世界最強の公爵様は娘が可愛くて仕方ない

猫乃真鶴

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王都編

12.這い寄る影と女神のしもべ④

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 巨大ないなごの姿をした魔物が、フィリルアースを食い尽くそうとしている。マクスウェルからその報告を受けたトゥイリアース王国国王、グレンリヒトは、すぐに緊急会議を開く為大臣達に招集をかけた。国王夫妻と宰相、騎士団総帥のマクスウェルが不在の為その代理として騎士団長がおり、呼び掛けに応えた公爵家の当主が揃う。それを見回して王は言った。

「事態は想像以上に深刻だ。長期化の恐れが……いや、近隣諸国全てに被害が及ぶ可能性がある」

 いつにない王の、強い言葉が響く。誰もがそれに息を呑んだ。

「それほどにですか」
「うむ」

 グレンリヒトはマクスウェルからの報告書を広げる。

「マクスウェルから報告があった。蝗害こうがいの発生源は魔物である、と」
「魔物……!?」

 想像以上の事に室内は騒めいた。

「大量の蝗が、急に現れた。あり得ない量の蝗だ、しかも一匹一匹が魔力を持っている。それが何かの周囲に集まっていたというのだ」

 グレンリヒトは一同を見回す。

「その中心に、とんでもなく大きな蝗の姿があったとある」
「とんでもなく大きな、ですか」

 大臣の言葉にグレンリヒトは頷き、報告書に視線を落とした。

「その大きな蝗が、周囲に集まっていた蝗を吸収している様子があるそうだ。それ故にこれほどまで大きな個体になったようだ……報告書にはそうある」
「な、なんと……」

 読み上げられた内容に誰もが青褪めた。そんな事象が起こり得るのだろうか、と思うが、あのマクスウェルがこのような状況でふざけた事を報告書へ記すはずがない。彼の婚約者のクロエも今は隣国にいる。おそらく、彼女の見解も同じものなのだろう。フィリルアースのクロエ王女と言えば、魔物研究で名前が知られている。

「ですが、陛下。それほど大きな個体であれば、これまでに発見出来なかったのはどういったことでしょう」
「元々大きかったとは考え難いのではないか。あるいは、小型だったのかもしれん。それが同族を喰らった事で巨大化したか……マクスウェルとクロエはそのように推測しているようだ」
「なるほど……」

 おおよその推測は可能だが、今やるべきは事象の解明ではない。事実はともかくとして、現状への対応が必要である、と、マクスウェルからの手紙は締められていた。確かにその通りだとグレンリヒトは思う。どの様にして、今回このような事態となってしまったのか。施政者としてはそれも気に掛かるところではあるが、まずやらなければならない事は、市民の救済であろう。

「いずれにせよ、早急に対応せねばならん」

 故にその様に宣言する。

「まずは魔物への対応として騎士団から兵を派遣しよう。強大な相手である事が予測される。魔導工兵を含めよ、とマクスウェルからの要請がある。フィリルアース王よりこれの承認があった。騎士団長は即座に部隊を編成せよ」

 騎士団長は短く返答をすると、部下を連れ退室していった。それを見送り、グレンリヒトは残る大臣達に向く。ここからが大事なところだ。

「次に、物資の確保を行う。民に負担を強いる前に、まずは我々からその姿勢を示そうではないか」

 にんまりとグレンリヒトは口角を上げる。

「その為に、しばらくの間、国内のいずれの場合でも食事を提供する夜会を禁止する。それと合わせて食糧の徴収を行うから、可能な範囲で納めるように」
「なっ、それは!」

 一斉に騒めきが広がった。ようは、粗食をせよ、と王から言われたという事だ。それほどの危機感を感じていない大臣達は、皆困惑した表情で辺りを窺っている。なにしろここ数百年ほど戦もなく大きな災害に遭う事のなかった国だ、王侯貴族のみならず国民達も豊かな生活を送っていた。この十数年はヴァーミリオン家の躍進もあって拍車がかかっている。贅沢に慣れた者はなかなかそれを手放せないものだ。そこまでしなければならないのか、という思いがあるのは無理もない事のように思える。
 だが、それは時と場合によるだろうとグレンリヒトは考えている。

「夜会の禁止とは……。それは大掛かりなものに限る、というものでしょうか」

 グレンリヒトは、その発言をした大臣を見、首を横に振った。

「いいや。大小は問わぬ。一切の催しを禁ずる」
「そ、そんな!」
「なに、食事を提供しなければよいのだ。難しい事ではなかろう」
「……」

 グレンリヒトはそう言ったが、多くの者は言葉を無くして呆然としていた。そこへ、畳み掛けるようにシエラが口を開く。

「それと、お茶会でのお菓子の提供もしばらくの間禁止とします。これはわたくしから各家に申し渡しましょう」
「お、お茶会も!?」

 グレンリヒトとシエラの言葉に、どよめきが室内に広がった。普段は発言する事なく黙って王の言葉を聞くだけの人物も、きっぱりと言い切る王と王妃に、思わず周囲の者と囁きあった。室内のそこかしこでそれが行われている為、いつになく会場は騒めいている。だがグレンリヒトは、その一切を無視して言い切る。

