浪漫談義

海室

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食欲の秋のこと

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浪漫談義
海室

 
 関東地方にも秋がやってきた。否、やってきたかと思いきやすぐに過ぎ去って冬がやってくる。ついひと月前まではとめどなく汗が流れるほどの猛暑だったというのに。つまり秋は関東に訪れたのではなく、ただ通過していくだけなのだ。
 東京の人間はきらびやかだ。そんなつかの間の秋を精一杯楽しんでいる。秋コーデだのなんだのと言って涼しいのやら寒いのやら皆目見当もつかないような服装をしている。女性は薄手の服に軽くストールを肩に掛けたり、男性は七分丈の薄い上着を羽織ったりなど。目に映る人々は実にきらびやかだ。洒落ている。ハイカラだ。
 一〇月中旬の日曜日、夕暮れもすっかり関東平野の彼方に落ち去った薄暗い河口の街にて、目の前を行きかう秋コーデの人々を尻目に榎本武士えのもとたけしは苦笑する。二四歳プログラマー。大学を出たものの法学士。畑違いの業界に血迷って飛び込んだ技術力皆無の彼に現在できることは、若さゆえに有り余る時間と体力を切り売りして日銭を稼ぎ、それによって得られる多少の技術ではるか未来の起死回生を夢見るだけだった。
 日曜日は休日出勤。灰色のスーツと皺の寄った青い縞のワイシャツ。武士の今年の秋コーデである。日曜日に時間を捻出できない彼に異性の影などあるはずもなく、すっかり彼一番のオシャレとして定着してしまっている。
河口の街こと、ここ東京都江戸川区は葛西の地は武士の根城だ。と言ってもこの地に住み始めたのはここ数年の話で、すっかり地元民というわけではない。大学進学を機に上毛の僻地から大志を抱き上京してきたのもはや五年前の昔話。卒業後もアパートを離れられず、この地を一応の拠点として一時間程度電車に揺られながら都心を目指す日々を送っている。
 このように休日出勤を終えて家路に着くたびに武士は後悔する。新開発されつつあり、かつ大きな都営公園等が乱立する葛西は存外アベックや子連れが多い。自身のような人間には精神的に猛毒である。苦笑しつつも武士は心持視線を足元のアスファルトに向けて、己が城である六畳一間のアパートを目指す。
 視線を下に向けていても星のようにきらびやかな人々の姿は視界に入ってしまう。諦念に突き動かされふと充血した眼を上げた武士の視線に他の人々と姿を異にする者が入る。
 白い短い毛皮に覆われた二メートルほどの巨体、太い尻尾、背中から伸びる一対の翼、頭上から天に向かって伸びる大小偶数本の角、正面に突き出たマズルの先には大きな一対の鼻の穴。赤い瞳を細め、口角から鋭い牙を覗かせながら武士の目前を通り過ぎた二人組の彼らは、竜(ドラゴン)と世の人々が呼んでいる種族である。
 竜はつい近年、世界中のあちこちで目撃されるようになった。伝承に伝わるように火山や森の奥、未開の地に巣食う、知能が高い一方で凶悪で人を食らい、火を噴く大型爬虫類であるという認識がされていた。しかし実際の彼らが満たしていたのは前者の住処と知能の高さ程度で、その実態はそう巨大でもなく、爬虫類が哺乳類のような体毛を生やした火炎を噴かない実に大人しい生き物であった。
 竜は認知されると同時に人間の生活に溶け込み始めた。日本では青木ヶ原樹海を筆頭に奥羽山地や北海道の知床半島や大雪山、小笠原諸島やトカラ列島など前人未踏の地から芋づる式に姿を現し日本社会に同化を始めた。当初人類は、異形の者の同化を拒んだものの、彼らの知能の高さもあってか異常な速さで同化が成功し、当初は犬猫よりも賢い動物程度の認知だった彼らが日本を構成する主要民族の二番手に位置する程度まで上り詰めたのであった。
