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王都編
8.リリアンの居ない五日間③
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夜が明けて二日目の朝、テントからのそりと顔を出したアルベルトは、薄暗い中でくわあと欠伸をした。普段ふかふかのベッドを使用しているものの、寝床の変化でどうにかなるほど繊細な性格をしていない。簡素な寝床でもぐっすりと休むことのできたアルベルトは身繕いもろくにせず、焚き火の側に向かう。そこではすでに、デリックとボーマンが鍋で湯を沸かしていた。それなりに温暖な気候であっても、真冬の朝は冷える。焚き火の存在はありがたいものであった。
「旦那様、おはようございます」
「ああ」
「コーヒー飲みます?」
「……貰う」
十分眠ることができても、リリアンと会うことができていないから、気力の充填がされていない。目覚めが悪い方ではないアルベルトのテンションがこれ程低いのは滅多にないことである。それを知るのはベンジャミンくらいだけれど、覇気が薄くしどけない姿は、それはそれで絵になるから恐ろしい。デリックはコーヒーの入ったマグカップをアルベルトに渡して、その姿に思わず目を細めた。
第二騎士団には少ないながらも女性の騎士が所属している。だが、今回の演習に、女性騎士は同行していない。その理由はこれだろう。きっちりと整えていない乱れた服装、櫛を通さずにいるのを、ざっくりと掻き上げただけの髪。どうしてだか溢れ出る色気に、なんとも言えない気持ちが溢れてくる。これは女性に見せるとまずいだろう。なんなら男でも危うい。そういう趣味に目覚める輩も出てしまうかもしれない。
「危険物……」
見目麗しいお方にかける言葉ではないだろうが、言わずにはいられなかった。過ぎた薬が毒になるように、美しすぎるものは目に毒である。
「何か言ったか?」
「いえ、なんも」
デリックはすいっと視線を外した。焚き火の向こうの方では、騎士団が炊き出しを行なっている。そろそろ食事となるようだが、作業をしている騎士達がちらちらとこちらを見ていた。まあ、理由はこの旦那様であろう。後で目隠しを置いた方がいいかもしれない。
朝食を摂った後、早速調査に入る事になった。いくつかの班に別れてフロミリア山のごく浅い箇所を調査する。
主な目的は魔物の棲息域の調査だ。あまり多く繁殖しているようであれば排除する事になっている。そういう事なので、魔物の痕跡を探しつつ、山に入って森を歩いているのだが、一時間以上経っても小型の魔物すら見付からずにいる。
「いやあ、静かなものですなぁ!」
その原因はこの男である。アルベルトが行くのだからとガードマンが同行する事になったのだが、なにかにつけて爆音で会話をするものだから、魔物も森の動物も、姿を隠してしまっている。
実は、アルベルトはこの男が苦手だった。
「アルベルト様の魔法を間近にするいい機会だと思っていたのですが! 残念です!」
常に声がでかく、うるさいのが一番の要因だが。
「喧しい。貴様の声がでかいから奥へ逃げたんじゃないのか」
「そうなのですか! いやはや、さすがはアルベルト様です! 魔物の生態にもお詳しいとは!!」
この通り、ちょっとした嫌味も通用しないのだ。チッ、と舌打ちをして、アルベルトはこの男を無視する事にした。
ただ、それもなかなかうまくいかない。
「ううむ、思っていたよりもずっと普通の森ですなぁ! もっと険しいものと思っておりましたが!」
「……」
「アルベルト様! お疲れではございませんか!?」
「…………」
「おおっとぉ、アルベルト様がこの程度で疲れるはずありませんでしたな!」
「………………」
「某も存じておりますぞぉ! かつて一昼夜魔物を追いかけ回したという逸話! いやあ、この目で目の当たりにしたかったですなぁ!!」
「…………………………」
そうしているうちに、アルベルトは半目から薄目になった。
喧しい。喧しすぎる。このままでは自分の精神に支障をきたすと、アルベルトはすっと振り返った。