「ちょうど今は大きな祭事もないな。これであれば、隣人を助ける事が出来るだろう」

 シエラはそれに同意した。

「そうですわね。我が国で消費される小麦の大半は、フィリルアースのものであることですし。無駄に使い捨てるよりはお返しした方が有意義というもの」

 にこやかではあるが、言葉からは彼女の思いが分かるというものだ。様々な対策は行なっているし、大半の貴族は常識的なのだが、ごく一部の者は贅を凝らした食事を食べ切れない程用意するのがいいと言って、夜会を毎晩のように開いては消費しきれない食事を準備させる者もいる。そういった者を罰則するのは難しかった。購入した小麦をどのように使おうと、それは個人の自由。それはその通りだった。
 それをシエラが苦々しく思っている事を知っている者は、さり気なく視線を逸らす。だがシエラは、視線を逸らした者をじっと見つめていた。
 ちらちらとそれらを眺めつつ、とある者はグレンリヒトに向いた。

「ですが陛下、まったく無くすというのは、なかなか」
「そ、そうです。反発がある事でしょう。お考え直しを」

 あちこちから起きる困惑の声に、グレンリヒトは眉を上げる。

「ほう? 禁止せずとも捻出できると、そう言うのか」
「ぐっ……」
「そ、それは」
「隣国では食べるに欠く者も出ているそうだ。隣人には手を差し伸べる、それがこの地に生きる者の義務であろう」

 トゥイリアース王国の食糧庫が満たされているのは、フィリルアース王国で収穫があるからだ。それが無くなっているのだと、気付く者は半数ほどしか居ないようだ。室内を見渡せばその表情からそれが判る。平和なのは喜ばしい事だが、あまりに危機感が無さすぎる。これは王家の落ち度ではあるが、いい機会かもしれない。

「良いな。明日から実行せよ」

 グレンリヒトはその様に、その場を締め括った。
 議会を終了しても、誰も席を立とうとしないのは、やはり近年ではあり得ない事態となっているからだろう。困惑を隠せていない者、憮然とする者、そしてそれらを傍観する者とに分類できた。もちろんそれ以外の者もいる。グレンリヒトは、〝それ以外〟の表情をしている代表の者へと視線を向けた。

「アルベルト、ヴァーミリオン家からの支援を追加で頼めるか」

 腕を組んで堂々とした態度のアルベルトは、グレンリヒトの言葉に頷いてみせた。

「わかった。出せるだけ出そう」

 いつもは眉を寄せて「なんでそんな事を」と渋い顔をするくせに、今回はあっさりとそう返すアルベルト。グレンリヒトは驚いて眉を上げる。

「なんだ、随分素直だな」
「そんな事はない」
「いや、そんな事あるだろう。お前がそう言うだなんて、本当に天変地異の前触れじゃなかろうな」

 不謹慎とも取れる言葉だが、こんな素直に頼み事を聞き入れるアルベルトは珍しい。色々と振り回されるグレンリヒトとしてはそうも言いたくなる。だが、揶揄するような言葉にアルベルトはむぎゅっと眉を寄せた。こっちの方は非常によく見る表情である。

「まあ、いい。お前のところが一番貯め込んでいるからな、助かる」

 そう言うとアルベルトはふんと鼻を鳴らして席を立った。

「リリアンと約束をしたんだ、支援は惜しまない、と。リリアンに感謝を捧げるがいい」
「……お前は本当にもう……」

 せっかく見直したのに、とグレンリヒトは項垂れる。そんな事には興味のないアルベルトはもう王に背を向け、退室していた。


 屋敷に戻ったアルベルトは、すぐにリリアンの元へ向かった。王家からの意向をリリアンに伝える為である。ついでにレイナードの状況も伝えれば、リリアンは沈痛な面持ちでアルベルトに向き直った。

「お父様、我が家でも早速対応しましょう」

 リリアンの表情は真剣そのもの。それを見て、やはり、とアルベルトは思う。

(ああ、やはりリリアンは素晴らしい。慈愛の化身、いや、慈愛の心そのものではないか!)