 同化をしたものの毛皮を持つ彼らには着衣の習慣などなく基本的に先ほど武士が目にした二頭組のように全裸である。たまに釣り人のベストを羽織ってオシャレをしているつもりの者もいるが褒められたものではない。しかしそれ故に彼らが貧しい生活を日本社会でしているわけではない。皮肉なことに知能の高い彼らは、基本的にどんな竜も社会では上流層が多いのだ。
 そう、彼らは仲間ではない。負け組は自分だけなのだ。武士はふっと鼻で自身を嗤ってみせた。
「なぁに笑ってんの」
 背後から唐突に響く女声に武士は振り返った。
 そこには竜が一頭、両手にスーパーの膨らんだ袋をぶら下げて立っていた。身の丈は二メートルに届かない程度、白い体毛に太い尻尾、やはり一対の翼。そして天に伸びる四本の白い角。程よく引き締まった体に短いながらも太い脚を地に付けていた。人間からは竜の細かな見分けはつきにくい。ただこの竜は、先ほどの二頭よりも紅い瞳は大きく、ご丁寧に二重瞼だった。
「アヤ」
 武士は竜に振り返って言う。
「持って」
 アヤと呼ばれた竜はにこやかに右手に持ったスーパーのビニール袋を武士に突き出した。



 逢川綾おうかわあやとは武士のアパートに同居する雌の竜である。竜は各人間社会に溶け込む際に、溶け込む社会の主要民族の名を名乗るようになった。日本の竜も例に依っていた。
 綾と武士の関係は恋人などという高尚な関係でもなければ生活を支えあう一蓮托生の関係でもなかった。ただ互いにそこにいるというペットと飼い主のような生活を送っていた。
「どうして二人は一緒に暮らしているの?」
 酒の席でそう問われるたびに武士も綾も返答に窮する。というのも、二人が同居する明確な理由が存在しないからである。武士は群馬中東部の山岳地域から、綾も同じく山岳地域である神奈川県足柄郡から上京し、大学にて所属していた文学系インカレサークルとやらで意気投合した末路がこれである。世間では一応これは恋愛とみなすそうだが、種族間の違いや双方の意識の差異から否定するようにはしていた。
 葛西駅から徒歩およそ8分。新規開発されつつあるこの葛西の地には景観を崩す災厄と目されそうな築一五年アパートの、家賃の安さと並んだメリットである。このオンボロアパートが二人の城である六畳一間だ。
 武士に膨れ上がった二つの買い物袋を持たせた綾は、壁の塗装のはがれつつあるアパート『サイオパレス葛西』の一〇一号室のドアに走り寄り、肩から下げた最近流行のアニメキャラクターのプリントされたポシェットから取り出した鍵で開錠してさっさと入室してしまう。
「ちゃんと足ふけよ!」
 武士が綾の背中を刺すように叫ぶ。着衣の習慣のない竜には靴を履く習慣も当然存在せず、もちろん綾も例外でない。故に大多数の竜は帰宅すると先ず足を拭いて家に上がるのが靴を脱ぐ文化圏でのマナーであった。
 綾の後に続き、武士も憩いの六畳一間の我が家にようやく帰宅する。間取りは玄関入って左手にミニキッチン、右手に風呂とトイレが並び、奥に入れば六畳の居間。武士が居間に入って左側にある冷蔵庫の前に買い物袋を下ろすと、綾は肩から下げていたアニメ柄ポシェットから男物の革財布と赤色のスマートフォンを取り出すと、ポシェットを武士の使っている居間右側のベッドに投げた。
「ありがと、借りてたよ」
「大切に使ってくれよ」
 皮肉っぽく言う武士のセリフを背中で聞き流した綾は、部屋の中央のこたつ机を回って、居間の奥側、バルコニーに出る戸の前に敷いている自身の万年床に、残りの財布とスマートフォンを投げて、自身も腰を下ろした。