「ガードマン・ハウリング。お前、山を降りろ」
「なんとぉ!? 何故ですか!!」
「お前が五月蝿すぎて、調査にならないからだ!!」
「な、なんですとォ!!」
ガードマンは目を見開いて驚愕の声を上げた。が、残念ながらその場の全員が同意見であった。騎士団の者からも「副団長、拠点へお戻り下さい」と言われてしまう。ガードマンはそれを聞いて、ならば仕方ないと山を降りて行った。ほんの少ししょげていたのは、うるさいと言われたことに対してではなく、ただ単にアルベルトの魔法を間近で見る事ができないと残念がってのことだったからさすがである。
こうして喧しさからは解放されたものの、すぐに生き物達が姿を現わすはずもなく。小さな痕跡だけを探すという、実に地味な作業を行う羽目になった。
とは言えそこはアルベルトである。
「この辺り、確かに魔物が棲み着いているようだな」
微かな感覚を捉え、魔物の痕跡を見付けたのだ。その呟きに反応したのは、第二騎士団の書記官の男だった。
「お分かりになるのですか?」
「魔物特有の魔力の残滓を感じる」
書記官は、期待を込めて同行している魔導士達を振り返る。が、魔導士達はさっと視線を逸らした。
「それを感知出来るのは、アルベルト様くらいのものです……」
そんな、と書記官がこぼす。もしも魔導士が同じことができれば、班に振り分ければ調査が捗ると思っての事だ。残念としか言いようがない。
「そうなのですか?」
「ええ。我々には到底出来ません」
そもそも、と、長身の魔導士が辺りを見回して言った。
「魔力というのは、放出されていなければ感知出来ないのですよ。人間は、魔力を感じる事に疎いんです」
「そういうものですか」
「ええ。だって現に、あなたもそうでしょう。我々は魔力を有していますが、それを感じ取っていますか?」
書記官は言われてはて、と首を傾げた。
「いいえ……」
「では、少し魔力を出してみましょう」
言うと、長身の魔導士は目を閉じて集中した。手にした杖に嵌め込まれた宝石が、淡く光る。それがうっすらと緑のように変わった時、書記官にも分かった。空気が変わったというか、何かがある感じが確かにしたのだ。
「これが魔力ですか」
「ええ、そうです」
宝石から、ふっと光が消える。するとその場にあったはずの『なにか』の気配も消失してしまった。やはり、この『なにか』が魔力なのであろう。
「放出された魔力そのものであれば感じ取ることができます。しかし、肉体に収まっている状態では感知できない。体に触れてみたり、感知する為の手段を取れば別ですがね」
「では、この場でアルベルト様が仰っている事は」
「魔物が、この場を根城にしている。長く棲み着いた場所には、その生き物から出た魔力が染み付くんです。わずかに漏れ出ているんですね。魔力の多い生き物であれば顕著です。魔物は普通の動物と違って、魔力量が多い。故に、居場所がわかりやすい」
書記官は、ああ、と合点がいったようだった。
「なるほど。例えるなら、匂いみたいなものでしょうかね」
長身の魔導士は、目元を和らげる。
「その例えは近いですね。匂いが残るくらい、ここに居るか、あるいはよほど匂いが強くなければ残滓として残らない。ヴァーミリオン公は僅かに残った匂いを感じ取った、と言えるでしょう」
「でも普通、極端に強く残滓が残っていなければ感知できないんだ。なんせ人は、魔力の感知力が低いから」
癖っ毛の魔導士が、杖でとんとんと自分の肩を叩きながら言った。視界の先ではアルベルトが騎士を伴ってさっさと先へ進んでしまっているので、立ち止まっていた書記官達は話しながらその後を追っている。がざがさと足元の落ち葉が鳴る。生き物の気配は相変わらずしない。
「魔力を感じ取るのに適した手段は、自らの魔力を放出することだ。そうすれば、自分の魔力が異なる魔力に触れる事になる。であれば簡単だ、異質なものを感じ取ったことになるから。理論上は、だけど」
「なるほど……自分以外の匂いがすれば、それは確かに、自分以外の存在を感じたことになりますね」
「そういう事」