 実に素晴らしい事であると純粋にそう感じる。元々リリアンは責任感が強く、民の為に在らねば、という意識を常に持っていた。それが故に、例え隣国であっても、理不尽に民が傷付けられているのを見過ごせないのだろう。
 そんな娘の姿に感動しない親は居ない。少なくともアルベルトは、身を震わせるほどの感情のたかぶりを感じていた。
 だが、今回ばかりは前のめりではいけない。なにしろ近年に例のない災害が起きているのだ。

「まあ落ち着けリリアン、その姿勢は素晴らしいが、初めからそれでは疲れてしまう」

 そう言えば、リリアンは眉を下げる。

「でも……」
「なにもするな、とは言わない。だが少しずつにした方がいい。いつこの事態が解消されるか分からないから」

 アルベルトの言葉に、リリアンは理解したらしい。はっとした表情を見せたが、それがすぐに歪む。アルベルトは驚いてリリアンを覗き込んだ。

「……お父様のおっしゃる通りだわ」
「リリアン?」
「お父様、わたくし、自分が恥ずかしいです。なんて浅はかで傲慢なの。お父様にそう言って、我が家が取り組めば、すぐに事態が解消するのだと、そう思っていたようです。……本当に恥ずかしいわ。そんなはずがないのに、わたくしったら」
「…………」
「少し頭を冷やしますわ。お父様、気付かせてくださってありがとう」

 はにかんでそう言うが、リリアンはどこか傷付いたような、痛みを堪えたような表情をアルベルトに見せた。

(高潔……!)

 なんという事だとアルベルトは天を仰ぐ。
 民の為を思い行動する。それはやろうと思えばすぐにできるだろう。貴族にはそれが課せられているから、行動するのは当然のことである。ヴァーミリオン家には間違いなく力がある。やろうと思えば、被害に遭った領地全ての民に食糧を渡す事だってできる。なんなら蝗害そのものに対応する事もできるかもしれない。民を助けるのは大事な事だ。ただ、やり過ぎれば力を誇示しているのだと、そう思われてしまうのも貴族の性であった。
 だが、指摘されてそれをおごりだと言い、即座に改めるのは、並大抵の者にできる事ではなかった。それをアルベルトからの言葉で自覚し、改めてみせる。賢いと思っていたがここまで賢く、さらに高潔であることは。改めて素晴らしい存在であるとリリアンを讃える。
 もっとも、今回は隣国で起きた事なのだから、トゥイリアース王国の公爵家が直接手出しするものでもないのだが。けれども、リリアンの崇高な精神をこのままにしておく、というのは、アルベルトには出来ないものだった。リリアンの全てを、あらゆる事柄を、無視するわけにはいかないのだ。

「リリアン」

 アルベルトに背を向け、自室へ戻ろうとするリリアンを呼び止める。

「私はお前に、無理をさせたくない」

 リリアンは振り返って、アルベルトの言葉に聞き入った。

「ただ、お前がそこまで考えているのなら、まずは身近なところから取り組むと約束する。食事の内容を少し変えよう。浮いた分を支援物資にする。だがそれだけだ、それ以上のことをするつもりも、させるつもりもない。無論、状況次第では更なる支援が必要になるだろう。でもそれまでは、お前の生活を変えさせるつもりはないから、覚えておくように」
「わかりましたわ」
「いいな、これは私からの厳命だからな。お前の意思では、これ以上の事をさせて貰えないという事だ」
「……ええ、お父様。ありがとう」

 リリアンの意は汲むが、彼女に不自由な思いをさせるつもりは一欠片も無い。アルベルトが禁止している為に、リリアンはなにもさせて貰えないのだと、強くそう言って聞かせる。だからなにも気に病む事はないのだと、言外にそう伝えたのだ。
 リリアンはそれで納得したようで、アルベルトに微笑みを向けると一礼して部屋へ戻って行った。その背中を見送って、アルベルトはぐっと拳を握る。
 ああは言ったが、リリアンには辛い思いをさせたくない。ならばやる事はひとつだけだ。アルベルトは早速厨房へと向かった。
 そしてその言葉の通り、その日の食卓ですぐに変化があった。リリアンは、ぱちぱちと瞬いて、自分の前に置かれた皿とアルベルトの前の皿とを見比べる。

「わたくしとお父様のお食事、少し違うわ」

 リリアンの前に置かれた食事は、いつものものと大差ない。唯一違うのは前菜の数だろう。三つは並ぶそれが、いつもより一品少ない。
 けれども、アルベルトのものはどうだろう。前菜はひとつだけ、その他は一緒に見えるけれども、パンの種類が違う。少し酸味のあるそれは、庶民の食卓によく並ぶものだとリリアンは知っている。