 腰を落ち着けるなり綾は、自身の目の前のこたつテーブル上に鎮座するリンゴの意匠が為された銀色の薄型ノートパソコンを畳み、布団の上に下ろした。この布団の上にあるものが、彼女の生活の糧すべてであり、また布団の上が彼女のパーソナルスペースすべてであった。
 一般的に竜という生き物は強欲であり、根城にしている洞窟に金銀様々な財宝をため込みそれを守っているイメージもある。誇張はあるが現代の竜も比較的強欲な者が多く、資力のある彼らはそれに物を言わせ、先祖代々遺伝子に刻み込まれた『ほしいものリスト』を元手に貴金属はては宝石類など目が痛くなるような光物類をかき集める傾向にある。
 一方で綾は、本人をして本当に特筆事項のない普通の雌の竜であると述べているが、前述のステレオタイプの強欲さは見せない、所謂ミニマリストである。足柄郡の実家からやってきたときは、既に部屋の隅で埃と一体化しつつある上野で買ったというどこの国の物か見当もつかないモスグリーンの陸軍背嚢に、新型のノートパソコンとスマートフォンにタブレット、そして巷の竜界隈で流行中のポケットのたくさんついた釣り人ベストと、いつ着ているのか皆目見当のつかない半纏が入っていた。同居をはじめて早三年、電子機器の更新はあっても基本的に綾の私物の数は全く増えていなかった。変わっていると竜にも人にもしばしば指摘されるという綾本人談であった。
 そんな綾の一方で武士は物持ちがよく、実家を出る際に幼少期から好きだった漫画やゲームの束を持ち出したかと思えば、流行のアニメのグッズを秋葉原で買いあさるなどの生活を続け、瞬く間に六畳一間は趣味の部屋へと変貌を遂げてしまった。そんな男一人でも手狭に感じる六畳一間に竜の中でもそう大きいほうではないというものの、やはり大柄な綾を住まわせることができているのは、彼女の物への執着心の無さに起因しているであろう。
「ミニマリストにしては過ぎた買い物だね。アレでもするわけ?」
「察しがいいね。アレだよ」
 灰色のスーツをハンガーに掛け、ベッドに飛び乗った武士に綾は右手人差し指を立ててウィンクしてみせた。



「食欲の秋にカンパーイ!」
 綾の掛け声に合わせ、二人は右手に握られた発泡酒の缶を打ち合わせる。こたつテーブルの上には値引きのシールが貼られた寿司、冷えた焼いた秋刀魚、かろうじて解凍だけはしたピザ、茶碗に盛られた、ひとまずは部屋で炊いておいたおこわなど間に合わせの料理が大量に並んでいた。
 竜はその巨体を維持するためにとにかく食が太い。そして綾はその中でも更に比較的よく食べる。武士も学生時代はよく食べたが、最近は度重なる超過労働ですっかり食欲を贅肉とともにそぎ落とされてしまった。その一方で綾は在宅ワーカーのうえ出不精でほとんど動かない癖食欲は年々勢いを増していくのだった。
「タケ、今日も仕事で疲れたでしょ、ほら食べて食べて」
「食欲ないったら」
 遠慮する武士の皿に、綾は賞味期限一歩手前の寿司をどんどん盛り付けてくる。
「うん、最高。このいかにも腐乱一歩手前で輸入物の得体のしれない魚って感じの味が最高。醬油も三級品だね」
 間髪入れず綾はアナゴを一口で平らげて、左手でほほを押さえた。その様子を目前にしながら武士はおこわを一口ほうばった。タケノコが旬を過ぎてるくせ自己主張し、口内一面がタケノコ味になった。
「なんでそんな文句垂れるのに食べるの」
「食事なんて究極言えば腹を満たす行為。味は食事に彩を加えるための名実ともにスパイスなの。満腹になれば一次欲求は満たされるの」
 綾はそう言いながら発泡酒のプルタブを起こす。二酸化炭素の吹き抜ける小気味の良い音を聞いてすぐ綾は喉に酒を流し込んだ。
「うーん、安酒」
 綾はテーブルに内容物が半分ほど残った缶を叩きつけると、ピザを右手に取りほうばった。溶けたチーズが綾のマズルの先の口と残ったピザの間に橋を引いた。