書記官の言葉ににっと笑って返した癖っ毛の魔導士は、直後にさっと表情を歪める。
「でもだからって、そんなの通常できっこないけど。あの方は別格さ」
「ですが、魔力を放出すれば良いのでしょう? であれば、出来そうに感じるのですが」
「と、思うだろ? そもそもその『放出』が難しいんだ。さっきこいつがやったように『何かに込める』のはできるんだが」
こいつ、というのは、長身の魔導士のことだ。彼がさっき見せてくれたのは、確かに宝石に魔力を込めていたように見えた。
「それはどう違うので?」
「対象の有無。誰かにものを言うのと、漠然と喋るのとでは意識の向き方が違うだろう。そうすると伝わっているかどうかがそもそもわからない。それがわからないと、魔力がどう放出されているかが把握できないんだ」
「ううん、わかったような、わからないような」
「そんなもんさ、魔力が無いならね」
視線の先ではアルベルトが木を眺めたり、反対側を見たりしている。昨日の様子から、まともに調査に協力して貰えないのではないかと思っていた一行は少し驚いている。精力的に調査をするとは思っていなかったのだ。
どんな魔物かまでは判らないが、平野から入ってさほどでもない範囲まで、魔物は山を降ってやって来ていると言う事だ。近隣に人は住んでおらず、街道からも離れてはいるが、警戒するに越したことはない。翌日以降、再度調査と討伐を行う方がいいだろうと結論付けた。書記官はそのように調査書を纏める。
そんな風に、調査に協力的に見えたアルベルトだったが、実のところ魔物の残滓を見付けたのはたまたまであった。
(くそっ、リリアンの魔力を感じ取れないかと思ったが、魔物の気配が邪魔だな!? 平野では高さが足りないのか何も感じ取れなかったから山に登ったというのに! 鬱陶しい……おのれ、どうしたらいいんだ。木か? 木に登ればいいのか!?)
さすがに馬で半日かかる距離では、王都のリリアンの魔力を感知することなど無謀であるが、とにかくもうアルベルトはリリアン成分を補いたくて必死だった。
ぬぐぐと口をへの字に曲げるアルベルト。実のところ、森に動物がいないのはガードマンの大声のせいだったが、魔物が姿を現さないのはアルベルトのせいだった。
魔物は魔力の感知に敏感である。己の縄張りに、とんでもない量の魔力を放出する何かがやって来たら、身の危険を感じて逃げるのは当然だった。せめて魔力の放出を抑えていれば、まだ良かったのだけれど。アルベルトがそもそも森へ入ったのは、少しでも高い場所に移って、王都のリリアンの魔力を感知するため。最初からそのつもりで魔力を放出しつつ森へ入ったものだから、出発時にはすでに魔物は棲家から遠ざかっていたのである。
結果として、残滓を見付けるだけに留まったのだが、魔物を遠ざけることにはなっていたので、彼らの知らない間にある意味で目的を達成していたとも言える。
そんなこんなで、徒労感を覚えながら、一行は暗くなる前に森を後にした。
◆
一方、ヴァーミリオン邸では。
「このブレンドは初めてです」
「癖があるな」
「ううん、このお菓子には合わないかも……」
「では、こちらと交換しよう」
「まあ。お兄様、ありがとうございます」
実に平和に、リリアンとレイナードはお茶を楽しんでいた。
朝からリリアンに付き従っていたレイナードは、いつものリリアンの日課も一緒に行っていた。庭の散歩では春を待つ植物を慈しむリリアンの姿に心を打たれ、母の肖像画に声を掛ける姿には感涙しそうになった。朝食後も、ゆっくりと一服できるのが素晴らしい。今日は何をしようかと、朝から胸を躍らせていた。
例え会話は少なくとも、同じ空間で読書するだけでレイナードの気持ちは高揚した。ストレッチがてら庭に誘えば、もこもこの上着に身を包んだリリアンを鑑賞できた。昼食後、日当たり抜群のサロンに誘えば、心地良い陽射しにふわぁと欠伸をし、はっとして頬を赤くする姿を拝めた。そのひとつひとつ、すべてが愛おしくて、なんとも言えない多幸感が溢れたものだ。眠気覚ましのハーブティーを勧めるとその風味に驚き、他のものも試してみたいと言うから、夕食後にいくつか用意させた。癖の強いそれも個性のひとつと、顔を顰めながらも味わうリリアン。