「言ったろう、お前には不自由をさせないと」

 にこりとアルベルトは笑みを浮かべる。リリアンの代わりに、自分の食事を減らせばいいのだとそう言って厨房に飛び込んだアルベルトを、ベンジャミンはやはり呆れた顔で見ていた。だが、その場にいた誰もがアルベルトの意見には賛成だったので、満場一致で「リリアンの食事はいつも通りで」と決まった。前菜の数を減らしたのは、「さすがに一人そのままでは、絶対に気に病むから」とシルヴィアが言い出したからだ。やはり全員がそれに同意したのでこうなった。
 リリアンの表情は戸惑いが全面に出ている。それはそうだろうと思うが、アルベルトとしては、これ以上は譲歩できない。リリアンには、いつもいつでも最高の物を食べて貰いたいのだ。だからリリアンの食事の質を下げる事は、アルベルトには出来なかった。

「気にせずお食べ」
「でも」
「いいから」
「ですが、お父様」
「リリアン」

 アルベルトは努めて表情と声色を和らげる。

「すまないが、これ以上は譲歩してやれない。今はな。分かってくれないか」
「……はい」

 それでもう、それ以上言う事が出来なくなって、リリアンは食事の手を動かした。食事は、いつも通り美味しい。アルベルトが言うには、食材の無駄を極力減らす努力もしているらしい。それは良い事だ、王妃も気にしていた事で、たまにリリアンも愚痴を聞いていたから、協力できれるのは嬉しい。けれどもそれは、リリアンも同じ食事をした上でのことであって、自分だけいつも通りなのはちょっと違う。だけど、アルベルトは本当にリリアンの事が大事で、娘を想うが故の事だというのも、リリアンは理解していた。
 でもちょっと、思ってたのと違う。もっと貢献したい気持ちがあるのだとリリアンは自覚した。だがアルベルトのこの様子では、きっと許しは得られないだろう。
 どうしようもない気持ちが込み上げてきて、リリアンはこっそりとため息を吐いた。
 食後に退室するリリアンの様子に、アルベルトは項垂れる。

「辛い」
「ため息をついていましたね」

 ベンジャミンがそう指摘するが、勿論アルベルトもそれを拾っていた。顔に力を入れていないと、とてもではないが笑顔を保っていられなかった。しゅんと消沈するリリアンの姿に発狂しそうだったのだ。
 あれで納得するはずないと分かっていた。だけどどうしても譲れなかったのだ。他者の為にリリアンの食事を削る、というのは、とてもではないがアルベルトには許容できなかった。それはリリアンより他者を優先するということだ。この世の何よりもリリアン命であるアルベルトにとって、例えリリアンの願いだとしても、到底受け入れる事はできない事柄だった。
 それで当のリリアンに嫌がられたとしても、断じて許すわけにはいかない。そう心を決めたつもりだったが、肩を落とすリリアンの姿を見てしまうとその決意も揺れる。分かっていたつもりだったが、それを見るというのがこんなにも辛いのかと、両手で顔を覆った。

「お言葉ですがアルベルト様、本当に辛いのはリリアン様です」
「ああ、分かっているとも」

 ベンジャミンの声にアルベルトは顔を上げた。そう、アルベルトの感じている痛みなど、リリアンのものに比べれば些細なものだ。誰よりも協力したいとそう思っているのに、させて貰えない。今までこんな風にリリアンの行動を抑制したことなんてない。だからきっと、不満に思っていることだろう。なんならアルベルトに対して負の感情を抱いているかもしれない。そう思い至って、アルベルトは涙目になる。

「き、嫌われたかなぁ」
「そんなことないんじゃないですか」

 ベンジャミンは思いっきり棒読みでそう答えた。


 食後、腹ごなしにリリアンが邸内の散策をしていると、メイド達が作業をしながら談笑しているところに出会した。彼女達は、角の向こうにいるリリアンに気が付いていないらしい。お昼の休憩中らしい楽しげなその様子に耳を傾ける。

「さすがに食べ慣れないと違和感があるわね」

 そう言うのは極めて明るい声だ。これはメイド長のマリーベルのものだろう。快活な気質の彼女にはいつも元気を分けて貰っているリリアンは、マリーベルの言葉に目を見張った。明るい声色ではあったけれど、言葉にはは剣呑な気配を感じる。

「そうねぇ。早くどうにかなるといいけれど」

 別の声がそれを肯定する。こちらはメイドのモニカだろう。彼女もまた明るい女性で、ころころとよく表情が変わる。落ち着きがないとも表現できるせいか、マリーベルやシルヴィアに嗜められている姿もよく見かけた。