「酒だってそうよ。究極いえばアルコール摂取してへべれけになるのが目的。まあいい酒のが気持ちよく酔えるってのはあるけどね。過程の質を選ばなければ目的を達成できれば問題ないでしょ?」
 武士は綾の発言に適当に相槌を打ちながら、自身も発泡酒を開栓して喉を潤した。
「なぁにもう酔っぱらったの。昔から強くはないとは思ってたけど」
「アヤが強すぎるんだよ。俺はどちらかというと疲れてるんだよ」
 武士はそう言い終えると秋刀魚の身をちぎって口に放り込み、おこわを一口食べた。口内で自己主張の強いタケノコが秋刀魚の風味をとうとう殺してしまった。そんな武士を見ながらフライドポテトを食む綾は、にっこり微笑んでさらに武士の正面の皿に再び寿司を盛り付け始めた。
「じゃあ食べて元気出そうよ」
「食べたら、眠くなるよ」
「じゃあ寝ればいいよ。食欲が満たされたら、次は睡眠。その翌日の晩仕事終わりに鴬谷のフーゾクに行ったらそれで合格。三大欲求が発生してれば生き物まだ何とかなるよ」
 綾は一息に言い終えると発泡酒を再び喉に流し込んだ。武士はそれを眺めながら、寿司を口に運んだ。たまご焼きはかろうじてふんわりとした食感を保っていたが味はなかった。
「そういうもんかね」
 武士はぼんやりとひとりごちながら秋刀魚の身をほじって口に入れた。冷えた秋刀魚の身は塩味がきつく、おまけに身が固かった。
「生き物本当にやばくなったら考えるのやめて子孫残すほうにシフトするからね。アタシに手を出してないあたりタケはまだ余力があるわけ」
「アヤには手を出さないよ」
「取っ組み合ってもタケには負ける気しないね」
 綾はそう言ってアハハと笑った。その際に背中の一対の翼が少し開閉してバサバサ音を立て、太い尻尾が揺れ動いたのでああやはりこいつは竜なんだなと武士はぼんやり思った。
「秋なんだから余力を残しとかないと」
「ふむ……」
 武士は綾の言葉を反芻しながら、今度は秋刀魚の身を多めにちぎっておこわを後に口に入れた。今度は塩っ気がおこわの味を殺してしまった。



「食欲の秋って言ってるやつはさ、年がら年中食欲あるよな」
「アタシみたいに?」
 綾は武士の発言をあしらいながらピザをもう一切れ食べた。少し冷えたのか、チーズはもう橋を引かない。
「スポーツの秋とか言ってるやつは年がら年中スポーツしてるし、読書とか言ってるやつも然りで」
 武士は発泡酒の空き缶をテーブルに叩きつけた。はや三杯目。もともと武士は中肉中背の冴えない眼鏡男であることから想像に難くないように酒にはそう強くない。本日は疲れもあってかアルコールが血中に浸透するのにそう時間を要さなかった。
「秋ってのは涼しくなって集中力が増す季節だからね。集中力を要する読書や芸術活動が捗りやすいことから読書、芸術の秋って呼ばれてるの。スポーツも体中の水分が汗で抜けちゃう夏や筋肉が硬直しちゃう冬と比べて比較的結果がいいからね」
 綾も武士に倣って空き缶をテーブルに叩きつけた。そして冷え始めたおこわを食べる。対する綾は既に五杯目。家じゅうの発泡酒の備蓄を肝臓に送り込む勢いだ。
「秋はたわわの実りの季節。とにかく秋の食材はおいしいものが多いから食指が進んじゃうってのが食欲の秋の由来。『天高く馬肥ゆる秋』って言われてるくらい食には縁が深い季節だよ。馬まで食欲の秋満喫しちゃうんだから」
 綾は武士の開けた缶をもひっつかむと武士を挟んで正面のミニキッチンへと放り投げる。フローリングに着地した空き缶がカーンと甲高い音を響かせた。
「ナントカの秋とか言って賛美する人は往々にして年がら年中その活動や習慣を行ってる人たちだよ。だから『昼寝の秋』って言っても支障はないよね。実際昼寝捗るし。タケはなんかないの、ナントカの秋」