(可愛い……)
リリアンの一挙一動を見つめ、レイナードは強くそう思った。
これがあと三日続くのだ。なんとも贅沢な時間だなと、噛み締め、明日のリリアンに思いを馳せるレイナードであった。
「旦那様、おはようございます」
「ああ」
「コーヒー飲みます?」
「……貰う」
十分眠ることができても、リリアンと会うことができていないから、気力の充填がされていない。目覚めが悪い方ではないアルベルトのテンションがこれ程低いのは滅多にないことである。それを知るのはベンジャミンくらいだけれど、覇気が薄くしどけない姿は、それはそれで絵になるから恐ろしい。デリックはコーヒーの入ったマグカップをアルベルトに渡して、その姿に思わず目を細めた。
第二騎士団には少ないながらも女性の騎士が所属している。だが、今回の演習に、女性騎士は同行していない。その理由はこれだろう。きっちりと整えていない乱れた服装、櫛を通さずにいるのを、ざっくりと掻き上げただけの髪。どうしてだか溢れ出る色気に、なんとも言えない気持ちが溢れてくる。これは女性に見せるとまずいだろう。なんなら男でも危うい。そういう趣味に目覚める輩も出てしまうかもしれない。
「危険物……」
見目麗しいお方にかける言葉ではないだろうが、言わずにはいられなかった。過ぎた薬が毒になるように、美しすぎるものは目に毒である。
「何か言ったか?」
「いえ、なんも」
デリックはすいっと視線を外した。焚き火の向こうの方では、騎士団が炊き出しを行なっている。そろそろ食事となるようだが、作業をしている騎士達がちらちらとこちらを見ていた。まあ、理由はこの旦那様であろう。後で目隠しを置いた方がいいかもしれない。
朝食を摂った後、早速調査に入る事になった。いくつかの班に別れてフロミリア山のごく浅い箇所を調査する。
主な目的は魔物の棲息域の調査だ。あまり多く繁殖しているようであれば排除する事になっている。そういう事なので、魔物の痕跡を探しつつ、山に入って森を歩いているのだが、一時間以上経っても小型の魔物すら見付からずにいる。
「いやあ、静かなものですなぁ!」
その原因はこの男である。アルベルトが行くのだからとガードマンが同行する事になったのだが、なにかにつけて爆音で会話をするものだから、魔物も森の動物も、姿を隠してしまっている。
実は、アルベルトはこの男が苦手だった。
「アルベルト様の魔法を間近にするいい機会だと思っていたのですが! 残念です!」
常に声がでかく、うるさいのが一番の要因だが。
「喧しい。貴様の声がでかいから奥へ逃げたんじゃないのか」
「そうなのですか! いやはや、さすがはアルベルト様です! 魔物の生態にもお詳しいとは!!」
この通り、ちょっとした嫌味も通用しないのだ。チッ、と舌打ちをして、アルベルトはこの男を無視する事にした。
ただ、それもなかなかうまくいかない。
「ううむ、思っていたよりもずっと普通の森ですなぁ! もっと険しいものと思っておりましたが!」
「……」
「アルベルト様! お疲れではございませんか!?」
「…………」
「おおっとぉ、アルベルト様がこの程度で疲れるはずありませんでしたな!」
「………………」
「某も存じておりますぞぉ! かつて一昼夜魔物を追いかけ回したという逸話! いやあ、この目で目の当たりにしたかったですなぁ!!」
「…………………………」
そうしているうちに、アルベルトは半目から薄目になった。
喧しい。喧しすぎる。このままでは自分の精神に支障をきたすと、アルベルトはすっと振り返った。
「ガードマン・ハウリング。お前、山を降りろ」
「なんとぉ!? 何故ですか!!」
「お前が五月蝿すぎて、調査にならないからだ!!」
「な、なんですとォ!!」
ガードマンは目を見開いて驚愕の声を上げた。が、残念ながらその場の全員が同意見であった。騎士団の者からも「副団長、拠点へお戻り下さい」と言われてしまう。ガードマンはそれを聞いて、ならば仕方ないと山を降りて行った。ほんの少ししょげていたのは、うるさいと言われたことに対してではなく、ただ単にアルベルトの魔法を間近で見る事ができないと残念がってのことだったからさすがである。