「いつまでやるのかしら」
「蝗害が落ち着くまでじゃない?」
「まあ、そうよね」

 やはり蝗害に関連する会話だった。声には出さないが、場所を移動させようとするシルヴィアを無視して、リリアンは会話に聞き入る。

「酸味が苦手だったんだけど、今日のサンドイッチはうまくそれをカバーしていたわよね」
「美味しかったわよね、さすが料理長だわ。あたし、あんなに美味しい黒パン食べたの初めてよ」
「びっくりしました。黒パンって、硬くて酸っぱいものだと思っていたから」

 最後の言葉に、リリアンは目を見開いた。最後の声はルルのものだ。

「ソースが癖になるわよね」
「うん、そう。チーズも挟んであって、食べ応えがあって」
「そうそう。今後も出して下さるように、旦那様にお願いしようかしら」
「いいかもしれないわ。あれならきっと、リリアン様もレイナード様もお気に召すでしょうし」
「偶然とは言え、食事の幅が広がったのは喜ぶべき事よね」

 モニカの言葉にマリーベルが同意した。

「美味しい食事を頂いたんだもの、午後も頑張らなくちゃね」
「ふふふ。そうねぇ」

 三人の笑い声が遠ざかっていく。それを聞いて、リリアンはシルヴィアを振り返った。

「あれは、どういうこと?」

 真剣な表情のリリアン。問い詰めるような様子に、視線を彷徨わせていたシルヴィアは観念したようにリリアンに向き直った。

「使用人に出されるパンが、少し変わりまして」
「……わたくしのはいつも通りだわ」
「先程も仰っていましたが、旦那様のご指示です。少し変わった味ですが、あの子達が言うように美味しく食べていますよ」

 それは、さっきの様子からよく分かった。無理をしておらず、むしろ美味しく食べていて、我慢をしていないのならいい。これが無理矢理であったのなら、問答無用で辞めさせていたのだが。
 ふう、とリリアンは息を吐いた。

「……わたくしもそれがいいのに」
「お嬢様……」

 アルベルトがああ言うのなら、どうしようもない。シルヴィアは、アルベルトがぎちぎちと奥歯を噛み締めていたのを見た。リリアンの望みを叶えたくとも、自分の信念がそれを許さない。そのせいでリリアンが不満を覚えていることも、気落ちしているのを承知しても、どうしても出来なかったようだ。いつもはリリアン優先で、当主の事はどうでもいい枠に納めているシルヴィアでさえ、その葛藤には同情した。シルヴィアも同じ気持ちだったのだ。シルヴィアは指示に従う立場で、決定権はアルベルトにある。むしろアルベルトにしか無い、と言える。今のリリアンに、今まで通りの生活をしろ、と指示するのは辛いことだろう。
 だが、使用人でしかないシルヴィアには、当主の決定を覆すことなどできない。麗しのお嬢様の苦悩を、間近で観察しなければならないシルヴィアは、ぐっと奥歯を噛んだ。

(忌わしい……蝗害など、起きねば良かったものを)

 隣国の民が苦しんでいる、にも関わらず自分には何も出来ないと嘆くリリアンの隣で、シルヴィアは、そんなもの起きなければお嬢様が苦悩することなんてなかったのにと、別方向に嘆いた。
 早急な解決をと、二人は隣国に向けて祈る。その方向性は、全く異なっていたけれど。


 翌朝になって、リリアンの元に友人達から手紙が届いた。昨日、王と王妃からの勅命を受けたことで、貴族社会に衝撃が走った。だからだろう、片手に収まらないくらいの数の手紙をひとつずつ検分していくと、約半数に同じことが書かれていた。
 その手紙を出してくれたのは、リリアンと志を同じくする令嬢達だった。彼女達は、隣人の不運を嘆き、己に出来る事で貢献するのだと、そう教えてくれた。リリアンは、そんな彼女達が誇らしかった。微力ではあるが、自分達の行いはきっと無駄ではないはずだと、そういう勇気をくれたのだ。
 それに励まされて次の手紙を開く。が、そこに書かれていたことに衝撃を受けて、手紙を読み進める手が止まった。

「お嬢様?」

 シルヴィアが訝しんで、思わずそう呼びかける。そのくらいには、リリアンは急激に顔色を無くしていった。

「シルヴィア、お城へ先触れを」
「如何なさいましたか」

 いいから急いでと、リリアンはシルヴィアを急かす。

「シエラ様にお会いしたいの。できれば、今日中に」
「承知致しました。すぐに手配致します」

 リリアンのいつにない様子にシルヴィアは慌てて部屋を出る。部屋に残ったリリアンは一人、次の手紙を開いた。そこにもやはり、不穏な文章が綴られている。そのことにどうしようもない無力感を覚えて、リリアンは俯いた。
 午後に時間を作って貰い、リリアンは王城を訪ねた。リリアンから急に会いたいなどと言われた事なんてなかったものだから、シエラは驚いていたのだが、挨拶もそこそこにリリアンは切り出す。