「仕事の秋」
 即答してみたものの武士は腕を組んで首を捻った。
「確かに集中力は上がって仕事の効率は上がったさ。でもこれじゃない」
「無理くり嫌いなことに関連付けなくていいよ」
 綾はそう言いながら次の発泡酒の缶を自身と武士の前に置いた。
「最近仕事以外してないしな」
 武士は頭を垂れたまま言うと、皿に残った寿司を醤油に付けて口に入れた。シャリネタは王道のマグロだが、身は味気なくシャリも固まってきたような食感だった。
「じゃあ性欲の秋だ。タケ、そろそろ童貞捨てなよ」
 童貞という単語がさらに武士の頭を垂れさせる結果となった。二四歳、むろん過去に浮いた話などあるはずもなく、さらに高校三年にも及ぶ男子校生活がそれに拍車をかけてしまった。武士と付き合いの長い友人たちは、同居している相手が雌の竜だと知ると「いよいよ榎本が竜に手を出したぞ」と異口同音に言ったものだった。
「何でそこで俺の貞操の話になるんだよ」
「秋は大型哺乳類の繁殖期だよ。人間も大型哺乳類でしょ分類的に」
「俺はクマやシカと同列の扱いかよ」
「人間が竜を大型爬虫類って言ってイグアナとかコモドオオトカゲと同列に扱ってるのと同じだよ。自分たちだけ特別だと思わないこと」
 綾はそういうと発泡酒のプルタブを起こして一息に飲んでしまった。
「秋に妊娠したら春に子供が産めるって理由だけど、まあ何より暑い夏や寒い冬より気候的に余裕があるから繁殖するんじゃないかなってアタシは思うけど」
「確かに若いころは秋にむらっとくることはあったかもだけど、今はないよ」
「今も十分若いじゃんアタシら。繁殖できるできる。タケ、単にやっぱ疲れてるだけだよ」
 武士も綾に倣って発泡酒を一息に飲み干した。綾の年齢は人間換算して武士とそう変わらない程度であるという。饒舌な中で含蓄のある発言をすることから自分の倍生きてるように錯覚することもあるが、むしろ人間の倍生きる竜のなかでは綾はまだ子供のようなものなのだろう。



 酒が回るにつれ、目も回ってきた。疲れとストレスが拍車をかけ、血中のアルコール度数を急激に上昇させる結果となった。
「明日は奇跡の代休」
 武士はうわ言のようにつぶやくと、床に大の字で寝そべった。
「あれ、タケ寝ちゃうわけ?」
「寝ていいって言ったのはアヤだぞ」
 武士は着たままになっていたワイシャツのポケットから煙草の箱とライターを取り出し、一本を口に咥えて着火した。
「寝たばこは否定しない。好きなことしながら死ぬのは本望でしょ」
「ひでえ言い方だな。アパート全焼したら元も子もないから煙草吸ってる間は寝ないよ」
 武士は咥えた煙草を右手人差し指と中指で挟みながら上体を起こした。それと同時に綾がこたつテーブルの開いた寿司やピザの入れ物をスーパーの袋に突っ込んで、日本酒の一升瓶をこれ見よがしに置いた。
「じゃあん。季節ものだよ」
「まだ飲むのかよ」
「いいじゃん。奇跡の代休でしょ」
 目の前に置かれている一升瓶にはひやおろしの銘酒のラベルが貼り付けられていた。アヤは世の竜の例にもれず、比較的収入があり豊かである。故にひょんなことからこう言った上質な酒を持ち帰ってくることが間々ある。これには下戸の武士も思わず生唾を飲まずにはいられなかった。
「ほうら飲みたくなった」
「二日酔いになるだろ」
「ならないよいい酒なんだから。一杯くらい飲みなよ」
 綾がキッチンからグラスを二人分持ち出してきて、再び布団の上に腰を下ろした。
 開栓し、瓶を傾ける。内在の空気とともに、澄み渡った酒が一定の音戸を立ててグラスを満たしていく。銘酒は、注がれる音まで澄んで上品だった。