こうして喧しさからは解放されたものの、すぐに生き物達が姿を現わすはずもなく。小さな痕跡だけを探すという、実に地味な作業を行う羽目になった。
とは言えそこはアルベルトである。
「この辺り、確かに魔物が棲み着いているようだな」
微かな感覚を捉え、魔物の痕跡を見付けたのだ。その呟きに反応したのは、第二騎士団の書記官の男だった。
「お分かりになるのですか?」
「魔物特有の魔力の残滓を感じる」
書記官は、期待を込めて同行している魔導士達を振り返る。が、魔導士達はさっと視線を逸らした。
「それを感知出来るのは、アルベルト様くらいのものです……」
そんな、と書記官がこぼす。もしも魔導士が同じことができれば、班に振り分ければ調査が捗ると思っての事だ。残念としか言いようがない。
「そうなのですか?」
「ええ。我々には到底出来ません」
そもそも、と、長身の魔導士が辺りを見回して言った。
「魔力というのは、放出されていなければ感知出来ないのですよ。人間は、魔力を感じる事に疎いんです」
「そういうものですか」
「ええ。だって現に、あなたもそうでしょう。我々は魔力を有していますが、それを感じ取っていますか?」
書記官は言われてはて、と首を傾げた。
「いいえ……」
「では、少し魔力を出してみましょう」
言うと、長身の魔導士は目を閉じて集中した。手にした杖に嵌め込まれた宝石が、淡く光る。それがうっすらと緑のように変わった時、書記官にも分かった。空気が変わったというか、何かがある感じが確かにしたのだ。
「これが魔力ですか」
「ええ、そうです」
宝石から、ふっと光が消える。するとその場にあったはずの『なにか』の気配も消失してしまった。やはり、この『なにか』が魔力なのであろう。
「放出された魔力そのものであれば感じ取ることができます。しかし、肉体に収まっている状態では感知できない。体に触れてみたり、感知する為の手段を取れば別ですがね」
「では、この場でアルベルト様が仰っている事は」
「魔物が、この場を根城にしている。長く棲み着いた場所には、その生き物から出た魔力が染み付くんです。わずかに漏れ出ているんですね。魔力の多い生き物であれば顕著です。魔物は普通の動物と違って、魔力量が多い。故に、居場所がわかりやすい」
書記官は、ああ、と合点がいったようだった。
「なるほど。例えるなら、匂いみたいなものでしょうかね」
長身の魔導士は、目元を和らげる。
「その例えは近いですね。匂いが残るくらい、ここに居るか、あるいはよほど匂いが強くなければ残滓として残らない。ヴァーミリオン公は僅かに残った匂いを感じ取った、と言えるでしょう」
「でも普通、極端に強く残滓が残っていなければ感知できないんだ。なんせ人は、魔力の感知力が低いから」
癖っ毛の魔導士が、杖でとんとんと自分の肩を叩きながら言った。視界の先ではアルベルトが騎士を伴ってさっさと先へ進んでしまっているので、立ち止まっていた書記官達は話しながらその後を追っている。がざがさと足元の落ち葉が鳴る。生き物の気配は相変わらずしない。
「魔力を感じ取るのに適した手段は、自らの魔力を放出することだ。そうすれば、自分の魔力が異なる魔力に触れる事になる。であれば簡単だ、異質なものを感じ取ったことになるから。理論上は、だけど」
「なるほど……自分以外の匂いがすれば、それは確かに、自分以外の存在を感じたことになりますね」
「そういう事」
書記官の言葉ににっと笑って返した癖っ毛の魔導士は、直後にさっと表情を歪める。
「でもだからって、そんなの通常できっこないけど。あの方は別格さ」
「ですが、魔力を放出すれば良いのでしょう? であれば、出来そうに感じるのですが」
「と、思うだろ? そもそもその『放出』が難しいんだ。さっきこいつがやったように『何かに込める』のはできるんだが」