「シエラ様、今、フィリルアースはどのような状況なのでしょう」
「報告では、ある程度の被害が出ていると聞いているわ。でもマクスとレイナードが対処してくれて、人的被害は少ないそうよ。時間の問題ではないかしらと、そう思っているけれど」

 リリアンは、そうですか、と力無く呟く。
 その様子にシエラは眉を寄せた。

「どうかしたの?」

 過去に類の無い災害に遭遇して気落ちしているのだろうかと、そう思ったのだが、リリアンは真剣な表情でシエラに向いた。

「わたくしの友人が教えてくれたのです。シエラ様からの言葉を無視している方が、少なからずいるのだと」

 リリアンの言葉に、シエラはその事ね、とため息を吐いた。

「実は、そうなのよ。困った事にね」
「王家から使いは」
「そこまではまだよ、それ程の状況でもないもの。とは言っても、わたくしも侮られたものね。王妃からの命令を無視するのだから」
「そんな事は……」

 くすりとシエラは笑みを浮かべる。

「いいのよ、分かっていた事だしね。個人の楽しみを奪う権利は王家にも無いだろうと、そういう主張をするものだから、呆れるわよね」
「そう、なのですか」

 リリアンにはショックだった。他者が自分と同じ考えではない、なんていうのは分かりきったことだが、それでも他国、ましてや隣の国で蝗害などという非常事態が起きているのだ。高い志なんていうものがなくとも、少しなりとも助けてやりたいと、生活に余裕のある貴族であればそう思うものだろうと考えていた。それがどれ程甘いものなのか、それを思い知ったのだ。

「リリアン、あなたが気に病むことではないわ」

 シエラはそう言って慰めるが、とてもではないけれど考えずにいるだなんてリリアンには出来なかった。

「少しでも分かって貰うことはできないでしょうか」
「それは……難しいと思うわ」

 それはシエラの正直な感想だった。そもそもこんな風にちょっと言われて態度を改めるような輩は、王家に対して反発したりしない。本当に厄介なのはこれに対して文句を言ってくるような連中だ。具体的には、リリアンの友人が手紙で知らせたという家のような。彼ら彼女らは、王ではなく王妃に反発しているのだ。特に王妃の出自が気に入らないのだろう、もう何十年もの間言われ続けているから、シエラは慣れっ子だった。この反発も想定していた事だし、大した効力がないのもわかっていた。
 シエラはこれでいいと思っているが、姪はそうではないようだ。責任感の強い彼女のこと、今回は経験のない災害ということで、それがより一層高まっているのだろう。
 でも今は、リリアンがなにかをするべき状況ではない。

「いいのよ、分かっていたことだから。あなたは気にせずにいなさいな」
「いいえ、シエラ様。ヴァーミリオンは、筆頭公爵家です」

 リリアンはそう言ってシエラに視線を向けた。

「王家からそのような命が出ているのであれば、従い支持するのが役目」

 ぎゅっと両手を組む姿からは決意を感じる。シエラは、その姿をまじまじと見た。

「お父様からも、お兄様からも言えない事でしょう。あの二人にはあまりにも発言力がありますから。であれば、わたくしが動くほかありませんわ」
「リリアン……」

 真剣に思い悩むリリアンの姿に、シエラは胸がいっぱいになる。ああ、なんて気高いのだろうと、感嘆せずにいられない。
 悩ませたいわけではなかったが、リリアンであればこうなるだろう。リリアンの成長を間近で見守っていた身であれば、それも理解できたから、シエラには止めることなんてできなかった。リリアンには、あなたの気の済むようにすればいいわと助言をして、その場はお開きとなった。
 リリアンはシエラの言葉に後押しされて、家に戻ると早速手紙を書いた。それは、事情を知らせてくれた友人へ宛てたものではなく、友人達が知らせてくれた家に宛てたものだ。その家の令嬢や夫人が普段と変わらないお茶会とパーティーを開いていると聞いて、それを嗜めようとしている。聞き入れてくれないかもしれないが、もしも考えるきっかけになればいい、そう思ってリリアンはペンを取る。突然の手紙を詫びる挨拶の後、簡潔に要件のみを記す。