 綾が注ぎ終えた一つ目のグラスをこたつテーブル上を滑らせて武士の前に停止させた。慣性で揺れる酒の濁りなき美しさに耐えられず、武士は咥えていた煙草を灰皿に突き立てるとグラスをひっつかみ、自分の分を注ぐ綾を尻目に一気に飲み干した。
 銘酒は食道を流れ落ちるとともに、己が歩んだ道をかっと燃え盛るように熱く温めていく。胃に落ちた銘酒は冬の部屋の暖炉のように、胃の内温を程よく上昇させた。それと同時に舌の残り香が、口内を香り高く染め上げた。
「うまい」
 武士はその一言だけ言うと、再び床に背中を打ち付け大の字になった。それを追うように酒を飲みほした綾の「うまい」の一言が続いた。
「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を 一人かもねむ」
「なんだ? 寂しくなったか?」
 綾がうわ言のようにつぶやいた百人一首に武士は新しい煙草を咥えなおして応答した。綾は武士が寝そべりながら吹き上げた煙をぼんやりと見つめていた。
「この歌ってさ」
 綾はそう言うとひやおろしを一口口に含んだ。
「秋の夜長を寂しく過ごすっていうか、単に寒くなってきたなってことを雅に現したんじゃなくて?」
 最近ちょっと肌寒いし、と、付け足しながらスマートフォン片手に綾がぽつりと言った。今夜の気温を確認しているようだ。
「アヤはロマンがないよな」
「アタシら爬虫類には人間の繊細な心なんてわかりませんよーだ」
 武士は天井に舞う副流煙を眺めながら綾が酒を流し込みながらした返答をあしらった。
「好きな人が傍にいないと、心が寒くなるだろ。それが寂しさだよ」
「なるほど、人口密度が低いとから風が自分に直撃して寒いと」
「違うよ」
 武士は上体を起こすと、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。綾はいつの間にやら武士の空になったグラスに再び酒を注いでいた。
 竜は総じて高い知能を持ち、教養も高いが、人間でないが故に感受性や感情を読み取る能力を著しく欠く。彼らの行動原理のおおよそは高い知能から算出された打算的、合理的知見に基づくものが全てなのだ。それ故武士と綾はその限りでないのだが、人間と竜の間には何かとすれ違いが多く発生しているという。
「でさ」
 綾は右手を差し出して武士に二杯目を暗に勧めた。断る理由もなく、武士はグラスに口を付けた。
「武士は心が寒いわけ?」
 武士は喉に酒を注ぎこむのを中断した。
「仕事はしんどいし、ここは知らない街だし、アパートも狭いけど、心は寒くないね。寂しくない」
「そりゃよかった。人間って繊細だから怪我や病気と同じくらいそういう心が要因で死んじゃうこともあるらしいし」
 綾は武士が再び着火した煙草の先の火種をグラスに入った酒越しに眺めた。
「アヤは寂しいのか?」
 武士は天井に向かって副流煙を吐いた。今度は綾が酒を飲む手を止めた。
「寂しい、心が寒いっての? よくわかんないから何とも」
「俺だと、ダメなのか?」
 煙草を灰皿に押し付け、綾の紅い瞳を見つめた。しばらく綾は泰然と武士を見つめ返していたが、アハハと声を上げて笑うと楽し気に太い尻尾を左右に振って酒を一口飲んだ。
「話し相手には困らない」
「なんだいそりゃ」
「くっちゃべってたら寒くなる余裕もないってこと」
「そうかよ」
 武士は背後に倒れ込み、再び大の字に寝そべった。こたつテーブルをはさんだ向こう側から、綾がグラスに酒を注ぐ音が聞こえた。
 秋の夜長が更け込んでいく。夜は一人の人間の男と、一頭の竜の雌をも内包して、さらに時間を経ていった。
 秋の夜は長い。それこそ、山鳥の尾のしだり尾のように。今宵もまだ、始まったばかりだ。
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