こいつ、というのは、長身の魔導士のことだ。彼がさっき見せてくれたのは、確かに宝石に魔力を込めていたように見えた。
「それはどう違うので?」
「対象の有無。誰かにものを言うのと、漠然と喋るのとでは意識の向き方が違うだろう。そうすると伝わっているかどうかがそもそもわからない。それがわからないと、魔力がどう放出されているかが把握できないんだ」
「ううん、わかったような、わからないような」
「そんなもんさ、魔力が無いならね」
視線の先ではアルベルトが木を眺めたり、反対側を見たりしている。昨日の様子から、まともに調査に協力して貰えないのではないかと思っていた一行は少し驚いている。精力的に調査をするとは思っていなかったのだ。
どんな魔物かまでは判らないが、平野から入ってさほどでもない範囲まで、魔物は山を降ってやって来ていると言う事だ。近隣に人は住んでおらず、街道からも離れてはいるが、警戒するに越したことはない。翌日以降、再度調査と討伐を行う方がいいだろうと結論付けた。書記官はそのように調査書を纏める。
そんな風に、調査に協力的に見えたアルベルトだったが、実のところ魔物の残滓を見付けたのはたまたまであった。
(くそっ、リリアンの魔力を感じ取れないかと思ったが、魔物の気配が邪魔だな!? 平野では高さが足りないのか何も感じ取れなかったから山に登ったというのに! 鬱陶しい……おのれ、どうしたらいいんだ。木か? 木に登ればいいのか!?)
さすがに馬で半日かかる距離では、王都のリリアンの魔力を感知することなど無謀であるが、とにかくもうアルベルトはリリアン成分を補いたくて必死だった。
ぬぐぐと口をへの字に曲げるアルベルト。実のところ、森に動物がいないのはガードマンの大声のせいだったが、魔物が姿を現さないのはアルベルトのせいだった。
魔物は魔力の感知に敏感である。己の縄張りに、とんでもない量の魔力を放出する何かがやって来たら、身の危険を感じて逃げるのは当然だった。せめて魔力の放出を抑えていれば、まだ良かったのだけれど。アルベルトがそもそも森へ入ったのは、少しでも高い場所に移って、王都のリリアンの魔力を感知するため。最初からそのつもりで魔力を放出しつつ森へ入ったものだから、出発時にはすでに魔物は棲家から遠ざかっていたのである。
結果として、残滓を見付けるだけに留まったのだが、魔物を遠ざけることにはなっていたので、彼らの知らない間にある意味で目的を達成していたとも言える。
そんなこんなで、徒労感を覚えながら、一行は暗くなる前に森を後にした。
◆
一方、ヴァーミリオン邸では。
「このブレンドは初めてです」
「癖があるな」
「ううん、このお菓子には合わないかも……」
「では、こちらと交換しよう」
「まあ。お兄様、ありがとうございます」
実に平和に、リリアンとレイナードはお茶を楽しんでいた。
朝からリリアンに付き従っていたレイナードは、いつものリリアンの日課も一緒に行っていた。庭の散歩では春を待つ植物を慈しむリリアンの姿に心を打たれ、母の肖像画に声を掛ける姿には感涙しそうになった。朝食後も、ゆっくりと一服できるのが素晴らしい。今日は何をしようかと、朝から胸を躍らせていた。
例え会話は少なくとも、同じ空間で読書するだけでレイナードの気持ちは高揚した。ストレッチがてら庭に誘えば、もこもこの上着に身を包んだリリアンを鑑賞できた。昼食後、日当たり抜群のサロンに誘えば、心地良い陽射しにふわぁと欠伸をし、はっとして頬を赤くする姿を拝めた。そのひとつひとつ、すべてが愛おしくて、なんとも言えない多幸感が溢れたものだ。眠気覚ましのハーブティーを勧めるとその風味に驚き、他のものも試してみたいと言うから、夕食後にいくつか用意させた。癖の強いそれも個性のひとつと、顔を顰めながらも味わうリリアン。
(可愛い……)
リリアンの一挙一動を見つめ、レイナードは強くそう思った。
これがあと三日続くのだ。なんとも贅沢な時間だなと、噛み締め、明日のリリアンに思いを馳せるレイナードであった。
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