『貴族であるわたくし達が民の先に立ち、耐えねばなりません。陛下のお心に従い、不要なパーティーなどは控えるように致しましょう』

 ヴァーミリオンの封蝋をしたそれをシルヴィアに託し、届けて貰った。突然やってきたヴァーミリオン家の馬車に家人が驚いたようだが、手紙は無事に受け取って貰えたと聞いて、リリアンは胸を撫で下ろした。
 けれども二日後、また友人から手紙が届いて、リリアンは肩を落とす。リリアンへの返答は『極力心掛ける』とあったが、実際には控えていないとのことだ。今日もまた、贅を凝らしたスイーツをたっぷり用意したお茶会が開かれているのだと、手紙にはそう書かれていた。
 どうやら気持ちの方は届かなかったらしい。ふう、と息をついて、リリアンは肩を落とすのだった。
 ただ、それを知ったアルベルトが憤激したものだから大変だ。

「その家との取引を停止しろ」

 そう言い切った顔は怒りに満ちており、報告に訪れていたシルヴィアは思わず身を震わせる。

「アルベルト様、それはさすがに」
「リリアンの言う事を聞かない家はいらん」

 ベンジャミンが止めるのも聞かず、どこの家だとシルヴィアに向く。シルヴィアは偽りを述べるわけにもいかず、正直に話した。

「ラノス子爵家です。昨年から羽振りの良い」
「むしろ潰せ」
「アルベルト様!」

 ベンジャミンが眉を寄せる。いくらなんでも、毎日パーティーを開いているからという理由で貴族の家門を取り潰すというのは無理だ。というか、積極的に潰さずとも、ヴァーミリオン家から取引を断られたとあれば、勝手に潰れるだろう。下手に手を出す必要はないとそう言ったが、アルベルトの気持ちは収まらないようだった。ちりちりと魔力を漏らして、机の上を指先で叩いている。

「リリアンの崇高な精神を理解しないとは……生かしておく必要性を感じられない」
「それはそうですが、そんな事があったとリリアン様が知れば悲しみますよ」
「ぐっ……それもそうだな……一体どうすれば」
「とりあえず取引は停止しますので、それまでにされては」
「そうか、そうだな、仕方がない」

 ものすごく不穏なことを、ものすごく軽く言って流すアルベルトに、いつもの事ながらシルヴィアは気が遠くなる思いがした。
 アルベルトの意向で即日ラノス子爵家との取引は一切停止となった。大した取引をしていなかったので影響はないと思っていたのだが、あちらはそうではなかったようだ。それはそうだろう、ヴァーミリオン家と取引があること、それだけを売りにしているような家だったから。翌朝になって、謝罪の言葉をつらつらと連ね、なんとか取引を再開して貰えないかと懇願する手紙がアルベルトの元に届いた。大人しくリリアンの言葉を聞き入れていれば良かったものを、と、ふんと鼻を鳴らして、アルベルトはそれを握り潰す。
 それと同時にラノス子爵夫人から、リリアン宛てにも手紙が届いていた。そこには先日とは打って変わって、リリアンとシエラの考えを称賛する言葉が書かれている。
 この一連の流れに、リリアンは覚えがあった。

「お父様が動かれたのね」

 リリアンはぽつりと溢す。

「お嬢様……」
「いいの。お父様ならきっとこうされるわ」

 力無く手紙を持つ手を下ろし、リリアンはふう、と息をつく。

「わたくしの言葉は届かなかった。それだけのことよ。分かっていたことだわ」

 ふふ、と笑い声が洩れる。それは自嘲の声だった。いかに自分が無力なのかをこの手紙は教えてくれる。

「分かっていたのに……こんなにも虚しいものなのね。シエラ様はこの気持ちと、ずっと戦っている。わたくしには、真似できる気がしないわ……」

 そう言って、重苦しく息を吐いた。ぼうっと窓の外を眺めるリリアンの姿に、シルヴィアは歯噛みせずにはいられなかった。
 その日の夕方になって、シルヴィアはアルベルトの元を訪れた。毎日欠かさず行う事を義務付けられている定期報告の為だ。ふう、と息を洩らし、シルヴィアは控えめにノックをして部屋に入る。

「今日は何回だ」

 部屋に入るなりいきなりそう言ったアルベルトに、シルヴィアは偽る事なく答えた。

「十三回です」
「……何?」

 アルベルトの眉がぎゅっと寄る。それには構わずシルヴィアは続けた。

「本日は、十三回もため息をつかれました」
「十三回だと!?」

 ガタン、と音を立ててアルベルトは勢いよく立ち上がる。

「リリアンが……あの天真爛漫で美しく麗しい私の天使が、一日に十三回もため息をついたと、そう言うのか!?」
「はい。間違いございません」

 なんて事だ、とアルベルトは、今度は頭を抱えて机に突っ伏した。
 リリアンは、家族や使用人に心配をかけまいと、むしろため息を飲み込むほうだった。それが、シルヴィアにはっきりと分かるように吐き出している。こんな事は初めてだ。のみならず、その回数は数日前から少しずつ増えていって、昨日はまだ二桁にはなっていなかった。それが、今日は夕方の時点でもう十三回にも達しているというではないか。

