハジメには何もない。 何も考えずに流れに任せて生きているだけの人間だった。 そんな彼を荒野に放り出せば、食料を持たせていたところで一日二日生存できれば良い方だ。 それはハジメ自身も分かっているし、だからこそここで考えたところで結局は楽な方に落ち着くだけだ。

(って、クソ……まじかよ)

 無駄な思考に時間を掛けている間に、こちらに近づく集団の足音が響き始めていた。 これによって、逃げ出すという選択肢は消えた。 そして気づけば近づく火は5つを超えており、彼らはすぐそばだった。

(向こうからお出迎えとは、いい身分だな俺も)

 なんて呑気なことを考えて、ハジメは自分の不甲斐なさを掻き消す。 そして火に照らされて現れた集団の顔ぶれは──。

「あー、終わった……人生終了。 意味不意味不」
「──────……、──!」
「──、──!!!」
「────、────?」

 ハジメは嘆息しながら空を仰いだ。

 喧しく騒ぎ立てる彼らの声は、もうハジメの耳には届いていなかった。

 ハジメは言葉通り終わりを確信していた。

「せめてここで現れるのは日本人であるべきだろ」

 彼らの顔が全て日本人離れした整った容姿──外国人のものだった。

「“第1話、コミュ障海外へゆく”ってか……?」

 ハジメは最後にそう呟いてガックリと肩を落とした。

 なおも見知らぬ人種による口撃は続く。

(知らない言葉を投げつけるってのは、ある種の暴力だろ……。 これは口撃じゃなくて攻撃だな)

 取り囲む男どもはみなハジメよりも年上で、それだけで萎縮してしまう。 ハジメは彼らの言葉を騒音として聞き流して観察に入った。 キョロ充のハジメができることなど、人間観察以外に特にはないのだから。

 ハジメが確認したところ、彼らは身長は大小様々。 そして一様に擦り切れたような衣類を纏っている。 生地は布製で、オーバーコートやマントのようなものを肩から脚のあたりまで被り、その下にズボンが見える者や見えない者など様々だ。 腰のあたりでベルトのようなものが巻かれており、これによって衣服が脱げないようにしているのだろうか。 靴も煌びやかな革製ではなく、衣類に近い布地。

 それぞれの手には松明や農具、斧などが持参されている。どこからどう見ても、生活水準の低そうな農夫たちだ。 そんな彼らが口々に何かを訴えているのだから、ハジメに恐怖以外の感情など湧くはずもない。

(せ、せめて文明的な人種なら何か言っても良さそうだけど……。 話が通じなさそう……)

「────、──」

 大人たちの間を割って、何やら言いながら進み出た人物がいた。 それは背の高い女性。 ハジメは、彼らが男だらけの集団ではないと分かって少し安心した。 女性の服装は周りの男どもと大して変わらないが、唯一の違いは頭巾を被っているところだろうか。 そしてやはり言葉は分からない。

(英語ならギリギリ分かるかもしれないけど、言葉が何も頭に入ってこねぇ……。 ってか、1日も掛からず行ける国ってどこだよ!? 拉致……? それにしては雑すぎるような……)

 女性はビシッとハジメを指差してまた何かを言った。 叫んでいるようだが、それさえも理解できない。

(やめろよ怖えぇな……。 何か、言えばいいのか?)

「えっと……俺は黒川ハジメって言います。 日本人です。 気づいたらこんな場所にいました。 助けてください」

 ハジメの言葉を聞いた女性は困惑気味に停止した。 かと思うと、周囲の大人たちと一緒にまた喚き出した。 各所から怒号にも似た言葉が飛び交うが、女性がなんとか男たちを宥めすかした。

「───……? ──、────!」

 女性は再び何かを言ってハジメの手元を指差している。 どうやら手に持ったスマホを指しているようだ。

「これはスマホ。 携帯電話とも言います。 知らないですか?」

 スマホは未だにライトを照らしている。 充電の減りが早いライトの点灯は、ここまでのやりとりの間にも続いていた。

 ハジメは試しにその光を彼らに向けてみた。

「──!?」
「──、──!」

 彼らは一瞬怯んだと思うと、雪崩のようにハジメに迫った。 スマホは弾き飛ばされ、水を浴びせられ、複数の大人から集団暴行が始まってしまった。

「ちょ、待って! やめ、ぐッ──やめて、やめてくだァッ!? あ、ぐ、ゔぶ、がァ……!」

 男どもは一心不乱にハジメを殴りつけた。 一部農具も振り翳されたが、集団で寄ってたかって攻撃していたため拳が主な攻撃手段になった。 ハジメは顔面を殴られ、倒れたところに腹部や背中を蹴られ、最後には全員で蹴られ続けた。

「……ぅ゛……ァ……」

 大人たちが息を切らせたあたりで、ようやく暴力の嵐は収まった。 ものの数十秒でボロ雑巾の出来上がりだ。

 ハジメは全身を震わせながら無様に転がり、全身にアザを作って呻くだけとなった。

(さ、寒い……痛い、痛い、痛、い……)

 男どもが見つめる中で、ハジメはすぐに意識を手放していった。 これがハジメの最悪の始まりだった。

 
          ▽


 とある夜、一台の馬車が闇夜を進んでいた。

「ふむ、今度は王国か。 どこもかしこもお忙しいことだ」

 紳士風の男が幌の外を覗き見ながら呟いた。

「どうされました……?」
「君には今の鳴動が……いや、なんでも無いさ」

 男の視線は何かを追っているようだが、御者にはそれが何かまでは分からない。

「そうですか。 何かあればお申し付けください」

 御者台に座って操車をするのは丸々と肥えた男。 その面妖な姿は昼間であれば人目を引くだろうが、今は夜中。 誰かに見られるという心配はまず無い。 たとえ誰かがいたとしても、それはせいぜい盗賊の類いだろう。

 夜盗などは近隣の街などから懸賞金が掛かっていることが多く、出てきたらむしろ儲けが大きいと言ったところ。 御者も男も戦闘能力には長けている。

「ああ」

 空返事のような言葉を投げて、男は空を仰いだ。 特段、これは男にとって急ぐような旅では無い。 夜に馬車を走らせるのも、単に効率が良いというだけの話だ。

 男は何気なく荷台の中から馬車を引く黒い馬を見た。 それは赤い目を闇の中に浮かべ、息を切らすことなく道を進んでいる。 いや、これだけ暗ければ道を進んでいるのかどうかも怪しい。 それでも馬車は大して揺れることもなく、なおかつスピードを緩めることなく目的地を目指している。

 男はもう少しゆっくり旅を楽しめば良いのにとも思うが、急ぐように指示したのも彼だ。 自分の発言を思い出して、男はやれやれと肩を竦めた。 そんな彼の目はゆっくりと彼方に飛来していく何かを追っていた。 詳細は不明だが、先程の鳴動に合わせて現れたということはそれに関連する何かなのだろう。

「今回も通例どおりかとも思ったが……なるほど」

 御者は荷台の中で怪しく笑う男の声を聞きながら、指示された通りの仕事をこなす。

 彼らの向かう先は王国──エーデルグライト王家によって統治された最西の国家。

 すべての歯車は、この日この時から動き始めていた。
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