「何故そんなに増えた?」
「……実は今朝方、お嬢様宛てにもラノス家から手紙が届きまして」
「何?」

 ぎろりとアルベルトの表情が険しくなる。

「その手紙で、旦那様が動かれた事を察したようなのですが、その」
「なんだ。言え」

 その時の事を思い出し、言葉に詰まるシルヴィア。だがアルベルトは、そんなシルヴィアには構わない。何があったのかと強く問えば、おずおずとシルヴィアは口を開いた。

「ご自身の力の無さを……旦那様と比べられたようで、たいへん嘆かれたのです」
「なんだと!?」
「自分の声は届かなかった、それが悔しくて虚しい……と」

 それを聞いたアルベルトの体はぶるぶると震える。

「私の可愛いリリアンが、なぜこんなにも苦しまねばならん! それもこれも、あの蝗のせいだ!!」

 もう我慢の限界だった。堪忍袋の緒は消し飛んでしまった。いつ何があるか分からない状況ではリリアンの側を離れるわけにはいかなかったのだが、こうなってしまっては、リリアンを苦しめる元凶を存続させている事の方が異常だ。

「おのれ……虫の分際で許さんぞ!!」
「旦那様!」

 再び勢いよく立ち上がるとそう叫んで、アルベルトは部屋を飛び出した。慌てて追いかけるベンジャミンを置いてけぼりにして、もう廊下の向こうの方にいる。
 もう追いつけそうになくて、またこれか、とベンジャミンは頭を抱えた。

「行ってしまわれましたね」
「……まあ、こうなるだろうとは思ってはいたが」
「……保った方なのでは?」
「そうかもしれん」

 とにかく、そのままにはしておけないので、各所へ連絡を入れなければならないだろう。シルヴィアの言葉に同意したベンジャミンはすぐに指示を出した。

「シルヴィア、お前はリリアン様の元へ。不安に思われるかもしれないから、くれぐれも安心されるよう気配りを怠るな」
「承知してございます。ベンジャミン様は、この後は」
「レイナード様と、マクスウェル様宛てに一報入れなければならないだろうな。その手筈を整えたら王城へ行く。後を頼む」
「はい」

 そうして表に出た頃にはもうアルベルトの姿はなく、砂塵すら見えない。馬車を出させるといつもアルベルトが乗っている馬が居なくなっているという。乗り潰さないようにと一応配慮はしているらしいが、こう頻繁ではいつまで保つか。脚の速く持久力のある馬をもう少し増やした方が良いかも知れないと、ベンジャミンは頭の片隅にそれを置いた。
 そんなわけで、アルベルトが隣国へ向かって行ってしまったと、それをグレンリヒトに伝える為王城を訪れたベンジャミンは、報告を受けた王が頭を抱えるのを見た。なんだかデジャヴを感じる。

「あいつ……また勝手な……」

 絞り出されたグレンリヒトの声は、呆れというよりは苦悶の色が濃い。それに同情の気持ちを乗せ、ベンジャミンは腰を折った。

「申し訳ありません」
「いや、遅かれ早かれこうなってたろう。むしろ良く保った方というか」

 そう言って、グレンリヒトは姿勢を正した。

「シエラから、リリアンが大層悩んでいる様子だと聞いた。おおかたその辺が理由なんだろう?」
「ええもう、その通りで」
「だろうなあ。だったらまあ、まず止められんよ。仕方のない事だったんだ」

 だが困ったなあ、と腕を組む。

「下手を踏むと国際問題になりかねん」

 その言葉にベンジャミンも目を瞑って俯く。そうなのだ、アルベルト一人が隣国へ行く。そう聞くと大した事がないように感じるが、あれでも国内随一、いや、現在に限って言えば大陸一の魔法使いである。たった一人でも国を制圧できるくらいには、ずば抜けて能力が高い。魔法使い自体が少ないからピンと来ない国が大半だろうが、軍隊が押し掛けるようなものだ。普通ならあり得ないし、まず国内に入れたがらないだろう。
 だが、今回は討伐対象がいる。アルベルトの目的はそれ以外にないだろうし、なにより破壊力と機動力を兼ね備えた兵器が向かったのだ。

「まあ……あいつが行ったんなら、なんとかなるだろ」

 なのでグレンリヒトはそう言って、手紙をしたためる事にした。宛先は隣国フィリルアースの王だ。これが届く頃にはすでに解決しているだろうが、と最初に書いて。
 当のアルベルトは馬を駆って、やはり叫んでいた。

「リリアーーーン!! すぐに解決するからな!!」

 待っていろ、と目を血走らせて、アルベルトは東へと向かった。
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